(平成10年5月28日)

自民党 加藤幹事長・秘書への怪文書



 ポスト橋龍の “本命” 加藤 紘一 自民党幹事長の私設秘書、佐藤 三郎 にまつわる怪文書出回る。

 加藤幹事長の資金源、スポンサーでもある人物のスキャンダルだけに 「調査結果」 と表題のついたこの文章が、同幹事長の命取りにもなりかねない。

 以下、全文、掲載する。



調査結果

 佐藤三郎の素性、背景及び同人(含 株式会社コーショー)と北朝鮮の関係等の把握のため、下記各項目毎に記述した個人、団体を情報源とする調査を行った結果、現在までに次の事項が判明した。

1.佐藤三郎の身上事項等
(情報源・各種関係公簿、関係会社退職役員、現前住所近隣居住者)

[氏  名] さとう さぶろう
佐 藤 三 郎
[生年月日]●●●●●●●●●
[出 生 地]●●●●●●
[本  籍]●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●
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[前本籍地]●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●
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[元本籍地]●●●●●●●●●●●●●●●●
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[現 住 所]●●●●●●●●●●●●●●●●●
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[前 住 所]●●●●●●●●●●●●●●●●●●●
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[学  歴]●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●
[職  業]●●●●●●●●●●●●●●●
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[職  歴]
昭和 39年4月●●●●●
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昭和 44年7月●●●●●●●●●●●●●●●
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昭和 45年10月●●●●●●●●●●●●
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昭和 54年●●●●●●●●●●●●●●
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昭和 60年7月●●●●●●●●●●●
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平成 6年4月●●●●●●●●●●
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[家  族]● ・●● ●● ●●●●●●●●●
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[現・前住所における状況]

 鎌倉市の現住所は JR横須賀線鎌倉駅東方約2kmの閑静な住宅地に位置し、居宅は敷地 約60坪に建つ木造2階建ての自有家屋である。

 同所には 約20年前に転入し、現在、本人ら夫婦と長女夫婦が居住しているが、近隣付き合いが一切なく、家庭の内情等については近隣に知られていない。
 同所において本人を見掛けることは少ないようであるが、周囲からは一様に「愛想のない人」「偉ぶった感じの人」と評され、近隣者と顔を合わせても挨拶したことがないといわれる。

 職業についても具体的に知られていないが、「会社の社長をしているようだ」との話が聞かれた。

 妻は大人しい女性といわれ、特に悪評もないが、近隣付き合いは必要最小限に留まっている。

 横浜市南区六ツ川の前住所は京急本線弘明寺駅西方 約1.5kmに位置する鉄筋12階建ての分譲マンションである。

 住民登録上、本人ら家族は同所の J棟1006号室に居住していたものであるが、前住所においては本人家族を知る人物がいないうえ、管理事務所にもその当時を知る人物はいないため同所居住間の状況については、調査不能であった。

 なお、本人はこれまで本籍を転々と変えているが、●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●。

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 ◎ 現住所の不動産(別添不動産謄本参照)

  ・土地(宅地)
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  ・建物(居宅)
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  上記、土地建物に対する権利設定
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2.佐藤三郎(含・株式会社コーショー)と北朝鮮の関係について

(情報源・公安機関《複数》、その他の政府機関、民間研究機関、外国出先機関、政党本部関係者、国会議員秘書、マスコミ関係者等)

 加藤紘一事務所代表・佐藤三郎は、実質的に5つの企業を経営しながら、加藤紘一のために単なる秘書ではなく金庫番として、さらに北朝鮮工作に関しては加藤の分身として重要な役割を果たしている人物である。

 その北朝鮮との関係は、加藤と北朝鮮との関係に基づくものであり、佐藤が昔から独自の人脈と利害関係をもっていたとは認められない。(源・自民党議員)

従って、まず、加藤紘一と北朝鮮との関係について見てみると、次のとおりである。
 (1)自民党幹事長・加藤紘一と北朝鮮の関係

 加藤は 1972年の総選挙に初当選を果たすまで外務省中国課主席事務官をしていた関係上、中国問題は専門であったが、北朝鮮問題にはずぶの素人であったことを自認しており、(源・現代コリア研究所)中国や韓国には何回もいっているが、北朝鮮には一度も渡航歴がない。(源・政府機関)

 同人が北朝鮮問題に関心を持つようになったのは、いわゆる「五十五年体制」末期に防衛庁長官の時、防衛的見地から、また、宮沢政権の官房長官になった時であろうが、本格化したのは昨年の村山連立内閣発足と同時に自民党政務調査会長になってからである。

 このころは、山崎拓、小泉純一郎とともに組んだ YKKのリーダーとして、村山政権を名実共に支え、さらに派閥横断の若手議員の政治グループ「グループ新世紀」を主宰し、政界のニューリーダーの代表として既にその地位を不動なものとしていた。

 加藤としてはこれまで中曽根康弘、竹下登、渡辺美智雄ら大物政治家の誰もが成し得なかった 日朝国交正常化を自分の手で実現し、歴史に残る政治的実績を挙げて念願の首相への道を確実なものにしようと野心を燃やしたであろうことは当然考えられる。(源・某政党本部)

