思考の格闘技
仕事日誌をここに併設します。日々の仕事雑感を記します。
(2009年7月30日) 時間ができたので、久々に18年来の友人に会う。エリザベス・ドーンさん。もともとは私の英会話の先生なのだが、たんなる飲み友達と化している。本日は吉祥寺のカフェにて、投資に失敗した話を聞く。 話している間に、テーブルに妙なものを立てるので何かと思えば、「プライベート英会話講師」と書いてある。こうすると、フライヤーを持って行く人が多いのだそうな。せっかくなので、宣伝させていただくことにした。 公立中学の英会話教師も長年勤めたが、最近では高井戸・吉祥寺周辺で、シャイな人にぴったりな会話を教えている。友達もものすごく多い方である。 ご関心の向きは、ぜひよろしく。 |
(2009年7月29日) 「週刊鉄学」、収録。今週も武田さんはお休み。伊藤さんだけが頼り。心細い限りだ。 今回も私が好きなテーマを選んで良いとディレクターから言われたので、「電線地中化」にする。去年、講演させていただいたNPO法人「電線のない街づくり支援ネットワーク」http://nponpc.org/default.aspxの井上利一さん、元国土庁審議官の中津真治さんにご出演いただく。 私は『失われた景観』(PHP新書)でこの話を書いた(おそらく一般書で活字になったのは初めて)が、それから7年も経っている。国交省の計画もすでに五期が終了。そこで最新の情報に詳しいお二方から話を伺った。 銀座は昭和30年代に地中化したが、それは地中化した方が安上がりだったこと、最近でも電柱は着実に増え続けていること、近年国交省等と民間が協力して地中化を進めているのに進捗度合いが芳しくないのは地方自治体の財政状況が悪いせいであること等、盛りだくさんに語っていただけた。 この話題が電波に乗るのは、稀なのではないか。 伊藤さんのお陰でなんとか司会を終えられた。嬉しい。来週からは、リラックスして冗談が言えるぞ。 |
(2009年7月27日) 久しぶりに、映画館で映画を見た。『美代子阿佐ヶ谷気分』である。 私は阿佐ヶ谷に住んでいるが、わざわざ富士見台から越してきた理由は、関川夏央の「1985年の阿佐ヶ谷気分」というエッセイを読んだからだ。駅前のどこかのジャズバーで、どうでもよいような話をちょっと気のある女性とする・・みたいな話だったような気がする(詳細は忘れてしまった)。 しかしともあれ私はそんな無駄が魅力的であるような空気が欲しくなり、阿佐ヶ谷に定住するようになったのだった。 70年代のガロをフリマで買って持っていたので、阿部慎一の漫画は読んでいた。我が愛する阿佐ヶ谷の気分が刻印される映画だったらいいな、と思い、渋谷の映画館に向かった。 しかし、期待はずれだった。町田マリーという女優は、裸体といい憂いのある表情といい、素晴らしい。こんな女と阿佐ヶ谷で出会えたら最高だな、とは思う。しかし街がまったく阿佐ヶ谷らしくないのである。 だいいち、下宿は白鷺あたりではないか。白いポートタワーみたいな煙突は鷺宮の方にある。出てくる居酒屋は「和田」みたいに見えるが、とくだんの雰囲気があるわけではない。監督は、「阿佐ヶ谷」の空気を撮る気はなかったようなのだ。 音楽も、いくつものバンドのものが挿入されていて、印象が薄くなっていた。家内の店のヒット陶器作家である工藤冬里さんの曲も、どれだか分からなかった。 もちろん原作そのそのも、阿佐ヶ谷らしさを欠いてはいる。せっかく良いタイトルなのに、もったいない。私なら、70年代の阿佐ヶ谷らしさを出すのに、「スターダスト」と「山路」は外さない。「リッキー」や「阿呆船」もよかったが、いまはない。 阿佐ヶ谷というのは、ダメダメな人間が、妄想に捕らわれて最上を目指すのを言祝ぐ町ではないのか。妄想が暴発しても、受け止めてくれる空間だ。私はここで何度助けられたことか。 私生活を描くダメ亭主といえば車谷長吉が有名だが、会社にズボンを履き忘れてパンツだけで行っても首にしなかった堤清二氏や見限らなかった夫人に恵まれていた。阿部慎一は、奥さんには恵まれたが、神経が持たなかったらしい。そんな阿部のダメダメぶりが描かれるのだが、ダメな男が和田で飲むのは贅沢過ぎやしないか。やはり、山路にでも行ってもらいたかったな(もっとも、ヨシコに出禁にされただけか も)。 |
(2009年7月26日) 今月の朝日新聞論壇時評は、「米中G2」を基軸通貨論から論じる。 基軸通貨と米国債とはながらく同義だった。それは流動性が同じほど高かったということだが、国債の乱発で流動性に不安が生じている。これで基軸通貨と米国債は別物と認識されるようになった。これは、米国だけが経常赤字で他国が黒字、他国は輸出して得たドルで米国に投資するという資金循環が崩れるということも意味している。 このような整理はあまりなされないと思う。「米中G2」は、国際的にそうなのではなくて、日本にとって妥当するのである。 「フォーリン・アフェアーズ」のマッドセン論文は、日本における構造改革にも金融緩和にも、ほとんど意味はなく、消費不足だけが問題だったという、私の説とまったく同じ論旨。持論は海外では 共感されているらしいが、この十年ちかく、日本でなされた構造改革vsリフレという議論は的はずれと認識されたことになる。エコノミストの皆さん、今回は どう言い逃れするのだろう?
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(2009年7月25日) 格闘家・武道家の平直行さんと行徳にて対談。 平さんとは、デンバーの第二回UFCの会場で初めてお会いした。市原さんがホイスに負けて、最前列でさめざめと泣いておられたのが印象的だった。 後に平さんはカーリー・グレイシーに入門、ストライプルを設立。市原さんが打撃で接戦勝利したヤン・ロムルダーをMMAで撃破した試合が恐ろしかった。目つぶし・かみつき以外は何でもありという、非スポーツ的な試合で、相手が「タップ以外は見込みで判定するな」と注文をつけてきたので失神したのを絞め続けたという試合である。 その平さんは柔術のストライプルを主催しておられるが、実際はブラジリアンよりも武道としての大気拳、身体操法としての操体に関心があるのだという。DVDをいただいたので、それを題材に高齢者として稽古を続ける心境をお話した。 |
(2009年7月24日) 週刊朝日の恒例、国会通信簿。これは元々は『論座』で半年限定で行ったものだった。当時の担当というか発案者は村山正司氏だったが、いつのまにか週刊朝日で引き取ってもらい続けている。 御厨先生と、九時過ぎから神楽坂のアグネスホテルにて。今回は解散・選挙を機に行うことになった。 民主が政権を取ったとして、大臣に多党党首を起用するか否かに注目が集まる。まさか、W田中は・・田中康夫、田中真紀子を使ったら、政権は半年も持たないぞ。 社民党のマニフェストにはびっくり。「大企業中心の輸出最優先」「内需中心の経済への転換」なんて書いてある。そうか、俺は社民党と同じ経済観だったのか、と感慨しきり。もっとも、自民党からも呼ばれて、古参数人と食事をしたとき、「あなたの『分断される経済』だけが正しかった」と言われた。そうした見方が広まってくれるのは、有り難くはある。 国民新党はタイプミスのあるレジュメのようなマニフェスト。それでも出てきていない自民党よりはマシということか。 |
(2009年7月23日) 夕方、『週刊鉄学』収録。今回は武田さんが博多公演で不在。舞台を見に行った伊藤聡子さんによると、爆笑の傑作だったとか。自分の母親役はまだしも、自分の若い頃を長髪のかつらをかぶってやったらしい。本当に芸達者な方ではある。 というわけで、「どんなテーマでも、お好きなものを」とディレクターに言われたので、柔道の話題。ゲストは柏崎克彦師範、溝口紀子先生。外国の柔道は「正しい柔道」ではない、なんて言い方がしきりになされるが、日本サッカーは「正しいサッカーではない」なんて、誰も言わない。勝てるために最善を尽くしているだけだ。国際化した数少ない日本文化・柔道の現在を見極めるために、多様なルールと多様なスタイルを論じた。 武田さんのデビオレターでは、「松原さんの生涯柔道という持論に賛成」と言っていただく。うれしい。 多様なルールということで、戦前の柔道ルールについて、現在の七大学戦について語っていただく。七大戦は、溝口先生によればゆっくりやる寝技だそうで、速度のある国際ルールの寝技とはやはり違うそうだ。 多様なスタイルとしては、外人の柔道の象徴のようにいわれる隅落とし・浮き技を、私が以前に撮影した柏崎先生の指導ビデオから紹介。溝口さん曰く、「柏崎先生はいまでもアギンギャルドです」。 言いたいことをしっかり述べた。この内容が電波に乗るというのは、画期的なことだと思う。ぜひ、ごらん下さい。
