核をめぐる責任を呼び覚まされた人と呼び覚まされなかった人と…オバマ米大統領のプラハ演説は、日本の政治の責任不感症を浮き彫りにしました。
今年四月五日、大統領はチェコの首都プラハで「核なき世界」を目指す方針を明らかにしました。「米国は核兵器を使用した唯一の核保有国として行動する道義的責任がある」と宣言したのです。
三カ月後の七月十四日、ファッションデザイナーの三宅一生さんが米紙ニューヨーク・タイムズに寄稿し、オバマ大統領に広島訪問を呼び掛けるとともに「世界中の人々が大統領と声を合わせなければならない」と訴えました。
体験者の倫理として
七歳の時に広島で被爆した三宅さんは、これまでその経験を極力語らないようにしてきましたが、オバマ大統領の言葉で「体験者として発言する倫理的責任」を呼び覚まされたというのです。
三宅さんは原爆による惨状を生々しくつづり「ほかの誰も体験すべきではない」と結びました。誰もが共感するでしょう。
寄稿発表の直前、イタリアで開かれた主要八カ国首脳会議では核廃絶に向けた声明が採択されました。麻生太郎首相も会議に出席してオバマ大統領と会談もしましたが、核廃絶論議で積極的役割を演じることはありませんでした。
首相に関して目立ったのは、いかにも高価そうなスーツの上の機械仕掛けのような笑顔ばかり。外交自慢ですが、被爆国の首相として負っている外交的責任を自覚していたとは思えません。
オバマ演説の陰にはさまざまな国際的動きがありました。
東西冷戦を指導した米国のシュルツ、キッシンジャー両元国務長官らが二〇〇七年一月、核なき世界の実現を提唱し、〇八年一月には核廃絶に向けた具体的提案をしています。ゴルバチョフ元ソ連大統領らも賛成したそうです。
変わりつつある潮流
さらに、今年一月にはドイツのシュミット元首相やワイツゼッカー元大統領らも同趣旨の論文を発表しました。
テロリストの手に渡るかもしれないことを考えると、核兵器の危険性は冷戦時代より一段と増しています。彼らは、自らが関与した過去を振り返り、現状を見つめ、世界の未来に対する責任を痛感しているのでしょう。
こうした動きの延長線上でのオバマ演説です。前途はまだ多難ですが、核をめぐる潮流は明らかに変わりつつあります。
日本には広範な反核運動の伝統があります。草の根の人たちは、被爆国民としての倫理的責任を果たしてきたのです。これに対しほとんどの政治家は通りいっぺんの核廃絶演説でお茶を濁します。責任感ある政治家なら国際的潮流は見逃さないはずです。
そもそもこの国の政治家の辞書に「責任」という言葉はあるのでしょうか。
不戦と戦力放棄を誓った日本国憲法の前文には「再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意し…国際社会において名誉ある地位を占めたいと思う」とあります。
名誉ある地位には負の遺産の清算が必要ですが、歴史を忘却の彼方(かなた)に押しやろうとする雰囲気が社会の一部にあります。日本の戦争・戦後責任に触れたテレビ番組や映画、出版物などを攻撃する政治家らもいます。
NHKは、従軍慰安婦問題の扱いに続いて日本による台湾統治の認識をめぐっても、これらの人たちから非難されています。
このような勢力の有力メンバーである安倍晋三元首相が、自民党の党内抗争の裏で麻生首相に作戦を伝授していたそうです。
現在の政治混乱の源をたどれば、安倍氏が政権を、それこそ突然、放り出したことにたどり着きます。その無責任さを反省もしないで、政治の舞台に復帰したことに違和感を覚える有権者は多いのではないでしょうか。
まして、平和憲法の改定に熱をあげたことへの批判や、歴史認識のゆがみの指摘など安倍氏は気にもかけていないようです。
失言、迷走、無為、無反省…麻生首相に対する批判を一言でまとめれば「無責任」でしょう。
しかし、首相の姿はこの国の政治状況を映す鏡にすぎません。
有権者も自覚が必要
こんどの総選挙は、政治家に責任を自覚させ、緊張感を抱かせる絶好の機会です。責任不感症から脱却させるには、空気や人気で自分の投票行動を決めず、未来を見据えた主体的な物差しに従って判断しなければなりません。
一人ひとりの有権者も責任を自覚しなければならないのです。
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