 このため、北朝鮮労働党と親しい社会党の委員長・村山富市を首相とする連立政権時代に実現するのがもっとも有利だと考えた。(源・現代コリア研究所)

 そして、数本のチャンネルを持って、北朝鮮側と連絡した。
 それは

 これらチャンネルについては「マダム朴は 1991年、初めて名古屋から平壌まで観光団のため直行便を飛ばしたことで知られているし、吉田を外務省が北朝鮮向けのパイプとして利用しているという話があった。

 今村は元麻生良方秘書として頻繁に中国と北朝鮮に行き、自民党の大物に情報を提供しており、今は加藤に打ち込んでいて北朝鮮については最高の情報通を自認しいている。
 今年になって『金日成社会主義青年同盟』と改称する前から崔龍海と密着している。中国通の加藤は李淑錚女史を知っており、同女史を通じて間接的に北朝鮮の情報は入手していたはず」との話もある。(源・公安機関ほか)

 加藤は素人ながらこれらのルートを使い、まず国交交渉再開の小道具として利用したのが、「農林族」に相応しい「コメ」であった。

 加藤は北朝鮮に対するコメ援助は余剰米 250万トンの処分にもなるから一挙両得と考えたのである。特に北朝鮮の利権を狙ってのことではないといっている。

 当時、1993年の不作の際に緊急輸入したタイ米 30万トンと中国米 50万トン以上が倉庫に眠り、そのうえ翌94年は豊作であった。

 しかし、この構想は、北朝鮮側の理由に加えて、渡辺美智雄の病死(95・9)、村山首相の引退(96・1)、橋本新政権の誕生に便乗した自民党幹事長への昇格に伴う多忙化と、膠着化した「住専国会」等により頓挫して今日に至っている。

 なお、加藤紘一が北朝鮮側から期待をかけられている理由は、

等によるものと判断される。(源・政府外郭機関)

 加藤紘一絡みの北朝鮮との関係について、これまでの経過を年代順にまとめてみると次のとおりである。

  1.  1994年10月 三与党責任者会議で自民党参議院幹事長・齋藤十朗が「日朝交渉」再会を提案。社会党・深田肇が久保亘書記長を団長とする与党代表団の派遣計画を北朝鮮に提案したのに対し、11月末、北朝鮮側は深田肇参議院議員(社会党内で、労働党員といわれていた)を通じて、加藤ら三党政調・政審会長の訪朝を希望してきた。北朝鮮側の狙いは連立政権の要は自民党であり(特に加藤の訪朝を望んだ)、社会党は見限られていた。

     社会党が一番期待されていたのは昔のことであるのを加藤は知らなかった。

     だから村山政権時代に交渉を再開しなければならない、と焦ることはなかったのである。

    「北朝鮮に取り組んだ政治家は失脚する」というジンクスがある、ということを加藤も知ってはいるようである。(源・現代コリア研究所)

     同年4月、日朝議連も会長・石井 一が自民党を離党し非自民連立の羽田政権下で自治相就任とともに会長職辞任後、同ポスト空席のままで機能を停止し、石井と北朝鮮とのパイプは完全に切れた。

     新しい北朝鮮に対するパイプとして金丸−石井(一)の旧経世会ラインに代わって加藤−山崎の YKKラインが登場した。

     山崎拓元防衛庁長官は日朝議連会長代行・元日朝貿易会会長の谷洋一と共に 94年6月、初めて訪朝、北京では中国共産党中央対外連絡部長・李淑錚と懇談(加藤紘一の紹介と推定)し、北朝鮮について意見を交換した。

     山崎はこのころ渡辺美智雄の訪朝を画策していた。
     北朝鮮は首相級の人物の訪朝を期待していたからである。

     コメ援助を誰よりも早く手掛けようとしたのは実は谷洋一であったが、当時の農林省に反対された。(源・谷洋一議員秘書)

  2.  1994年10月21日 「朝鮮半島エネルギー開発機構(KEDO)合意」後、北朝鮮側から加藤に対する働き掛けが活発化した。
     日朝国交交渉の再会を北朝鮮側は強く期待した。(源・某政党本部)

  3.  1994年11月 今村富也が単独訪朝し、「日本側の次の実力者として加藤の名前を挙げたことと、コメについての援助を頼まれたこと」を、帰国後加藤に連絡した。今村は加藤にコメ支援の話をした最初の人物であると自認している。(源・今村側近者)

  4.  1994年12月3日頃 北朝鮮側から突然、代表団受け入れ拒否の通告あり。理由は「武村蔵相発言(三党共同宣言の使命終了)、三党代表が韓国に事前説明にいったことと在ニューヨーク国連代表部の北朝鮮代表に対する失礼な発言だ、と朝鮮総聯責任副議長・許宗萬から聞いた」と加藤が言っていた。(源・現代コリア研究所)

