2009年 07月
愼蒼宇「金光翔氏の<佐藤優現象>批判によせて」 [2009-07-28 00:00 by kollwitz2000]
『週刊文春』見出し「本当に怖い中国人」 [2009-07-21 00:00 by kollwitz2000]
日本は右傾化しているのか、しているとすれば誰が進めているのか 12 [2009-07-19 00:00 by kollwitz2000]
訴訟係属に [2009-07-16 00:00 by kollwitz2000]
日本は右傾化しているのか、しているとすれば誰が進めているのか 11 [2009-07-15 00:00 by kollwitz2000]
「反日上等」論議について(1) [2009-07-12 00:00 by kollwitz2000]
日本は右傾化しているのか、しているとすれば誰が進めているのか 10 [2009-07-11 00:00 by kollwitz2000]
日本は右傾化しているのか、しているとすれば誰が進めているのか 9 [2009-07-10 00:00 by kollwitz2000]
日本は右傾化しているのか、しているとすれば誰が進めているのか 8 [2009-07-08 00:00 by kollwitz2000]
蘆溝橋事件の日に、何を考えているのか? [2009-07-06 00:00 by kollwitz2000]
メモ8 [2009-07-02 00:00 by kollwitz2000]

愼蒼宇「金光翔氏の<佐藤優現象>批判によせて」
当ブログの読者とのことである、愼蒼宇(シン・チャンウ)氏から、応援のお言葉をいただいたので、改めて公開用のメッセージをいただき、「資料庫」にアップした。私には過分なお褒めのお言葉であるが、在日朝鮮人の朝鮮史研究者による貴重な発言だと思うので、是非ご一読いただきたい。

愼蒼宇「金光翔氏の<佐藤優現象>批判によせて」
http://gskim.blog102.fc2.com/blog-entry-20.html

愼蒼宇氏は、少し前に、『植民地朝鮮の警察と民衆世界 1894-1919――「近代」と「伝統」をめぐる政治文化』(有志舎、2008年11月)を刊行された、在日朝鮮人の研究者であり、朝鮮近代史を専攻されている。

同書は恥ずかしながら私は未読だが、『前夜』第2号(2005年1月刊)に愼氏が寄稿された、「「民族」と「暴力」に対する想像力の衰退」という文章は、大変面白く読んだ。

同文章は、「「民族」を「上から」であろうと「下から」であろうと、旧植民地宗主国側であろうと旧支配国側であろうと一括りにして否定的に捉える傾向」を鋭く批判したものであり、多くの人に一読を勧めたい。特に、

「現代の「対テロ戦争」と、歴史上の植民地支配・侵略戦争を見たとき、「ブッシュも悪いが過激派テロリストもよくない」という両成敗型発想と、植民地支配に対する抗日武装闘争を行なった義兵を「盗賊ども」「暴徒」「時局を妄覚した輩」と見なした植民地主義者の認識は紙一重の距離にあると思われる。(中略)「「テロリスト」と名指される者たちこそ、先進諸国において絶望的なまでに「変革主体」が立ち現れないことによって、世界的に困難な状況を変革する可能性を一手に引き受けているという視点、「対テロ戦争」における大国関係の再編と日本における植民地主義の持続(歴史認識、制度、文化など)に対する闘争がイラク等での闘いと深く関わっているという認識に立つ時、はじめてフランツ・ファノンの「民族」「暴力」に関する言葉は大きな説得力を持って現代に語りかけてくるのではないだろうか。」

という指摘は、大変重要だと思う。

今回いただいた一文では、<佐藤優現象>と同質の現象として、リベラル・左派における、東アジアの民衆のナショナリズムを否定したいという欲望が、朝鮮人の手助けを得つつ、「和解」論に絡め取られていく経路が指摘されている。

愼氏が「大学院に入った頃(1997年)」あたりが、「リベラル・左派の側にも東アジア諸国から日本に向けて起こる様々な形の反発に対して理解を示すポーズをとりながら、それを批判するなど明らかな「動揺」が起こり始めた時期」と回想されている下りは、私の実感とも一致する。リベラル・左派の変質に関しては、このあたりから論じる必要があると思う。

# by kollwitz2000 | 2009-07-28 00:00 | メッセージ・推薦文・紹介
『週刊文春』見出し「本当に怖い中国人」
週刊文春の最新号(7月23日号。7月15日発売)の吊革広告より。


「本当に怖い中国人
(1)ウイグル暴動「女子大生の首を切り木に吊るした」
(2)あなたの隣の中国人「一気に刃物」の恐怖 ――ハローワーク職員襲撃だけじゃない」

記事を読むと、(2)は、日本国内の中国人による犯罪事例を取り上げている。

約1年前に、このブログで、『週刊朝日』による韓国人へのレイシズムそのものの見出しを3回にわたって取り上げた際に、2回目で、以下のように述べた。


「右派メディアは、キャッチコピーにおいては、「韓国」は罵倒しても、「韓国人」一般に罵倒表現を使う事例はあまり見かけない。民族差別だと言われないよう警戒しているのだろう。「リベラル」であるはずの朝日の方が、警戒心がないからこそ、こうした差別感情が垂れ流されたキャッチコピーを使うわけである。

朝日が使ったのだから、右派メディアにも、こうした「韓国人」への罵倒表現は「解禁」されてしまったということだ。今後、「朝日ですらあそこまで言うのだから、ああいう表現はセーフなんだ」として、右派メディアでも、「韓国人」「朝鮮人」「中国人」への罵倒表現がキャッチコピーとして使われだす可能性が高い。」


このような、週刊誌におけるレイシズム表現の解禁という<空気>の下で、今回の『週刊文春』の見出し、記事は出てきていると思う。

この見出しの愚劣さと犯罪性について、改めて指摘する必要性はないと思うが、全く別々の「犯罪」的な事柄を、特定の人種・民族の特質として表象させようとする『週刊文春』の姿勢は、レイシズムであると同時に、また別種の問題を(改めて)提起しているように思う。

まず、レイシズム以前に説明として無茶苦茶なのだから、最低限の社会科学的思考の欠如など、「雑誌ジャーナリズム」なるものがいかに愚かな人々によって担われていることを(改めて)知ることができる。任意の事例から、「本当に怖い日本人」「本当に怖いイギリス人」等々、あらゆる人種・民族に関して(やろうと思えば)容易にこうした主張ができることは、小学生でもわかるだろう。

また、株式会社文藝春秋は、他方で、その「本当に怖い中国人」が13億人もいる国への旅行を煽っているわけであるから、要するに売れればなんでもいいらしい、ということも(改めて)知ることができる。『週刊文春』の記者たち自身、多くのマスコミの人間と同様に、中国旅行が好きかもしれない。多分、在特会のような確信犯と違い、何も考えていないのではないか。

私は、、「レイシスト的保護主義グループの成立(1)」で、以下のように書いた。


「「在日特権を許さない市民の会」のような運動体への批判は重要であるが、私は、ヨーロッパと違い日本では、こうしたあからさまな人種主義団体はたいして大きくならないと思う。社会の支配的な価値観がすでにレイシスト的であるから、大多数の大衆は、人種主義団体に加入するほど不満や焦慮を抱いていない、ということである。したがって、人種主義団体だけを嘲笑し、罵倒しているのでは、あまり生産的な行為とは言えないだろう。」


今回の『週刊文春』の見出し・記事は、日本社会のレイシスト的な支配的な価値観をあからさまに表出したものである、と言うことができよう。言うまでもないが、こんな雑誌が日本の代表的な週刊誌なわけである。

そして、「保守」的ではあってもレイシスト的とは一般的には見られていないと思われる、『週刊文春』のような雑誌による、今回のようなレイシズムそのものの見出し・記事は、在特会の主張などよりも、比べものにならないほど大きな社会的な影響力を持っている。「本当に怖い中国人」という表象は、今回の見出し・記事によって社会的により広がるだろうし、こうしたレイシズム発言をあからさまに発してもよい、という<空気>も、より広がるだろう。

