2009/08/02(Sun)
削除
自民党ポスター人に頼んだがロゴの出来が悪いので削除する。
2009/08/01(Sat)
キャッチコピー変更します
国民生活の礎、年金をグシャグシャにしてしまった自民党の今回の選挙のキャッチコピーが「責任力」とある。
厚顔無恥とはこのこと。
「無責任力!」
とした方がいっそインパクトがあるのではなかろうか。
2009/06/30(Tue)
ネダの死とナイラの偽証

イランの現況を報道のまま受け入れることは危険である。
チベット騒乱時に中国兵がチベット僧の僧衣を着て、騒乱をいかにも先導しているかのような映像が流され、世論誘導を図ったように、イランの現政権を覆すには内部からの政権転覆をもくろむという方法しかないだろうと思われるからだ。
世界に数多く分散する現政権に不満を持つイラン人をイランに送り込み、世論誘導工作をするということは可能であり、これまでにも他の類似した世界情勢の中でアメリカのCIAは常套手段としてこの手の工作をして来ている。
今回のイランの騒乱がそういった工作の結果かどうかは慎重に情勢を見極めなければならないが、今ユーチューブで流され、欧米各国で報道されて反感を買っている「ネダの死」つまり19歳の少女が政府軍によって射撃され血を吹いて死ぬシーンを見るとき、いやが上にも私はアメリカの「湾岸戦争」への突入の口実とした「ナイラの偽証」を思い出さずにはいられない。
つまり駐米クウェート大使の16歳の娘ナイラがイラク兵士が嬰児を保育器から取り出して殺したと涙ながらに語ったあの偽証である。
この偽証はアメリカの大手広告会社が取り仕切っていたわけだが、今回も騒乱の剣が峰において、もっとも人々の心の琴線に触れる「少女」が登場していることに少なからず定石の臭いを嗅いでしまうのである。
2009/06/24(Wed)
2000分の120という力業

知り合いの写真家・音楽評論家の石田昌隆が出した”音楽本”がかなり画期的なもののように思えるのでちょっと紹介しておこう。
「オルタナティヴ・ミュージック」(ミュージック・マガジン社)とストレートなタイトル。
オルタナティヴとは知る人にとってはそんなに難しい単語ではないが、60年代の反体制という言葉が形骸化して以降、既成の体制やメジャーな価値観とは異なる、もうひとつの価値観に基づいた表現と言えばよいのかも知れない。
だが6,70年代に世界を席巻したビートルズやボブ・デュランなどがオルタナティブであるかというとこれは微妙なところで本書に取り上げられている120名のアーティストの中に彼らの名はない。そのことがこの本の微妙な立ち位置を現しているように思う。
そしてこの本の特筆すべきところは石田本人が世界を飛び回り、直接彼らに会い、写真を撮り、インタビューを試みているということだ。それは当然評論家としての域を超えており実働職業、写真家の面目躍如というところだろう。この本は1986年から2004年の間の取材となっているがその間に会って撮ったアーティストの総数は2000人(組)に及ぶというから半端なものものではない。
その中のきわめて厳選された120人、セルジュ・ゲンスブール、ボノ(U2)、ユッスー・ンドゥール、ビョーク(ザ・シュガーキューブス)、ソニック・ユース、リントン・クウェシ・ジョンソン、ニルヴァーナ、ジョー・ストラマー、ジェイムズ・ブラウン、リー・ペリー、ヌスラット・ファテ・アリ・ハーン、フェイ・ウォン、ベック、エイフェックス・ツイン、フェラ・クティ、パティ・スミス、カエターノ・ヴェローゾ、マッシヴ・アタック、ローリン・ヒル、タラフ・ドゥ・ハイドゥークス等々、そうそうたるメンバーだ。
ビョークの写真を見るとまだ駆け出しで彼女が当時所属していたグループ、シュガー・キューブスの端っこの一員のような感じが面白い。
日本では唯一、沖縄の嘉手苅林昌が取り上げられているのも渋い。
巻頭の120ページは彼の撮ったポートレートだが、これがなかなかいい。単発的にはこれまでも雑誌などで目にしているがこうして一気に並べるとそれぞれのアーティストがちゃんと立っている。写真家より撮った対象が立つということは案外難しいことなのだ。
