2009年8月2日 19時31分 更新:8月2日 22時10分
自由形泳者として世界新記録を連発して戦後の荒廃期の光明となり、「フジヤマのトビウオ」の異名を取った日本オリンピック委員会(JOC)元会長、日本水泳連盟元会長の古橋広之進(ふるはし・ひろのしん)さんが2日、世界水泳選手権が開かれているローマ市内のホテルで亡くなった。80歳だった。
古橋さんは国際水泳連盟副会長としての諸会議出席と世界選手権の視察のためローマに滞在していた。日本水泳連盟関係者によると、1日夜に日本水連関係者らと食事をした後に部屋へ戻り、2日朝にホテルの室内で倒れているのが見つかったという。
古橋さんは1928年、静岡県雄踏町(現浜松市)生まれ。旧制浜松二中、日大を通じ、自由形泳者として活躍した。47年の日本選手権四百メートル自由形で4分38秒4の世界新を出したのをはじめ八百メートル、千五百メートルなどの種目で合計33回も世界新をマーク。特に49年にロサンゼルスで開かれた全米選手権に招かれ、次々に世界記録を塗り替えた際には米国メディアに「フジヤマのトビウオ」と呼ばれ、その力泳が称賛された。
敗戦後のショックに打ちひしがれていた国民に勇気と誇りを与えたが、最盛期の48年に行われたロンドン五輪に日本は招かれなかった。唯一の五輪出場となった52年ヘルシンキ大会では、周囲から金メダル獲得を期待されながらも四百メートル8位と敗れ「悲運の泳者」とも呼ばれた。
現役引退後は「水の心が分かるまで泳げ」をモットーに、日本の競泳陣強化の陣頭指揮を執り、85年に日本水泳連盟会長に就任。アジア水泳連盟会長も務める一方で、90年には堤義明会長の突然の辞任の後を受けてJOC会長に選ばれ、99年3月に退任するまで、98年2月の長野冬季五輪を成功に導くなどアマチュアスポーツの振興に尽くした。昨年10月には、五輪に出場した競技者としては初めて文化勲章を受章した。
母校・日大の文理学部教授としても98年9月の定年まで、現場で指導にあたった。