  5.  1994年12月 麻布十番の某韓国料理屋で金剛山国際グループ会長・朴啓允女史と加藤が懇談。北朝鮮側からの最初のコメ援助要請が朴女史によって行われた。

     加藤はその後、朴ルートで2回平壌と連絡し、コメの希望を確認したが、北朝鮮側はチャンネルを吉田猛ルートに変更した。

     同女史が統一協会に近く、また商売に利用しようとしたからかも知れないが、とにかくコメ・ルートから外された。(源・韓国大使館)

  6.  1994年11月 都内の中華料理屋で加藤は、自民党の親朝系某国会議員(野中前自治相かもしれない)の紹介で初めて吉田猛と会った。

     同人は現在、北朝鮮の実力者の一人である金容淳(朝鮮アジア太平洋平和委員会委員長。労働党「三号書記」統一戦線部、社会文化部、作戦部担当。金正日の生母・故金生淑の従弟)と直結の工作員容疑者で公安当局からマークされている人物。
     加藤と外務省同期の川島裕アジア局長が同席。(源・政府機関)

  7.  1994年12月 加藤は山崎拓(当時、アジア安保研究会会長、政権復帰後与党三党の北朝鮮プロジェクトチームの自民党座長、現・政調会長)と協議して訪朝自民党団長を渡辺美智雄とすることに合意し、本人の了承を得た。(源・某政党議員秘書)

  8.  1995年1月5日 赤坂のうなぎ屋「重箱」で加藤は宮沢喜一元首相と河野外相の三者会談を開き、渡辺団長の件で両名の了解を取り付けた(源・某政党本部)

  9.  1995年1月31日 ソウル市内韓国料理店「ソラボル」で加藤は、前外相・韓昇洲と北朝鮮に対するコメの援助について了解を取り付けるため懇談。
     李洪九首相が同席した。加藤と韓は親しい間柄である。(源・韓国大使館)

  10.  1994年2月26日 シンガポール(吉田猛がセットアップした)で、自民党政務調査会長代理・保利耕輔(加藤紘一名代)と李種革(当時、朝鮮アジア太平洋平和委員会副委員長、現在、労働党国際部副部長=日本担当)が非公式会談し、外務省アジア局審議官・竹内行夫(川島アジア局長 名代)同席。

     日朝交渉再開のための金丸・田辺訪朝団の時の「三党共同声明」の扱いなどについて協議。

     コメの援助方法と値段について協議したとの説があるも、加藤は否定。(源・政府機関)

  11.  1995年3月28日 与党訪朝団出発。自民党(渡辺美智雄、保利耕輔、中川秀直 首相特別補佐、麻生太郎 副幹事長、大木浩 参議院議員)、社会党(久保亘書記長、関山信之 政審会会長、深田肇 組織局長、渡辺鋭気 本部調査局長)、新党さきがけ(鳩山由紀夫代表幹事、管直人政調会長)計10名。

     3月30日、渡辺、久保、鳩山、金容淳の四党代表が「日朝会談再開のための合意文書」に署名。金丸・田辺訪朝団の「三党共同宣言」は事実上棚上げとなった。(源・某政党議員秘書)

  12.  1995年4月下旬 金容淳から「日朝交渉の再開拒否」の連絡あり。原因は米韓連合軍司令部による米韓合同軍事訓練の予定(4月下旬〜5月中旬)発表と韓国による「韓国型軽水炉」主張に反対。(源・現代コリア研究所)

  13.  1995年4月11日 参議院外務委員会で新進党の石井一二議員が、「与党訪朝団に北朝鮮工作員容疑者・吉田猛が「衆議院議員 加藤紘一事務所 吉田猛」の名刺を持参して同行したこと」について加藤を追求した。

     加藤紘一夫人の弟である杉浦幸男が出発の二日前になって急に行けなくなったので、平壌の地理に明るく言葉のできる吉田に行ってもらうことにしたと加藤は釈明したが、当初からの予定と推察された。

  14.  1995年5月24日 国際貿易促進委員会会長・李成禄が「日朝友好学術文化フェスティバル」(10月、京都開催予定)打ち合わせの口実で関西空港到着(野中広務前自治相の秘書出迎え)。京都都ホテル宿泊(吉田猛出迎え)。(源・某政党本部)

     同年5月26日 東京六本木全日空ホテル36階「シリウスの間」でコメに関する朝飯会開催。

     李成禄、渡辺美智雄、加藤紘一(司会)、久保亘(社会党書記長)、鳩山由紀夫ら7人が出席。

     李は金容淳(肩書なし)からの4通の親書(渡辺、加藤、久保、鳩山宛て)を提出し、正式なコメ援助要請発言を行った。これに即応して政府レベルでのコメ援助と日朝交渉再開で動き出した。(源・現代コリア研究所)

  15.  1995年6月13日 クアラルンプールで米朝交渉が軽水炉問題で最終合意。タ1995年6月21日 韓国から北朝鮮宛て援助米計15万トン決定。

  16.  1995年6月23日 朝鮮アジア太平洋平和委員会副委員長・李種革代表団来日。


     6月24日、「霞友会館」で、李種革と川島・外務省アジア局長、上野博史・食糧庁長官が会談したが、日本側が耕地面積や食糧不足の事情を質問したことで対立し不調に終わる。