上の引用でも示唆しているが、「日本社会の広範な保守層とも連携して、在特会を孤立させよう」といった、たまに見られる主張は馬鹿げている(無論、レイシスト団体によって、生命や生活権が危険にさらされている緊急事態の場合は例外である)。『週刊朝日』や『週刊文春』の上の例から見られるように、日本社会においては、恐らく無意識的にレイシスト的価値観が温存されているのであって、それが、政治的事件等のふとした出来事において表出されるのである。

『週刊文春』の今回の見出し・記事は、<嫌韓流>と同じロジックの「中国人」への攻撃なのだが、『週刊文春』は、今後も在特会や<嫌韓流>とは一線を画すだろう。朝日系のメディアのように、在特会やら<嫌韓流>を「憂慮」するような記事すら掲載されるかもしれない。

「日本社会の広範な保守層とも連携して、在特会を孤立させよう」といった立場からすれば、仮に『週刊文春』がこうした「憂慮」(朝日系メディアのそれと同質の)をはじめれば、歓迎するだろう。だが、こんな「憂慮」は、反レイシズムにとっては有害以外の何者でもない。こうした「憂慮」によって、これらメディアは、自分たちの(恐らく無自覚の)排外主義を温存させることができ、また、これらのメディアは在特会その他と違って排外主義ではない、という社会的な認識まで、ある程度調達することができるだろうから。もちろんこれは、メディアだけではなく、在特会を「憂慮」しながらも、今回のようなレイシズム表現を厭わない『週刊文春』を特に唾棄すべきものとは見なしていない、他の人々も同じである。

ここで、在特会の主張に大きな影響を与えていると思われる、当の<嫌韓流>を見てみよう。


(山野車輪『マンガ嫌韓流3』晋遊舎、2007年10月、24頁。吹き出し内の傍線は引用者、以下同じ)


(同上、25頁)

上(24頁)で「謝れよ!」と在日朝鮮人に怒りをぶつける人々が、サークル「極東アジア調査会」の「後輩たち」であり、下(25頁)で、<嫌韓流>シリーズ主人公の沖鮎要とその同志たちは、自分たちのサークルが「単なる嫌韓サークル」になってしまったこと、「日韓友好を目的とするのではなく むやみに韓国や在日を敵視したり ただ罵倒したいだけの 「嫌韓」のための「嫌韓」」(同上、26頁)になってしまったことを嘆いている。

同書第一話では、この「後輩たち」と同じような、「むやみに韓国や在日を敵視したり ただ罵倒したいだけの 「嫌韓」のための「嫌韓」」である人物が他にも描かれており、沖鮎たちが、彼らとは一線を画しており、彼らに批判的認識を持っていることが強調されている(「仕方がない」とはしつつも)。要するに、『マンガ嫌韓流3』において、シリーズの主人公たちは、自分たちはレイシストたちには批判的であり、一線を画することを冒頭で強調した上で、レイシストそのものの発言を展開していくわけである。

結局、在特会や<嫌韓流>のようなあからさまなものだけを「憂慮」し、自分たちのレイシズムには無自覚な人々は、上の<嫌韓流>の主人公たちと本質的に何の違いもない。「日本社会の広範な保守層とも連携して、在特会を孤立させよう」といった立場は、上で指摘したように、日本社会のレイシズムを温存させ、無自覚なレイシズムに浸っているこれらの人々に対して補完的役割を果たすことになるだろう。

それにしても、今回の『週刊文春』の見出し・記事をきっかけに、いまさら株式会社文藝春秋の本の不買を呼びかけても、私は新刊で文春の本・雑誌を買った記憶がここ15年ほどないし、このブログを見に来るような人々はあまり文春の本・雑誌を買わないだろうから、効果はないだろう(逆に言うと、文春の新刊の本・雑誌の不買は大前提、ということである)。

むしろ問題は、文春系の媒体に執筆する、特に「右」というわけでもない人々だと思う。こうした人々こそが、文藝春秋が出版する『週刊文春』の、一定の社会的信頼性を担保しているのだから(これは、『週刊新潮』と株式会社新潮社と書き手の関係にも当てはまる)。特に今後、文春系の媒体に執筆したり、文春から書籍を刊行したりする人々が問題である。

この人たちは、自分たちこそが、今回の『週刊文春』の見出し・記事のレイシズムを支えている側面があるなどとは、多分考えないだろう。仮に問われたとしても、おおむね、その辺は曖昧にやり過ごすだろう。その曖昧さは、上で指摘したような、無自覚的なレイシズムの温存ということと恐らく対応していると思う。

# by kollwitz2000 | 2009-07-21 00:00 | 日本社会
日本は右傾化しているのか、しているとすれば誰が進めているのか 12
12  「東アジア唯一の平和国家」という表象の下での右傾化


「平和国家」という自己認識を持つ「ウヨク」または「サヨク」たちは、一致して、格差社会の惨状を嘆き、村上春樹のエルサレム賞受賞スピーチに涙し、北朝鮮の核実験に対して「唯一の被爆国」としての怒りを表明し、在特会のあからさまかつ行き過ぎた言動・行動に眉をひそめる。みんな、いい人たちで、「平和」を愛する人々なのだ。「一党独裁支配」の中国や北朝鮮、ナショナリズムが「過剰」で徴兵制のある韓国、軍事的緊張化に置かれている台湾など、周辺諸国は「平和」とはほど遠い状態だ、それに比べてわが日本は・・・と彼ら・彼女らは、「戦後日本」とこれからの日本に誇りと自信を持っていることだろう。

連載の「11」で示したように、日本国家の右傾化は、こうした、日本が「東アジア唯一の平和国家」だという自己認識を持った人々による、日本国内の極右勢力との抗争プロセスを通じて、意図せざる形で、進むことになる。

東アジアの周辺諸国からすれば、これは、かつての自民党右派政権よりもはるかに厄介である。「中東唯一の民主国家」という自己認識を持ったイスラエルのような国が、イスラエルよりもはるかに強大な軍事力・経済力を持って、東アジアに誕生したことになるのだから。ただ、イスラエルほどは、軍事的要素が社会の前面に出てこないとともに、社会の民主化も進まないだろう。

また、仮に「東アジア共同体」といった形で、韓国や中国など周辺の中大国と集団的安全保障を結んだ場合は、より強い脅威を受ける対象が、周辺諸国ではなく、世界レベルに拡大される、というだけの話である。その場合、「対テロ戦争」がますます徹底的に遂行されることになる。

この右傾化の動きは、民主党政権または大連立政権下で、より強くなっていくだろう。

この状況下では、「護憲」も、日本の侵略責任・戦争責任の観点から捉える視点がない限り(そして、近年の「護憲」論は、ほとんどの場合、そうした視点はないのだが)、
上記の抗争プロセスに回収されるだろう。そして、<佐藤優現象>や、連載の「1」でも言及した、安部政権崩壊(または2007年参議院選)後の右傾化においては、まさに、「護憲」論の上記の抗争プロセスへの回収が著しく進んだ、と言ってよいだろう。

もう少し言うと、もはやこの段階においては、「護憲」か「改憲」か自体は本質的な政治的争点ではなくなっている、ということである。もちろん私は、どっちでも同じだから改憲してもいいのではないか、と言っているのでは全くなく、改憲または安全保障基本法の制定が、右傾化の大きな前進であることは言うまでもない。だが、「戦後社会」を肯定する護憲論は、民主党の安全保障基本法には多分ほとんど抵抗できないだろうし、彼ら・彼女らの中では有力な代替案である「平和基本法」も、「<佐藤優現象>批判」で書いたように、論理としては安全保障基本法と大して変わらない。

むしろ、本質的な争点は、過去清算をろくに行なわず、また、当面は行なう見込みのない日本が、「普通の国」として軍事活動を行なうことへの、周辺アジア諸国の民衆からの抗議と警戒の声とどう連帯するか、ということになると思う。要するに、日本の右傾化を規制する実体のある勢力は、当面は外部しかないのであって、その外部とどう連帯するか、ということである。

