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『ある北方教師』のこと |
☆★☆★2009年08月02日付 |
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七月三十一日付の本紙に載った斎藤陽子さんの寄稿「故・森下さんの歌集に寄せて」に、柏崎栄先生のお名前が出てきて、懐かしさを覚えた。といっても先生を直接知っているわけではなく、綴り方(作文)教育が縁で児童文学者・坪田譲治と交流したこと、晩年に吉浜中移転反対運動を起こしたことぐらい。 その名前に懐かしさを感じるのは、自伝的著書『ある北方教師』が我が家にあったからだ。教え子だった父が持っていたのだ。三十数年前に読んだことがあるので坪田との件を覚えていたが、ほかは失念してしまった。 柏崎先生は明治三十九年気仙郡吉浜村生まれ。気仙農学校、岩手師範を経て昭和二年から教職に就き、内陸や越喜来、立根、綾里、吉浜各小、吉浜中に勤務。四十年に綾里中校長で退職。同年から三陸町議(二期)を務め、五十九年に七十八歳で逝去している。 この間、軍事色が濃くなって言論や表現へ統制が増す戦前、子どもたちが貧苦に負けない強い人間に育ってほしいとの願いを込めた先駆的な「生活綴り方教育」を実践したが、治安維持法違反容疑での検挙と厳しい取り調べ、留置所生活を体験。五カ月後に不起訴となり、釈放された。 『ある北方教師』は「生活綴り方教育」を中心に、自身の信ずる教育論、友人との往復書簡、折に触れての歌や俳句、特高警察による逮捕劇など、波乱に富んだ人生を克明に描いたもので、労働旬報社から昭和四十五年に出版された。「子どもの現実に教育を即させる」との主張を貫き通した「生活綴り方教育」が全国的な反響と共感を呼び、四十六年、五十六年に増刷、再版されている。 斎藤さんの投稿を機に久しぶりに手に取ったが、他の用事もあってなかなか読み進まない。とりあえず、唯一覚えていた坪田との交流の項だけを急ぎ読み返した。 昭和十一年当時、立根小で教えていた先生は六年生の綴り方の時間に、坪田が朝日新聞夕刊に連載した小説『風の中の子供』(注・十一年八月から三十八回連載)の切り抜きを読んで聞かせ、課題を与えて感想文を書かせた。 『風の中の子供』は坪田の名を全国区≠ノした名作。夏休みを迎えた善太と三平の兄弟の父が横領容疑で連行され、家庭は苦境に陥る。三平はおじに預けられ、田舎で冒険の日々を送る。作品は兄弟の心の動きと行動をいきいきと描き、映画にもなった。 西洋紙に書かれた感想文は、先生が目を通したあと自宅に持ち帰ったままになっていたが、大掃除の時に出てきた。「捨てるのはもったいない。作家の参考になれば」と思い立ち、書店を通じて十二年春、坪田に届けられた。 これを読んだ坪田が感激し、朝日新聞に寄稿。方言が多く読みづらかったものの、文意を読み取った坪田は名も場所も知らない片田舎の小学生の純粋で素朴な気持ち、とくに三平を「三平さん」「三平ちゃん」と呼んでいることに「自分の哀れな子供に、道ばたで親切に呼びかけを受けるような気がして非常に心を打たれた」旨を記している。 柏崎先生は三年後に上京した際、坪田と会っている。坪田は「あちこちから感想文をもらったが、先生の生徒のものほど感銘は受けなかった」という。先生はどうしてなのか、その場では返答できなかったが、「子どもたちの行動と文章の間にギャップを持たせないよう注意して指導した」「心と体での感想だからではないだろうか」と述懐している。これこそ生活綴り方の神髄なのだと思った。 坪田の投稿には後日談があって、志賀和多利代議士が郷土・岩手を全国に紹介してくれたと喜び、村を通じて学校にラジオを送った。これが立根村の第一号で、ラジオ体操などに利用したという。今なら公選法に抵触したであろうが、当時はおおらかだった。 『ある北方教師』は絶版だが、ネットを通じて入手が可能。図書館や先生の教え子さんたちからお借りする方法もある。(野) |
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熱い夏の向こうに |
☆★☆★2009年08月01日付 |
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日本人にとって、八月は特別な月だ。広島、長崎の原爆忌に続いて、十五日は終戦記念日となる。平和の重みをかみしめる月だ。戦後、六十四年。しかし、この年月をもってしても一向に解決できない問題もある。 戦争を知らない世代が圧倒的に多くなった一方で、夏の高校野球は平和の象徴とも言える。今夏は、惜しくも気仙勢の出場はならなかったが、センバツ準優勝の花巻東が出場するだけに、岩手代表として、あるいは東北勢としても初の優勝旗を持ち帰ることができるかどうか。八日の開幕が今から待ち遠しい。 大船渡高校が春、夏連続出場した昭和五十九年、球児憧れの甲子園を取材させてもらったことがある。現在のような大改修前だったが、すり鉢状の球場構造そのものは変わっていないはず。そこに、魔物がいる。 北国の選手にとって、暑さは大敵。近くの神戸海洋気象台から発表される気温とは別に、球場は四○度近い猛暑になることも実感した。選手たちが持ち帰る甲子園の砂にも手を触れてみたが、熱い≠ニいう表現が決して過剰ではなかった。