戦後の混乱期に水泳選手として活躍して「フジヤマのトビウオ」と呼ばれた国民的英雄で、日本オリンピック委員会(JOC)会長などスポーツ界の要職を歴任した古橋広之進・日本水泳連盟名誉会長が、世界水泳選手権を開催中のローマで死去したことが2日、分かった。80歳だった。静岡県出身。日本水連幹部によると、ホテルの自室でベッドの上で死亡していた。2日午前、連絡がないことを不審に思った関係者が訪ねて見つけた。死因は不明。
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「フジヤマのトビウオ」の軌跡は、戦後日本の歩みに重なる。世界記録を量産した活躍はラジオの実況にかじりついた敗戦直後の日本人に勇気を与えた。「古橋」という名は当時、日本中を元気づけた「リンゴの唄」や「青い山脈」と同じ明るい響きを感じさせた。
敗戦国日本は48年のロンドン五輪に招待されず、全盛期の古橋氏は金メダル獲得の機会を逃した。同時期に開催した日本選手権で、古橋氏は五輪優勝タイムを上回る世界新で圧勝。古橋氏は「こちらはイモしか食べてなかったのに、五輪のタイムがこんなに遅いのかとびっくりしたよ」と、半世紀以上も前の快挙を振り返ったことがある。
日本が復帰した52年ヘルシンキ五輪で国民の期待を一身に背負ったが、体調を崩して惨敗した。「古橋を責めないでください」と当時のラジオ実況は訴えたという。
高度経済成長の契機となった64年東京五輪では団長秘書として日本選手団入り。日本スポーツ界は、東京五輪を成功させた人物が中心となってその後も支えた。JOC会長まで務めた古橋氏は「最後の東京五輪世代」の指導者でもあった。
戦時中の勤労動員で、旋盤にはさまれて左中指の第1関節から先を失った。「指の間から水が抜けてね。そのハンディを補うために練習を重ねたら、指の間に本当にみずかきのようなものができたんだよ」。モットーは「魚になるまで泳げ」。96年アトランタ五輪では不振だった当時の代表選手が「楽しんで泳げた」と話すのを聞いて激怒。昨年、高速水着問題が持ち上がると「みんな、ふんどしで泳げばいいんだ」と、水泳界の将来を危ぐしていた。