- トップ
- 90周年記念コンテンツ
―11月7日で大正7年の創部から90周年を迎えました。まずこの90周年に思うところを聞かせてください
まず考えなくてはいけないのは、私の場合現役を引退して、指導という立場で今こうして現場に立っているけれど、改めて長い90年の歴史、過去にしっかりリスペクトをしたい、敬意を払わなければいけないということ。他の大学が伝統や歴史を欲しいと思っても、それはがんばって作れるものではないから。そのためには年月が経たないといけない。そういう意味でも、過去の先輩たちが築き上てきた素晴らしい伝統、文化に対して、改めてこの90周年の節目に感謝の気持ちでいっぱいです
―現役の学生たちに対しても、歴史、伝統、文化を伝えていきたいとおっしゃっていました
今の現役にしてみれば、これは私自身も現役のときに思っていたんだけど、OB会の組織しか見えなくて、何となくこの部の運営をOB会がしているんだと、漠然としか分かっていないと思う。けれど、本当に命懸けでこの部を守ってきてくれた人たちの努力の積み重ねによって今のワセダがある。しかもそれはただただ守り続けたというよりも、その場その場で誠意を尽くして、ダメなものを解体し、新しいものを作り直し、ギリギリのところでみんなが戦ってきた結果が、今を生み出してきたということ。今は色々な機会を通して、私自身改めてその素晴らしさを感じているし、これはやっぱり今の現役にも分かってもらいたいなと。こういった何周年というのは10年に一度にしか来ないけれど、これを機に現役や特に若手OBにも先人たちへの敬意を改めて感じて欲しいと思っています
―その積み重ねてきた素晴らしいもの、ワセダラグビーの真髄とはと問われたら、何と表現しますか
これは本当に2つ。1つは、組織の使命というか、目指す方向は勝つことであるということ。ただ単に勝つというよりも、とにかく優勝する。昔であったら、目の前の対抗戦。明治に勝つ、慶應に勝つ、とにかく勝つことだけを貫いてきた集団だし、それを崩さなかった伝統がもっとも尊い。それがワセダラグビーの真髄だと思っています。これはなかなか作ろうと思っていてもできないことで、例えば、ワセダの歴史のなかである代が世の中の人誰もが感動するような素晴らしいチームを作ったとする。 しかし、結局、優勝できずに負けたときに、OB会含め、ワセダラグビーの身内がそのチームを賞賛したとしたら、今のワセダラグビーはなかったと思います。もし、負けを認める文化があったとしたら、たぶん組織がそっちの方向に流れて、勝てなかったとしても、素晴らしいチームを作ればいいんだという文化が作られていく。けれど、ワセダはこれまで築き上てきてくれた先人たちが、「いやワセダのラグビーは勝たなくてきはダメなんだ」、もちろん勝ち方に拘ることにも重きを置いているが、「とにかく勝つことがすべてなんだ」という文化を守り続けてきた。これはラグビーに限らず、他のスポーツにとってもそうだし、勝ちに拘ることこそアマチュアスポーツの真髄。シンプルかつ、大胆にそこを貫いてきていることが、ワセダラグビーの誇るべきことだと思います。
でも、実はこれは傍から見ると、違う見方をされてしまうこともある。揺さぶりワセダとか、ワセダは接近・連続・展開とか。昔の人気のあったときのスタイル、勝ち方が、ワセダラグビーだと思われがちだし、求められることも多いけれど、ワセダはそのとき持っている資源、それは人であったり知恵であったり、それらを最大限に出して勝ちに拘る。あくまでもその文化のなかで生まれたのが揺さぶり。揺さぶりをするためにワセダのラグビーがあるわけではないということ。傍から見ると誤解されることも多いけれど、ワセダの真髄は勝つことです
―もうひとつは
もうひとつの切り口は、内部からすると、とにかくワセダは赤黒と『荒ぶる』に集約しているということ。それ以外に例えば、人間形成とか、個人の自己実現とか、文武両道とかもちろんあるんだけど、あえてそういうことを掲げず、赤黒と『荒ぶる』のなかに、自己実現だったり文武両道であったり、人格形成が含まれる。さっき言ったように、勝つこともそうだし、部のなかの赤黒、『荒ぶる』にしても、要は目的、目指す方向をひとつに削ぎ落としてきたことがワセダの真髄だと思っています
―90年のなかのこの2年、そして今のお話も是非お願いします。監督として上井草に戻ってこられたときのことは覚えていらっしゃいますか
ファーストミーティングのときですかね。天気はよかったけど、学生たちのよそよそしさを感じた(笑)。あとは東伏見で育ったOBからすると、若手OBであっても、上井草で過ごしたことのない人間にとっては、東伏見は土で茶色のイメージがあるんだけど、今は本当に緑のイメージが強い。そういう意味では、ワセダラグビーが緑に囲まれていて、最初はちょっと違和感がありましたね。新しく移転してきて、この上井草からこの先色々なことを築いていく。これからも緑のワセダ、緑の上井草のイメージをつけていきたいと思います
―青春のすべてを捧げた東伏見の世界は茶色、ですか
まぁ黒というか茶色。関東ローム層の黒っぽい土色。イメージを言葉にするとそうなるかな