     李は無償援助要望。24日夜、加藤、渡辺と李の三者会談。26日午前、与党訪朝代表団及び加藤と李代表団員との懇談、(源・政府外郭機関)

  17.  1995年6月30日 合計30万トンの第一次コメ支援策決定(15万トン無償、15万トン有償=10年据え置き、金利2%、20年分割返済、金利3%。輸入金額に換算すると有・無償、合わせて約216億円)(源・政府機関)

  18.  李種革主催のパーティーに渡辺、加藤、鳩山、関山、深田、川島アジア局長と上野食糧庁長官が出席。(源・政府機関)

  19.  1995年7月 コメ輸送開始。

  20.  1995年8月2日 李種革は再度コメ支援要請。加藤は同日「自由民主党 政務調査会 会長・加藤紘一」名で李種革宛てに2点確認のファックスを加藤事務所から送る(源・X)

  21.  1995年8月10日 李種革2点肯定の回答が加藤宛に届いた。

     しかし、産経新聞が8月2日と8日の2回、韓国の親朝鮮雑誌「マル」(8月号)に掲載された金容淳の問題発言(コメは日本が謝罪の意味で援助。コメは畜産と軽工業に使う)を掲載し、一挙に政治問題化した。(源・現代コリア研究所)

  22.  1995年9月1日 金容淳から第一回回答書くるも、事実を認めず。「デマ報道に惑わされるな」という内容。

     8月24日、渡辺、久保、鳩山、加藤の四氏連名で金容淳に釈明を要求する書簡を送った。
     9月1日、金容淳から第一回回答書が来たが、事実を認めず。

  23.  1995年9月6日 朝鮮総聯通信が水害の被害報道開始。「7月31日から 8月18日の百年来の大雨で死者 68人、被災者 520万人、被害総額 150億ドル」

  24.  1995年9月12日 日本政府は国連の援助要請に応じて、50万トンを北朝鮮に送ることを決定。
     金容淳から二度目の書簡が渡辺美智雄宛に届いた。

     これには感謝の言葉はなかったが日本側の立場に配慮する姿勢が少しは認められたとして、日本政府は追加援助を検討。(源・某政党本部)

  25.  1995年9月14日 与党側が20万トン(144億円)の追加支援決定。(源・政府機関)

     同年9月30日 在北京 北朝鮮大使館で第2次コメ支援協議、外務省・別所浩郎出席(源・政府機関)

  26.  1995年10月3日 日本政府が北朝鮮から届いた 20万トンの追加支援に合意。(有償条件は第一次と同じ)(源・政府機関)

  27.  東京銀座。東武ホテルの「北朝鮮民主化と人権回復東京大会」で朝鮮民主統一救国戦線・朴甲東が「コメは北朝鮮では武器を作り、戦争を企んでいる特殊な人々の口にしか入らない戦争物資だ」と加藤の北朝鮮へのコメ援助の積極性を攻撃。(源・アジア問題研究所)

  28.  1995年11月25日〜12月3日の間「社会主義労働青年同盟(現「金日成社会主義青年同盟」)委員長・崔龍海以下5名が日青協との定期協議のため来日 。

     加藤紘一もしくは代理人が都内で2時間、崔と会談。(今村の紹介と推定)会談内容不明。(源・公安機関)

  29.  1996年1月 新党さきがけ・堂本暁子が訪朝し、金容淳書記と会談。

  30.  1996年2月17日〜20日 社会民主党組織局長・元参議院議員が前官房長官・野坂浩賢の秘書・松原和範と共に訪朝して、金容淳書記と李種革 党国際部長と会談し、両党間の今後の交流の緊密化を約した。
     金容淳は「橋本自立外交」に期待。(源・某政党)

  31.  1996年3月28日 山崎自民党政務調査会長が記者団に対して「国交正常化への努力が交渉再開に結びついていない現状があり、これを繰り返すより政府がやった方がいい」と表明。

  32.  1996年3月28日 加藤紘一幹事長が「産経新聞」のインタビューで、「北朝鮮との国交正常化について、昨年3月の与党訪朝団が政府間交渉が出来る素地を作った。今後とも政府に継続して努力してもらう。与党や自民党の対応については山崎政調会長が判断する」と、自民党による北朝鮮外交の中止の意向を表明した。
 (2)加藤紘一事務所代表・佐藤三郎と北朝鮮との関係について

 佐藤三郎は、東京都千代田区永田町 2丁目 TBRビル6階608号室(電話 03-3502-1200)に所在する「加藤紘一」事務所の代表者である。
 この事務所は6階の「キャピトル東急ホテル」に最も近い部屋で、斜め向かい側に元自由民主党衆議院議員浜田卓二郎と浜田マキ子夫妻の事務所がある。

 佐藤三郎は単なる加藤の秘書ではなく、加藤の裏財政を預かる重要な「金庫番」であると共に、自らも横浜に3つ(株式会社コーショー、株式会社コーショーコーポレーション、日本貨物流通株式会社)、米国に1つ(コーショーUSA,INC)の計4つの運輸関係企業と赤坂に1つのスナックを実質経営している企業家である。