ミュージシャンの写真家と言えばノーマン・シーフが有名だが彼の写真はライティングと構成に懲りすぎていてそこにノーマン・シーフという写真家本人は写っているがアーティストは写っていないという奇妙なことが起きる。どのアーティストを撮っても同じに見えてしまうのである。
ユージン・スミス、セバスチャン・サルガドなどもそうだが、どうも西洋の写真家には絵画コンプレックスがあるのか、妙に写真を絵画的にしてしまうということがある。撮る対象は写真を絵画的に仕上げる1素材であり、そこに写真家の傲慢さが見えてしまうのだ。
その意味で石田のポートレート写真は自分より対象を大切にしているという写真の本道が見えるわけだ。
その写真に千枚もの原稿が付属するという力作。
地味な本であり、マニアックな本でもあるが、おそらく世界でもこういった世界規模のアーティストをあつかった本はないだろう。それを日本人が独りでやったというところが面白い。
昨今、日本は大勢の話題のみに競って飛びつくメディアの一極集中化とそれに追随する大衆の動向によって特定のものばかりが売れてしまうという貧困な状況にあるが、恐ろしいほどの根気と努力によって成し遂げられたこういった地味な本が少しでも売れることを願って敢えてトークで取り上げた次第。
2009/06/12(Fri)
世襲の功名
もともと鳩山邦男をたきつけて簡保売却問題を楯に郵政民営化見直しに手をつけたのは官僚べったりの麻生首相であったわけだが、盟友、鳩山をスケープゴートとして首を切らざるをえない結果になったのは、政治というものの魑魅魍魎、理不尽を絵に描いたような出来事だった。
郵政民営化であれだけ強引な手法を取った小泉元首相一派の隠然たる圧力にバックのない麻生は吹き飛んだ恰好だ。
それにしても思うは二世というものの両義性である。
今世間には世襲批判が吹き荒れており、私個人も右を見ても左を見ても二世だらけというこの国会議員の現状は異常だと思っている。先日韓国からやってきた編集者に韓国にも二世議員は多いのですかと問うと思わぬ返事が返ってきた。
韓国では二世議員というのは希だと言うのだ。血縁や地縁の非常に強固な韓国にして意外な答えだった。やはり日本の現状は世界的視野で見ても異常なのである。
二世というのは阿部元首相や福田元首相に見られるように非常に気位が高い半面、胆力がなく、折れやすい傾向が見られるが、鳩山邦男の祖父鳩山一郎の血統を継ぐ気位の高さも並のもの以上で、ときにはその気位の高さがしばしば強引な言動となって失笑すら買ったほどだ。
だが今回の鳩山の出処進退を見ると、その二世固有の気位の高さが良い方向に展開されたと感じる。辞任のあとに祖父の墓参りをした邦男の愚直なまでに自分の正論を曲げないという態度がかりに二世的気位の高さから来たものだとしても、それはそれであきらかに犯罪を犯した人である西川善文社長を守り通した自民の主流の腐臭を炙り出したわけだから、怪我の功名ならぬ世襲の功名と言えるだろう。
2009/06/09(Tue)
行くも帰るも地獄
今年の2月にずっと沈黙を続けていた小泉元首相が麻生首相の郵政民営化見直しにとつぜん噛みつき「わらっちゃうくらいあきれている」と発言した。そのおりにマスコミは一斉に小泉を持ち上げた件で「またぞろ小泉マジックに翻弄されるマスコミのゆるパン」と題し2月13日付で以下のようなトークを書いている。
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今日の各紙朝刊は昨日の小泉発言を一面トップで報道しているらしい。
毎日新聞に至っては小泉発言の「笑っちゃう」が見出しとのこと。
マスコミは小泉一流の機を見たパーフォーマンスに相変わらず振り回されている格好だ。テレビの野次馬ジャーナリズムがそのように場当たり的な報道になるのは仕方がないにしても、新聞までこうかと思うと暗澹たるものがある。
今回の小泉元首相の怒りに満ちた麻生たたきは小泉が言うように麻生が郵政問題でぶれたという心情的なことにあるのではない。
鳩山邦夫総務相をたきつけて巨大な郵政利権という聖域に麻生が手をつけたことに小泉が切れたと見るのが順当である。
あの製造業への派遣社員制度を政府に進言した派遣社員制度問題の元凶のひとりであるオリックスの宮内会長は小泉元首相の郵政民営化のおりにも規制改革会議の議長をやるほど小泉との関係が濃密なわけだ。
その宮内の利権構造に手をつけたことが今回の小泉の怒りの真因だろう。