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(2009年6月20日) 『ゴング格闘技』誌、座談会/板垣恵介・増田俊成・松原隆一郎・夢枕獏「七帝柔道、講道館に帰る」について 私の発言に、一部不明瞭な点があり、関係者に誤解を与えかねないという懸念がありますので、正確を期してここにご説明申し上げます。 ・講道館で七大戦を開催したことについて、「僕が東大の部長になったりとか・・」という記述について 今回、講道館で七大戦が開催されたのは、発案したのは私ですが、講道館と話をつないでくださったのは東大師範である津澤寿志先生。受理されたのは講道館側であります。私はたんに「講道館でやりたい」と津澤師範にお願いしただけなのですが、講道館側でどのような話があったのかは伺っておりません。古参の方には、七大柔道をよく思っていない雰囲気があったのは事実のようですが、今回は受け入れて下さいました。 東大周辺では、今回も当然のように綾瀬の体育館等が候補に挙がっていました。七大関係者には講道館で開催するという発想がなかった(過去の経緯からの先入観でしょう)ので、その点では私が発案しなければ講道館で、とはならなかったと思います。ただ、私がやったのはそこまで。発案しただけで、実際にことを運んで下さったのは津澤師範と講道館であります。
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(2008年6月6日) 中日新聞6月4日付け「時のおもり」で掲載されたエッセイにつき、一部に誤記があり、また意図とは異なる読み方がなされる可能性があった。 混乱させた方にはお詫び申し上げたい。正確を期し、趣旨を以下別途に表現しておきたい。
・これに喩えると、「準備をして切開せず裂傷も負わない」のはA、「準備せずに切開もせず裂傷を負う」はB、「準備させず切開する」はCに相当する。私は、産科医の集まりで話をしたときに、医師がまるでBかCかの二つのケースしかないかのように語るのに違和感を覚えた。ちゃんと準備すれば武道の試合が安全であるのと同様に切開しないで裂けることもなくなると思う。もちろん、準備していても武道では怪我人が出るが、その確率が想定の範囲内であれば、武道で試合することは自己責任といえるだろう。
・ただし私は、「効率」のために帝王切開するケースについては、必ずしも否定するものではない。助産婦の元で自然分娩するのは、あまりにも時間が不確定であり、医師への負担は過剰になる。とくに前回に帝王切開した妊婦についての場合などは、再度切開するのは仕方ないのだと思う。 |
(2008年2月7日) 『別冊宝島 おじいちゃんにもセックスを。』というムック本が送られてきた。二月ほど前にインタビューを一時間ほど受け、一月後にゲラがメールで来たので、修正した。ところがこの本を見ると、インタビューをゲラとして起こした本文とは別に、私の発言が掲載されている。その中に、「団塊の世代に何を期待するのか」という問いがあり、私は「早く死ねばいいのに」と主張したことになっている。確かにその場での私の発言を部分だけ取ってつなげればそうなるのかもしれない。そう面白くまとめる人がいたということであろう。しかし私はゲラが出て目を通していたなら、これについては真意についての曲解だとして修正したはずだ。 私が喋ったのは、こんなことである。 団塊の世代は、人数が多く内部で競争が激しかったため、それ以外の世代に対しても内輪ノリで接するところがあり、礼儀知らずに感じることがままある。これは世代全般について言えることだ。そして人数にすればそのうちでほんの一割ほどかもしれないが、そうした中に全共闘運動に関わった者がおり、さらにその一部には東大で闘争にかかわった者がいた。私はかつて彼らの発言だけを聞いて、警官から暴行を受け重傷を負った者が多数あったと思っていた。官憲の暴力許すまじ、と共感すらしていた。ところが後に佐々淳行氏の本や『全共闘白書』(新潮社)などを読んでみると、その数十倍に当たる人数の警官が重傷を負っているではないか。それはそうだ、警察が学生になるべく怪我をさせないよう配慮していたのに対し、安田講堂の屋上に陣取った学生たちは、登ってくる警官めがけて巨大な岩石などを上から落としたりしているからだ。 警官といっても、同世代である。その人々のうちには、不幸にも岩石を頭部に直撃された人が多数いたという。首に重大な障害を負い、明るい将来があるはずの若い身で、売店などでしか働くことが出来ない身体になってしまった人もあると聞く。それに対し、とくに『全共闘白書』に記されたかつての全学連学生の発言は酷い。人生を棒に振らせた警官を思いやる言葉など見あたらないのである。また政治活動で盛り上がろうぜ、といったノーテンキなノリが見られるばかりなのだ。 このように、老境にさしかかってもまだ反省するすべも知らないグループについて、「早く死ね、何も期待などしない」と私は述べたのである。私は、被害者も含まれる団塊世代の全体に向けて、そんなことは言っていない。 |
(2007年12月27日) 先日、武道について衛星放送(朝日ニュースター)で対談することがあり、今年多く見られた武道的な事件についての私見を述べた。朝青龍問題、亀田問題などである。その一部で、中教審が武道を中学の正課に取り入れるという答申を出したことなどに触れた。また、柔道の世界大会で鈴木や井上が負けたことを受け、「柔道」が「JUDO」に変質したといわれていることについてコメントした。 番組そのものについては、収録中から社長がじきじきに立ち会われるなど、大変好評であった由。さらに二週間ほど経って、反響の葉書などが寄せられたとして、ディレクターが届けてくださった。 その中に、唯一批判らしきものがあった。葉書「三枚」に続けて不満が述べられているという奇妙なものであったので、「これは何でしょうか」と尋ねられた。 「元全日本学生柔道連盟会長」のTさんという方(実名が記されている)によるもので、私としては、「ああ、またか」という感じであり、 東大柔道部長を批判すべく熱心に投書をしておられる様子には、関係者は切迫したものを読み取るかもしれぬ。 しかし内容はごく他愛ないもので、「柔道の本質は道衣のゆとりにあり、それが国際柔道では失われつつあることが問題の本質うんぬん」というものであった。それを私が認識していない、自分は高専柔道はかつての名人に習った、ボルドーでは道上伯師範から話を聞いた、とか、ディレクターには訳が分からないことが書いてある。これまた、関係者ならばいつもの 自慢話かと分かりはするものである。 しかし、私の当日のテーマは、「武道」であった。武道はスポーツと武術と修心から成ると嘉納治五郎は言っている。私は、中教審の件については、「戦後の柔道指導はスポーツとしての勝利をめざすものでありそれについては成果を上げたが、弱い子を指導する面では必ずしも成果は見られない」として、正課への導入については「修心」としての指導をいかにするのかを詰めるのが課題だと述べた。しかし、「道衣うんぬん」はスポーツとしての柔道のルールにかかわることであり、当日のテーマである武道とはずれている。学柔連はもっぱらスポーツとしての勝利を競う団体であるから、元会長氏はスポーツとしての柔道を武道と勘違いしているのだろう。柔道と聞けば何でも持論にひきつけて語りたがる人の典型が、ここにいる。 