靴底を通しても伝わるその暑さが体の切れに影響することもあるだろうし、逆に大応援団が力以上に背中を押してくれるかもしれない。 「負けたらそこで終わり」の真剣勝負が、高校野球を筋書きのないドラマに仕立てる。甲子園には勝利の女神もいる。魔物のワナにはまるか、女神に出会うか。一投一打に手に汗握る瞬間が、まもなくやってくる。 月遅れ盆を迎え、民族の大移動≠ェあるのも八月ならでは。今年は暦の関係で、週末とお盆休みが重なるだけに、連休が取りにくいようだ。高速道路の割引はあったとしても、景気の影響がどう響くか。帰省ラッシュが激しくなるか緩和されるかは、フトコロ次第か。 さて、特別な八月の大トリに控えるのは、三十日に投票日を迎える衆院選だ。歴史的転換となるかもしれない政治決戦の夏≠ニして、各党とも前哨戦段階から本番モードに入っているが、戦後日本は劇的に変化した。 一億玉砕覚悟の戦時体制から、一転して平和国家へと歩みを進めた。三度の食べ物にさえ事欠く状態だった貧しい国が、高度経済成長で経済大国へと駆け上った。そこには、いろいろな要素が絡み合っている。 国民の勤勉性や教育の普及、政治的安定、さらにはお隣の国で起きた紛争が、逆に日本にとっては朝鮮特需≠ニ言われる経済効果さえ生んだ。しかし、今日の時代背景は全く様変わりしている。 一億総中流の意識を持てた時代は、とうに過去のもの。今や、全労働者の三分の一がパートやアルバイト、フリーター、派遣社員などという非正規雇用者だ。企業は生き延びるために必死だ。仕事がなくなればすぐ人員削減できる非正規雇用者は、都合の良い調整弁だ。だが、そこに社会の落とし穴がある。 「少数者がきわめて富み、多数者がきわめて貧しいために、人々がたえず自分の富もしくは貧困を考えざるを得ないような社会は、実は戦争状態にある社会である」と喝破した政治学者がいる。日本は今、武器を使わない戦争状態にある。 気仙が黄金の国≠セったころ、金を採掘するための新山開発では、山祝いが欠かせなかったという。産金作業の従事者だけでなく、近くの女、子どもまで呼び集めての椀盤振る舞いが行われた。「人が集まらないところには、金神様も寄りつかない」と信じられていたからだ。 来るべき政治決戦を前に、各党マニフェスト(政治公約)では耳障りの良いあめ玉政策の羅列合戦が報じられている。椀盤ならぬ大盤振る舞いの様相だが、各党が熱くなっているのとは別に、有権者は冷静に眺めていることをくれぐれもお忘れなく。(谷) |
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クマカップの価値観 |
☆★☆★2009年07月31日付 |
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物の価値を決めるのは自分自身なのだ、と一つのマグカップで思ったことがある。 コンビニエンスストアの店頭で一目ぼれしたマグカップ。大好きなクマのキャラクターが描かれているもので、キャンペーン中に対象商品に付いているシールを集めると交換できる。ほれたその日から三週間後、集まったシールとカップを交換することができた。 意気揚々と自宅に帰り、箱を開けてクマカップ≠手にした。こつこつとシールを集めた達成感もあってかわいさもひとしお。早速使おうとして、はたと気づいた。確かにかわいいのだが、こんなに躍動感あるデザインだっけ? カップは側面の中央にクマの顔とロゴが書かれているシンプルなものなのだが、手にしているカップはロゴの部分が左上がりの曲線を描くように配置されていた。そういう動きのあるデザインなのかと注視すると、塗装されたインクの凹凸が激しく、よじれている部分があった。もしかして。 キャンペーンのチラシがあったので見本品の写真を見ると、クマカップにはきれいに一直線にロゴが入っていた。今手にしているこのカップは「不良品」なんだ! がくんと一時うなだれたぐらいにして、改めてカップを見た。よくよく見るとクマの顔も若干曲がっている。写真と比べさえしなければ、前述した通りに満足だったが、いざ「正規品」を知ると…。 いろんな考えが交錯する――中身を確認してからもらうべきだった。取り替えてもらえるだろうか。でも非売品な上にここまで筋金入りの不良品が世に出回ることはないから、かえって貴重ではないか。しかしやっぱりきちんとした商品を手にしたい。いやいや、でも交換したらこの不良品は破棄されるのだろうか…。それってもったいない、初見では大満足していたわけだし…。 改めてカップを見ると、曲がって印刷されたクマの顔は少しすねたような表情をしていた。出来の悪い子ほど…≠フ心境とでもいうのか、「不良品だから」「きれいでないから」「優れてないから」という理由だけで切り離せないもの、考えあぐねているうちに愛着がわいており、不思議な気持ちを思い起こした。 「そんなキャラクターのどこがいいのか」「壊れたんだから捨てたらいいでしょ」「汚いから洗濯するね」などなど…親や大人の言葉と価値観を振りきって、だだをこねたり大泣きして、愛着ある物を必死に守り抜いていたあの幼き日――ぬいぐるみやおもちゃ、毛布など、誰にでもそんな物があったのではないだろうか。 子どものころは自分だけの価値観で、頑なに自分の物を守ってきた。物が不足していた時代は、人々は壊れても直せるうちはとことん使っていた。今は物があふれ、安価でなおかつ長持ちする物から高価で最新式の機能を兼ね備えた物など多種多様、千差万別で選ぶのに悩むほど。 