―監督就任1年目はまず学生たちの反抗でしょうか
反抗と言うよりはお互いの混乱でしょうね。お互いを掴めないまま、お互いを理解し合おうとしたけれど、難しいところもあった。もちろん最後は理解し合えたけれど、その期間がちょっと短かったのかなと
―ワセダ史上初の3連覇が懸かったシーズンでした
今思うと、3連覇を逃したというレベルではなかったですね。2年間勝っていたけれど、その延長があったからワセダは強かったのかというと、あれだけメンバーが変わったら、チャレンジャーにならないといけなかったし、実際そのつもりではあったけれど、力及ばず、勝てなかったという事実が残ってしまった
―あの1年はその後、今のワセダにどう繫がっているのでしょうか
変わっていかないといけないんだと、いい意味でも悪い意味でも感じられた1年。学生もそうだし、OBも含めて。すごい監督、清宮さんのような人が永久監督をするという部であれば、例えば明治の北島先生だったり、関東の春口さん、今で言えば帝京の岩出さんもそう、変わらなくてもいいけれど、監督は変わるし、学生は変わるし、色々な影響に晒されるなかで、対応し、変わっていかないといけない。そのことを改めて認識した1年でした
―昨年は見事な覇権奪回でした
昨年は変わっていくなかで自ら考え、自ら成長していく、本当の学生主体を発揮できて、かつ戦い方をシンプルにすることで、チームの芯を作って戦うことができた。これは今後のワセダにとっても、あり方を証明できてよかったと思っています
―真髄のところでも出てきた『荒ぶる』は、中竹さんにとってどんなものでしょうか
『荒ぶる』を取ることはもちろん最高のことだけど、それを本気で目指す文化がワセダにあることが素晴らしいと感じますね。実際取ってしまうと、ボーッとしてしまうというか、これが欲しかったものなのかとホッとするようなもの。これは取れなかった人たち、私たちを含め『荒ぶる』を掴んだことのない代のコーチ陣の方が、『荒ぶる』を大事なものだと感じる。そういう意味では、一番大事なものなんだと、ひとつの象徴になっているものだと思います
―この90周年に際し『ワセダラグビー・100年に向けて』の宣言を出されました。この宣言に込めた思いをお聞かせください。世界一のクラブを目指す
最初に言ったように過去に対してリスペクトする。そしてワセダは変化と進化。変化しながら進化してきた組織。そういう伝統があるので、これからの10年は、もしかしたらこれまでの90年よりも、変化をしなければならない10年になるだろうと思っています。こういった節目は過去を振り返りがちだけれど、これを機に100年に向けてひとつの方向に向かっていくことが大事。そういった思いをこの宣言に込めました
―「世界一のクラブ」とは
欧米には欧米の、長い歴史とともに築き上られてきたヨーロッパ型のクラブがあるし、日本には日本なりの大学スポーツを軸としたOBクラブが土台となった、所謂部活動のクラブがある。そのどちらがいいかを比べるではなくて、その両方のいいところをきちっと組み込んでいって、世界にひとつしかない、オンリーワンのクラブを作っていきたい。世界一というのは、世界に対して誇れて、うちのクラブに触れた方に、「あっ、こういうクラブはいいね」「こうできたらいいな」と思って頂けるような開かれたクラブ。そうなっていけたらと思っています
―その「日本なりの」が「大学体育会としての価値を基盤とした」に当たる部分ですか
そうですね。これは他の国では絶対にありえない文化だし、これをなくしてしまって、ただ欧米のようなクラブを目指したのではただの真似事になってしまう。そうではなくて、日本にしかないこの文化、OBとの繫がりを大切にする。特に早稲田大学は多くのOBの方に支えられているので、それを基盤とした開かれたクラブ。軸はそちらになると考えています
―「開かれたクラブソサイアティ」の、その「開かれた」とは
例えば、ワセダはすごく閉鎖的に見られているところがあるけれど、ワセダがいいと思って進めていく情報だったり、ノウハウは、ワセダラグビーが勝つためだけにあるのではなくて、例えば日本ラグビーの発展、青少年のスポーツ機会の広がりにも目を向けていく。今やっているワセダクラブも、名前、冠としては、ワセダとついているけれど、そこに他の大学のOBの方だったり、息子さんだったりが、クラブに入ってくれていて、ワセダだけで何かを盛り上げようとしない。色々な人を巻き込んで繫がっていく。例えば、今はアメフトだったり、バスケだったり、先日はボルダリングがあったけれど、そういったラグビー以外のスポーツの人たち、色々な企業の方と一緒に、ワセダの目指すところを共有しながら、コラボレーションしていきたい。
そういうところが開かれたクラブということです
―「イニシアティブを発揮していく」にも繫がっている様に感じます