もちろんスポーツとしての柔道の伝統とルール問題をどう考えるのかというのも重要なテーマではあるので、司会者が次回は山下泰裕氏にも声をかけたい旨を言っていた。だから、その場では述べなかったのである。 ところで、私は一部当日語ったことに、伝統とは異なるナショナリズムを排せ、ということがある。それ以上は述べなかったのだが、私には、この「柔道着のゆとりうんぬん」もそれに当たると思えている。私自身は、講道館柔道や日本人の身体に適した柔道は、なるほど道衣のゆとりを用いて崩し・ つくり・かけを駆使するものだと考えている。というか、そんなことは常識であろう。ところが柔道が外国人にも伝わり、国際化する中で、それとは異なる戦法をとるJUDOが現れた。外国人にすれば、日本人が崩しからの戦法に長けているのであるから、それとは異なるパワー柔道・組み手柔道に偏するのは、当然の戦略である。挙げ句、日本人の戦法を封じるために、道衣の規定を変えようとする政治までが行われようとしている。私も、これは由々しき状況だと考える。 しかし、それに対する日本の柔道界の反応は、もっぱらこの元会長と同様であり、「真の柔道はうんぬんであるから、それに諸国も従うべし」というものであった。スポーツにおいて競争するのに、ルールのみならず戦法までも敵に強いるというのは、ナンセンスである。 外国勢は、あえてそれをしないことで日本に対抗しようとしているのであるから。ルールのもと、多様な戦法が競い合うのは、サッカーなどを見れば当たり前である。それゆえ 多くの国がこの意見には従わず、 国際大会では崩しの柔道・パワー柔道・組み手柔道が競い合っている。いずれもスポーツのルールとしては容認されているからだ。そして日本人が負ければ、それは「JUDOになったからだ」と深刻ぶって嘆くのが通弊となってしまっている。 柔道本質論は、日本国内では伝統ある意見だし、私も尊重するが、スポーツとしての競技においては戦法のひとつにすぎない。それを国際舞台で他国が真似るよう訴え続ける ことには意味がない。どの国も、自国の戦法に有利なルール変更を目論んでいるからだ。つまり「柔道本質論」は、スポーツのルールを変更するという政治の世界では、まったく無力であり、むしろそれ以外の主張をしない言い訳になってしまっているという点ではマイナスですらある。 こうした本質論のせいで、道衣が変更されていくのを傍観するしかなくなっているのだ。この現状に、私は大いなる危機感を持っている。 柔道がスポーツとして国際化を目指した時点から、講道館柔道の伝統は、国際舞台においては「本質」などとは主張できなくなってしまった。 柔道をスポーツとして時点で、崩しやつくり・かけは一戦法にすぎなくなったのである。それが嫌ならば、剣道のように国際化・スポーツ化を拒絶すれば良かっただけのことだ。 それゆえルール会議などでは、本質論によって外国勢を折伏しようとすることは日本有利の状況を作り出す戦略にしか見られなくなり、反発を受け、むしろ変更論を促進 してしまっている。私は、全柔連は「柔道の源流である日本のものも含めて多様なJUDOが共存しうるように、道衣の形状は変更してはならない」と唱えるべきだと思う。道衣変更は スポーツとしてのJUDOの多様性を損なうから拒否する、という理屈である。 この立場からすれば、「柔道本質論」は日本の優位を保つためにJUDOの多様性を抑制するものである。 実効性ある立場を築けないのは、ナショナリズムのせいだというのが、やはり私の結論だ。 柔道界には、書生の本質論ではなく、大人の外交ができる人材はいないものであろうか。 (追記)葉書の内容につきこの場で公開したのは、私文書であるから不当という考え方があるかもしれない。しかしそれは元学柔連快調という公人名で、私の柔道にかんする理解が足りない旨を放送局に伝えるものであるから、ある種の公性を有するとここでは考えている。 |
(2007年6月12日) 最近、自分が武道に専念していることについて質問を受けたので、考えを述べておきたい。 ひとつは、そもそもなぜ社会科学者が武道なぞにかかわっているのか、と聞かれたことである。私の答えは簡単で、私は日本の伝統的な価値観に関心を持っているが、それは仏教や神道などの宗教だけでなく武士道にも集約されているという(藤原正彦氏的な)考え方に共感しているからである。 現代では武士道は形は変えてはいるものの武道に引き継がれているだろうから、それを実践してみているわけだ。これについては逆に私が質問してみたいのだが、なぜ武士道うんぬんを論じる方が、武道で汗を流そうとしないのだろうか?武士道が武道にかわり、それが現在の消費社会の中で時々刻々と変形しつつあることは、この社会を論じるための格好の素材だと思うのだが。武道にかかわらず武士道に論究するのは、机の上の話でしかないと感じる。 ふたつには、この三月から東大の柔道部長を拝命し就任させていただいているが、それならば『GONKAKU』の連載で全日本選手権での「井上(康生の組み手)は知的にレベルが低かった」うんぬんと発言するのはいかがなものか、という問いかけである。 この部分だけ読めば井上選手を侮辱する発言ととれるだろうし、一大学の部長という柔道界での責務ある立場からすれば不穏当ということになるかもしれない。ただ私にとっては、現代社会を分析するという学者としての活動の一環として武道をみずから実践しているということが、あくまで根本にある。柔道愛好家であり柔道部長である以前に、私は社会科学者なのだ。 その立場からすれば、何事か(たとえばキリスト教)を分析するというのは、特定のキリスト教会が何を主張しているのかとはまったく別に、その主張の真意を探ることだったりする。価値中立的に対象を分析するということは、それを対象とされた組織が不快に思おうと、学者としての使命である。 それでいくと、社会的な事象としての柔道にについては、これまで価値中立的な分析がなされてこなかった、というのが実態ではなかろうか。講道館という組織が主張することをなぞるのが柔道論とされるのが通例となっているが、それは知的な営為とはいえない。社会科学にも水準というものがあるが、大半の柔道論はその水準に達していないのである。 それともうひとつ、ここでの私の発言は柔道界に向けてのものではなく、いわゆる格闘技にかかわる読者に向けてのものだということがある。柔道界の内部での発言ならばその業界内でそれなりに気を配って発言しなければならないかもしれないが、『GONKAKU』は柔道はやったことがあっても現在は専門ではない人、そもそもかかわったことがない人を読者としている。その読者と思われる人々と共有するであろう前提のもとで、話をしているわけだ。 この発言の前にも、私は「柔道界には先輩に何も考えずに従い、身体能力が高いものを偉いとする風潮があるが、格闘技畑の人間から見ると、そうした知性の無さが柔道のいやなところでもある」と言っている。身体能力が高くて強い人間に頭を使って対抗しようとするのが武道であるとすれば、我々凡人が持ちようのない身体能力の高さの表れである内股だけを連発するという組み手は、知的ではないことになる。 さらにその前でも述べていることだが、身体能力として明らかに劣る庄司選手が背中を向けて組み手を取らせない戦法は、格闘技の発想からすればいかにも知的刺激に満ちていた。武道としての柔道には、そうした戦法を抑圧するのでなく、知的な妙味としてとらえるだけの鷹揚さを求めたい。工夫も封じられるならば、身体能力に劣る人たちは、ますます柔道から離れていってしまうだろう。 |