さらに情報量の増幅も助長し、バリエーションも多彩になってきたと思う。最近では「エコ」「訳あり」といった価値観も誕生、浸透しつつある。唯一無二の物の価値観といったものがないからこそ、商売は難しいし、消費者には選択する楽しさや権利とともに責任も伴うことがある。これはもう自分で選ぶしかないのだ。 さて、クマカップはどうしたのかといえば、我が家の戸棚に仲間入りを果たした。毎日必ず使っていないためだろうか、カップを手にする時には、例のすねたような顔が「毎日ミルクを入れてよ」と少し不満そうに訴えているようにも見える。 カップに恩義を売るわけではないが、「まあいいじゃないの、おかげさまで大事に使われてるんだから」といいくるめるようにしてクマカップを両手で持ち、注いだ牛乳や豆乳などをほっこり飲んだりしている。(夏) |
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「汝の隣人を愛した」KRF |
☆★☆★2009年07月30日付 |
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ハッピーバースデーの唄とともに、ローソクの立ったケーキが運ばれてくる。それを差し出された相手が、はにかみながら火を吹き消し、拍手と歓声が起こる。 ケセンロックフェスティバル(KRF)実行委員会内での一コマだ。 五月からの二カ月間にわたり、同実行委に密着した。昨年の大船渡ロックフェスティバルで「これは気仙を変える催しになる」という確信を持ったからだ。今年は開催までの過程をつぶさに見、読者へ伝える必要が必ずある。そう感じていた。 しかし当初、週に一度の会議へ顔を出しても「本当に大丈夫なんだろうか」と不安になることが多かった。フェスヘの思い入れが強いメンバーと、不安と葛藤を隠せないメンバーとの温度差が、第三者にまで伝わるようだったのだ。 今年の開催で特筆すべきは、有志の実行委が組織されたことと、住田町商工会青年部や同町事業所、役場がかかわった点だろう。 同部の意気込み、参加への経緯を聞こうと最初に住田を訪れたのは六月中旬。実のところ、かなり緊張しながら取材したことを覚えている。佐々木慎一部長をはじめ、賛助部員の村上健也さん、部員の松田昇さんが集まってくれたのだが、その面持ちはにこやかと言うには程遠く、言葉数も少なかった(松田さん以外は)。 「運営まではできない」「あくまで手伝い」。背負うリスクの大きさからか、消極的な発言も聞かれた。このフェスに乗り気でない、というのではなく、何をしたらいいのか、「やる」とした選択は本当に正しかったのか、強い戸惑いがうかがわれた。実行委らも同部へ協力を要請するにあたり、かなり厳しい質問を受けたという。 イベントを盛り立てる記事を書きたい私は少し焦った。取材者の良くない癖で、どうしても「いい言葉」を言ってほしいという気持ちが働く。書きたいことが先に立ち、それに合わせた取材をしてしまうという、本末転倒なやり方へ走りそうになる。 「成功できれば、住田にとってプラスとなるはずだ」 ようやく聞かれた前向きな言葉は、彼らが自らに言い聞かせるためだったのかもしれない。 しかし取材の最後、佐々木部長が「なんにせよ、いい仕事のできる面子だと思っている」、そうぽつりと漏らした。私は後にこの言葉を何度も思い出すこととなる。七月から設営が始まり、(有)千葉組の千葉裕昭さんら住田メンバーの活躍を見て「こういうことか」と瞠目したのだ。 本業の傍ら、早朝から日付が変わるまで、種山での作業に明け暮れる。忙殺される日々のはずなのに、愚痴一つ出ない(出ないはずないのだが、人前で言わない)。 その無尽蔵のパワーに誰よりも驚嘆し、心揺さぶられたのは大船渡側のメンバーだっただろう。実行委の一人は「やると言ったことを黙々と、すごいスピードで遂行する。そうした言動に説得力があるから、周囲もついてくる。本当に見習いたいことを、間近で見せてもらった」と話していた。 逆に佐々木部長たちからは「これまで何かしたくても、自分たちが力を発揮できる場は少なかった。大船渡から機会を与えてもらった」との声が聞かれた。 当初は壁として立ちはだかっていたものが、実働が始まったことで崩れ出した。互いへの尊敬が、信頼に変わり、固い絆となって結ばれていくのが、傍目にもはっきりと分かった。そんな貴重なさまを目撃するのは、私にも初めての体験である。「信頼さえあれば、人はこんなにも変われるのか」。胸の震える思いがした。 冒頭のシーンは、KRF終了一週間後の出来事。佐々木部長の誕生日が、数人の実行委らのサプライズによって祝われたのだ。最初のころの固い空気を見てきた者の目には、全員の寛いだ笑顔が、最上の幸せとして映った。 「市町をまたいだ協力と連携」。言葉にするのはたやすいことだ。KRFの成功により、個人レベルではそれができると証明された。しかしそれは「お互いを認め合って初めて成り立つ」ものであるという事実もまた際立った。 さて、「気仙は一つ」と口にする人々は、隣人のことを本当に理解し、尊敬していると胸を張れるだろうか?(里) |
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先人を先人たらしめたのは? |
☆★☆★2009年07月29日付 |