今までこういうことって大学がやるのかな?とうことをワセダが率先してやることによって、日本によくある、事例がないとできませんという慣習を打ち破る。それをワセダがすることによって、他の団体も追随しやすくなるだろうと。そういう意味でもあらゆる面でイニシアティブを取っていきたい。当然リスクはあると思うし、色々なところで否定的な声を聞くことになると思うけれど、それを承知で新たらしいチャレンジをしようと思っています。アディダスがワセダのパートナーになってくれたことで色々な活動が増えたように、リスクを負ってでもスポーツ界の改革、ラグビー界の発展に繫がるのであれば、イニシアティブを取っていこうという思いです
―そういった思いを持った背景には、やはりイギリスへの留学経験が大きいのでしょうか
イギリスのクラブが、ただただいいとは思わなかったです。これはイギリスだからできたんだろうなというクラブもたくさんあったし、日本にそのまま導入してもよくないだろうなと感じることが多かったですから
―だからこそ、先ほども出た「大学体育会を基盤として」になると
そこにも繫がりますね。普通で言うと、どうしても海外のクラブは、多世代が交流し、パブがあって、みんながひとつのところに集って、あっそういうクラブ、部活がいいよねってなるけど、そんなのは日本では無理ですから。だからこそまず、日本の伝統的な大学の部活動を基盤としたところから色々なことを手掛けていきたいと思っています
―具体的にこうしたい、すぐ手をつけられそうだというところはありますか
まずは色々なクラブとの提携です。それもWin・Winの関係で、ただこちらが学ぶのではなくて、向こうにもメリットを感じてもらって一緒に作り上げていく。例えば今は、アメフトの練習にお邪魔して、今度は向こうがワセダの練習に来る。そういった広がりをどんどん作って、色々なカベをどんどん崩していきたいです
―90周年の節目に現場を預かる最高責任者として、OBの皆様に伝えたいことはありますか
これはどこの体育会もそうだと思うけれど、やっぱり若手OBがなかなか集りづらい。それは社会人の1,2,3年目は辛いとは思うけれど、そのまま遠ざかっていくことのないように、一番忙しくて社会で活躍しなければならない若手のOBたちこそ、もっともっと現役に繫がって、層の厚い活動をしていけたらと思っています。そのために現場の監督として待っているだけではなくて、色々な企画、イベント、機会を増やしていこうと考えているので、とにかくこの上井草にたくさんのOBに来て欲しいです
―10年後、『ワセダラグビー100年』のとき、中竹さんは何をされているのでしょう
どうなってるだろう。100年のときは…、たぶん上井草族にでもなっているかな(笑)
―11月7日で大正7年の創部から90周年を迎えました。まずこの90周年に思うところを聞かせてください
先人たちが受け継いできてくれた素晴らしきワセダラグビーを、現役時代、OBとして、そして監督として、存分に味わらせて頂きました。これから10年、20年、30年先のワセダラグビーが発展していくために、自分にできることはどんなことでも協力していきたいと思っています
―清宮さんの考える、ワセダラグビーの真髄とは何でしょう
ここまで関わった人たちの情熱、魂、絆、ではないでしょうか
―主将として、また監督として歌った『荒ぶる』とは
仲間たちと勝ち取ったものであり、ワセダでラグビーをしたという証。『荒ぶる』があるからみんなが集う。『荒ぶる』があるから踏ん張れる。そういうものです
―清宮さんが監督をされた5年間は、ワセダラグビー90年の歴史のなかでどんな意味を持つのでしょうか
大きな歴史の節目になった5年間ですよね。グラウンドが東伏見から上井草に移転したり、アディダスジャパンとパートナーシップ契約を結んだり。部の戦績という面でも、節目と言えると思います。勝つためのシステムが構築された5年間
―そのなかでの一番の肝はフルタイム監督ですか
そうですね。そして、よくある表現で言えば、勝利のために必要なヒト・モノ・カネ。大学のサポートしかり、OB会のサポートしかり、サプライを中心としたアディダスジャパンのサポートしかり。他の大学との差はどんどん開いていくばかりで…
―とは言え、芝のグラウンド、フルタイムの指導者、他大学の環境も整ってきているように感じます
でも、他の大学とは何が一番違うのかというと、勝利への飽くなき執念でしょうね。今の体制を見ていても、これほど監督、コーチ、スタッフが、選手が別次元でやっているのはもちろんとして、本気でチャンピオンになるんだと拘っているのは、ダントツでワセダ。それは自分が監督をしていたときもそうだし、今の中竹たちでもそう。それが一番の差。その飽くなき執念、拘りが、勝つためのシステムを支えていると言った方が、ベストアンサーでしょう
―トップリーグの監督をされている立場から見て、大学ラグビーはどのように映っているのでしょうか
明らかに大学ラグビーの節目が、この90周年のときにきたと感じています。明らかに盛り返すと思われた5年間だったけれど、長い目で見たら完全に右肩下がりの業界。2000年に入ってからワセダが復活したことで、新たなファンも増えたけれど、それまで競技場に足を運んでいたファンを失ったこともまた事実ですから。新たなファンを獲得しつつ、今まで見てくれていたファンの方も取り戻すには、リーグの統一しかないと、個人的には思っています。変わることを恐れてはいけない。今のスタイルを続けて、10年後、20年後の大学ラグビーはありますか?と