(2006年11月28日) 読売新聞に、とある書評が出た。 私は原著を読んでいないのでそれについては論じない(ネットで参照できないからで、議論は別の機会に譲る)。だが、この書評にかんしては、ひとこと言っておかねばならないと感じる。何割か私の景観論に対する当てつけだと思われるが、それだけではない。 http://www.yomiuri.co.jp/book/review/20061120bk02.htm 世の中には、愚論というものがある。およそ議論するために必要な水準の知識も持たないのに、何ごとかを鼻高々に論じるような文章だ。 この文章には、日本の景観をここまで醜悪にしたのが建築家たちやその主張に乗せられる人々であることがよく示されている。ここでは、「景観」が「日本橋」と「首都高」に置き換えられている。この段階で、すでに景観論としてはペケである。なぜなら、それらは建造物であって景観ではないからだ。景観とは、建築物や自然環境などが生み出す一種の「文脈」である。 建築を論じるにすぎない人が景観を論じた気になり、どの建築物が美しいかといった下らない主張をしている。ここには、「文脈」として景観を論じるという初歩中の初歩の知識も見あたらない。私としては、首都高と日本橋がともども美しいとされても構わない。問題は、美しいものが重なる文脈が醜悪なものになっている、ということなのだ。美味しい松茸ごはんに美味しいショートケーキを混ぜればどんな味になるものだろうか。日本の景観を破壊したのは建築物そのものが醜悪なことではない。「文脈」という感覚が麻痺していることなのだ。首都高と日本橋が重なって見える光景が、どう美しいのか、 書評者には論じる義務があると思うが、いかがだろうか。深刻ぶってヨイショ記事を書いた責任はとっていただきたいものだ。 また建築家には、美しい作品に堂々と電線や電柱がかぶさる正面写真を撮る人がいるが、どういう神経なのだろう。絵画の額のガラスにいたずら書きされて平気な画家は多くはあるまい。 「美意識のおしつけ」といった話はこれまでにもマンション業者が散々振り回したもので、いまどき文章にするという神経には驚くべきものがある。しかもそうした業者は国立マンション訴訟の明和地所に至るまで、景観を守ろうとして提訴した地元住民に連戦連勝してきたのだ。ここに描かれるような被害者意識は不気味である。 自己中心的な建築家や利己的なマンション業者、そして「文脈」感覚の麻痺している書評家が一緒になって、日本の景観を末期的にまで破壊している。それに対しそれこそ一石を投じたにすぎない景観法が現れただけで、被害者意識まるだしで愚論を展開しているのだ。 |
(2005年5月28日) あさって朝日に掲載される書評で、訳書の監訳者に対して批判を書いたので、ありうべき反論にあらかじめ応えておく。 評したのはアミタイ・エツィオーニ『ネクスト』、小林正弥監訳、公共哲学センター訳、麗澤大学出版会、である。 私は書評の末尾に「監訳者解説はアメリカの政治潮流も踏まえて有益だが、字句表記などで自己宣伝の気配が あり、戸惑う。」と述べたのだ。朝日の担当記者からも「何のことですか」と尋ねられたので、真意を正確に書いておきたい。 @エツィオーニのコミュニタリアンとしての主著は前に翻訳された永安幸正監訳『新しい黄金律』(同社)であるが、解説ではこの訳書の書名を何度か挙げられており、しかもなぜか『新黄金律』という表記も同時に用いている。当然、読者としては別の本か、もしくは『新黄金律』を単独の論文と考えるだろう。フクヤマの『歴史の終わり』は、その前に同名で「?」のついた論文があった。別のものと考えるのは、『新黄金律』に「1996年に原著刊行」と付記されているからだ。『新しい黄金律』の原著は、1997年に出版されており、その旨も解説で述べられている。 Aところが驚くなかれこの二つの名称は、同じ書物を指しているのである(それが分かったのは、出版社に問い合わせたからだ)。前の翻訳の書名が気に入らないということはありうるし、訳し直して悪いわけではない。けれどもそれならそれで「書名の訳がよくないから変えた」と記するのが読者に対する礼儀である。それにしても、原著の刊行年次が違うとはどうしたことだろうか。 Bその上で解説を読み進むと、妙な雰囲気もある。「エツィオーニも、監訳者の提案した『地球的公共哲学』や『地球的コミュニタリアニズム』と極めて類似した観念を提示しており・・」などとあるからだ。自説を述べたいのだな、と苦笑する。 Cクリントンからブッシュに至る政治姿勢の変化などはよく書けているのに、Bの自説の部分が浮いているのが何故かといぶかしく思って読み進んだら、最後を見て驚いた。「解説は吉永が書いた原稿に、小林が加筆・修正を行って作成された」とある。それならば共著ではないか。いくら断っているといっても、解説には「小林」の名前しかクレジットされていない。 コミュニタリアンとはコミュニティの道徳を重視する立場であるが、読書界も一個のコミュニティであろう。共著を単独名にしたり、訳書の書名を書き換えて注釈をつけないのが「地球的公共哲学」なのであろうか。たんなるエゴイズムではないかと思うのだが。 |
(2005年5月31日) 小林氏からメールで反論を頂いた。主な内容は ・『新しい黄金律』の出版年次には資料に二つのデータがあり、それで混乱した。 ・解説は、小林氏が他で書いた文章を吉永氏が整理し、さらに吉永氏が『ネクスト』を要約し、それに小林氏がオリジナルな文章を付け加えたものである。共著と表記しようとしたところ、吉永氏が単著としてほしい旨申し出られた。 ・反テロについてエツィオーニを批判する感想を記すのは、学者としての務めであると考えた。 ・松原が「エゴイズム」と評したのは、松原と小林氏の思想的立場の相違を示すものであり、「地球的公共哲学」に対する反感がコミュニタリアニズム的な精神に対して目を曇らせているからである。 というものである。 それに対する私の返信をここに掲載しておきたい。 ***************** 小林正弥様 |
◇バカさゆえ・・・(2004年7月6日) 景気が回復している。これにかんする私の判断は中日新聞に書いたが、要するに Aストックについて:昨年初夏来の株価上昇のせいで大銀行が自己資本比率をクリアし、さらに余裕を持てるようになり、不良債権処理を進めている。これについてはりそなへの公的資金投入が効を奏した というものだ。私の年来の主張は、 ・土地神話の崩壊以降、資産デフレが起きたために自己資本比率を維持できなくなった銀行が貸し剥がしを行っていた ・将来収益に不安があるとき、銀行は金融緩和の下では安全資産である貨幣や国債を保有しようとする。 ・金利を下げようと、インフレにしようと、それで貸し出しが増えたりしない ・土地・労働・資本についての制度の急激な解体により不安が広まり、消費は「負け組」の間で落ち込んでおり、とくに消費性向が下がっている ということだったので、フローの需要が輸出で増えたことや、実物投資の回復が金融緩和ではなく輸出財生産をきっかけとして生じたことなどと整合的だと思っている。土地神話も一種の(思考の)制度であるから、広く言えば制度が解体したために生じたのが今回の不況だったというわけだ。 ところで@Aという次第だから、当然、構造改革と景気回復は何の関係もない。ドル買い介入や公的資金投入は財政支出削減という構造改革の精神には反しているからだ。 だがそれにも増して傑作なのが、リフレ派の理屈が総崩れになってしまったことだ。実物投資が増えないのも、消費が回復しないのも、ともにデフレが原因だと 彼らは言っていたのだが、景気が回復しているここ数ヶ月、消費者物価指数はさらに下落している。デフレのままで景気が回復しちゃまずいでしょうが。 それでも言い訳しようとすれば、「デフレにもかかわらず景気がよくなるほど輸出が増えた」「自分たちがインフレになると騒いだかにインフレ期待が形成された」とでも言うしかなくなる。まあ、どんな愚論が出てくるのか、見物ではある。とはいえ所詮は適当な理屈を並べてエバりたいだけ連中、主張に思想を賭けて論じていただけではないだけに、いつのまにか「そんな話はありうべき論理として述べただけ、仮説を立てただけ」などと言って、リフレ騒動などなかったことにするに違いない。私としては、連中がまたしゃしゃり出てきたときに備えて、どれだけ騒いだかの証拠物件を残しておこうかな。 ところで三馬鹿やその取り巻きに代表されるリフレ派の連中が、自分たちだけが経済学を理解していると鼻息を荒げていたのも、今となっては懐かしいエピソードではある。『エコノミスト・ミシュラン』の冒頭を読み返すと、こんなことが書いてある。 ・・・間違っても経済書を読んで経済学の勉強の代わりにしよう、などと思ってはいけません。やはりまずは定評ある優れた教科書にもとづいた勉強をしっかりとすべきです。そうした教科書としてはスティグリッツの『経済学』をお勧めいたします。・・・ だってさ。これにはびっくり。何が面白いって、先生方はスティグリッツの教科書をお勧めなんだが、当のスティグリッツは、専門書で先生方のリフレ論を批判しているの だから。ということは、教科書の次を読めてないってことですわな。景気がよくなった過程が自説と違っていたというのは、まあ大目にみてやってもよい。だが自説を批判しているとも知らずに、その著者の別の本を推薦するというとんちんかんは、普通のおツムでできることではない。 スティグリッツが昨年出版した本が今年東京大学出版会で訳出されているのだ。内藤純一他訳『新しい金融論−信用と情報の経済学−』である。この191ページを引用しよう。