小泉元首相と宮内会長の間にも暗黙の密約があったのではないかと勘ぐられるほどの出来レースが今回の簡保問題で浮かび上がって来たことに、小泉が逆に危機感を抱き、早いうちに火消しにかかったという構図かも知れない。
これまで小泉元首相はマスコミを遠ざけてきたが、せっかく表に出てきた小泉にマスコミは以上の件を問いただす機会を逸した感がある。
ゆるパンという他はない。
それにしても犯罪の色すら臭う簡保問題に対し新聞が軒並み客観報道に徹しているのはなぜだろう。赤字経営の最中、オリックスグループに気を使わなければならないことでもあるのだろうか。
とり急ぎまたぞろ小泉マジックに翻弄されているマスコミにひとことそのことを言っておきたい。
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あのときマスコミはこのトークで述べたような論はまったく展開しなかったばかりかまるで小泉元首相にエールを送るような論調が目だった(唯一フジテレビの日曜の朝のワイドショーで司会者が小泉首相を証人喚問にというようなことを述べている)。
政治評論家の伊藤惇夫に至っては小泉元首相が敢えて政府に造反することで身を挺して自民党を救おうとしているのではないかという実にトンチンカンなことを語っていた。小泉元首相は自分の息子をごり押しで自民党公認候補にすることが現しているように自分の身を捨ててまで自民党を救おうとするような無私の政治家ではない。
そして今、2月のトークで述べたことが宮内会長の更迭か居座りかという綱引きを軸として現実問題として浮上してきているわけだ。
というより小泉元首相にとって宮内会長(因みに彼が会長をつとめるオリックスは外資が株の60パーセントを握っているアメリカの会社のようなもので宮内はその傀儡にすぎない)の更迭よりアメリカの共和党と約束した郵政株の放出が延期されることの方に危機感を抱いているのではないか。これが実現しないと小泉元首相はアメリカとの約束を破った裏切り者になるからだ。
だがまたアメリカの出先機関のような小泉元首相に反旗を翻している鳩山総務相にシンパシーを感じるとも言いがたい。
郵政は官僚主義の本丸であり、郵政改革阻止は官僚の念願でもある。
鳩山さんの行動は一見正義の味方のように見え、実は官僚主義復活の代理戦争をやっているようなものだからだ。
日本をアメリカに売り渡すのか、日本を官僚に牛耳らせるのか。
行くも帰るも地獄。
つまりどっちに軍配ではなく、自民党という政党が金属疲労で使い物にならなくなっているということを今回の宮内問題がよく現しているという大きな構図を国民は見て取らなくてはならない。
2009/05/22(Fri)
国家の安全とはリスク回避ではなくリスクを負うこと。
ニューヨーク在住の知人の話によれば、今回の新型インフルエンザのことを最近は「ジャパンインフルエンザ」という風に呼んでいるそうだ。
ちょうどメキシコでインフルエンザが流行ったとき、日々メディアがメキシコの映像などを報道したように、新型インフルエンザというと現在では町中マスクだらけの絵になる日本の光景が流されるからという。
ということは新型インフルエンザ騒ぎは世界でこの島国日本だけがぽつんと取り残されたようにいまだに大騒ぎをしているということだろう。
この騒ぎが続いているのはひとつには昨今何か事件が起こるとこぞってメディアスクラムを組んで競い合い報道になり、事態が相乗化してしまうメディアの商業主義、そして先のトークで述べたような過保護と保身が日本に蔓延していることが上げられるが、それより思うところはトップの決断力の脆弱さである。
こういった事態には万が一を考え安全策を取るというのはありがちな話だが、万が一とは世の中のいかなる局面にも存在するわけであり、かりに万が一というリスクに依拠して人が行動すれば安全という絶対善の中で人間とその社会は金縛り状態に陥ってしまう。
今回の出来事はその恰好の見本だろう。
そこでこういったエマージェンシーにあっては国民をひっぱるトップの決断力というものが求められるわけだ。そのトップとは今回は厚生大臣の舛添さんということになるわけだが、彼は元タレントだけあって、新型インフルエンザの第一報道を自分の手でやるということに妙にこだわり、その結果当初は横浜市とトラブルを起こしたりしている。