―リーグの統合には反対の意見が大半を占めたようです
システム的にはレベルの高い試合を数多くして…と思うんだけど、日本人はリーグ戦があまり好きではないですからね。ノックダウン方式に心を惹かれる。負けたら終わりの、あの感じを見にくる。そもそもレベルの高い試合をしてもファンが戻るかは分かりませんけど…。そういう意味では、マーケティングをしっかりすることの方が大事なんだと思います。大学生の人数だけ考えても、スタジアムを簡単に満員にできるキャパを持っているわけですから
―大学とトップリーグ、双方の監督をされている唯一の指導者として、その点は気になりますか
統一した方がいいというのは、個人としては間違いないと思っているんですけど、それだけでは変化は起きないでしょうから、プラスきっちりしたマーケティングをする。これはトップリーグもまだまだ全然できていないですけども。ファンの潜在的な数では大学ラグビーの方がたくさんいますからね
―次に監督をされた5年間をそれぞれ簡単に振り返って頂きたいと思います。まず初年度の『左京組』。常々「お前たちから始まったんだよ」という言葉を口にされます。もっとも劇的な1年でしょうか
そうですね。東伏見のグラウンドが懐かしいなぁと。これはよく言っているけど、東伏見のあのコントラスト。決勝の頃になると、枯れた木々があって、まったく無色のグラウンド、そして大きな夕日、乾いた風…
―決勝戦の前日、誰もいなくなった夜のグラウンドで、赤黒を配り、全員で『荒ぶる』を歌いました。決戦の前に、勝ったときにだけ許される『荒ぶる』を歌う。90年の歴のなかで掟を破った唯一の監督かもしれません
やっぱりその話になりますか(笑)。グラウンドがなくなる最後の年くらい、グラウンドの上でジャージーを配って、『荒ぶる』を歌ってもいいんじゃないかと思ったんですよ。試合に勝つための何か特別なパワーを学生たちに授けたいと思ってそうした。全部員ひとりひとりに声を掛けて、お守りを渡して。自分にできることをすべてやりたかった。決勝戦へのいい援護弾になったんじゃないかな
―もしあの決勝戦で勝っていたら…と思ったことはありますか
それは仲山(WTB)の足がもっと速かったら…とか?(笑)。あの年に勝っていたら、3年で監督は終っていたでしょうね。これは大田尾のときにも言えるけれど。もし勝っていたとしても、何も分からないまま勝っていた。それに、あの試合で負けていなかったら、『ULTIMATE CRUSH』という言葉も生まれてないですからね
―翌年の『山下組』では、13年ぶりの大学日本一。すべてがうまくいった1年でしょうか
してやったりという感じもあるけれど、何より勝つチームがやるべきチャレンジを続けた1年。あの年は色々なチャレンジをしたじゃない。春にヘンリー、ヤングをコーチとして呼んだり、東伏見のさよならイベントをやったり、アディダスジャパンとパートナーシップ契約を結んだり。何事にも挑戦する姿勢が、チームにも伝播して、勢いがついて、今年は俺たちが勝つんだ、誰もがワセダが勝つと感じる雰囲気を作った。そういう1年だったと思います
―そして『大田尾組』です。先日、もう一度やり直したいと思うのはこの年だと口にされていました。やはり、清宮さんにとって大きな1年だったのでしょうか。勝たせられたチーム、今の自分なら勝たせられるとも
そうですね。いくら人が入れ替わったからといって、僅か半年で…。75失点でしたか。この年は、春口さん、関東学院に勝負のセオリーみたいなものを気づかされた年でしたね。勝つために何をすべきか。今なら勝たせられるというのは、とりあえず言ってみただけです(笑)
―雪の決勝戦、忘れられません
うまくいっていましたからね。何て言うんだろう、歯車が外れるとか、駒がひとつ外れただけであれだけ変わってしまうんだという勝負の怖さを味わいました。一発目のトライを取られた瞬間、それまで保たれていた均衡がガタガタと崩れてしまったじゃない
―当初は予定されていなかった4年目の『諸岡組』は、見事な覇権奪回でした。監督をした5年間でもっとも戦力の充実していた年かもしれないと
たしかに1番でしたね。それは素質のある選手たちがまだ下級生だったこと。そしてチームの舵を取る人間が4年生に多かった。要は4年生も3年生も2年生もいい。それって、チームの状態としてはベストですよ(笑)。あのときは次の年への不安とかもまったくなかったですから
―このシーズンは、オックスフォード大に12度目の対戦で悲願の初勝利という、90年の歴史のなかでもかなり大きな出来事がありました。奥克彦さんに捧げる勝利でもありました
あの勝利は嬉しかったですね。オックスフォード大が強かったらもっと盛り上がったんですけど(笑)。僅差の接戦だったら、なおよかったのにと(笑)
―奥さんと言えば、『ULTIMATE CRUSH』の発案者です。学生たちは体制が変わった今も、ことある毎にこの言葉を口にし、ひとつになります