どうだろう、「金融緩和しても貸し出ししない」のだから、インフレ・ターゲットにしようと何だろうとリフレなど起きるはずがない、と言うのだ。すでにリフレ政策は、スティグリッツによって梯子をはずされていたの である。それも知らずにスティグリッツを読めとご推薦なさるのは、なかなか念の入った珍芸、いや自爆芸というしかない。 さてではスティグリッツは、なぜ金融緩和を無効とみなすのか。 銀行は、企業からの収益が悲観に思えたり、資産デフレで自己資本比率を達成できないときには貸し渋りを行い、金融が緩和されても安全資産である国債を買う、という。それが「新しい金融論」 からどう導かれるかというと、要するに現代の「金融」では、貨幣ではなく「信用」こそが中心になっているからだ。MMFやCMAなどの貯蓄性金融商品が現れ、企業も貸し出しを行い、クレジット・カードが普及しつつある現在、経済は貨幣経済ではなく信用経済と化しつつある、というのである。 貨幣は無差別に流通するが、信用は個別に信用力が評価される。私が広く「信頼」と言ったのも、金融に即して言えばこの信用である。企業に対する銀行の信頼が損なわれ、そして銀行や企業が倒産するリスクを孕むと、貸し出し金利には信用力を反映してリスク・プレミアムが上乗せされるか、時には信用割り当てが行われる。貸し渋りはここから起きる、というのだ。とくにそれは、企業について情報を持っていない金融機関について顕著であるという。ここには、「情報の非対称性」という年来の主張も援用されているのである。 リフレ派にしても貨幣経済における短期市場金利や長期国債金利について、名目値か実質値かなどと口から泡を飛ばして言い募ってきたのだが、そもそもそれは「古い金融論」であり、それでは不況を論じることができない、というの がスティグリッツの立場だ。 ちなみに1990年代以降の日本の経済と金融については、大蔵省で最前線にあって金融危機に対処してこられた本書の訳者である内藤氏が『戦略的金融システムの創造』(中央公論新社)でスティグリッツ理論を応用して論じておられる。私としては、資産デフレがファンダメンタルな背景を持つかに書かれる部分には少々疑問があるが、それでもここ十年で書かれた本の中で、唯一すっきりとした説明を与えてくれたと思う。それで、朝日の書評で紹介させていただくこととした。 いっときはリフレ派の肩を持っていた山形浩生君なんかは、朝日の書評委員会では同席して酒を飲んでいるが、最近では同じく委員である青木昌彦さんの著書を持ってきてサインをもらったりしている。青木さんは『ミシュラン』ではボロクソ書かれていたのだから、さすが機を見るに敏ではあります。まあ、ボロ船から逃げ出すのは、早いに越したことはない。バカさゆえにイケイケだった 連中がどう落とし前つけるのか、楽しみではありますな。 追記。そういえば先日の朝日書評で、山形君はこんなことを書いていた。ケインズの有名な文句の引用だ。 ・・・ケインズは「知的影響から自由なつもりの実務屋は、たいがいどっかのトンデモ経済学者の奴隷だ」と述べたけど・・・ 山形君は専門外のヒトだから知らないんだろうけど、ここでケインズが言っている「トンデモ経済学者」って、リフレ派のことなんだよね。リフレ派応援しているヒトがこんなこと引用していいのかしら? さらに追記。 ケインズが批判しているのが「リフレ派」だという言い方がなぜかうまく理解されないみたいなので、注をつけると、ケインズが批判したのは、もちろん「古典派」である。今で言う新古典派である。その中の重要な人物にフィッシャーがいる。ケインズは、経済学説史に通じている人なら誰でも知っているように、フィッシャーに由来する貸し付け資金説や異時点間の資金配分論、貨幣数量説を批判して、流動性選好説や消費(貯蓄)関数論、有効需要説を打ち出した。 ケインズは「一般理論」に先立つ「貨幣論」では貨幣数量説を支持していたのだが、「一般理論」では完全にそれまでの立場を放棄して、貨幣数量説の批判を展開したのである。ケインズの死後、新古典派がIS=LMという枠組みでケインズの立場と貨幣数量説が両立するような解釈(総需要・総供給論)を出したが、それはケインズ自身とは関係ないことだし、IS=LMという枠組みで一般理論を書き直したヒックスも、のちにIS=LMはケインズ自身の主張の核心をはずしていた、と回顧している。つまり、ケインズが「一般理論」で批判したのが貨幣数量説であった。 そしてフィッシャーがリフレ派というのは、何も私がそう言っているのではなく、リフレ派の皆さんの主張なのである。 |
◇「バカ(略)」につけるクスリ 『エコノミスト ミシュラン』なる本について下のように(2004.1.17、「バカの壁」について)書いたところ、出版社の担当編集者である落合美砂なるヒトからメールがきた。 無断で引用させていただく。 ありきたりの挨拶のあと、 「このたび、松原さんのホームページで拙書に関してご批判を頂きました。それを拝見し、当社のWEBページにて、著者の野口氏、田中氏、若田部氏による返答を掲載しました。 拙著が松原さんのご主張を読者に誤解させるような表現をしたことに関する謝罪と、しかし反論したい部分もあり、こうした運びになりました。 なお、以下のアドレスで、掲載しております。 http://www.ohtabooks.com/view/rensai_show.cgi?parent=2&index=0 ご多忙だとは思いますが、ご一読いただければ幸いです。 もし、反論、ご意見などがあれば、遠慮なくおっしゃってください。 一部、拙著のなかで読者の誤解を招きかねない表現があったことは、お詫びいたします。」 だって。 すっごいねえ。 ずうずうしいというか、抜け目ないというか。「反論、ご意見などがあれば、遠慮なくおっしゃってください」だって?一見すると丁寧めかしたメールなんだが、ここで言ってることは、要するに「ウチの社にタダ原稿ちょうだい」ってことでしょ?この出版不況の折り、出版社が生き延びて行くには、編集さんもこれくらい面の皮が厚くないといかんの ですね。見上げたド根性ではある。 で、「一部、拙著のなかで読者の誤解を招きかねない表現があったことは、お詫びいたします」なんだってさ。「読者の誤解を招きかねない表現」があったから、私信のメールを出して「お詫び」するから許してね、って言ってるわけだ、このヒト。 ここで、拙著について『エコノミスト ミシュラン』がやったことをおさらいしておこう。(以下、「『バカの壁』三人組」は、「バカ(略)」と略記することにする。) 「バカ(略)」は対談部で、「買いたいものがないという、需要飽和派の倒錯した論理」という見出しのもと、3ページにわたって吉川洋氏の説を批判する。その途中で、「需要が飽和しているという説は意外に人気があって、買いたいものがないという議論」(若田部)については「松原隆一郎もその立場」(野口)で、「処方箋が、消費不況だから何もしないほうがいい、社会不安だからどうもようもないというような無責任なことを言っている」(田中) という発言が出てくる。 私の『長期不況論』における立論は、急激にすぎる構造改革(制度破壊のこと)が90年代後半、特に97年あたりからの消費不況の原因となった、というものだ。したがって、80年代から存在している「需要が飽和しているという説」 については、もちろん否定している。