無論、そうした抗議と警戒の声や、連帯しようという行為は、日本社会においては「反日」だと表象されるだろう。だが、「反日」という非難を意に介さず(もちろん「非難に抗して」でもよいが。念のために書いておくと、以前書いたように、文言としての「反日」を掲げるべき、ということではない)、連載の「10」で言及したような、「正義」を回復するために、または(および)、日本国民の政治的責任を果たすために、過去清算を行うという立場で行かない限り、上記の抗争プロセスに回収されるだけだと思う。そうしたことを主張する人々や運動が、現在ではどれほど微力であっても、本質的な政治的争点はそこにしかない、と思う。


(おわり)

# by kollwitz2000 | 2009-07-19 00:00 | 日本社会
訴訟係属に
7月15日に東京地方裁判所に確認したところ、私の訴状を各被告に送達し、株式会社新潮社および早川清氏(『週刊新潮』前編集長)は7月10日に、佐藤優氏は7月11日に、それぞれ受け取ったとのことである。訴訟係属になった、ということである。第一回口頭弁論期日は、9月上旬である。

それにしても、この件は、マスコミから完全に黙殺されている。このブログは見に来ているくせに(笑)。この件が大っぴらになったら、新潮社はさておき、佐藤優氏と岩波書店(さまざまな点で、新聞各紙と強いつながりがある)に大きな打撃になりかねない、と考えているのだろう。

私は一部のマスコミ陰謀論に与する気はないが、今回の完全黙殺という姿勢ほど、マスコミ(特に新聞)の馴れ合い、隠蔽等々の「談合」体質を鮮やかに示している例も珍しいのではないか。以前にも指摘したが、ここにこそ、<佐藤優現象>の本質の一端があると思う。

# by kollwitz2000 | 2009-07-16 00:00 | 訴訟
日本は右傾化しているのか、しているとすれば誰が進めているのか 11
(※この連載は、全12回の予定です)

11 右傾化を進めるのは「サヨク」と極右の抗争プロセスである


長くなったが、やっと結論部分である。

日本の右傾化は、連載の「5」でも述べたように、「戦後社会」を擁護する「ウヨク」または「サヨク」が中心的な支持層である。特に、メディア上で流される言説はこれに沿うものである。そして、日本国家もまた、この立場である。だが、そもそも保守派の「ウヨク」は、極右をも含む右派勢力の一部であり、日本国家の二つの性格からも明らかなように、この「ウヨク」的な立場は、復古的な極右とも親和的である。

まとめよう。日本国家は、過去清算抜きの大日本帝国の継承者である。その土台の上で、「ウヨク」または「サヨク」は、「平和国家」日本という仮面を、仮面と意識せずに、掲げているわけである。そしてのこの、「戦後レジーム」、「平和国家」日本を擁護する人々は、極右勢力と距離を置くか対抗しようとする。ところがその極右勢力は、まさに日本国家の土台の価値観と親和的である。ところが日本国家の建前は「平和国家」日本である。

このメビウスの輪のような循環における、「ウヨク」または「サヨク」と極右勢力の抗争のプロセスを通じて、従来はこの土台自体に批判的だった市民派や左派勢力、従来は政治的な問題に無関心だった大衆の一定層が、組み込まれていくことになる。

「ウヨク」または「サヨク」は、極右勢力との対抗という構図により、市民派や左派勢力を組み込むことができ、極右勢力は、マスコミが「サヨク」に占領されていることを強調して、マスコミへの侮蔑と敵意を持っている若年層を取り込むことができる。

また、「ウヨク」または「サヨク」対極右勢力、という構図とはズレるが、「戦後社会」の擁護あるいは(それとは逆の)「戦後の既得権の打破」といった主張は、「ウヨク」または「サヨク」と極右勢力の対抗構図を横断しながら、大衆を政治的領域に巻き込んでいくことになる。

ここで重要なのは、連載の「6」の冒頭でも書いたように、自分たちが右傾化の推進者であるなどとは、恐らく誰も露ほども考えていない、ということである。確かに「ウヨク」または「サヨク」は、日本の右傾化を支持している中心的な層ではある。だが、正確に言えば、彼らが主体的に右傾化を進めているということではない。そうではなくて、この抗争プロセスを通して、従来の批判勢力が却って促進力になり、大衆的な基盤が広がる形で、右傾化は進行するのである。

だから、この連載の、「日本は右傾化しているのか、しているとすれば誰が進めているのか」という問いに対する答えとしては、「右傾化はしているし、今後ますます進むだろうが、特定の主体が進めているわけではない」ということになるだろう。右傾化が進んでいるのは、特定の主体の意図ではなく、むしろ抗争プロセスを通して、である。抗争が活発化しているがゆえに、従来は外にいた多くの人間を、上記のメビウスの輪のような構造に巻き込むことができ、それぞれからこの構造へのより強い帰属意識・参加意識を調達することができる

そして、周辺諸国からの「日本は右傾化している」という指摘に対しては、「ウヨク」も「サヨク」も極右勢力も、一致団結して、そうした認識は「反日感情」の然らしめるもの、とし、反発を強めることになるだろう。日本社会の建前は「ウヨク」または「サヨク」的であり、「ウヨク」または「サヨク」的な人々が社会の実権を握っているという点については、賛否は別にして、すべての主体は認識が一致しているからである。したがって、日本国内の支配的な認識と、周辺諸国の警戒のズレは、ますます大きくなっていくだろう。

私は連載の「2」で、「日本においては、本音では「大東亜戦争」肯定史観を持ち、戦前の軍国主義勢力とも関わりの深いような右派勢力が非常に強大であり、安部政権崩壊後も、福田政権下でも、麻生政権下でも、こうした勢力が基本的に政治・社会を牛耳っている」という認識(連載の「1」の④)が、右派勢力の中の復古的な人々の力についての過大評価であり過小評価でもある、と述べたが、それは、このような理由である。過大評価である理由は既に述べたが、「サヨク」は「平和国家」たる戦後日本国家を擁護することを通じて、客観的には過去清算抜きの大日本帝国の継承者をも擁護することになり、復古的な人々とも地続きになってしまうのだから、「敵」をあまりにも限定しており、過小評価であった、ともいえる。

静態的に言えば、「戦後社会」の擁護というイデオロギーが中軸に置かれることで、右派勢力が従来の左派の大部分を包含し、社会的基盤を拡大したと言える。したがって、今後、日本の右傾化はよりスムーズに進む、と思われる。


(つづく)

# by kollwitz2000 | 2009-07-15 00:00 | 日本社会
「反日上等」論議について(1)
1.

このところ、ネット上で、在特会への抗議デモにおける一部参加者の、「反日上等」というプラカードが論議を呼んでいる。こうした行動は、生命すら脅かされている外国人やその支持者にとっては、迷惑極まりないものだ、というのだ。

ネット(特に「はてな」)界隈の議論にはあまり関わらないことにしているのだが、この議論は大規模かつさすがに酷いと思っていたので、近々まとまったものを書こうと思っていた。だが、この件について論じようとすると、ものすごく基本的なところから説明しなければならないので、面倒でかまけてしまっていた。

ところが、そのあたりも説明してくれている、大変よい文章が現れたので、私が長々と書く必要もなくなったようである。深海魚さんというブロガーの方のものだ。
http://sillyfish.blog2.fc2.com/blog-entry-723.html

基本的なことは、上の文章でほぼ言い尽くされているのだが、いくつか付け加えておくと(以下、この件に関するウェブ上の議論の大要を読んでいない読者には、何を言っているかわからないと思うので、そうした読者はここを飛ばして下の「2」に進んでいただきたい)、


●「「反日」という言葉を軽々しく使えること自体が日本人の特権なのだから、使うのはやめるべき」といった主張が目についたが、これは、お話にならない本末転倒な主張である。