 これらの事業の中で直接的な北朝鮮がらみの商売は今までのところ聞かれないし、また、日本が北朝鮮に送った援助米に関連した商売に直接かかわっているとか、それによって利益を得ているかどうかについては、確たる情報はない。

 しかし、将来もしも加藤が日朝国交の成立に重要な役割を果たした場合、加藤の立場を通じて大きな利権が取得されることは間違いない。

 佐藤三郎加藤秘書としての経歴は比較的浅く、「1991年2月頃から加藤の秘書的な活動を始め、94年10月頃から加藤事務所代表として永田町で知られるようになった」(源・自民党議員秘書)

 事務所代表になった 94年10月頃というのは加藤が北朝鮮関係で多忙になってからのことであり、なお、前事務所代表の森田廣は国会要覧では衆議院第二議員会館 711号室所在、加藤事務所の第二秘書になっているが、現在、地元で秘書活動をしている。
 そして、森田と「共和ヤミ献金疑惑」問題で加藤を裏切った元後援会長・水町重範との共和問題に関する電話の会話内容のカセットテープが今、巷に出回っている。

 加藤佐藤を加藤事務所代表にした理由は、

等に基づくものと考えられる。(源・自民党議員秘書)

次に、佐藤三郎がこれまで加藤紘一事務所代表として北朝鮮と関わってきた状況は次のとおりである。

  1.  加藤事務所が北朝鮮問題で急に多忙になったのは、1994年11月、社会党内で最大のパイプ役といわれる参議院議員・深田肇(現・社会民主組織局長)が、久保亘書記長(現・蔵相)を団長とする社会党主導の与党代表団の派遣について奔走中、同月下旬、三与党政務調査会長の訪朝を金容淳党書記から促してきた時からである。

     朝鮮総聯を経由して深田から伝えられた話は、明らかに加藤の期待したものであった。

     この話は直ぐにつぶれたが、10月21日の米朝間の包括的枠組みの合意を受けて、北朝鮮が加藤に対して金丸信同様「一本釣」の常套戦術に出たことが分かった。

     佐藤はこれを確認するため、朝鮮総聯、今村富也、深田肇などを通じて情報を集めた。(源・政府外郭団体)

  2.  北朝鮮側からコメ支援問題を最初に加藤に持ち込むため金剛山国際グループの「マダム朴啓允」は 1994年12月、麻布十番の韓国料理屋で加藤にあったが、間もなく朴は北朝鮮側によってコメ支援ルートから切られた。佐藤は2回このルートで平壌と連絡し大丈夫かと思っていたら切れてしまった。

     朴女史が翌年の8月初旬、このことで加藤事務所を訪れたが、すでに北朝鮮側が吉田猛にチャンネルを変えたことを知っていた加藤は会うのを避けて、佐藤が代わりに会った。(源・韓国大使館)

  3.  1995年2月のシンガポール非公式会談や同年3月の与党三党代表団の訪朝問題に関して、佐藤加藤の絶大な信頼の下にファックスで平壌の金容淳と頻繁に連絡をとった。(源・某政党本部)

  4.  1995年4月11日 参議院外務委員会における新進党・石井一二議員質問で、初めて佐藤三郎の名前がマスコミに浮上した。

     昨年3月、訪朝した与党代表団に北朝鮮の工作員容疑者として公安当局にマークされている吉田猛が同行したからである。

    「与党三党代表団に加藤の義弟が随行する予定であったが行けなくなったので、代わりに行ってくれと佐藤に頼まれた。

     3日間の滞在だが、身分をはっきりさせておく必要があるからと、佐藤から加藤紘一事務所の名刺を渡された。

     その名刺をたった一枚、平壌のレストランで隣に座った男に渡したことが国会問題の原因となった。私はただの商売人であって、コメのことは何も関係なく、佐藤に頼まれて行っただけだ」と吉田は後日友人に語っている。佐藤は代表団にとりまとめ役として同行した。(源・現代コリア研究所)

     北朝鮮の工作員容疑者としての吉田猛の同行問題だけでなく、「株式会社コーショーという利権に絡む通関業の社長である佐藤が日本を代表する立場の代表団に同行するのは好ましくない」という指摘もある(評論家・浅川博忠)が、これについては、国会では問題にされていない。(源・公安機関)

  5.  1995年5月26日 六本木の全日空ホテルで行われた北朝鮮の国際貿易促進協会会長・李成禄代表団と与党訪朝代表団との朝食会に佐藤が出席した。

     同席で李成禄が正式にコメ援助の要請を行ったことと関連して、佐藤のコメ援助暗躍説が出た。(源・現代コリア研究所)

  6.  佐藤三郎と北朝鮮援助米との関係を直接裏付ける確たる証拠はない。

 ただ、昨年の9月に「ラスプーチン政治家−加藤紘一の知られざる素顔、加藤−泰道を結ぶ線に一人の謎の男が浮上する」という怪文書が巷に出回ったが、その中で、加藤と吉田猛との関係に触れた後で、

