スネちゃまの大長編での役回り

スネちゃまは映画では役に立たない、のび太の勇気、ジャイアンの男気、しずかの優しさに対し、スネちゃまはせいぜい器用だとか、その程度の誉められ方でお茶を濁されている。確かにのび太ご一行の中でみればそういう事になり、僕も異論を挟む気はないが、映画全体でみればスネちゃまの言動の数々は映画の輝きを増すために大きな役割をになっている。キーワードは、日常・現実・常識だ。

大長編の映画は常識ではありえない事が起こる事で話が進む。しかし立脚点はあくまで日常の中にある。常識ではありえない事、を理解するためにはまずは常識を知らなければならない、どれだけありえない事なのか知らなければならない。「のび太と竜の騎士」に顕著だが、スネ夫はまずのび太と観客に対して恐竜はいないという常識を叩き込み、恐竜の実在を否定する。恐竜はいないという認識から始る事で、地上ではなく地下に生き残っていたという事への驚き、センス・オブ・ワンダーが際立ってくる。夢見がちなのび太や、物を知らないジャイアンだけが登場すれば「いると思っていた恐竜はやっぱりいた」だけでなんの驚きも生まないだろう。

また、導入部でスネ夫はのび太を徹底的に駄目な奴としてこき下ろす。のび太はいつもは駄目な奴という設定をあらためて観客に分からせるのだ。この過程を経る事で、愛するもののために立ち上がるのび太の勇気がくっきりと際立って大きな感動を生む。

さらに、スネ夫の「ママ〜」は、単にスネちゃまの臆病さを示していると見られているのだが、例えば「のび太と鉄人兵団」の中でロボットが大挙して押し寄せてきた事に対し、ジャイアンはただ大喜び、スネ夫は「めでたい、おそろしい」と言っている。「のび太の小宇宙戦争」では、押し寄せてきた敵から隠れるために倉庫に潜り込み、「相手は何百何千だよ。かなうわけないだろ。だからこんな星へくるのいやだったんだあ!」と泣き叫ぶ。こんな事を言えるのはスネ夫だけ、しかしこんな台詞があるからこそのび太たちが置かれている危険、それに立ち向かうのび太たちの勇気が際立つ事になる。ヒーローばかりの物語なんて空疎なものだ、ドラえもんと言う万能キャラクターがいる以上誰かが恐がってくれない限り雑魚キャラ相手のワンサイドゲームになりかねない危険をはらんでいる。しかしこれだけは忘れていけない、スネ夫は決して臆病なのではない。

新作、のび太の太陽王伝説にはこの「スネ夫の視点」がすっぽりと抜けていた。スネ夫を単なる臆病者としか見ていなかった藤子プロの見識の甘さがわかる。のび太は力はないが臆病でもなく劇中のび太を頼り甲斐のある男と評する場面がしばしば出てくる。「どじなのび太が大活躍するから感動する」じゃなくて、「勇敢なのび太がどじをやらかすから面白い」というように価値観が逆転しているようだ。さらに現実の歴史の中に魔女がいるという設定に対してドラえもんの「マヤ文明には、魔力を持った魔術師が存在したとも言われているんだ。」というコメントだけで応えている。こんなのはただの絵空事、ドラえもんの本来の世界と遊離したただのヒーロー活劇になってしまったようだ。

例えばこんな展開はどうだろう、レディナの魔術の前に一度は破れ、体勢を立て直そうとする一行、そんな時スネ夫がぼそっと、「でも魔術なんてある訳が無いよ」とつぶやく。のび太は「だって現にレディナは魔法を使ったじゃないか」と無邪気にも魔術の存在を信じている。「魔術なんて本当はまやかしなんだ、何か仕掛けがあるはずだ」とスネ夫はさらに力説。「そうだ、何か仕掛けがあるはず」と燃えたポケットの切れ端をしげしげと眺めるドラえもん、そこに何かを発見しあっと驚く。「そうか、レディナの魔術の正体が分かったぞ!あれをああやってこうすればきっと勝てる!」勇気や友情によるごり押しには飽き飽きした。