日本から明日にでも追い出されそうな外国人は勿論のこと、在日朝鮮人や在日中国人も、「反日上等」とは言いにくい。だから、日本人こそが、自らの「特権」を行使して、「反日上等」(という意味内容の発言)を言ってくれるようでないと困る。現在の日本国家の外国人管理体制、日本社会の差別が外国人にとっては大きな問題なのだから。日本人の「特権」をめぐる議論が、まるで大昔の新左翼のような、「内面」の問題になっている。


●「「反日」を外国人自身が言うのはいいが、それを擁護する日本人が「反日」と言うのは、矢面に立っている外国人に対して迷惑だろう」という主張もあったが、これも珍妙な主張である。仮に、こうした切断が行われたら、「反日」と表象される言動を行なっている外国人は孤立し、ますます「矢面」に立たされることになるのだから。


●議論の中心人物たるいしけりあそび氏の主張に関する私の認識は、上の深海魚さんのそれと近いが、いしけりあそび氏が、在特会反対運動に対して、自らの主張を押し付けられると考えていることは奇妙である。在特会が主要な標的にしている在日朝鮮人は、いしけりあそび氏が挙げているような、明日にでも強制送還されかねない外国人(こうした人々の主張をいしけりあそび氏が代弁しているかのようになっていること自体も奇妙なのだが)ではない。


●入管行政の外国人排除の要件は、その外国人の行為の不法性であるから(法治国家として当然だが)、外国人が「反日」的に見られるようになることへの一連のヒステリックな反対は、入管行政よりひどい。「反日」とは思想・信条の問題なのだから、特定の思想・信条を持っている外国人は排除してもよい、という認識にこそ対抗すべきだろう。「反日」への否定は、明日にでも退去強制されかねないケースなど、特殊な例に限定されるべきであって、こんな論理が「外国人」一般に拡大されれ
ば大きな迷惑だ。


●「在特会反対デモで「反日上等」という旗を掲げると、外国人に迷惑がかかる」ということであれば、「反日上等」と言う外国人は、「反日上等」と言う日本人よりも一層迷惑な存在だろう。例えば、日本の歴史認識の是正や戦後補償の実現を訴える在日朝鮮人は、日本の一般世論からすれば、「反日」なのだから、「反日」をやめろという主張は、こうした在日朝鮮人への、声を控えろ、という社会的圧力を強めることになるだろう。


●今回極めて醜悪だったのは、sharouという在日朝鮮人の振る舞いである。この人物は、「反日」を否定するという行為に躊躇する、ある日本人の姿勢への攻撃に加担していた。在日朝鮮人が、こうした攻撃にお墨付きを与えていたわけだ。この人物は、日本のリベラル・左派の転向を助長させ、お墨付きを与えている、姜尚中と同じ役割を果たしている。しかも、姜のような確信犯ですらなく、善意のつもりなのだろうからどうしようもない。類型としては辛淑玉に近い。


●外国人をダシにして「反日」を語ろうとするな、という主張が見られたが、むしろ、広範に観察されたのは、外国人をダシにして、「反日上等」という姿勢を崩そうとしない日本人左派(在日朝鮮人もか)を攻撃しようとする、リベラル・左派のブロガーたちの欲望である。


●今回、つくづく「はてな」界隈の連中に怒りを覚えたのは、上で触れた、デモへの「反日上等」のプラカード持込みを擁護していた日本人が、集団の批判の圧力で、自己批判に追い込まれたことである。これを知ったのは後日だったのだが、経緯を見て、まるで文化大革命だ、と呆れてしまった。深海魚さんの記事への「はてなブックマーク」コメントを見たら、一部の人間が早速弁明と論点ずらしを行なっていたのには笑ったが。hisamatomokiとかいう大学生は、文革期の紅衛兵はどういうものだったのかを身をもって示してくれた。

今回の件は、「はてな」界隈で定期的に起こる集団ヒステリーの一例に過ぎないとも言えるが、「はてな」のブロガーでこういう集団ヒステリーを不快に思っている人は、そろそろ「はてな」をやめた方がいいのではないか。「はてな」のサービスは、「論壇」的なものを極めて容易に形成する。雑誌ジャーナリズムの「論壇」が(ほぼ)死んだことは慶賀すべきことだと思うが、そのかわりに浮上したのが、「論壇」の病理性をより強化した「ブログ論壇」であったならば、救いようがないだろう。雑誌ジャーナリズムの「論壇」に対置されるべきなのは、新しい「論壇」ではなく、「論壇」的なものが解体された言論空間である。

もちろん、「論壇」的なものは必ず発生する、という見解もあるだろうし、それは当たっているかもしれないが、少なくとも、その形成に対して抑制的であるよう努めるべきだと私は思う。その意味で、「論壇」形成装置とでも言うべき「はてな」は、控えるべきだろう。私が使っているexcite やfc2 を勧めているわけでは全然ないが(偶然選択して、そのまま今日まで来ただけだから)、そもそも、「はてな」が、「死ねばいいのに」といったタグを容認している時点で終わっているだろう。まともに「平和」や「人権」について考えようとしている人々で「はてな」を使っている人々は、別のブログサービスに切り替えることを検討すべきだと思う。


2.

今回の議論はいろいろ派生的な論点を生んでいるようだし、私も関連文章を全部読んでいるわけではないが、本質的な論点は、「外国人の人権を擁護する運動は、「反日」的と見られないようにすべきだ」という主張に対する是非である。「日本人左翼が、在特会反対デモに「反日」の主張を持ち込んでよいか」といった議論もここに含まれる。

この論点自体は重要であり、私もいつか論じようと思っていた件なので、この主張の孕む問題性について検討する。

まず確認しておくべきは、この主張は、入管行政の論理からそう外れたものではない、ということである。この主張は、坂中英徳(外国人政策研究所長。元・東京入国管理局長)の主張とも非常に親和的である。

坂中は、後述する浅川晃広との共著『移民国家ニッポン――1000万人の移民が日本を救う』(日本加除出版、2007年10月)などで、「今後50年間で1000万人の移民を受け入れる外国人政策」、「「人材育成型」の移民政策」等を提言している。坂中は、保守層の反発を買った、自民党「外国人材交流推進議員連盟」(会長:中川秀直)の、「日本の総人口の10%(約1000万人)を移民が占める『多民族共生国家』を今後50年間で目指す」という提言の作成に「中心的な役割を果たした」とのことである。
http://jipi.gr.jp/admin/kenkyu/topics.cgi

その坂中は、以下のように述べている。

日本社会に貢献する在日中国人像を国民の間に定着させることも必要なのだ。不法滞在や犯罪を犯す中国人を徹底的に取り締まる一方、国民の間に広がっている「中国人=犯罪者」といった固定観念を克服することが、これからの課題である。」(『移民国家ニッポン』13頁。強調は引用者、以下同じ)

「今日、日本国民の在日中国人を見る目は非常に厳しいものがある。外国人犯罪と在日中国人が結び付けられ、在日中国人に対して抱く日本人のイメージは決して良くない。犯罪とは無縁の在日中国人までもが日本社会から警戒感を持たれている。日本人から不信の目で見られている在日中国人の心情はいかばかりだろうか。

 在日中国人問題の解決のため、我々は何をなすべきか。まず、国民の問に存在する中国人に対するマイナスイメージを取り除く必要がある。そのためには、不法就労や犯罪を目論む「好ましからざる中国人」の入国を阻止し、日本人の中国人への悪感情を引き起こす原因を断たなければならない。

 それは入管の仕事である。入管が警察の協力を得て、引き続き中国人に対する徹底した出入国及び在留の管理を行うべきだ。それとともに、在日中国人社会が不法中国人問題を自分たち自身の問題と受け止め、自浄能力を発揮してほしい。」(同書、36頁)


坂中においては、先進国の経済活動によって第三世界が搾取され、その住民が先進国に行かざるを得ないという構図への反省はもちろんないし、現在の日本国家の閉鎖的な出入国管理体制・外国人管理体制が、外国人を「不法就労や犯罪」に追い込んでいる、ということへの反省もない(「認識」はあるだろうが)。また、日本社会の「外国人犯罪」への、差別意識に基づいた過剰な警戒感(例えば、ここ参照)を問題にする姿勢ももちろんない。坂中においては、あくまでも問題は、<不逞>な外国人側にあるのだ。