これは非常に嬉しいことですね。ワセダを象徴する言葉。これからも当たり前のように残っていって欲しいと思っています。そして、キックオフ直前の円陣で、奥さんに黙祷を捧げてから早明戦に臨む。そういった奥さんへの想いも、これからも大切にしていって欲しいです
―そして伝説とも言える『佐々木組』です
いい1年でしたね(笑)。佐々木隆道だけでなく、みんながよかった。本当に素晴らしい学生たちでした。ワセダの選手の何がいいかって、それはやっぱり意思の疎通なんですよね。こういうプレーをしようと、1つの号令に従ってみんなが対応できる。だからワセダはブレない。この年もまったくブレることがなかった。内橋が2年やってくれたことも大きかったけれど
―夏合宿の段階で打倒・トップリーグを打ち出しましたけど、それが果たせると確信できた瞬間は試合前にありましたか
いやいや、それはなかったですよ(笑)。だって冷静に考えたら、こう攻められたらトライ取られるなって事前にあったじゃない
―2月12日、あの日のことは今でも強く心に残っているのでしょうか
そうですね(笑)。でも、そういったものは後から見る映像とか、写真で思い出す、記憶に残っていくものだと思ってます。隆道の表情、自身の表情、コーチ陣の表情、そして会場のお客さんの顔、とかね
―100年のワセダラグビーには、どうあって欲しいですか
上で謳っていることはそのままワセダクラブの活動ですね。100年のワセダラグビーには、不変のものとして、子供たちから憧れられる存在であり続けて欲しいし、さすがはワセダ、ワセダラグビーと言われる存在であって欲しいと思っています。チームミッションである、ラグビーを通じて、見ている方、支えてくれる方に、夢と希望、感動を与える。そして、多彩な人材を輩出していって欲しいです。色々な人間が集り、化学変化し、プレーヤーとしてだけでなく、各界のリーダーを輩出する。
そういう存在であり続けて欲しいですね
―10年後の100周年、そのとき清宮さんは何をされているのでしょうか
それは分かりません、まったくもって(笑)
虎の肉を食った。それが早稲田ラグビーの始まりだった。戸塚のグラウンドの近く、さくら肉、つまり馬肉を供する一軒に有志は集まり、船舶成金が朝鮮半島から持ち帰った虎の肉をすき焼きにして食った。
大正7年、1918年、秋の某日であった。
早稲田にラグビー部をつくろうと決起した者たちがいた。さっそく学内に部員募集の貼り紙をする。そこに「応募者には虎肉をご馳走」の殺し文句はあった。実際には「虎」は、ほんの少し馬肉に混ぜる試食程度で「羊頭狗肉ならぬ虎頭馬肉だった」と先人は書き残している。
故・大西鐵之祐さんは言った。
「最初の人間の性格がクラブのあり方を決していく」
戸塚の北越館と栄進館という下宿に、旧制の同志社中学や慶応普通部から早稲田へ進んだ者が集い、中学時代にたしなんだラグビーを始めようとの気運は高まり、虎肉の力もわずかに借りて、ついに創部へと至る。
初代主将は、井上成意である。この大先輩とその仲間たちが、勝負に淡く、知性的な取り組みにも関心はなく、なにより情熱に乏しいありきたりな性格であったなら、その後の早稲田ラグビーの歴史はなかった。まったく弱いクラブになっていただろう。詳細は省くが、創成期の部員の旺盛な勝負への意欲が、新興チームを日本のラグビーの推進役へと高めることとなる。
一例だけ挙げると、早慶戦創設(1922年)に奔走した中村元一という先輩がいた。
当時、野球の早慶戦のもつれに端を発し両校のスポーツ交流は明治39年(1908年)より途絶えていた。そこで創部ほどない早稲田ラグビー部の中村青年が渉外役として持ち前の社交性と実行力を発揮、慶応側との難儀な交渉をまとめて実現させてしまう。みずから中央気象台へ出向き、過去50年の記録をあたり、年間で最も降雨の少ない休日を調査、11月23日(当時は新嘗祭)にラグビー早慶戦を行うと定めた。
この中村元一という人物は開明的で、早慶戦に入場料をとることを発案したり、米国プリンストン大学でアメリカンフットボールをプレーしていた日本人留学生をタックルのコーチに招いたり、上野の運動具店とかけあって米国製のタックルマシンを日本で初めて輸入させたり、次々と強化のための手を打った。
と、ここまで紹介した逸話は筆者が調べたわけではなく『早稲田ラグビー六十年史』や『早稲田ラグビー史の研究』(日比野弘著)などに書いてある。寮にも必ず備えてあるはずだ。現役諸君、どうか棚から引き抜いて先達の使命感に触れてほしい。早稲田ラグビーとは、そのつどそのつどの純粋な情熱、自分の頭でラグビーを考え抜く態度、なにがあっても勝利と日本一をめざす気迫の堆積であるのだから。
十数年前、秋田・男鹿の吹雪のグラウンドで、法政大学ラグビー部のOBにふいに言われた。
「マイナーな競技ではなくて、スカウトに頼らずに常に日本一をめざし、また日本一になったことのあるスポーツ団体は早稲田のラグビーだけなんだ」
そのころと比べれば入学試験の方式も多様化している。しかし、根底の精神は変わらないはずだ。どんな条件、環境にあろうとも日本一をめざす。その日本一は世界へ結びついている。