つまり事実認識において拙著は、「需要飽和派」と対立しているのである。さらにいうと、吉川氏は、構造改革を通じて需要を喚起しよう、という立場である。対するに私は、構造改革が消費停滞を招いたという立場。ということは、対策の点で も吉川氏を批判したのが拙著ということになる。つまり、事実認識でも対策でも吉川説を批判するのが、拙著なのだ。 ちなみに私の吉川説批判は、「ずさんな需要創出論」という見出しでp65から3ページにわたっている。私の主張を吉川説と読み違えて「同じ立場」と断言するというのは、「バカ(略)」にしかできない至難の業であろう。 たとえて言うと、こんなことだ。私はソバ屋を営んでいるとしよう。フレンチなんて好きじゃないから、さっぱりしたやつがいい。どうせやるなら二八で小麦粉を混ぜるのでなく、100% ソバ粉だけで打つ「生粉打ち」の店 、それも産地にこだわってる店という設定がいいかな。そこにミシュラン執筆者の「バカ(略)」が調査にやってくるわけだ。ところがこのセンセイたち、地図が読めないもので、 てんで違う場所に行ってしまう。で、フレンチレストランを発見したとしましょう。 こちらも野菜なんかに気を配って、有機野菜の産地を明記したりしている店。ここで「バカ(略)」は、「なんか、こんな店じゃなかったっけ?」「まあいいんじゃない?編集さんだってテキトーだし」なんてんで、そのフレンチを食べてしまう。で、「ミシュラン」に書くわけだ。「 産地にこだわるべきだという説は意外に人気があって、松原隆一郎もその立場なんだが、ソバ屋でソースを使うというのは無責任」とかね。 他の店と取り違えてボロクソに批判されたら、当然ながらソバ屋は抗議するだろう。そしたら編集さんがメールを寄越すのだ。「一部、拙著のなかで読者の誤解を招きかねない表現があったことは、お詫びいたします」なんてね。でも、元の本はそのまま。「バカ(略)」が太田出版のウェブで「謝罪」しているって 落合女史は言ってるけど、どこにも「ゴメン」とか書いてなかったぞ。「需要飽和派」だとか「倒錯した論理」だとか何の関係もない私もひとくくりにしといてね。まあ、売れればなんでもいいんだろう な。さすが落合サン、『完全自殺マニュアル』を編集して、自殺者続出でもどこ吹く風の敏腕編集者だけあるわな。 他人に迷惑かけて本を売るのはお手のものなわけだ。まあ今回は、被害妄想に走った著者とトラブらなければいいよね、ひとごとだけど。 本家の「ミシェラン」が、他店と取り違える大チョンボやらかしたら、どんな謝罪をするだろうか?私信やウェブでお茶を濁してすませるだろうか。この応対を見ても、ハナっからまともな評価本を作る気なんかなかったことがよーくわかる。どだいこの本は、体裁だけは論争本のような作りにしてはあるものの、その実はエラーイ経済学者が「経済学を知らないエコノミスト&読めば害になる『トンデモ』ビジネス書を一刀両断」(帯より)してみせることで、読者の溜飲を下げさせようという あさましい魂胆で作られているだけの代物なのだ。 それでいてエラーイ先生は、誰が誰かも識別できないので、赤の他人を取り違えて一刀両断。大ボケかましたり害をまき散らしたりしてるのは自分たちなのに、蛙の面にな んとかなのである。 「そうじゃない」、と「バカ(略)」や編集・落合は食い下がるのかもしれない。だがそれならば、本家のミシュランはこんな場合にどう謝罪するのか、真面目に想像してみよ。ちなみに、似た例がある。著名な美術評論家であるW氏が、読売新聞の文化面に寄稿した。その内容は大略、次のようなものであった。・・写真というのは、素晴らしい。右の写真を見よ。空からは米軍の戦闘機がおそってくる。地上では、ベトナム兵が逃げまどっている。戦争の悲惨と米国の傲慢ぶりはこの一枚で一目瞭然だ、と。ところがこの記事、W先生の大チョンボであった。編集部だって信じられなかっただろう。何しろその世界の大家が、 自分の写真論を賭して断言されたことであるから。そして数日後、「お詫び」広告が紙面を飾ったのであった。読売文化部は言う。「お詫び。先日の記事中、戦闘機はベトナムのもので、逃げまどっているのは米兵でした」、と。読売は、しっかりと紙面で「お詫び」したのだよ。さぞカッコ悪かっただろうけどね (ちなみにこの話、私の記憶にもとづいている。というのも大読売、この記事をウェブの過去ログから抹消しているのだ。さすがインフレ・ターゲットのパトロン、芸が細かいです)。 それとは対照的に、「バカ(略)」は、太田出版のウェブで、こんなことを言っている。「・・本書を批評していただいたことを感謝したい。われわれはかねてから、日本の経済論議の混迷の原因の一つは、各論者の見解がこれだけ鋭く対立していながら、明示的な論争が行われず、・・・・そしてそのことが、エコノミストたちの論議の信憑性に対する人々の根強い疑念の大きな原因となっていると考えてきた。」 どうやら、私とのやりとりを論争だと思わせたがっているらしい。だが、こんなものを論争と称したら、論争している人に申し訳ない。料理の評価にたとえれば、他の店に迷い込んじゃって私の店に ついて訳の分からないゴタク並べるセンセイたちと、論争なんかしようがないでしょ?そんな識字力もない連中に、論争以前の教育をするほど私はヒマではないのだ。センセイたち、論争がないから「エコノミストたちの論議の信憑性に対する人々の根強い疑念」が起きているなんて書いてるが、エコノミストの信頼が低下しているのは、そんな高尚な理由からじゃない。他店と間違って人の店の悪口を書き、平然としている「バカ(略)」が跋扈しているから、エコノミストが信頼を失ったのにすぎないのである。 ところで私は前回、「この本には、他にも学生のような人が長い文で私の経済論にかんして揶揄しているが、まあ私に指導義務があるわけでもなし、面倒なので放置しておく。若い身空で「バカの壁」 建てなくてもいいのにねぇ。」と書いた。ここで「学生のような」と私が形容したのは、飯田泰之というセンセイである。大学の「専任講師」とかの肩書きがついているから、 何かのセンセイをしているらしいことは私も認識している。 にもかかわらず、学生のレポートみたいなこと書くから、「学生みたい」と評したのである。私としては、まだ若い人であるようだし、自力で考えていただこうと、「バカの壁」 を建てなさるな、とのみご注意申し上げた。書評するときにはちゃんと本を読んでからにしなさいね、ということだ。「バカ(略)につけるクスリ」を差し上げたつもりであったのだ。 本来ならば、年輩者である「バカ(略)」や、サル回し役の落合某といった人々が、若手の書いた文をチェックすべきであろう。ところがここでまた「バカ(略)」が、鬼の首でも取ったかのようにはしゃいでいる。「(飯田氏は)・・数多くの学術論文を公表しているだけでなく、経済学の論理的思考に関する啓蒙書・・・の著者としても知られ、それらによって高い評価を得ている研究者である。そのような研究者に対して、「学生のような人」とか「私に指導義務があるわけでもなし」といった、明らかに個人を侮辱しようという意図を含んだ表現を軽はずみに用いることの重大さを、松原氏は十分に考えてみるべきであろう」なんだそうな。 ふーん。 では尋ねたい。まずはこの人が拙著を評した文の見出しにある、「社会学者による”誤解だらけの”経済学批判」というのは、いったい何なのだろか。センセイは、私に対して「著者が主流派経済学の功績についてどの程度の理解を得ているのかはわからない。もし、著者が本当に以上にふれたような主流派経済学の主要な結論を知らないのならば、虚心坦懐にミクロ経済学・マクロ経済学の中級テキストを読むことを薦めたい」と言っている。私は大学で経済学を教えているのであるが、こうした文を読んだ 学生は、「松原は中級のテキストも読んでいないらしい、経済学者は詐称で、社会学者にすぎないらしい」、と思うだろう。なにしろ「高い評価を得ている研究者」であるらしいから。これだけ「個人を侮辱しようという意図」まるだしの文も珍しいんじゃない? もちろんそれでも、述べていることが的確ならば、私も批判に甘んじなければならないだろう。