「横浜の とある埠頭に加藤の秘書名義の倉庫があります。その中は国産米から外米まで米で埋もれている。これが莫大なカネに変身する日は近いのだ。先に2人がほくそ笑んだといった所以である。勿論『北朝鮮利権』は米だけではない」という記事がある。

 加藤の秘書は明らかに佐藤を指すが、同人経営の企業は米殻指定倉庫を所有しないから、捏造されたものであろう。(源・内外日東KK)

3.佐藤三郎に関する参考情報

(情報源・公安機関、雑誌週刊誌記者、北朝鮮問題研究家、国会議員秘書、政治評論家)

 (1)佐藤三郎と加藤紘一との人間関係
 5つの企業を経営している佐藤がなぜ加藤事務所に代表として詰めているのか、また、金庫番という重要な仕事を任されているには余程の人間的絆があると思われる。
 この問題はマスコミ界では謎とされているが、次のような憶測がある。

  1.  加藤の弟と佐藤が親しい関係にあって、加藤は弟から佐藤を紹介された。しかし、加藤に実弟がいるかどうかは確認されていない。

     もし該当する弟が居ないとすると、加藤の夫人 愛子(昭和21年生、日本女子大学卒業)の弟の杉浦幸男のことかも知れない。

     国会で与党代表団に同行した吉田猛問題が起きた時、杉浦の名前が出た。杉浦の代わりに吉田が佐藤の作った加藤事務所の名刺で訪朝したと、加藤が証言したからである。(源・週刊誌記者)

  2.  佐藤が 1989年に赤坂の TBSの裏側に開いたスナック「株式会社 1003」(港区赤坂2丁目 山口花屋2階)の現在の社長・樋口春枝(東京都世田谷区深沢 8丁目9番15号)が、佐藤の友人であると同時に加藤の愛人ではないかという話がある。

     樋口は元銀座の高級クラブ(店名不詳)のママであったが、現在この店のママを勤めている。

     昨年の10月31日号の週間「FLASH」でたたかれたため、今年になって、佐藤は樋口に登記上代表取締役のポストを譲ったが、実権は佐藤が握っている

    「株式会社 1003」の登記上の会社所在地は千代田区平河町 2丁目12番13号 平河ハイツ(1989年4月19日設立 資本金 100万円)。
     佐藤加藤に樋口を斡旋して加藤の弱点を握った形かもしれない。(源・雑誌記者)

  3.  加藤の妻・愛子は1年前まで佐藤の会社「株式会社 コーショー」の監査役であったが、議員秘書の会社の役員にその議員夫人がなったという話は聞いたことがない。

     現在の監査役・榎本正明が佐藤の従兄弟ということからも分かるように、議員夫人が監査役になったというのは加藤佐藤の両家の間に特別な関係があるものと思わざるを得ない。(源・週刊誌記者)

     例えば、佐藤の妻が山形県西田川群温海町出身であり加藤愛子と同じ年の生まれであるから、二人は同郷、同学の可能性がある。

     一方、加藤(山形県鶴岡市、日比谷高校・東京大学)と佐藤(東京都、早稲田大学)の間には同郷同学の関係はない。(源・週刊誌記者)

  4.  加藤が東大生として全共闘運動に参加していた頃の人脈の一人に早大生の佐藤がいたという情報はない。

     首相の座を目前にして加藤にとってマイナスになるから、昔の人脈とは縁を絶っているだろう。(源・公安機関)

  5.  佐藤は単に加藤を好きだとか尊敬しているとか、政治が好きだとかで加藤にくっついているのではなく、加藤が近い将来、首相になる有望な人間で利用価値があるとの判断に基づく一種の投資で積極的に接近し、また、当面自己の経営する企業の資金工作(銀行、ノンバンク、個人金融業からの融資)のために加藤を利用しているのではないか。

     そうでなければ、自分の会社を部下に任せて国会議員の私設秘書をしているわけがない。(源・国会議員秘書)

 (2)佐藤とコメの関係

  1.  昨年9月に出回った「ラスプーチン政治家 − 加藤紘一」と題する怪文書の中で「横浜のとある埠頭に加藤の秘書名義の倉庫があり、その中は外米や国産米で埋もれている」という記事について、埠頭倉庫は確かに次のとおり2つある。


     しかし、農林水産省の米殻指定倉庫(低温設備装置付き)は無いからコメの貯蔵はない。

     北朝鮮絡みのコメの利権で考えられることは、日本が提供した有償 35万トン、無償 15万トンの計50万トンの援助米は 約360億円に相当するが、これは政府保管米であるから、米殻指定業者か、指定倉庫を持たない以上、儲けるためには闇米の密輸出しかないはずである。

  2.  昨年の3月、富士産業(渡辺日出男社長)が、大理石粉粒として輸入申告した中国大連仕出しのコンテナ 28本のうち 22本が横浜税関によって摘発された。コンテナの中には玄米が 363万トン入っていた。