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陸前高田市出身の政策研究大学院大学教授・小松正之氏が、達増県知事を囲む若者たちの集いに招かれて、出席者たちにテーマを与えた。「本県出身の偉人六人を挙げよ」というものでその結果、宮澤賢治、高野長英、石川木、後藤新平、新渡戸稲造、原敬といった衆目の一致する人選が行われた。 その六人をどのように評価するか論文を提出させたところ、人気が一番高かったのは宮澤賢治だったという。「支持理由」を述べさせると若者らしい論考があって時代と共に人物像の見方も変わっていくことを痛感したという。 同氏は宮澤賢治の宇宙観が若者たちの心を捉えたようだと説明する一方、自分は高野長英の生き方に共感すると語った。それは身の危険をも顧みず自らの信念を貫き通したその使命感と無私・奉公の精神、自由闊達な世界観に強く惹かれるからだという。 この先哲六人に共通するものとして、氏はいずれも外国語に堪能であることと、郷土を思う心が強いことの二点を挙げた。つまり外国語の学習を通じて広い視野を身につけ、かつ外部から見た岩手県の良さを見直していることにおいて実に一致しているというのである。 以上の話をうかがっていて、外国語はおろか日本語すらまともでない自分のことを恥じる思いが募った。小松氏は水産庁出身で、漁業交渉官として国際捕鯨やマグロの漁獲割り当て交渉などで抜群の交渉力を発揮、「タフ・ネゴシエーター」として海外からも一目置かれる存在だが、その交渉力を高めるためには英語が堪能であらねばならないと実際二年間アメリカに留学した経験を持つだけに、単なる会話手段としてだけでなく広く世界を見るためにも外国語の鍛錬は不可欠と断言する。 しかしその素養に欠ける当方がいま何に苦労しているかというと、よせばいいのに新渡戸稲造の名著「武士道」を対訳で読み始めたことである。須知徳平訳版の同著は英語の原文に訳文が並列されているから、訳文だけを読めばいいのだが、一応原文もあたってみようと思い立ったのが間違いの元。単語が分からずその都度辞書を引くので原文欄は引いた赤線で真っ赤っか。辞書にも線を引くのだが、それは気休めというもので同じ個所を何度もめくっている。つまり頭に入っていなかったということだ。 完読までにどのくらいかかるのだろうか。気の遠くなるような仕事だが、まあ理解はともかく、最後のページにまでたどりつくだけはいつの日か訪れるであろう。 それにしても新渡戸稲造の英語力の驚くべき練達さもさることながら、古今東西の書を読んでいなければ引きだせない該博な知識、造詣の深さにはただただ驚かされる。あの時代、どのようにして英語を学んだのか、まずはそれが気がかりとなった。 その気になれば学習の手引き、助けとなる教材、補助道具、英会話教室やラジオ、テレビの外国語の時間など外国語に接する機会の多い現代と異なり当時はそういう意味で劣悪な学習環境だったはず。いくら海外生活が長かったにせよ、そこに至るまでに相当の学習を要求されたにちがいない。 訳者の須知徳平は本県出身で、「春来る鬼」で吉川英治賞を受賞しているが、かつて陸前高田市で教鞭をとったこともあり、当地には馴染みの作家だが、この人もまた英語だけでなく、原文にある人物、その言葉、海外の風習、事象などを知らなければ訳はできなかった。この二人の労力を知らずにこちらは気楽に(でもないが)読んでいるわけで、学ぶことの大切さ、重みというものをいやでも痛感させられる。 六人の事跡を考えると、その原点とはなんだったのかという点に立ち至る。それはまさしくモチベーション(動機づけ)であろう。自発的に学ぶという行為はそれなしにあり得ない。いくら「勉強しろ」と言われても、何のために何を学ばなければならないという自らの意思がそこになければ奮い立たせる何物も生まれまい。受験勉強のための勉強が血肉とならないのはそのためであり、教育に何よりも必要なのはそのモチベーションだということで小松氏と意見が一致した。ただし、小生には気がつくのがもう遅すぎたのだが…。(英) |
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心に刻むべき小さな声 |
☆★☆★2009年07月27日付 |
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花巻東の優勝で幕を閉じた夏の全国高校野球選手権岩手大会。間もなく甲子園での全国大会もスタートし、試合を中継するテレビからは熱戦の始まりを告げるサイレンの音が聞こえてくる。毎年あの独特な響きを耳にすると、盛夏到来とともに、終戦記念日の近づきを思わずにはいられない。 終戦から幾多の月日を重ねても、第二次世界大戦に関しては新たな発見、解釈の映画や本が発表されている。今年は米国の俳優兼映画監督のクリント・イーストウッドさんが映画「硫黄島からの手紙」の製作によって旭日中綬章を受章した。戦争の記憶は風化することがなく、現代にも続いている。現にイーストウッドさんの映画で話題となった硫黄島にはまだ、一万一千余柱の遺骨が眠っているのだ。 その硫黄島で戦死した父の墓参のため、同島での慰霊祭に参加している人が気仙にもいることを、今月一日付の小紙が報じた。大船渡市猪川町の蕨野忠吾さんは遺影でしか知らない父が眠るその島を四年前から訪れているという。記事の中では、遺骨のない空の墓を思い、島の地下にさまよう最後の一柱までの帰還を願う蕨野さんの心情も紹介されている。 