注目を浴びたいのはわかるが記者たちへの報道やレクチャーはわざわざ大臣が出てくるまでもなく、現場の厚生省長官とその専門家側近で十分だったのではないか。そういった対処ひとつで事態はもう少し冷静に受け入れられたはずだ。
以降、舛添さんは実の多くの専門家を集めた円卓会議を開き、見解を収集しているが、彼が報道の先鞭をつけた以上、彼がどこかで事態を見極め、甘んじて責任を持ち決断をする必要があるわけだ。
要するにこういった事態は万が一というリスクを背負った上でどこかで「足切り」をするというのが現実的な考えかただろう。かりに政治家であれば事態をずるすると引き延ばしたことによって生じる経済的損失と足切りによって生じるリスクを天秤にかけ、冷静な判断の上、責任を負った行動を示すということが国民を引っ張るトップのあり方である。
実際に身近なところでは先のトークでも触れたように数万の金が入らぬため家賃の支払いに困っているという人もいたり、巡り巡って昨今とみに増えている自殺者が今回の経済封鎖に似たことによって数百人は増えている可能性は十分にありうる話だ。ひるがえって新型インフルエンザによって死者が出るとのは現状ではきわめて現実味のない話だ。
私は太平洋戦争時の少なからぬ戦記を読んでいるが、戦争とはあらゆる場面でそのトップがつねに決断を求められる特エマージェンシー時だ。トップの責任感と判断力と決断ひとつで大隊数百人の命が救われたり、逆に無惨な死に方をしている。
今回の事態を戦争時のエマージェンシーに置きかえるなら、手柄は立てたがるが身を呈するトップがいないということを痛切に感じる。
それは昨今の政治と大人世界そのものではないか。
2009/05/20(Wed)
日本人の体内に潜むインフルエンザ菌以上の弱毒が騒ぎを大きくしている。
まるで今にも核弾頭が日本に落ちてくるような北朝鮮のテポドン実験時の日本国内の大騒ぎに続き、今回のインフルエンザ(どうやらただの軽い風邪のようなものらしい)騒ぎ。
聞くところによるとこんな大騒ぎをしているのは世界で日本だけらしい。
この過剰反応ぶりは過保護社会、日本という国の実態を浮き彫りにしている。
昨日も私の知っているフリーターの子が東北出張のイベントが中止になり3日間4万円なにがしかのアルバイト料がふいになった。大手企業のイベントだが、ここには過保護というより何かあったときの責任回避という自己保身が透けて見える。
そのことがよく表しているように関西において休校があい続き、さまざまなイベントが中止になるというのも感染を怖れるという以上にこの責任回避と自己保身といういつの頃からか企業人や公務員に蔓延する悪弊が先行しているということだろう。
他者の保護が実は自分の保護であったといういびつなねじれ。
今回の騒ぎが日に日に倍加するのは実は菌の毒性によるものではく、日本人(大人)の精神構造の中に潜む毒性によるものとも言える。
2009/04/30(Thu)
スラムドッグ$ミリオネアという映画
インドを舞台としたイギリス人監督の作った映画「スラムドッグ$ミリオネア」を見る。
映画の作りはA級。
カメラワークは相当なもの。
ただし内容はB級。
アップテンポででどんどんたたみかけるので、細かいシーンの矛盾を考える間もなく次のシーンに誘い込まれるが、それ本当?という矛盾が何箇所もある。
なによりもこのような安直なラブストーリーエンターティメント映画とは思わなかった。
おまけに何かハリウッド映画を見ているようなハッピーエンド。
こういった作品がアカデミー賞を取るということは、この賞は基本的には商業映画に与える賞ということだろう。そういう意味でははまり映画ということかも知れない。
筋立てとはあまり関係のない面白い一瞬のシーンがある。
スラムに止まったアメリカ人観光客夫婦を乗せた車が目を離している隙にタイヤが盗まれる。
運転手が近くにいたスラムの子供を怒りで何度も足蹴にしょうとすると、それを見かねたアメリカ人観光客が運転手を制し「よしアメリカの底力を見せてやる」と言って、やおら財布を取り出し、ドル紙幣を子供に与える。
イギリス人というのはよくアメリカ人の拝金主義をからかうが、この映画でもそういうシーンを挟みこんでアメリカ人の馬鹿ぶりを揶揄しているわけだ。
これでアメリカ人審査員が気を悪くしなかったというのは不思議だ。