     この密輸入事件で 10月神奈川県警は関税法違反で 11名を逮捕したが、行方不明の6本の中には麻薬や拳銃かあるいはコメが入っていた可能性がある。

     この密輸事件に山口組系暴力団が関わっており、コメは「オウム真理教」の備蓄米(同教団と関係の深い「芝興産」が介在)であったと噂されている。

     このコメと佐藤との関わりはなさそうであるが、横浜の治安当局の間では、「コメの捜査は渡辺日出男クラスの線で止めて、与党の幹事長の身辺には及ぼさないようになっている」と何かいわくありげな話も聞かれる。

     加藤紘一が余りにも援助米に積極的だったために、昨年5月、李成禄国際貿易推進協会委員長が全日空ホテルで訪朝与党代表団に対して初めてコメの援助を要請した時に佐藤三郎も列席したというので、例えば「佐藤がコメ援助に暗躍した」(95年10月31日)と言ったマスコミの見方が当然視されるようになった。

     しかし、コメとは無関係と明言している吉田猛と同様、佐藤三郎とコメの関係も今のところ裏付けるものは何もない。

     ただ、北朝鮮ではコメの闇値が日本の2倍(例えば、日本で10キログラムの値段が 5,000円とすると 北朝鮮では 10,000円という)というから、もし密輸出が出来たら儲けられることは間違いない。(源・北朝鮮問題研究家)

 (3)佐藤と実業家、熊取谷稔(いすたに みのる)および 泰道三八との関係
  1.  佐藤加藤を通じて熊取谷稔を知っている。熊取谷は、リクルート事件の際、NTT真藤恒前会長との緊密な関係で世間から注目された人物で、「ゼネラルコーストエンタープライズ」代表であると共に、コスモグループを率いて国内13カ所でゴルフ場を経営する実業家である。

     加藤が宮沢内閣の官房長官であった3〜4年前に、加藤は相場が 1億5000万円はするという「東京よみうりカントリークラブ」の会員権をただで熊取谷から譲渡された疑惑が持たれる問題が起きた。加藤は一度も使わず、名義も返還したと弁明した。

     また、熊取谷の仕手筋の所有する世田谷区内の高級マンションにただで住んでいたこともマスコミに騒がれて、慌てて現在のマンションに移転した。

     熊取谷と加藤とが密着している背景には、防衛庁長官も歴任した加藤の「防衛利権」絡みの問題があるのではないかとの噂がある。

     この熊取谷の息子(日本航空に勤務)の結婚式が昨年12月1日、四ッ谷の教会で行われた時、加藤とともに佐藤三郎も招待されている。(1996年1月頃の怪文書の一部)これから見ても、熊取谷は佐藤にとって現在も重要なカネづるに違いない。

  2.  佐藤は泰道三八(コスモ信用組合前理事長)をもカネづるにしていたと推定される。個人的な接触の情報はないが、加藤を通じて当然コスモ信用組合からの借り入れは可能であったと思われる。

     というのは、昨年9月の怪文書「ラスプーチン政治家・加藤紘一の知られざる顔」の中で、加藤と泰道は極めて親しい間柄にあり、泰道は政務調査会長室にも気軽に出入りしていたぐらいである。

     怪文書は更に「加藤は泰道からかなりの資金援助を受けていたハズ。言うなれば、加藤は高橋(旧東京協和・前理事長)の山口敏夫的存在だ。これを追ったら疑惑が続出するはずだ」と書いている。

     佐藤は今後、泰道をカネづるとして利用できないばかりでなく、加藤の疑惑のマイナスを背負っていかなければならない。

     それが、加藤によって信頼されている「金庫番」の宿命だからである。(源・政治評論家)

 (4)佐藤と加藤紘一後援会長・木村知躬(ともき)の関係
 佐藤は当然、複数の加藤後援会と緊密な連絡を取っており、その一つに木村知躬を会長とする後援会がある。

 木村知躬(昭和13年11月26日 東京都出生、国学院大学卒)は、「オーテック(旧大崎建運)」社長、「アサガミ(旧浅上航運倉庫)」社長である。
 協和献金疑惑問題で加藤を裏切った水町重範(49歳、クリニック経営、医師)からクリニックの理事長になってくれと頼まれたが、副理事長を引き受けた。

 平成6年秋に同クリニックに入会したが、加藤の依頼でクリニック経営の会社に 1000万円寄付した。
 さらに1億円を要請されて 5000万円出そうとしたが、クリニックの経営難を知って中止した。
 水町は加藤の差しがねで中止したものと誤解して、今度の裏切りの挙に出たらしい。
 木村の関係している「アサガミ」は最近、背任横領罪で懲役7年の判決を受けた渡辺広泰の「東京佐川急便」の関連企業として知られている。

 水町は加藤と手が切れたから佐藤とも切れたことになるが、佐藤と木村との関係は今も密接である。(源・週刊誌記者)

 (5)加藤の有力スポンサーとしての佐藤

 佐藤加藤にとって有力なスポンサーの一人である。

 例えば、加藤の政治資金団体「社会計画研究会」の 1994年度収支報告書によると、佐藤はこの団体に 1000万円を貸付け、更に 150万円を寄付している。(1995年8月号 財界展望)

4.北朝鮮援助米の保管問題等について
(情報源・自社所有倉庫及び借用倉庫の関係者、契約業者、関係会社退職役員)