この記事は筆者が取材したものではなかったが、ちょうど同じ頃、同じ気仙人で、得がたい戦争証言をしてくださる人物を取材する機会があった。その人は米寿目前の八十七歳にして同市野球協会の現役審判員を務める同町の“怪物アンパイア”新沼賢一さん。 新沼さんは戦時中、極寒の満州から灼熱のフィリピンまで従軍を経験。終戦はマニラで迎え、その後は一年三カ月の間、土木工事などのつらい重労働を課せられた。敗戦の一報を聞いた弱冠二十歳そこそこの新沼青年は出征前に川崎で目にした欧米人捕虜の姿を思い浮かべ、「二度と故郷に帰ることはできまい」と覚悟したという。 筆者は当初、新沼さんを高齢ながらも現役で審判員を務める超人という切り口で取材をするつもりだったが、図らずもその前半生を伺う中で、本来の取材目的と違う貴重なお話を耳にすることができた。週末のグラウンドで会う新沼さんは「自分は戦争で苦労した」などとは一言も口にしない、温厚な人だ。その人の中に時代の激流にもまれた過去があることを改めて思い知らされた。 個人的な話題で恐縮だが、新沼さんとほぼ同年代である筆者の祖母は戦時中、十九歳で最初の結婚をした。しかしその三カ月後、伴侶となった男性は赤紙召集で徴兵されていき、さらにその二年後に迎えた終戦の直後、祖母の元には男性の戦死広報が届いた。その男性の弟が、筆者の祖父に当たる。 出征後に男性がどこに従軍し、どのような生活を送っていたのか、結局分からないままになっている。戦死広報には地図にない「マリアナ島」で男性が戦死したと記されているだけ。 祖母は昭和四十六年、遺骨収集のためマリアナ「諸島」の一つ、サイパンを訪れ、以降も祖父を伴って遺族会の慰霊祭に出向いた。その祖父も数年前に他界し、足腰の弱った祖母が南方の地を訪れることはもうない。しかし筆者が祖母と電話で話し、この話題に触れると、祖母は容易に受話器を置かせてはくれない。 戦時中の体験談は映画や本になるような苛烈、悲惨を極める話ばかりだけではない。メディアで取り上げられない身近な人の小さな声の中にも、我々が耳を傾けるべき思いがぎっしりと詰まっている。 年々、直接戦争を体験した世代の声を聞く機会は減っている。筆者自身も晩年認知症を患った祖父から体験談を聞く機会をとうとう逸してしまった。身近な人が激動の時代をどう生きたか、戦争に何を感じたのか、我々の心に直接刻み込むことが、最も大きな戦争の抑止力になると信じている。(織) |
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「至福の時」に感謝 |
☆★☆★2009年07月26日付 |
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先週、久々に東京へ行ってきた。多忙な同僚を尻目に「申し訳ないなぁ」と思いつつ休暇を取っての上京となったが、それは二つのコンサートが目的。ひとつは陸前高田市出身の声楽家・菅野祥子さんのメゾソプラノ・リサイタル、もうひとつはユーミンこと松任谷由実さんのライブ。一日ずれての開催だったうえ、主催者の配慮、それに抽選チケットへの当選という幸運も重なって実現したもので、至福の時を過ごせた。 仕事やその他諸々でたまるストレス、そして喧噪と雑音をいっさい忘れ、明日から元気に頑張ろうと、好きな音楽とコンサート会場ならではの空気感に身を委ねてきた。今回はとくにクラシックとジャパニーズポップスという対照的、かつ非日常的なシーンが体験でき、ともに期待以上のコンサートだった。 大船渡市に新しいホールが誕生したが、贔屓のアーティストやミュージシャンが来てくれるとは限らない。必然的にこちらから出掛けていくことになるが、還暦を間近にすると何事も受動的になりがち。そんなことではすぐに老けてしまうと、できる範囲で能動的にと思っている。 さて、「ウィーン薫る調べ」と題した祥子さんのリサイタルは、東京のど真ん中にある銀座・王子ホールが会場。三百十五席という小振りながら小粋でサロン的な雰囲気、そして優れた音響特性と、首都デビューには申し分なし。開演四十五分ほど前に到着したのだが、ホール入り口はまだ閉門。それでも幾人かが列をつくり、小雨の中で開門を待っていた。 やがて開場。会場は満席。祥子さんがこの日用意したプログラムは、モーツァルト、シューベルト、シュトルツ、J・シュトラウスといった、ウィーンゆかりの作曲家の歌曲やオペレッタからの選曲が中心。 爽やかな「すみれ」「クローエに」「ます」、劇的な「魔王」、楽しい「さようなら私の近衛の将校さん」「ほろ酔い気分」など、喜怒哀楽を自在に表現する祥子さんの歌唱に聴衆はすっかり魅了され、会場は大きな拍手に包まれた。 祥子さんは初の首都リサイタルというプレッシャー≠ノもかかわらず、(筆者からは)硬さは微塵も感じられず、むしろそれを楽しんでいるかのように見えた。在ウィーン十四年そのことが無形の財産になっているのかもしれない。ウィーンにいた気分にさせてもらうとともに、メゾの魅力を存分に堪能。充実した時を過ごさせてもらった。 リサイタルではほかに、ビゼーや日本歌曲、アンコールではシャンソンなども披露された。「ウィーンの薫り」が味わえなかったのがちょっと惜しかったが、一面ではレパートリーの拡大や自身の可能性に挑戦する意欲とも受け取れ、なお一層の飛躍に思いを馳せつつ会場をあとにした。 