というよりアップテンポな映像の切り替わりの中で気づかなかったということだろうか。
この映画、作りはA級、内容はB級というのはそのなんでもないシーンによく現れている。
このアメリカ人カリカチュアがあまりにベタで安手のコミックを見ているように底が浅いのだ。
マネーゲームで世界をどん底に陥れたアメリカ的拝金主義はその後のアメリカワールドであるわけだが、先日のNHKでアメリカの金融を追ったドキュメントの中に出て来る首謀者の目は本当に「悪魔の目」をしていた。
ドキュメントではその目を意識して何度もアップで通奏低音のように流すが、アメリカ的拝金主義というものは「スラムドッグ$ミリオネア」で表現されたような生易しいコミックなんかではなく、世界を地獄に陥れるテリブルなあの目なのだ。
2009/04/02(Thu)
講演(追加情報)
合わせ先の朝日新聞労働組合名古屋支部(052ー204ー0075)
2009/04/01(Wed)
講演2つ
こういうことはめったに起こらないことだが、名古屋でたまたま二日続けての講演が重なった。
ひとつは4月11日(土曜)に真宗大谷派の東本願寺で行われる「死生観」についての話。
こちらの方は東本願寺関係の人の集いの中で行われるということでおそらく一般からの参加は出来ないのではないかと思う。
もうひとつは4月12日(日曜)に朝日新聞労働組合名古屋支部主催で行われる「プレ5.3集会」という集いの中での講演だ。例の朝日新聞襲撃事件をきっかけに毎年その時期に行われる催しらしい。
私としては政治的意味合いの濃いものは苦手とするところで躊躇したが、あまりそのこととは関係なく、今の世の中に思うことを語ってくれればいいということでお受けすることにした。
「プレ5.3集会」
日時・4月12日(日曜)午後4時開会(午後3時半開場)
場所・朝日新聞名古屋本社15階朝日ホール(地下鉄東山線・鶴舞線 伏見駅より西へ徒歩5分)
入場無料(参加者の事前の応募はなしで、直接来場)
2009/03/25(Wed)
運は執念の賜物ということ
延長10回2死2、3塁で、たとえば9つのポケットのルーレットに投玉がイチローのところに入る。
これをイチローの強運と言った解説者がいたが、それは運ではなく執念ということだろう。 執念が撮りたい現実を引き寄せるということに遭遇している写真家はおそらくそのように観想するのではないか。
その意味において9人の選手の中でイチローが一番執念が強かったということになる。
2009/03/12(Thu)
終の栖

「the寂聴」(角川書店)という変わった雑誌が創刊され寂聴さんと往復書簡の連載がはじまった。この連載のタイトルである「終の栖(ついのすみか)」を書にしたためたところ寂聴さんその他の人々が気に入ってくれて、広島にある寂聴さん懇意の酒造所で「終の栖」という名の酒を出すことになった。市販品ではないので出回ることはないが、出来上がったら何本かこのトーク欄で差し上げようかと思っている。
2009/03/08(Sun)
生のかたわら、影のように臨在するものとして
過去に時代が閉塞状況に陥ったときに必ず出没するのがこのオカルト的風景だった。
私は60年代にインドを旅したとき、一切の宗教や神的なものを信じず、目の前で展開される事実や物質のみに目を凝らした。その結果得られた無常観のようなものが私個人の死生観を少なからず規制しているわけだが、その後七十年代に入ってからインドを旅する青年の姿は多分にオカルト的なものになっていく。超常現象が流行になったのもこのころであり、それは学生運動挫折後の重苦しい閉塞に風穴を空ける空しい神頼み、あるいは癒しの風景のように見えたものだ。
この流れはバブルとバブル崩壊の閉塞状況の中に現れたカルト集団オウム真理教の風景に確実に引き継がれている。
そういう意味では2000年代のこの世界恐慌の中で、このオカルト的なものは一挙に人々の心に浸透する危険を孕んでいるわけだ。
映画「おくりびと」とオカルト的なものはまったく無縁だが、この映画に流れる静謐な死の風景がメディアのお祭り騒ぎの中でかき乱されてしまうようなイヤーな感じを抱いたのも事実だ。