講義する資格を疑われても仕方ないところだ。ではこのセンセイは、拙著にかんしてどう理解しているのか。散漫な文なので「バカ(略)」の言い換えを借りると、この センセイが述べているのは「(松原が述べている貯蓄率上昇現象)は、異時点間の最適化を考慮に入れた新古典派の標準的な消費・貯蓄理論から得られる、きわめてありきたりの結論であって、「主流派経済学では説明できない現象」ではまったくない。事実、そうした現象に焦点を当てた研究は数多く存在する(たとえば、岡田敏裕・鎌田康一郎「低成長期待と消費者行動:Zeldes-Carroll理論によるわが国消費・貯蓄行動の分析」日本銀行ワーキングペーパーシリーズ、2004年1月)」ということである。こうした批判を読めば、当然「エコノミスト ミシュラン」の読者は、私の本の内容を次のようなものだと考えるだろう。 1.松原は、需要不足による不況や、貯蓄率上昇現象は、主流派経済学では説明できない主張している。 2.松原は、需要不足による不況や、貯蓄率上昇現象にかんし、「異時点間の最適化を考慮に入れた新古典派の標準的な消費・貯蓄理論から得られる、きわめてありきたりの結論」について知らない。当然、そうした結論を導く論文の存在についても知らない。 1.から行こう。私は、内閣府の構造改革論が、市場が長期的に均衡することを前提に立てられていると理解している。長期的には価格が伸縮的であるから市場が均衡するというのは、主流派経済学の常識 でもある。とまあこう述べたのを見て、飯田センセイは、大変だ、松原は「新古典派には需要不足による不況の視点がない」と考えている、と早とちりしたらしい。あのねえ、私は、「新古典派 の理論では、長期には市場が均衡し、短期にも需要不足が生じうる」という話をしてるの。 p33からの3ベージなどで長々とそう書いてあるのに、分からないのかなあ。長期と短期って概念があるの、知らない?初級の教科書にもそう書いてあるから、ちゃんとお勉強して下さいね。 2.について。飯田センセイの文やそれにつられて「バカ(略)」が上記のような論文を引用するところから、読者は当然私がそういった議論や文献について知らないと思われるであろう。ところが驚くなかれ、私は拙著で貯蓄率上昇現象について述べた後、長々とこう書いているのである。
ここで私は、需要不足による不況や貯蓄率上昇現象 を、土居氏の論文が恒常所得仮説や予備的貯蓄といった概念から説明し、その説明をさらに石原氏の論文が異時点間の選択という観点から補強していることを紹介しているのだ。つまり私の立論は、短期的 な需要不足は新古典派での理屈で説明できるという認識から始まっているのである。 ちなみに、石原論文につき、全7節のうち、該当箇所を紹介すると、次のようになる。「第1節は導入部として,恒常所得仮説が提唱された背景と,Friedman (1956)による恒常所得仮説の概略を紹介し,Hall (1978)以前と以後のアプローチの違いについて簡単に指摘している. 第2節では,Flavin (1981)に従って,恒常所得の適切な定義を,動学的な効用最大化を行う家計の,時間を通じた予算制約式に基づいて行う.この定義が,元々Hicks (1946)の議論に基づいていること,また,この定義を労働所得や利子率に不確実性がある場合に拡張する場合の注意点についても議論する.さらに,恒常所得仮説の下では,消費の時系列がランダム・ウォークに従うことも示される. (以下略)」 ところで、私の勤務する大学の教養学部には、「基礎演習」という授業があり、そこで私たち教官は、レポートや簡単な論文の書き方を講義している。で、最初に伝えるのは、次のようなことだ。 「まず、説明したい現象を述べなさい。次に、それを説明する既存の説を列挙しなさい。それから自説を展開しなさい。そののちに、自説が既存の説よりももっともらしい説明になっていることを論じなさい」。こんなこと、大学で教えるほどのことではない常識だ、と従来は考えられていたのだが、あまりにも学生の学力が落ちたため、教養学部で必修の演習科目となったのだ。十年ほど前のことである。 センセイはその単位をちゃんともらえたのかなあ。 センセイ方、分かりますか?ある現象について、説明する理屈が複数あるというのは、当たり前のことなのよ。そしてその説明の中でもっともらしいものが自説であることを論証するのが、論文というものなのだ。たとえば天体の運行については、地動説と同様に天動説でも大半説明がつくのです。そ うした中で地動説の優位を唱えようとするから、論文を書く意味があるのだ。そこで私は、 「需要不足や97年に生じた貯蓄率の上昇などという現象」を持ち出し、それを説明する既存の理屈として土居説+石原説という新古典派理論を挙げ、対する自説として、( 既述したのですべては述べないが)不安を制度崩壊によって異時点間の選択ができなくなった状態と解釈するものを掲げたのである。 ところがセンセイは、私が既存の(新古典派)説を批判しているのを見て動転し、既存の説では現象の正当化そのものができなくなると私が主張していると 思いこんでしまった。それは、文章の論理構成というものがどうあるべきなのかを理解していないから、そして私が何を書いているのかを読めていないからだ。もっと言うと、ご自分のよって立つ新古典派の理論が批判されたから、逆上したのであろう。早とちりするのはセンセイの勝手だが、私が「新古典派の標準的な消費・貯蓄理論から得られる、きわめてありきたりの結論」も知らない、なんて活字にするのは、自分の読解力 の貧困を棚に上げて、ずいぶんな物言いだよね。 せっかくだから、ふたたびたとえ話をしておこう。私は、ソバ屋を営んでいる。これまでは二八のソバが主流であったし、老舗では職人にそう打つよう指導している。実際、二八の方がツルツルしているし、それを ソバの醍醐味だと考えることにも一理はある。しかし私は、ソバの実の香りを味わうことこそがせいろソバの本質だとみなしたい。100%のソバ粉を使う方が、ソバの香りも立つし、ソバらしいと考えるからだ。 そこで私は、二八のソバと生粉打ちソバの双方をメニューに載せ、ただし後者に「お薦め」と記すことにした。そこにミシュランから、また若手のセンセイがやって くる。このセンセイは、エラソーに評論するわりには、老舗にしか行ったことがない。それで、 生粉打ちのソバを食べ、メニューには二八ソバも記されていることを見落として、こんな風に書くのだ。「パスタ屋による、誤解だらけのソバ批判」「松原のソバは、 なんかぼそぼそしている。パスタ屋の出身なのだろう、ツルツルしているというのがそばの醍醐味であることを知らない。虚心坦懐に、老舗ソバ屋で修行することを薦めたい」、と。つまり自分が不勉強で早とちりしているだけなのに、エラソーに私の店の営業妨害をするのである。 ここまで書けば、なぜ私がセンセイを「学生のような」と形容したかはお分かりいただけるだろう(私はここまでなかながと述べなくても、まともなヒトなら簡単に理解してもらえると考えていたが、それは「バカ(略)」を甘く見ていたからであった)。第一に、飯田センセイは、 学生が修得すべき論文作法について理解していない。第二に、センセイは私の本を「啓蒙書」と呼んでいるが、その啓蒙書 の内容も把握できていない。第三に、私に「中級テキスト」を読め、というのであるから、私のみならず私が紹介している土居氏や石原氏も、中級テキストを理解していないことになる。これはたんなる中傷を越え、 我々の職業に対する妨害である。自分が啓蒙書も読めもしないのを棚に上げて同業者の資格問題にかかわるようなことを軽々に書くのだから、どこかの大学で学生相手に講義したり、なにやら「論理的思考」の本(!)を書いたりしているとしても、この ヒトはしょせんは学生に毛が生えたか生えていないかといったお方なんだろうと忖度した次第なのである。 他にも、センセイ方は教科書というのも一個の制度にすぎないことすら分かっていないなど、笑わせてくれる論点が多々ある。「バカ(略)」 は、私の説に対して、「「制度を貨幣よりも信頼しうるものにすべき」といった、何か深い意味がありそうだが実は無内容な論理」と述べている。