もうひとつ、ユーミンのライブ。これは祥子さんリサイタルの前夜、世田谷・人見記念講堂でのWOWOW主催によるイベント。四月から全国各地で展開しているトランジットツアーとほぼ同じ構成で、こちらは聴衆二千人という大規模なもの。ユーミンの歌で旅から旅へと誘うのがテーマ。ゲストに元フォーク・クルセダーズの加藤和彦さんも登場し、ステージと聴衆が一体となった熱狂的なライブとなった。 このツアーに参戦≠キるのは二度目。最初は五月の盛岡公演。やはり県民会館に二千人が入ってのライブ。花巻空港・新ターミナルのイメージ曲に彼女の曲「緑の町に舞い降りて」が選ばれた直後とあって、大いに盛り上がった。「緑の町」とは盛岡のこと。「ここは大好きな町。あと五十回は来たい」と言っていた。 なお、人見記念講堂でのライブは十月十日にWOWOWで確か無料放送されるはず。日本のポップスシーンをリードしてきたユーミンの世界、興味のある人はぜひどうぞ。ストレスのたまる現代、吹き飛ばす何かを持とうではありませんか。(野) |
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「布石」の魅力と難しさ |
☆★☆★2009年07月25日付 |
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囲碁の奥深さを、改めて感じさせられた。過日放映されたNHK『トップナンナー』に出演した張栩(ちょうう)五冠(29)の話を聞いてのものだ。 さわやかな笑顔の中にも、勝負の世界の厳しさがにじみ出る内容だったが、まずそのすごさは肩書の「五冠」に表れている。囲碁七大タイトルのうち天元、名人、王座、碁聖、十段を獲得。一人での五冠保持は、日本囲碁界初の快挙という。 台湾生まれの張五冠。六歳で父の手ほどきを受けて囲碁を始めたが、「三カ月で父を追い越しました」。父の棋力がどれほどだったかは別として、師匠を乗り越える体験はこの世界にのめり込ませるには十分だったろう。 十歳で日本に渡り、内弟子生活に入る。その天才をもってしても、院生から抜け出る道は厳しく、「今年プロになれなかったらやめよう」と背水の陣を敷いた十四歳で、プロ初段に。それからは駆け抜けるように昇段とタイトル獲得を繰り返しているが、強さの秘密に早碁があり、それは時間配分のうまさでもあるという。 番組で張五冠が語っていたが、世界の囲碁界は現在、韓国と中国が双璧。日本代表はなかなか勝てない。理由の一つが持ち時間制にあり、中韓は三時間が一般的なのに対し、日本の七大タイトル戦は三時間が一つだけ。他は四時間や八時間だけに、序盤から長考のクセが抜けず、世界戦では勝てない結果になっていると指摘する。 張の早碁は、対戦相手が勝負どころで時間に追われるプレッシャーをかける意味だけでなく、世界標準≠見据えたものだったことになる。日本生まれでない彼が、日本人棋士以上に世界戦にかける熱意が並々ならぬものであることも初めて知ったが、囲碁の奥深さは立ち上がりの布石にある。 手堅く地を稼いで逃げ切る実利志向か、盤上に宇宙の夢を広げる大模様か。それとも、どちらにも変わり得るバランス型か。この布石について張五冠は「答えのないところで、あまり時間を使いたくない」と語っていた。 棋界の格言の一つに、「アマは悪くなってから考える、プロは悪くなる前に考える」がある。序盤に時間をかけたくないという張五冠は、この「悪くなる前に考える」の教えに反しているようだが、本人は決して矛盾を感じているわけではなかろう。 布石段階はあまり時間をかけず、正確な読みが要求される中・終盤に時間を残しておくという作戦だが、このあまり時間をかけない≠ニいう点を過少評価してはならないと思う。張五冠にとって、「布石は大した問題ではない」ということではないだろう。対戦相手のデータが頭の中にぎっしり詰まっており、その基礎の上に立っての早碁だと思うからだ。 結論のない布石にはまた、不思議な魅力がある。それは、囲碁というゲームが今後どんなにコンピューターが発達しようとも、「必勝法」というものを見つけられないことを意味していそうだ。 将来のためどう備えるかというこの布石の考えは応用範囲が広く、特に政治の分野では欠かせぬ要素だと思う。激動する世界情勢における日本の役割、また、急速に進む人口減が地方の活力を損ね、年金制度の不安を招いている点などを踏まえ、今どんな手を打つべきかなど。 絶対間違うことのない囲碁の神様がいたとして、どのくらいのハンディなら対等に打てるかとの質問に、張五冠は「二子でお願いしたいですね」と語っていた。本来なら、ハンディなしでもとの思いもあるのだろうが、自分の着手にも完璧はないことを理解したうえでの控え目発言だろう。 政治の世界でもまた、難しい課題ほど「完璧な政策」というものはないだけに、どの政党や政治家の、どの政策を選ぶかは有権者の一手にかかっている。(谷) |
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やっぱり「貧乏性」? |
☆★☆★2009年07月24日付 |