確かに私たちの日常は死の風景というものを排除しようとしているには違いないし、その意味において“死と想う”ことは必要なことだが、その想いは内証的に心の中で静かに想い、噛みしめるべきものであって白日のもとに鐘や太鼓を大騒ぎして喧伝するような種類のものではないだろう。この映画がアカデミー賞を取ったということで、その死の風景までもが歪められてしまうのは喜ばしいことではない。
本木さんは最近「いきいき」という雑誌のインタビューの中で改訂版の「メメント・モリ」を手にとり、次のようなことを語っている。
『昨年、新しい写真と詩が加わった「メメント・モリ」には、「極楽とは、苦と苦の間に一瞬垣間見えるもの。」という言葉があります。この刹那的な、もがきの感覚が個人としても一俳優としても、自分には合っています。人間の行動と感情は、無数の緊張と解放のくり返し。お芝居も、緩急をあやつることでつくられていきます。
ぼくは現実には不器用で、自分の役割をまっとうするために悪戦苦闘し、地団駄を踏んでいます。しかしそう生きる中で、生も死も、闇も光も、やはり分かちがたくつながった一つの道の上にあるかのように、いや、同時に存在しているものであるかのように思うのです。』
こういう冷静な観測と言葉を持った彼が、この騒ぎに我を忘れるということはないだろうが。
2009/02/27(Fri)
死は白日のもとにブーム化されるべきではない。
「おくりびと」がアカデミー賞を取ったのはめでたいことなのでこのブログでも一応祝辞を述べたわけだが、一映画の賞であることを忘れてはならないだろう。
大不況、世の中真っ暗の中の一筋の光明に我を忘れて雪崩れ現象が起こるのはわからないでもないが、こんなにも日本中鍋の底が抜けたように大騒ぎするのはやや常軌を逸していると言わざるをえない。この大騒ぎの渦中にいると世界中が騒いでいるかに錯覚するわけだが、昨日ヨーロッパに住んでいる友人と話す機会があったとき、当地ではアカデミー各賞を新聞の隅で数行で報道している程度で町の人はアカデミー賞には関心がないそうだ。
昨今のメディアと大衆は何事につけてもひとつの話題に一極集中し、一気に加熱して食傷し、一気に冷めて行くというのが通例となっているから「おくりびと」がらみの熱狂もそのうちに速やかに冷めていくだろうが、私はこの騒ぎが「おくりびと」がテーマとしていた「死」というものが逆に奇妙なかたちでブーム化され、曲解されてしまうことを危惧している。
アカデミー賞騒ぎの直後からひっきりなしにかかってくる電話の要望に応えなかったのは「メメント・モリ」とアカデミー賞はまったく関係のないこと、ということもあるが、何よりもこういったブーム化する状況はなにごとにつけよい結果を残さないという思いがあるからだ。この奇妙な熱狂の中で死というものが曲解され「メメント・モリ」で投じた最初の布石が別物になってしまう恐れすらあるわけだ。
●
このことはそれも一種の熱狂であった9.11以降にふりまかれた死生観の歪曲に鑑みればおよその見当は付こうと言うもの。
9.11によってアメリカが平常心を失い、無法な戦争が起り、無数の無辜の民が死に、同じく際限のない無法な金融バブル(戦争)が巻き起こり、同じく多くの無辜の民が死に瀕し、やがて今日の世界恐慌と救いのない閉塞が起こったと個人的には思っているが、9.11によるアメリカの過剰なリアクションは社会と世界をを崩壊に導いたばかりか人間の「死」に対する観想をも狂わせていった一面があると思っている。あの一件は死や悲しみに対する内向的な「熱狂」をも生み落としたのである。
そのひとつが日本でブームになった「千の風になって」ということができる。
9.11のおりに詠み人知らずで歌い継がれた、とまことしやかに喧伝されるこの歌の詩の要旨は「私の墓の前で泣かないで下さい、そこには私は居ず、千の風になってあなたのそばにいるから」ということになっているが、これは生き残った人間が自らを癒し、気持ちよくなるためのひとりよがりな詐術(死者の存在と死の曲解)であったとしても、たとえば般若心経に唱われる生命というものを冷徹とも言える容赦のない目で見つめることによってはじめて生じる空(くう)のこころ。そしてその空のこころがもたらす悟りとはほど遠い。つまりまやかしの死生観であり、歌というそよ風に乗って人をたぶらかす、やわらかいオカルトなのである。
(この項つづく)
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