簡単に述べるなら「創部以来、負けてもいいと思って臨んだ試合は皆無である」。ここが少しでも緩んだら、あの虎肉の夜、井上成意先輩より出(い)ずる緊張と創造の歴史にはあっけなくヒビが入る。
早稲田大学ラグビー部は、これまでどおり「個の尊重」に尽くしてほしい。練習を簡単に休んだり、仲間の公式戦を観戦しないような態度ならキャプテンの責任で即刻退部を宣告しても構わない。しかし、そうではないのなら、最もへたくそな1年生部員であっても人格は尊重されなくてはならない(尊重されつつ正統な猛練習でぶっ倒れるのは大歓迎だ)。
「みずから努力し、みずから早稲田ラグビーの門をくぐった者」であれば、すでにして、過去最高の名選手や名監督ともまるで同じ仲間なのである。
早稲田ラグビーは自由だ。もちろん監督やコーチは強い指示を与え、強制も辞さない。それくらいでないと迫力もない。ただし、それはラグビーにおける戦術や戦法や心構えに限られる。人間としては誰もが自由でなくては価値はない。全国のほとんどのOBは、たまに試合に負けるより、これまでそんなことはなかったと信じるけれど、たとえば先輩が後輩を私用に使うような文化がはびこったと聞いたら、そのほうが失望は深いだろう。
早稲田ラグビーは、イデオロギーよりも、経済や政治での成功よりも、大きくあるべきなのだ。どんな条件であろうと勝利のために全身全霊を尽くすという絶対があるからこそ、負けてもいいとは絶対に思わないからこそ、そのためには緊張の極にある猛練習も辞さぬからこそ、そこにいる個人は自由である。どうぞ、総理大臣にでも無政府主義者にでも社長にでも労働組合委員長にでも好きな道を進めばよい。
いまから81年前にオーストラリア遠征を企て、実現させたのは、現役のキャプテンだった。みずから新聞社を口説いて現地との連絡を委託し、豊島園などのスポンサーを見つけ、座り込み戦術で船会社と交渉、船賃を半額に引き下げた。おそるべき情熱。好敵手・慶応の黒黄会(OB組織)が無謀なる快挙を喜び、遠征メンバーを招待、盛大なる歓送会を開いてくれた。
戦争では25名の先輩たちが母校のラグビーに思いをはせながら無念の死を遂げた。
戦火から守ろうと自宅の庭にラグビー部のボールやジャージーを埋めていた元マネージャーがいた。復員すると骸骨のような体で東伏見のグラウンドを走り始める者たちがいた。OBたちは飢えの時代にも食糧を現役部員へ回した。
全早稲田がイングランド代表に4-56の大敗を喫したら、監督はうなだれ、あるOBは「早稲田ラグビー最悪の日」と深刻な調子で新聞にコメントした。念のため繰り返すが、相手はイングランド代表である。
ジュニア選手権の始まったころ、ラグビー無名校出身の下級生ばかりのチーム(当時は全部員がいわゆる一般入試組だった)を率いて、花園組のずらりと並ぶ相手に敗れると、責任を感じて、しばらく失踪した4年生のキャプテンがいた。みんな「死ぬのではないか」と心配だった。
創部90年目の現役のみなさん、上記のような事実を少しだけ意識してください。それらは、いまのあなたたちの姿でもあるのです。早稲田ラグビーは与えられません。自分で獲得するのです。伝統はそこにあるのではなく、たったいま創造されているのだ。
自分のなしたことだけでなく、自分のなしえなかったことをも後進に託す。すなわち歴史を信じる。それが早稲田ラグビーの90年なのだと思う。
~ワセダラグビー創世期~
年度 | 監督 | 主将 | 対抗戦 | 大学選手権 | 日本選手権 |
---|---|---|---|---|---|
1918年(大正7年) | なし | 井上正意 | - | - | - |
| |||||
1919年(大正8年) | なし | 井上正意 | - | - | - |
| |||||
1920年(大正9年) | なし | 石丸五郎 | - | - | - |
1921年(大正10年) | なし | 石丸五郎 | - | - | - |
1922年(大正11年) | なし | 大町清 | - | - | - |
| |||||
1923年(大正12年) | なし | 朝桐尉一 | - | - | - |
| |||||
1924年(大正13年) | なし | 吉田光一 | - | - | - |
1925年(大正14年) | なし | 兼子義一 | - | - | - |
| |||||
1926年(大正15年) | なし | 片岡春樹 | - | - | - |
1927年(昭和2年) | 木村文一(豪州遠征のみ) | 本領信治郎→滝川末三 | - | - | - |
| |||||
1928年(昭和3年) | 本領信治郎 | 寺田半三 | 3位(関東5大学対抗戦) | - | - |
| |||||
1929年(昭和4年) | 本領信治郎 | 坂倉雄吉 | 4位 | - | - |
1930年(昭和5年) | 馬場英吉 | 小船伊助 | 3位 | - | - |
1931年(昭和6年) | 馬場英吉 | 太田義一 | 2位 | - | - |
1932年(昭和7年) | 西尾重喜 | 田川潔 | 優勝(1) | 全国優勝(1) | - |
| |||||