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「物持ちがいい」と言えばいいのだろうか。それとも「貧乏性」と言うのが正しいのだろうか。 私は物を捨てられない人間だ。とりわけ、本はなかなか捨てることができない。 本は財産。そう思ってきた。 だから、読みたい本は人から借りず、自分で買う。小遣いに占める本代の割合は高く、近年まで月々一万円前後という状態が続いてきた。多額の投資をしてきたのだから、おいそれとは捨てられない。そんな思いもある。 家人などは一度読んだ本は二度と読まないという。しかし、私は違う。気に入った本は時間をおいて何度でも読む。 処分しないのだから当然、本棚には納まりきれなくなる。 「定年後に読み直す」 と大見得を切り、数年前からは段ボール箱に詰め込み、納戸に収納し始めた。その箱の数たるや、ただただ増えるばかり。 納戸の整理を決意した家人から私に提案があった。 「本当に要る本とそうでない本を分けて整理したら。お父さんが死んだら、ただ捨てられるだけよ。それよりは古本屋さんにでも売って、他の人に読んでもらう方が本も幸せなんじゃないの?」 事実、我が本は納戸の邪魔物と化してきている。第三者の立場で考えると、家人の言葉は至極当然。ここに至って私も決心した。 当初は近くの古本屋に持ち込もうと考えた。しかし、家人がインターネットで「高価買い取り」の古本業者を見つけてきた。 せっかくの財産である。どうせならできるだけ高く売り、同級生たちと計画している旅行の小遣いの足しに、と欲が出て来た。 段ボール箱を開き、残す本はひとまず床に置き、送る本は別の箱に移す。その作業を進めながら、ハタと気がついた。 「本を残すと言っても、本棚に収納スペースがない」 思い切って本棚も整理することにした。残そうか、残すまいか。一冊ごとに心は揺れた。心の中で本に詫びながら選り分けた。 古本業者に送る本は三十年ほど前の物から最近のものまで、段ボール箱で九箱分。詳細は分からないが、単行本から文庫本や新書まで三百冊以上はあったはず。「高価買い取り」という宣伝文句もあって、内心、一万円前後いくのでは、そんな期待があった。 本を送って数日後、古本業者からメールで買い取り価格の明細が届いた。 一言で言えば、愕然。 九箱のうち二箱分は査定するまでもなく廃棄状態。売り物になるのは一箱分で、その大半は一冊十円。結局、買い取り価格は百九十冊で、計二千五百八十円なり。 ほかに、査定「0円」の本が二百九十八冊。売れた分と合わせると四百八十八冊。廃棄分が二箱あるわけだから、送った本は優に五百冊を超えていたことになる。 これらの本に投じたお金は五十万円を超えていよう。ああ、それなのに……。あまりの低額に、この時は大ショックを受けた。 しかし、人間とは不思議なもの。納戸も本棚もきれいになったせいか、時の経過とともに身の回りのすっきり感が増し、心もどことなく軽くなった気がしてきた。 正直言えば、あの本をいつかなんとかしなければ、という思いが心の中には常にあったのだ。 精神科医の斎藤茂太さんの著書に『「捨てる」「片づける」で人生が楽になる』という本がある。読んだことはないが、捨てたり、片づけたりする勇気も大切なのかな、と今は思う。 ただ、本だけでなく、絶対に捨てられないもの、捨ててはいけないものもある。それだけは命のある限り、大切に守っていきたい。 最近は、以前読んだ本を本棚から引っ張り出し、読んでいる。これなら本代も節約できるというもの。やっぱり、私は「貧乏性」なのかも知れない。(下) |
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「ちゃっかり八兵衛」登場 |
☆★☆★2009年07月23日付 |
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「ここにおわす御方をどなたと心得る。畏れ多くも前(さき)の副将軍、水戸光圀公にあらせられるぞ!頭が高い、控えおろう」と、助さん、格さんの名ぜりふ。すかさず印籠が翳(かざ)され、悪代官が「ハハァ〜」とひれ伏す。 そう、誰でも知っている国民の時代劇が水戸黄門。この黄門さまの時代劇ドラマ(TBS系月曜午後八時)が、今年で四十年を迎えた。今月二十七日から第四十部がスタートするという。 とりわけ、今シリーズで興味深いのは、この三月に二代目・林家三平を襲名したばかりの林家いっ平が初レギュラーとして登場する。役どころは、あの高橋元太郎のはまり役だった「うっかり八兵衛」の二代目、その名も「ちゃっかり八兵衛」ときた。 芸能スポーツ紙などによると、新三平が演じる「ちゃっかり八兵衛」は、昭和四十五年の第二部から平成十二年の第二十八部まで登場した高橋八兵衛≠フように、食いしん坊の元気で明るいキャラクター。 里見浩太郎が演じる黄門さまに叱られた時などに、あの初代三平譲りのギャグ「どうもすいません」が飛び出す。そんな劇キャラもウリ≠ノするらしい。 そそっかしい食いしん坊という設定だけでなく、好奇心旺盛で、食べ物も含めて各地の名産品にも興味を示す積極派。さて、三平八兵衛≠ヘ、どんなちゃっかりぶりのキャラが出るのか、期待は膨らむばかりである。 とかく、時代劇ファンの多くは、この勧善懲悪≠フ定番時代劇ドラマを見て、一様に鬱憤を晴らしているようなところがある。 遠山ざくら≠フ「遠山の金さん」も、お白州で片肌を脱ぎ、ご自慢の彫り物を見せて一件落着。「ヨヨヨイ、ヨヨヨイ…、ハァ〜めでてえな」で一巻の終わりとなる。 「桃太郎侍」では、「ひとォ〜つ、人の生き血をすすり、ふたァ〜つ、ふらちな悪業三昧、みィ〜つ、醜い浮き世の鬼を退治してくれよう桃太郎」と見栄を切る。どれもこれも黄門さまの印籠と同じパターンだ。 最後に悪代官がひれ伏すシーンで、視聴者のストレスは一気に解消される。月曜夜八時四十分、水戸黄門ファンのオヤジからスーッとストレスが消えていく瞬間がたまらない。 「そろそろ来るぞ、ほ「ちゃっかり八兵衛」登場