注意しておくべきなのは、多くの<素行善良>な外国人が日本社会に溶け込む方策としては、坂中の主張は間違っていないかもしれない、ということである(実際には、坂中が楽観的に想定するほど日本社会は善良ではないから、「外国人犯罪」というイメージだけがより固定化され、外国人は日本社会に貢献する、といったイメージが定着することはないだろうが)。だから、<素行善良>な外国人の生活の安定を最優先に置くべき、と考える立場からすれば、坂中の主張は受け入れられやすいかもしれない。だが、もちろんこれは、日本国家・日本社会の排外性を問うことを否定する役割を果たす論理であり、日本国民から、そうした排外性に反対する政治的責任を解除する論理である。ごく当たり前の「正義」や「公正」の観点からすれば、こんな論理に乗っかることはおかしいと言わざるを得ないだろう。

そして、「外国人の人権を擁護する運動は、「反日」的と見られないようにすべきだ」という主張は、この坂中の主張の枠組みを一歩も出るものではない(注1)。むしろ、それに沿っているとすら言える。外国人に対する「日本人のイメージ」の排外性が問われることなく、外国人の自助努力こそがここでは問題になっている。そうすると、日本社会から「反日」だと表象される外国人の人権が抑圧された場合、こうした主張を基にした運動は、守りようがないのである。むしろ、運動にとっては、そうした外国人の存在は迷惑ですらあるだろう。そして、日本社会から「反日」だと表彰される外国人の人権は、外国人に対する「日本人のイメージ」の排外性を問う、「反日上等」の精神で臨まない限り、守られないだろう。

なお、坂中の論理を、日本の<外国人問題>に関わる研究者や活動家の少なくとも一部が支持するであろうことは、リンク先の五十嵐泰正の発言が示唆している(注2)
http://yas-igarashi.cocolog-nifty.com/hibi/cat720530/index.html

また、「外国人の人権を擁護する運動は、「反日」的と見られないようにすべきだ」という主張については、『移民国家ニッポン』のもう一人の著者である、浅川晃広の一連の言動が、多くの示唆を与えてくれていると思う。

浅川は、「在日韓国人三世として生まれ、その後帰化により日本国籍を取得した者」(『在日論の嘘』3頁)であり、外国人政策研究所事務局長である。前掲『移民国家ニッポン』では、坂中とともに、「今後50年間で1000万人の移民を受け入れる外国人政策」を提言している。

ところが、浅川は他方で、著書『「在日」論の嘘』(PHP研究所、2006年5月)等で、姜尚中や朴一ら「在日イデオローグ」やその他の在日朝鮮人(やその同調者の日本人)の日本国家・社会批判の言説について、実質的な社会問題としての「在日問題」など現在では存在していないにもかかわらず、既得権益と道徳的な特権的地位を温存するための動機から発せられたものだと批判している。また、『嫌韓流の真実! ザ・在日特権』(別冊宝島、2006年5月)などという本にも「「在日」問題の永続化は、日本にとってなぜ有害なのか?」なる文章を寄稿しており、同趣旨の「在日」批判を展開している。

浅川の行動は矛盾しているのだろうか?私は、極めて一貫していると思う。浅川自身に語ってもらおう。


「元東京入国管理局長(現・外国人政策研究所所長)の坂中英徳は、入管職員としての退職直前に刊行した著書『入管戦記』(講談社、2005年)において、外国人問題に関する日本の未来について、「日本人と外国人との間で諍いが絶えず、互いに誹膀中傷を繰り返し、互いに被害者意識を増幅させながら、双方がマイナスイメージの再生産を続けてゆく未来」と、「日本人と外国人が互いの長所を認め、自らの短所を克服し合いながら人間性を高め合う、プラス思考の魅力あふれる社会を築く未来」との問の選択であると指摘している(『人管戦記』、29頁)。

 そのうえで、「『共生社会』に向かうための前提条件として、日本人が外国人に対して過剰なアレルギーを持たない社会を築くために、悪感情を引き起こす原因を徹底的に断つ必要があると考え」(同上、30~31頁)、入国管理局幹部として外国人犯罪の取り締まりに尽力してきた。

 筆者も、坂中と全く同様に、「プラス思考の魅力あふれる社会を築く未来」の実現を心から希求する者であるところ、自らの非論理性を棚上げして、日本を「哀れな国」と、「誹謗中傷を繰り返し」て憚らない原告人(注・鄭香均)、そしてその同調者である評者、または姜尚中などの「在日イデオローグ」のような「悪感情を引き起こす原因」を「徹底的に断つ必要があると考え」本章を執筆した。

 坂中は、「外国人犯罪に対しては一歩も譲歩せず徹底して取り締ま」る決意を表明し、それを実践してきた。

 筆者も、原告人のような、一部の偏狭な在日による「マイナスイメージの再生産」にしか貢献しない行動に対して、「一歩も譲歩せず徹底して」批判していく決意である。」(『「在日」論の嘘』161~162頁)


浅川は、日本社会において、「在日」=「反日」という「マイナスイメージの再生産」にしか貢献しない、在日朝鮮人の言説を潰し、日本社会に貢献する「在日」(浅川は同書で、孫正義や、新井将敬の名を挙げている)というプラスイメージを生産させることを志向している、と思われる。だから、「在日」=「反日」という「マイナスイメージ」を潰すためには、「反日」の在日朝鮮人を攻撃する<嫌韓流>と手を組むことも厭わないのである。

浅川はまさに、坂中が上の引用箇所で在日中国人に対して望んでいたような、「自浄能力」を(元)在日朝鮮人(または朝鮮系日本人)として、在日朝鮮人に対して発揮しているのである。

なお、<嫌韓流>も、基本的には、「反日」の在日朝鮮人は徹底的に攻撃するが、『マンガ嫌韓流3』の主人公の在日韓国人4世・松本光一のような、親日で「自浄能力」を発揮しようとしている「在日」は「友好」の対象である。在特会も、建前としてはこのラインである。

したがって、「外国人の人権を擁護する運動は、「反日」的と見られないようにすべきだ」という主張は、坂中や浅川だけでなく、在特会とも、基本的な論理を共有することになってしまう。私からすれば、こうした主張をする人々は、味方なのか敵なのかさっぱりわからない。


(注1)坂中自身、以下のように書いている。

「在日コリアンには、二つの未来像が考えられる。ひとつは、早くに民族名で日本国籍を取得し、コリア系日本人として確固たる地位を築いている人たちだ。その場合の在日コリアンは、日本人と固い信頼関係で結ばれ、多民族の国民統合のモデルであると評価されているだろう。もうひとつは、韓国籍、朝鮮籍の外国人として生きる人たちだ。彼らは少子化に帰化の増加が重なって、自然消滅への道を高速度で進んでいく。その場合の在日コリアンは、日本人から反日的でうとましい存在であったという極印を押されたまま社会から退場するだろう。」(『移民国家ニッポン』43頁)


(注2)ちなみに五十嵐は、日朝関係に関して、以下のように述べている。

「確かに、金正日体制をこのまま残して、アメリカの強い後ろ盾なしに交渉路線・対話路線に入ったとしたら、いろいろと無茶な経済的要求もされるのかもしれない。戦後保障(注・ママ)とか何とかね。/でもね、戦後保障を払うのが適切かどうかの歴史学的な議論はおいとくとして、安全保障を金で買えるんなら、それはそれでいいじゃない、と気もする。」
http://homepage2.nifty.com/yas-igarashi/2003-3.htm#安保

和田春樹や日本の外務省は、日朝関係における戦後補償問題の重要さを認識しているからこそ、それを回避するために周到な措置と形式を踏んでいるのである。五十嵐に見られるのは、和田や外務省とも異質な、驚くべき天真爛漫さ(?)である。こうした天真爛漫さと、「日本社会が早く多文化社会になるといいなあ」という善意は、多分親和的なのだと思う。