1933年(昭和8年) | 太田義一 | 柯子彰 | 優勝(2) | 優勝(2) | - |
~第一次黄金時代~
年度 | 監督 | 主将 | 対抗戦 | 大学選手権 | 日本選手権 |
---|---|---|---|---|---|
1934年(昭和9年) | 大西栄造 | 松原武七 | 2位 | - | - |
1935年(昭和10年) | 西栄造 | 野上一郎 | 2位 | - | - |
1936年(昭和11年) | 山本春樹 | 米華真四郎 | 優勝(3) | 優勝(3) | - |
1937年(昭和12年) | 田義一 | 川越藤一郎 | 優勝(4) | 優勝(4) | - |
1938年(昭和13年) | 太田義一 | 村山礼四郎 | 3位 | - | - |
1939年(昭和14年) | 大西栄造 | 山地翠 | 2位 | - | - |
1940年(昭和15年) | 大西栄造 | 松元秀明 | 2位 | - | - |
1941年(昭和16年) | 大西栄造 | 遠藤公 | 優勝(5) | 優勝(5) | - |
1942年(昭和17年) | 大西栄造 | 須崎(田井)修自/鈴木(矢部)昌雄 | 3位/優勝(6) | 優勝(6) | - |
1943年(昭和18年) | なし | 鹿子木聡 | 第2次世界大戦のため公式戦なし | - | - |
1944年(昭和19年) | なし | なし | 第2次世界大戦のため部活動休止 | - | - |
~復興、第二次黄金期~
年度 | 監督 | 主将 | 対抗戦 | 大学選手権 | 日本選手権 |
---|---|---|---|---|---|
1945年(昭和20年) | なし | 林正治郎 | 戦後復活のスタートを切るも公式戦なし | - | - |
| |||||
1946年(昭和21年) | 鈴木功 | 野上久雄 | 4位 | - | - |
| |||||
1947年(昭和22年) | 村山礼四郎 | 内田堯 | 2位 | - | - |
1948年(昭和23年) | 西野綱三 | 堀博俊 | 優勝(7) | 優勝(7) | - |
| |||||
1949年(昭和24年) | 西野綱三 | 山上弘 | 2位 | - | - |
1950年(昭和25年) | 大西鐵之祐 | 松分光朗 | 優勝(8) | 優勝(8) | - |
1951年(昭和26年) | 大西鐵之祐 | 橋本晋一 | 2位 | - | - |
1952年(昭和27年) | 大西鐵之祐 | 田中昭 | 優勝(9) | 優勝(9) | - |
1953年(昭和28年) | 大西鐵之祐 | 高見澤顕二郎 | 優勝(10) | 優勝(10) | - |
1954年(昭和29年) | 大西鐵之祐 | 高武昭夫 | 3位 | - | - |
|
~戦国時代~
年度 | 監督 | 主将 | 対抗戦 | 大学選手権 | 日本選手権 |
---|---|---|---|---|---|
1955年(昭和30年) | 西野綱三 | 新井茂裕 | 5位 | - | - |
1956年(昭和31年) | 西野綱三 | 藤島勇一 | 優勝(同率) | - | - |
1957年(昭和32年) | 西野綱三 | 片倉胖 | 2位 | - | - |
| |||||
1958年(昭和33年) | 大野信次 | 富永栄喜 | 優勝(11) | 優勝(11) | - |
| |||||
1959年(昭和34年) | 大野信次 | 志賀英一 | 4位 | - | - |
1960年(昭和35年) | 日置寧二 | 北岡進 | 5位 | - | - |
1961年(昭和36年) | 井上二郎 | 加賀谷久司 | 7位 | - | - |
| |||||
1962年(昭和37年) | 大西鐵之祐 | 木本建治 | Bグループ優勝 | - | - |
| |||||
1963年(昭和38年) | 大西鐵之祐 | 小俣忠彦 | 2位 | - | - |
| |||||
1964年(昭和39年) | 大西鐵之祐 | 佐藤鉱司 | 2位 | 準優勝 | - |
|
~第三次黄金時代~
年度 | 監督 | 主将 | 対抗戦 | 大学選手権 | 日本選手権 |
---|---|---|---|---|---|
1965年(昭和40年) | 横井久 | 矢部達三 | 優勝(12) | 大学選手権優勝(1) | 優勝(1) |
| |||||
1966年(昭和41年) | 結城昭康 | 藤本(蒲原)忠正 | 2位 | 優勝(2) | - |
| |||||
1967年(昭和42年) | 藤島勇一 | 猿田武夫 | 優勝(13) | 準優勝 | - |
| |||||
1968年(昭和43年) | 白井善三郎 | 山本巌 | 優勝(14) | 優勝(3) | - |
| |||||
1969年(昭和44年) | 木本建治 | 井沢義明 | 2位 | 準優勝 | - |
1970年(昭和45年) | 日比野弘 | 大東和美 | 優勝(15) | 優勝(4) | 優勝(2) |
| |||||