 (1)倉庫関係者の証言内容

  ◎ 株式会社コーショーの倉庫が所在する工業団地組合長談

(同所は JR東海道線戸塚駅北東約2km、上矢部町第2次中小企業工業団地で、以前ここには三工ポンプ《現・コーショーコーポレーション》があったが、現在は株式会社コーショーの倉庫とこれを管理する事務所となっている)

「コーショーは三工ポンプ時代から工業団地の組合に加入しているが、佐藤社長本人が会合等に顔を出したことはない。
 同社は薬品類を扱っているようだが、今までは何の説明もなく、以前、薬品の異臭で周囲とトラブルを起こしたことがある。その際にも佐藤さんが表に出るようなことはなく、現場の責任者という人物が対応していた。

 ここの倉庫で三工ポンプじだいから食料品等を扱っている様子は一切なく、倉庫内には常に工業用化学薬品が備蓄されている。同社がコメを扱っているという話は全く聞いたことがない」

  ◎ 新興運輸倉庫株式会社倉庫担当者談

(コーショーは新興運輸が東京芝浦に所有する倉庫の一部を借用して使用している)

「コーショーとは月間 600万円の取引がある。この取り引き金額の内訳は、薬品類の倉庫保管料、出し入れの際の人件費及びそれらの物品の一部運送料、営業所所在事務所家賃などで、これまでに滞納はなく、きちんと支払われている。

 コーショーが専用している倉庫にはドイツのケミカル会社「BASF」から輸入された工業用化学薬品をはじめ薬品類だけが保管されている。
 コーショーと付き合いを始めたのは昨年の1月頃からで、これまでの間、折衝などは全て「金津」さんが行っている。このためコーショーの社長は佐藤さんであることは承知しているが、人物などについては全く分からない。

 同社では薬品類のほか、輸入ワインと食品添加物を若干扱っていると聞いたことがあるが、ここには保管されていない。
 また、コメを扱っているというはなしは全く聞いていない」

  ◎ 宝組勝島倉庫関係者談

(コーショーは港区勝島の宝組勝島倉庫の一部を借用しているとの話を聞いたため、同所の調査を行ったが、「過去現在に至るまでコーショーと取引を行ったことはない」との回答であった)

  ◎ 藤木陸運関係者談

(コーショーは輸送関係の一部を藤木陸運に委託している)

「コーショーさんとは古いお付き合いである。これまで工業用薬品類やタイヤ等の運送業務を委託されているが、それ以外に食品関係を扱ったことは全くない。
 佐藤社長個人については会ったこともないし分からない」

  ◎ 京浜港運関係者談

(コーショーは同社にも輸送関係の一部を委託している。数回に亘る訪問にもかかわらず、担当者不在であったが、応対者の話によると同社はコーショーからコメなど食料品の委託を受けたことはないといわれる)

 (2)佐藤経営会社退職役員の証言内容

(注)佐藤が経営(関係)する株式会社コーショー、株式会社コーショーコーポレーション、日本貨物流通株式会社の3社の退職役員計8名から関係事情の聴取を試みたが大半の元役員から忌避され、下記2名と面談するにとどまった。

  ◎後藤健明氏(昭和60年7月 コーショーコーポレーション役員を辞任)

佐藤社長は何事に対しても強引で、実行力に富み計画立案にも長けている。このため周りの人物の中には『そのようなハードさについて行けない』という不満も多く、敵の多い人物でもあった。

 加藤紘一とは私が在社した頃から親しい付き合いがあり、頻繁に接触していたようだ。詳細は分からないが、10年前頃(三工ポンプ工業株式会社 当時)、加藤紘一の線で中国にポンプの会社をつくるという話が持ち上がったことがあるが、これは成功しなかった。

 私が会社を辞めるまでの間、グループ会社の中で、北朝鮮とのつながりのあった会社はなく佐藤社長個人としてもそのようなつながりはなかった。
 当時、コーショーなどでコメや食料品を扱ったことはなく、その後もその話は聞いていない。
 また、コメを扱う場合は国から何か特別の指定を受けなければならないはずであるが、グループ会社中にその指定を受けている会社はない。

 本人の人脈は早稲田大学時代の水泳部関係者に多く(本人は同部に所属していた)その中でもオリンピックに出場し自由形で銅メダルをとった「山中毅」との親密さが知られている。

 また、加藤紘一とは特別な仲で、そのきっかけは同郷ということでの付き合いと聞いているが定かではない。
 会社役員(監査役)の榎本は本人と従兄弟関係にある」

  ◎中川洋介氏(昭和60年7月 コーショーコーポレーション役員を辞任)

「コーショーの業務については今でも話を聞いているが、取扱品の中心は工業用薬品やドイツのタイヤで、コメや食料品等は扱っていない。

 佐藤社長加藤紘一が私の在社当時から付き合っていたことは承知していた。両者は山形の高校時代からの付き合いであると聞いたことがある。
 北朝鮮とのつながりは極く最近のことのようで、私がいた当時には北朝鮮のことは話にも出たことがない」
以 上