(つづく)

# by kollwitz2000 | 2009-07-12 00:00 | 日本社会
日本は右傾化しているのか、しているとすれば誰が進めているのか 10
(※この連載は、全12回の予定です)

10 「日本人の誇り」論の変質


連載の「8」で、私は、「日本の周辺アジア諸国の民衆からすれば、戦後日本国家の顔は、右翼が「平和国家」という小さいお面をかぶっているように見えるだろう」と述べたが、私自身の認識としては、「いつか日本は、仮面をはがして、本当の姿を晒すはずだ」と考えているわけではない。そもそもはがす必要自体がないのである。仮面と肉体が癒着して、そもそもそれが仮面であるか肉体であるかわからなくなっている、というのが現状だと思う。例えば、和田の以下の発言は、仮面なのか、肉体なのか。

「(注・日韓の)和解のためには、それぞれのナショナリズムを尊重し、二国間の連帯をつうじて、国際主義的なものを求めていくことが必要だ。相手が自らに誇りを持ちたいと願っているということを相互に尊重しなければならない。そのことは日本人が韓国に反省と謝罪を表明する場合でも必要である。」(和田、前掲論文、146頁。強調は引用者、以下同じ)

和田の論理からすれば、当然、「慰安婦」問題や植民地支配に対しても、日本人が「自らに誇りを持ちたいと願っているということ」が尊重された上で、その「誇り」を傷つけない範囲で、「反省と謝罪」が行われるべきだ、ということになろう。これは、戦後補償問題と日本人の「誇り」についての従来の言説からすれば、極めて奇妙な主張なのである

日本人の「誇り」との関係から戦後補償について語られる際には、日本人が「誇り」を回復するために、戦後補償を日本政府に果たさせなければならない、といったものが一般的だったはずである(こうした立場は、現在では、リベラルからも「反日」として切り捨てられる)。「<佐藤優現象>批判」で引用した安江良介のように、他国の「利益のためではなく、日本の私たちが、進んで過ちを正しみずからに正義を回復する、即ち日本の利益のために」歴史の清算を行おうとする姿勢である。

「日本人としての誇り」、「正義」を回復するために、日本人として、過去清算を行うという立場である。多分、日本で、戦後補償運動に関わったり関心を持っていたりする市民の多くは、こうした認識を持っていた(いる)と思う。

前回も触れたが、和田が転向したかどうかを評価するのは難しい問題なのだが、下記の発言を見れば、少なくとも言説レベルでは一定の立場の移行があることは否定できないだろう。和田は、1989年時点では、安江らとの共著において、以下のように述べているのである。

「植民地を領有してきた国家は、その支配を終えるべく強いられた時には、当然ながら清算の手続きをおこなわなければなりません。植民地支配を植民地支配とみとめ、それによってもたらした苦痛にたいして謝罪し、必要な補償をおこない、反省を未来に生かすことを表明することが必要です。それをなさずにきた、あるいはそれをなしとげずにきた日本人は、道義的に恥ずべきものというべきです。

したがって日本が植民地支配の清算をおこなうのは、なによりも日本人の道義の問題なのです。そして日本が植民地支配の清算をおこなうのは、あくまでも全朝鮮民族にたいして、全朝鮮民族との和解をめざしておこなうのでなければなりません。それがなされれば、韓国の人びととの若いを求めることができるし、北朝鮮政府との公式的な交渉を申し出ることができるはずです。在日朝鮮人・韓国人と日本人の関係を抜本的に変える出発点もできるでしょう。」(和田春樹「植民地支配の清算を」朝鮮政策の改善を求める会『提言・日本の朝鮮政策』岩波ブックレット、1989年3月、19頁)

ここで和田が言う「道義」とは、上で引用した安江が言う、回復すべき「正義」とほぼ同じ意味であろう(注1)。一部のリベラル・左派は、こうした認識を「日本人の立ち上げ」などと批判するが、それは馬鹿げているのであって、周辺アジア諸国の対日批判と連帯できるのは、こうした認識以外にはない。

ところが、現在の和田の主張は、こうした認識とは真っ向から対立している。こうした認識が、おおむね、戦後の日本政府が大日本帝国と何ら断絶しておらず、植民地支配の法的責任、戦後補償を一貫して否定していることを前提としているのに対して、現在の和田の主張は、戦後の日本政府はそうした問題は基本的に解決済みであり、そこから漏れる被害者に対しては、国家責任が前提となる個人補償ではなく、償い金でよい、というものなのだから。

現在の和田においては、日本人としての「誇り」は、回復されるべきものではなく、所与として存在しており、「反省」や「謝罪」はそれを傷つけない範囲でしか行えない、と言っているわけである。そして、その範囲の決定権は当然、日本人が持つことになる。こんな身勝手な主張は、右派勢力と本質的にどう違うというのか。

右派勢力を包含した、あるいは毒抜きしたつもりでいて、左派は逆に、右派勢力に包含されたのだと私は思う。左派のかなりの部分は、「サヨク」または「ウヨク」と化すことで、右派勢力=日本国家に回収されたのである。だからこそ私は連載の「1」で、日本の「進歩派勢力」が右派勢力に取り込まれたという認識(連載「1」の③)は、それほど間違っていないと言ったのである。


(注1)「国民基金」における「道義的責任」とは、日本政府が「法的責任」を負わないことが前提であるから、和田においては、同じ「道義」という言葉が、少なくとも「国民基金」以降は、180度逆の性格のものに変質しているのである。


(つづく)

# by kollwitz2000 | 2009-07-11 00:00 | 日本社会
日本は右傾化しているのか、しているとすれば誰が進めているのか 9
9 戦後補償運動の日本国家への回収――「国民基金」を例として


戦後日本国家の二つの顔を上下の関係性として捉え、その構図自体を批判するあり方に対して、和田らは、「反日」だけではなく、「分裂」主義という名の下でも、切り捨てることを行なう。

和田らは、日本の「右翼」の力の大きさを強調して、自分たちへの左からの批判を「分裂」主義として非難するのである。これは、「<佐藤優現象>批判」でも指摘した、「人民戦線」の意義を強調して佐藤を重用することを正当化することにも似ている。

以下の和田の発言を見てみよう。

「日本で植民地支配への反省と謝罪の公式声明を求めて運動してきた人々のなかに、この基金構想(注・アジア女性基金構想)をめぐっても分裂が生じた。私は政府から求められて基金の呼びかけ人となった。私がその求めに応じた最大の動機は、国会決議(注・戦後五十周年国会決議)をめぐる右翼の結集の強さに心底脅威を感じたからである。(中略)

重要なことは、この人々(注・国民基金に批判的な人々)は右翼の結束、猛烈な巻き返しということを予想していなかったことである。結局、われわれとこの人々との分裂の結果は、右翼の攻撃を許すことになったと言わざるをえない。」(和田春樹「アジア女性基金問題と知識人の責任」小森陽一・崔元植・朴裕河・金哲編著『東アジア歴史認識論争のメタヒストリー』2008年11月、青弓社、141・143頁。強調は引用者、以下同じ)

「日本のなかの謝罪派の分裂、日韓の対立が日本の右翼の台頭を許した。」(同論文、146頁)

では「右翼」であることを誇っている佐藤優と付き合う和田は何なのか、と突っ込みたくなるが、それはさておき、和田からすれば、中韓による国民基金批判に同調する日本の左派は、利敵行為を働いていた(いる)ことになるわけである。

だが、ここで、アメリカの下院をはじめとする、各国の「慰安婦」決議について考えてみよう。これらの決議に対する日本政府のスタンスは、基本的に、「国民基金」による償い金で解決済みなのだから、決議は受け入れない、というものである。「<佐藤優現象>批判」で指摘したように、佐藤は、この立場を支持するだけではなく、アメリカの議会関係者に国民基金についてロビー活動をしなかったとして外務官僚を非難している(実際には、外務省は執拗にロビー活動をしていた)。