1971年(昭和46年) | 白井善三郎 | 益田清 | 優勝(16) | 優勝(5) | 優勝(3) |
| |||||
1972年(昭和47年) | 松元秀雄 | 宿沢広朗 | 優勝(17) | 準優勝 | - |
1973年(昭和48年) | 日比野弘 | 神山郁雄 | 優勝(18) | 優勝(6) | - |
| |||||
1974年(昭和49年) | 日比野弘 | 石塚武生 | 優勝(19) | 優勝(7) | - |
|
~試行錯誤の苦闘時代~
年度 | 監督 | 主将 | 対抗戦 | 大学選手権 | 日本選手権 |
---|---|---|---|---|---|
1975年(昭和50年) | 日比野弘 | 末石庸幸 | 優勝(20) | 準優勝 | - |
1976年(昭和51年) | 大東和美 | 豊山京一 | 優勝(21) | 優勝(8) | - |
| |||||
1977年(昭和52年) | 栗本利見 | 伊藤隆→松本純也 | 3位 | 交流試合敗退 | - |
| |||||
1978年(昭和53年) | 白井善三郎 | 橋本裕幸 | 5位 | 1回戦敗退 | - |
1979年(昭和54年) | 白井善三郎 | 金澤聡 | 2位 | 準決勝敗退 | - |
1980年(昭和55年) | 橋本晋一 | 奥脇教 | 3位 | 交流試合敗退 | - |
1981年(昭和56年) | 大西鐵之祐 | 寺林務 | 優勝(22) | 準優勝 | - |
| |||||
1982年(昭和57年) | 植山信幸 | 益子俊志 | 優勝(23) | 準決勝敗退 | - |
| |||||
1983年(昭和58年) | 豊山京一 | 土屋謙太郎 | 5位 | - | - |
1984年(昭和59年) | 日比野弘 | 矢ヶ部博 | 2位 | 準決勝敗退 | - |
~昭和から平成へ~
年度 | 監督 | 主将 | 対抗戦 | 大学選手権 | 日本選手権 |
---|---|---|---|---|---|
1985年(昭和60年) | 日比野弘 | 山本巧 | 2位 | 準決勝敗退 | - |
1986年(昭和61年) | 木本建治 | 西谷光宏 | 2位 | 準優勝 | - |
1987年(昭和62年) | 木本建治 | 永田隆憲 | 優勝(24) | 優勝(9) | 優勝(4) |
| |||||
1988年(昭和63年) | 佐藤秀幸 | 清田真央 | 3位 | 1回戦敗退 | - |
1989年(平成元年) | 佐藤秀幸 | 清宮克幸 | 2位 | 優勝(10) | - |
| |||||
1990年(平成2年) | 高橋幸男 | 堀越正巳 | 優勝(25) | 準優勝 | - |
| |||||
1991年(平成3年) | 高橋幸男 | 相良南海夫 | 2位 | 準決勝敗退 | - |
1992年(平成4年) | 小林正幸 | 富野永和 | 2位 | 準優勝 | - |
| |||||
1993年(平成5年) | 益子俊志 | 藤浩太郎 | 2位 | 2回戦敗退 | - |
1994年(平成6年) | 宿沢広朗 | 山羽敦文 | 2位 | 準決勝敗退 | - |
1995年(平成7年) | 木本建治 | 小泉和也 | 2位 | 準優勝 | - |
| |||||
1996年(平成8年) | 石塚武生 | 中竹竜二 | 2位 | 準優勝 | - |
1997年(平成9年) | 石塚武生 | 石川安彦 | 2位 | 2回戦敗退 | - |
1998年(平成10年) | 日比野弘 | 山崎勇気→正木宏和 | 3位 | 準決勝敗退 | - |
1999年(平成11年) | 日比野弘 | 小森允紘 | 4位 | 2回戦敗退 | - |
2000年(平成12年) | 益子俊志 | 江原和彦 | 3位 | 2回戦敗退 | - |
~革命・第4次黄金時代~
年度 | 監督 | 主将 | 対抗戦 | 大学選手権 | 日本選手権 |
---|---|---|---|---|---|
2001年(平成13年) | 清宮克幸 | 左京泰明 | 優勝(26) | 準優勝 | - |
| |||||
2002年(平成14年) | 清宮克幸 | 山下大悟 | 優勝(27) | 優勝(11) | - |
| |||||
2003年(平成15年) | 清宮克幸 | 大田尾竜彦 | 優勝(28) | 準優勝 | 4回戦敗退 |
| |||||
2004年(平成16年) | 清宮克幸 | 諸岡省吾 | 優勝(29) | 優勝(12) | 2回戦敗退 |
| |||||
2005年(平成17年) | 清宮克幸 | 佐々木隆道 | 優勝(30) | 優勝(13) | ベスト4 |
| |||||
2006年(平成18年) | 中竹竜二 | 東条雄介 | 優勝(31) | 準優勝 | 1回戦敗退 |
| |||||
2007年(平成19年) | 中竹竜二 | 権丈太郎 | 優勝(32) | 優勝(14) | 2回戦敗退 |
| |||||
2008年(平成20年) | 中竹竜二 | 豊田将万 | - | - | - |
|