「ここにおわす御方をどなたと心得る。畏れ多くも前(さき)の副将軍、水戸光圀公にあらせられるぞ!頭が高い、控えおろう」と、助さん、格さんの名ぜりふ。すかさず印籠が翳(かざ)され、悪代官が「ハハァ〜」とひれ伏す。 そう、誰でも知っている国民の時代劇が水戸黄門。この黄門さまの時代劇ドラマ(TBS系月曜午後八時)が、今年で四十年を迎えた。今月二十七日から第四十部がスタートするという。 とりわけ、今シリーズで興味深いのは、この三月に二代目・林家三平を襲名したばかりの林家いっ平が初レギュラーとして登場する。役どころは、あの高橋元太郎のはまり役だった「うっかり八兵衛」の二代目、その名も「ちゃっかり八兵衛」ときた。 芸能スポーツ紙などによると、新三平が演じる「ちゃっかり八兵衛」は、昭和四十五年の第二部から平成十二年の第二十八部まで登場した高橋八兵衛≠フように、食いしん坊の元気で明るいキャラクター。 里見浩太郎が演じる黄門さまに叱られた時などに、あの初代三平譲りのギャグ「どうもすいません」が飛び出す。そんな劇キャラもウリ≠ノするらしい。 そそっかしい食いしん坊という設定だけでなく、好奇心旺盛で、食べ物も含めて各地の名産品にも興味を示す積極派。さて、三平八兵衛≠ヘ、どんなちゃっかりぶりのキャラが出るのか、期待は膨らむばかりである。 とかく、時代劇ファンの多くは、この勧善懲悪≠フ定番時代劇ドラマを見て、一様に鬱憤を晴らしているようなところがある。 遠山ざくら≠フ「遠山の金さん」も、お白州で片肌を脱ぎ、ご自慢の彫り物を見せて一件落着。「ヨヨヨイ、ヨヨヨイ…、ハァ〜めでてえな」で一巻の終わりとなる。 「桃太郎侍」では、「ひとォ〜つ、人の生き血をすすり、ふたァ〜つ、ふらちな悪業三昧、みィ〜つ、醜い浮き世の鬼を退治してくれよう桃太郎」と見栄を切る。どれもこれも黄門さまの印籠と同じパターンだ。 最後に悪代官がひれ伏すシーンで、視聴者のストレスは一気に解消される。月曜夜八時四十分、水戸黄門ファンのオヤジからスーッとストレスが消えていく瞬間がたまらない。 「そろそろ来るぞ、ほ〜ら来た」というお決まりコース≠フ筋書きがまた繰り返されるたびに、スカッとした名ぜりふがどこか日本人の心をホッとさせてくれるのである。 第四十部の初回(二十七日)は二時間枠のスペシャル番組。「うっかり八兵衛」と「ちゃっかり八兵衛」が共演するシーンもあるという。そのあたりも見モノだ。 ところで、「うっかり」と「ちゃっかり」の違いはどこにあるのか。 辞書に頼れば、「うっかり」は、不注意で気づかないこと。「ちゃっかり」は、抜け目ないこと。これだけでも性格というか、姿勢の違いが見えてくる。 二十一日に衆院が解散した。クモの子を蹴散らすように永田町界隈から役者≠ェ消え、諸国漫遊ならぬお国入り。遊説、舌戦の口火が切って落とされた。 マスコミ各紙は、解散ネーミングを「がけっぷち解散」とか「KY解散」「バカタロー解散」などと揶揄している。 一連のドタバタ劇を見てきた国民にとっては、どこかスカッとしないまま、政治劇のストレスは溜まるばかりだ。いっそのこと「うっかり解散」や「ちゃっかり解散」の方が、茶目っ気があっていい。 人のいい、笑顔でお茶の間に元気を運んでくれそうな「ちゃっかり八兵衛」の登場が待ち遠しい。ちなみに、初回のタイトルは「隠謀暴き、いざ北へ、終わりなき世直しの旅・奥の細道」。 生ビール片手に、「越後屋、おぬしもワルよのう。世の中、そんなにうまくいかねえだろう」とテレビに話しかけながら、印籠の出番を待っている。(孝)ら来た」というお決まりコース≠フ筋書きがまた繰り返されるたびに、スカッとした名ぜりふがどこか日本人の心をホッとさせてくれるのである。 第四十部の初回(二十七日)は二時間枠のスペシャル番組。「うっかり八兵衛」と「ちゃっかり八兵衛」が共演するシーンもあるという。そのあたりも見モノだ。 ところで、「うっかり」と「ちゃっかり」の違いはどこにあるのか。 辞書に頼れば、「うっかり」は、不注意で気づかないこと。「ちゃっかり」は、抜け目ないこと。これだけでも性格というか、姿勢の違いが見えてくる。 二十一日に衆院が解散した。クモの子を蹴散らすように永田町界隈から役者≠ェ消え、諸国漫遊ならぬお国入り。遊説、舌戦の口火が切って落とされた。 マスコミ各紙は、解散ネーミングを「がけっぷち解散」とか「KY解散」「バカタロー解散」などと揶揄している。 一連のドタバタ劇を見てきた国民にとっては、どこかスカッとしないまま、政治劇のストレスは溜まるばかりだ。いっそのこと「うっかり解散」や「ちゃっかり解散」の方が、茶目っ気があっていい。 人のいい、笑顔でお茶の間に元気を運んでくれそうな「ちゃっかり八兵衛」の登場が待ち遠しい。ちなみに、初回のタイトルは「隠謀暴き、いざ北へ、終わりなき世直しの旅・奥の細道」。 生ビール片手に、「越後屋、おぬしもワルよのう。世の中、そんなにうまくいかねえだろう」とテレビに話しかけながら、印籠の出番を待っている。(孝) |
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