和田が各国の「慰安婦」決議に対して、どのような認識を持っているのかは管見の範囲では分からないが、論理的には、上の日本政府(または佐藤)の認識と同一か、極めて近いものになるはずである。

仮に和田が言うように、「慰安婦」問題に関する日本の市民運動や左派の主張が、中韓の「反日」に対して距離を置き、「分裂」を回避するために、「国民基金」でほぼ統一されていたならば、各国の決議を真摯に受け止め、被害者に対して日本政府の謝罪と補償を要求する運動や主張は、現在の日本では(ただでさえ少ないのに)ほぼ存在しなくなっていただろう。それこそ、「国民」規模で、決議に反発していたに違いない。

「国民基金」についてはいずれまた検討するが、自民党がこれを「成功」と位置づけ、党幹事長(2004年当時)が「非常に評価されるべき」、「これからのいろいろな問題を解決していく上で、非常に説得力のある一つの方式」とまで高く「評価」していることも、示唆的であろう。
http://www.awf.or.jp/pdf/k0005.pdf
http://www.jca.apc.org/ianfu_ketsugi/enruete_fukuoka.pdf

このように、客観的に見れば、和田や「国民基金」の役回りは、「右翼の台頭」の危機を強調することを通じて、日本の過去清算への姿勢を批判していた人々を、中韓や諸外国からの対日批判と切り離し、日本政府の主張のラインに回収することにある。

周辺アジア諸国からの対日批判は、まさに和田らのような人々の貢献によって、「反日」として表象され、無効化されることになる。日本の「普通の国」化、右傾化への抑制力であった(はずの)ものが、その促進力に変わっているのである。

言い換えれば、日本の「普通の国」化、右傾化を抑制するはずであった、戦後日本国家の「過去清算抜きの大日本帝国の継承者たる顔」への批判が、逆に、戦後日本国家が「平和国家」であることを示す一つの証として位置づけられるようになった、ということである。

すなわち、これによって、戦後補償運動や諸言説を、日本国家は、自らへの本質的な批判者ではなく、批判的な擁護者として、回収することができるようになったのである。これは、「国民基金」だけではなく、このところの、「中国や韓国の「反日」とは距離を置くことを強調しないと、自分たちの主張は日本社会では受け入れられない」という、一部の戦後補償運動や言説に見られる傾向にも妥当する。

和田らによる「国民基金」の推進や、その後の振る舞いについて、和田らが転向した、という批判をよく見かける。こうした批判は必要であるが、ただ、そうした人々への倫理的な無責任さを批判するだけでは、あまり有効な批判にはならないと思う。むしろ私は、和田らにとって、そもそも「転向」自体が必要ではなかったのかもしれない、と考えている。和田らは、朝鮮への植民地支配への戦後日本国家の居直りを批判してきた、1980年代から、本質的には変わっていないのかもしれない。「国民基金」をめぐる対立というのは、本質的には、戦後日本国家の二つの顔の位置づけ方に関する相違である、と私は思う。

私は、何らかの右翼勢力の「黒幕」を想定して、それが、「平和国家」という表象や担い手を利用している、と言っているのではない。そうした流れも一定程度あるとは思うが、そうした陰謀論的な説明枠組みは必要ではないし、説明としても不十分である。そうではなくて、戦後日本国家を「平和国家」として位置づける「サヨク」の人々が、主観的には右翼勢力と対抗しているという構図とプロセスにおいて、事態はそのまま「右傾化」と表さざるを得ない形になっているのである。誰かが「右傾化」を画策している、ということは重要な問題ではない。

和田らが転向した、魂を売ったということだけで説明できるのであれば、話は簡単なのである。だが、事態が深刻なのは、和田らが少なくとも部分的には真摯に、主観的には右傾化に対して抵抗しようと努めるからこそ、より右傾化が進むという構図であるからのように思われる。


(つづく)

# by kollwitz2000 | 2009-07-10 00:00 | 日本社会
日本は右傾化しているのか、しているとすれば誰が進めているのか 8
8 戦後日本国家の二つの性格


前回の末尾で、和田・佐藤・荒木のうち、「勝者は誰なのか」という問いを立てた。

少なくとも一つだけ言えるのは、佐藤が負けていないということである。逆に言うと、外務省=日本政府の意志は貫徹されているのである(念のために言っておくが、私は佐藤が日本政府の意を受けているなどと言っているのではない。外務省の見解を保持している人物の行動が、このように機能している、と言っているのである)。

和田は、荒木のような極右を包含したつもりになっていると思われる。和田からすれば、外務省は、「平和国家」日本だ。だから、和田と外務省の「平和国家」連合軍は、極右を封じ込め、毒抜きしたことになるわけである。だが、外務省=「平和国家」日本は、同時に、大日本帝国と何ら断絶しておらず、植民地支配の法的責任、戦後補償を一貫して否定している国家である。したがって、客観的に見れば、和田こそが、荒木と外務省の右派勢力連合によって包含された、とも言えるわけである。もちろんこうした事態は、和田だけではなく、民主党の応援団の山口二郎をはじめ、その他の左派知識人にも当てはまる。

植民地支配に関する日本国家の公式見解は、反省する必要があるが、反省する必要はない、というものである。文言上は「お詫び」するが、法的責任は負わない、補償は行わない、という立場なのだから。右派勢力の中の復古的な人々と同様の見解もまた、日本国家の公式の一つの顔なのである。

日本国家は、「平和国家」という顔と、過去清算抜きの大日本帝国の継承者たる顔という、二つの性格を持っている。この二つは矛盾せず、共存している(注1)。この二つの性格があるからこそ、「平和国家」という表象を伴った右傾化が進行するのである。

この辺はややこしいのだが、本論の中では核心的な点である。「平和国家」という顔と、「過去清算抜きの大日本帝国の継承者」という顔は対立するものではないというのは、もっと言えば、前者は、日本国家が後者のような性格を持つからこそ生じている表象だ、ということである。戦後の日本国家が、後者のような性格を払拭し得ていたならば、前者のような欺瞞的な「平和国家」という表象は現れなかったはずである。

比喩的に言えば、和田らは、戦後日本国家の顔について、右側を右翼で、左側を「憲法9条」で覆わせて、全体を指して「平和国家」の顔だ、と言っているわけであるが、これに対して、「平和国家」とまでは言わなくても、顔の右側を右翼で、左側を「平和国家」的性格(自衛隊は海外で人を殺していない、というような主張。山口二郎や和田や『金曜日』や「マガジン9条」までは行かない、護憲派のかなりの部分はこちらである)で覆わせる、というのも図式としては同じだ。もちろん、後者の方がまだマシではあるが、図式としては同じだから、これでは戦後日本を「平和国家」だと描く表象には対抗できないだろう。

こうした理解と異なり、日本の周辺アジア諸国の民衆からすれば、戦後日本国家の顔は、右翼が「平和国家」という小さいお面をかぶっているように見えるだろう(注2)戦後日本国家の二つの性格は、左右の関係ではなく、上下の関係である。「平和国家」という仮面で覆い尽くせない箇所が、復古的な右翼勢力として表象されている、ということである。

この件は、「国民基金」について考えれば、より分かりやすいかもしれない。「国民基金」については後述するが、韓国の民衆や挺対協が「国民基金」を拒絶した(している)のは、戦後日本国家の二つの性格を、上下の関係から捉えており、「国民基金」は単なる仮面に過ぎないと認識していたからである。それに対して、和田ら「国民基金」の推進者は、「国民基金」を、右の右翼と左の良心的な市民(和田ら)から成り立つ、戦後日本国家の「良心」を示す顔として表象していた(している)のである。

中国や韓国の民衆からの日本批判が、日本のリベラル・左派においても「反日」として表象されるようになっているのも、本質的にはこのズレに基因していると思う。首相の靖国参拝や、右翼的な歴史教科書の文科省による認可等は、中韓からすれば、戦後日本国家の、右翼的な顔という本質が顕現したものとして映っているだろう。もちろんこの含意は、日本国民に対して、右翼が仮面をつけているような構図そのものに対して批判的であること、構図そのものを変えることを呼びかける、ということである。

ところが、和田らからすれば、首相の靖国参拝や、右翼的な歴史教科書の文科省による認可といった事態は、戦後日本国家の左右の顔のあくまでも片方しか意味するものではなく、たとえ劣勢であったとしても、もう片方には(自分たちのような)「進歩的」もしくは「良心的」な勢力がいるわけなのだから、中韓による批判は一面的であって、日本国家を正しく認識していない、ということになるだろう。

したがって、和田らからすれば、戦後日本国家の二つの性格を上下の関係性として捉え、その構図自体を批判するあり方は、「日本」を丸ごと否定する「反日」として表象されることになる。そして、「反日」なのは、彼ら・彼女らの過剰な「ナショナリズム」、「民族主義」のせいだ、ということになる。もっと言えば、和田らのような「進歩的」ということになっているリベラル・左派が、中韓の主張を「反日」であると批判することによって、世論一般は、中韓の主張をまともに受けとめなくてよい(せいぜい「国益」論的に考慮するというレベルで)、と切り捨てることができるようになる。


(注1)戦後日本国家の二つの性格は、和田においては、以下のような認識において矛盾なく共存しているようである。

「空襲と艦砲射撃のなかで、日本国民は車人たちが国外で進めた戦争の結果がいかに恐るべきものであるかを知った。日本車は無敵であると誇っていたが、銃後の国民の家庭さえ守ることができなかった。日本全土が焼け野原となった。東京でも一夜で八万四千人が死亡した。広島における原子爆弾の投下によっては即死した者を含め五ヵ月以内に約十五万人が死亡した。ここから国民の軍隊不信が生まれた。国民がいかに無知であったにせよ、この軍隊不信の感情は実質的であり、強烈であった。

 このおそるべき状態は八月十五日の天皇の玉音放送によって断ち切られた。米軍の空襲と艦砲射撃のもとで恐怖の日々をすごした国民の間には安堵の感情が広がり、それは天皇に対する一定の感謝の気持ちに進んだ。国民の反軍意識は天皇に対する感謝の意識と結びついた。この意識が戦後日本の平和主義の基礎をなしている。

 天皇はその放送のなかで「朕ハ(略)堪へ難キヲ堪へ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ万世ノ為二太平ヲ開カムト欲ス」と述べたが、降伏文書調印の二日後の九月四日、帝国議会開会にさいして勅語を発し、「朕ハ終戦二伴フ幾多ノ艱苦ヲ克服シ、国体ノ精華ヲ発揮シテ、真義ヲ世界二布キ、平和国家ヲ確立シテ、人類ノ文化二寄与セムコトヲ翼ヒ、日夜軫念措カス」と述べ、「平和国家」という目標を提示した国民は「平和国家」というのは非武装の国家であるという解説に納得した。だから、天皇を国民統合の象徴とした新憲法の第一条を受け入れ、戦争放棄、戦力不保持の第九条を受け入れた。まさに自分たちの気分に合致した憲法であった。」(和田春樹「アジア女性基金問題と知識人の責任」小森陽一・崔元植・朴裕河・金哲編著『東アジア歴史認識論争のメタヒストリー』2008年11月、青弓社、136頁。強調は引用者)

最近一部で話題となっている、和田の天皇訪韓案(和田春樹「韓国併合100年と日本 何をなすべきか」『世界』2009年4月号)も、このような、戦後日本の「平和国家」は天皇制によって支えられている、という認識が前提にあると思われる。


(注2)無論、韓国や中国の知識層には、「東アジア共同体」(「東北アジア共同の家」)を推進するために、「和解」論を唱える人々も多いが、これは、仮面を、仮面であることは認識しながら受け入れる、ということである。多分、朴裕河のように、戦後日本を「平和国家」であると額面通り受け取ろうとする(させる)のは、「和解」を志向する人々の間でも少数派だと思う。


(つづく)

# by kollwitz2000 | 2009-07-08 00:00 | 日本社会
蘆溝橋事件の日に、何を考えているのか?
佐高ファンのichigeki氏が、7月7日に開かれるという、「憲法行脚の会」主催のシンポジウムについて書いている。登壇者の一人は佐藤優である。
http://ameblo.jp/sataka/entry-10293694932.html
http://ameblo.jp/sataka/entry-10283161759.html

この件について、ichigeki氏は、私について、「佐藤さんを擁護しつづける佐高信さんにも批判をはじめられておられる」と記しているが、これは事実と異なる。「<佐藤優現象>批判」以来、私が批判の対象の主眼としてきたのは、佐藤優というよりも、佐藤優を重用するリベラル・左派であり、その中でも佐藤と最も強く結託してきた一人である佐高については、この検索結果からもわかるように、2007年11月以来、何度も批判してきている。

ところで、このシンポジウムの演題は、「蘆溝橋事件の日に戦争と文学を考える」である。この演題の下で開かれるシンポジウムに、佐藤を呼ぶというのだ。主催者の「憲法行脚の会」という団体に何かを期待するのは間違っているのだろう。これについての、

「上記のイベントにも出る佐藤優さんですが、イスラエルのガザ攻撃を一貫して支持しておられることと、戦争文学を読み直すことの整合性をどうイベント参加者はみているのか、気になるところであります」

というichigeki氏の指摘ももっともであるが、私としては、以下の佐藤の文章を引用しておこう。


「前述したが、後発帝国主義国である日本としては、中国や東南アジア諸国を欧米列強のくびきから解放したいと思っても、現時点ではそれを実現するための基礎体力が足りないから不可能なのである。従って、期間限定で中国を植民地にしなくてはならない。中国の解放のためにもそれが必要なのである。中国に進出した目本の軍人や民間人の行動に大車亜共栄圈構築に相応しくない行状が多々見られることも事実だ。しかし、これらは過渡的現象で、欧米列強と戦い、大東亜共栄圈を構築することは同時に目本の国家システムを改造することでもある。財閥の横暴や政治家の腐敗を除去し、失業をなくし、国民の生存権を担保する改革を行うことである。だから中国人に焦らずに時間を貸して欲しいと訴えた。この訴えに耳を傾けた中国人もいた。汪兆銘(精衛)の南京国民政府も決して対日協力の傀儡政権ではなかった。中国の現実を踏まえた上で対日協力が日本の国益と考えた政治エリートによる政権であった。しかし、この流れは主流にならなかった。「あなたを苦痛から解放するために、当面あなたの苦痛はもっと大きくなりますが、我慢してください」という、日本人の善意を前提にした論理構成の中に民族的自己欺瞞が入り込む隙ができてしまった。大車亜共栄圈の罠は、目本の善意にあると筆者は考える。国際政治は、性善説ではなく、性悪説に立脚した「力の論理」を冷徹に認識した上で組み立てた方が周辺世界との軋蝶も少なく、結果として自国の国益を極大化するのだと思う。」(佐藤優『日米開戦の真実――大川周明著『米英東亜侵略史』を読み解く』小学館、2006年7月、249頁)


論理構成は右翼、落としどころは「サヨク」という、いかにも佐藤らしい文章であるが、問題は佐藤ではなく、こんな大東亜戦争肯定論の焼き直しの主張を展開している佐藤を、こともあろうに「蘆溝橋事件の日に戦争と文学を考える」なる演題のシンポジウムに登壇者として呼ぶ、佐高ら「憲法行脚の会」であろう。

佐藤がこうした主張を同書で展開していることは、「<佐藤優現象>批判」で指摘済みであるから、少なくとも佐高は知っているはずである。佐高らは、佐藤がこうした主張を行っていることを知っていて、この演題のシンポジウムに呼んでいると思われる。

彼ら・彼女らのやっていることは、日中戦争における中国人被害者への冒涜ではないのか。以前にも示唆したが、日本の侵略責任・戦争責任の観点から憲法を捉えるという視点がない場合、「護憲」の主張は底知れないほど堕落していくことを、この件はよく示している。

# by kollwitz2000 | 2009-07-06 00:00 | 佐藤優・<佐藤優現象>
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