そりゃそうだろうな。この連中は、学説という制度を改革するには、ちゃんと既説を挙げ、自説を対置し、漸進的に改革すべきだということをまったく理解できていないのだから。そんな手続きを踏むことは、「バカ(略)」 の目には、「無内容」と見えているのである。一方、私は、新古典派の教科書という制度にせよ、「エコノミスト ミシュラン」のような内実がバレたら世間から信頼をなくすことになるので、こういった事態を改革すべきだと言っているのである。無内容なのは「バカ(略)」著の「エコノミスト ミシュラン」なのだが、繰り返しても詮無いので、もうやめることにしよう。 最後にもう一度言うが、私は決して論争しようなどとはしていない。論争するだけの識字力もない「バカ(略)」 と、本さえ売れれば誰が迷惑しようとお構いなしの編集者が牛耳っているのがエコノミスト業界であることを報告しているだけなのだ。そして「エコノミスト ミシュラン」が多く売れれば売れるほど、 その証拠が世に残ることを、読者には知らせておきたいのである。 そういえば私は、景気対策を提案しない無責任者だと批判されていたな。ならば最後に、提起しておこう。この不況には、経済政策の混乱が引き起こした面がある。そして政策の混乱は、エコノミストの学力が、論争できる水準に達していないことに由来している。学者の学力崩壊である。そこで、提案。政策提起者には、せめて啓蒙書を、小学生ばりに声を出して読ませましょう。 その啓蒙書としては、養老孟司著『バカの壁』と、参考文献『エコノミスト ミシュラン』をお薦めしましょう。なんちゃって。 嗚呼、やんぬるかな。「バカの壁」はかくも高く、険しいのである。 |
◇「バカの壁」について(2004.1.17) 『エコノミスト ミシュラン』なる本がある。編集者が、お前のことが書かれている、と言って送ってくれたので、目を通した。田中・野口・若田部というリフレ派の連中による経済書 評価本だ。といっても自説に関係するものは仲間ぼめして、他はけなすということなので、評価でもなんでもない。たんに陣地を張るだけのしろものだ。 私についてはボロクソ書いてあるのだが、その内容が笑える。こんなこと印刷して、証拠残していいのかな〜とにんまりしてしまう。 「需要が飽和しているという説は意外に人気があって、買いたいものがないという議論」(若田部)については「松原隆一郎もその立場」(野口)で、「処方箋が、消費不況だから何もしないほうがいい、社会不安だからどうもようもないというような無責任なことを言っている」(田中) のだそうだ。 噴飯ものである。 私の『長期不況論』の主張は、以下の通りである。 1.景気後退期には消費性向が上がり、回復期には下がるというのが戦後日本に限らず経済の一般的な傾向であるのに、なぜか97年から2000年、さらに2002年には逆のことが起きている。つまり、景気後退とともに消費性向が下がり、人々は貨幣保有を増や すという現象が目立っている。景気後退→消費性向下落→需給ギャップの拡大→不況の深刻化、というスパイラルだ。これを消費不況と呼びたい。 2.消費の落ち込みについては、80年代半ばから「選択的消費」が増えて欲しいものがなくなったという説があるが、それでは97年からの異変について説明がつかない。それゆえ、別の説明が必要になる。 3.消費者に対する調査によれば、消費を手控えているのは、雇用や所得、年金や増税について将来不安があるからだ。 4.私としては、この「将来不安」を、生涯所得にかんする計算ができなくなった状態と解釈したい。 5.消費関数論で一般に採用されているフリードマンの恒常所得仮説では、消費は恒常所得の関数である。そこで私は、消費不況を、恒常所得について計算できなくなったため生じた異常現象としてとらえたい。 6.所得は生産要素の対価として与えられるが、それは労働に対する賃金、土地に対する地代、資本に対する利子・利潤が源泉となっている。それらは完全な市場化が困難であるため、さまざまな制度によって守られてきた。労働については終身雇用制等、土地については容積率・都市計画法・建築基準法等、資本については護送船団方式等である。それらの制度が存在したせいで、人はおおよその生涯所得を算出できたつもりになっていた。 7.ところが構造改革は、こうした制度を一気に解体しようとしてきた。そのせいで、生涯所得が算出できなくなり、将来不安から貨幣需要が高まり、流動性の罠が生じて消費不況に陥った。 8.こうした急激な改革を行うなら、何もしない方がまだましだが、改革を行うとすれば漸進的にすべきだ。それはソ連がビッグバン方式で混乱したのに対して中国が漸進主義を採って成功したことにも符合している。そこで制度を、たんに撤廃するのではなく、資本・土地・雇用にかんして必要な形に再編すべきである。 ちなみに誰でもこう読める証拠に、最近出版された朝日選書『経済大論戦2』には、ほぼこの形で正確な要約がなされている。 さて、「需要が飽和しているという説は意外に人気があって、買いたいものがないという議論」があり、私はそれを上記のように批判するために『長期不況論』を書いた。それなのに、「松原隆一郎もその立場」というのだ。彼らの頭の中では、私の立場と、私が批判する立場がひっくりかえっている。 また、「何もしないほうがいい」、というのは、余計な構造改革に対して言っているのであり、必要な改革は粛々と行うべきだ、としている。「社会不安だからどうもようもない」というのは、インフレ・ターゲットなどの小細工ではどうしようもない、ということだ。私は、現在は制度が崩壊する中で貨幣だけが唯一信頼できるものとなっているから人々が貨幣を持とうとしていると考える。それゆえインフレを起こすのは唯一信頼している貨幣をも信頼できなくすることに等しく、自虐的政策である。政策であるからには、制度を貨幣よりも信頼しうるものにすべきだろう。私からすれば、「無責任なことを言っている」のはこの三先生である。 この三人組は、「リフレ政策に反対する連中は勉強不足もはなはだしい。」「ぼくたちは、リフレ派に反論している人たちの本をかなり読んで」いる、と鼻高々である。ところがどう読むかというと、私にかんしては正反対に理解しているわけだ。読んでいないと思いたいが、読んだというのだから、理解する力がないということなのだろう。『経済大論戦2』は三人がしばしば「世間知」とかで蔑視するジャーナリストの共著だが、こちらは正確に私の主張を理解している。ということは、この三人は、揃いも揃って知的には世間にも劣っていることになる。 もっとも、私はそうではないと思っておきたい。そうだとすれば、一つの解釈が成り立つ。養老孟司氏は『パカの壁』(新潮新書)で、「自分が知りたくないことについては、自主的に情報を遮断してしまっている。ここに壁が存在しています。これも一種の「バカの壁」です」と述べている。この三人は、一生懸命勉強した教科書に書かれていないことは知りたくないのであろう。それで「バカの壁」を建てる。「バカの壁」を隔てると、私が言っていることが逆に読めてしまうのであろう。 三人してせっせと建てた「バカの壁」が、この本である。 (付記) だがどうやら、エコノミストたちの討論を聞いていると、そうした言論のルールにはとんと無頓着で、自説を振りかざして大立ち回りする人が増えているように思える。そうした人たちは、大声で騒げば自説が正しいことが世の中に受け入れられると考えているようだが、私の感じるところ、すでに世間の目は小うるさいだけで成果もない政策論議には飽き ている。むしろかつては人目にさらされなかったエコノミストという人々が、一見賢そうに見えるわりにはあまりに怪しい性格で、それが丸見えなのにまったく気づいかないほど無邪気かつ鈍感であることを面白がり始めている。 |
◇「ネット・ストーカー」について(2003.10.1) 池田信夫という人がいる。経済産業研究所で、IT関係の仕事をしているらしい。彼が私的なサイトで私について触れているとゼミ生が言うので、拙著「長期不況論」への「反書評」なる文章を見てみた。(http://www003.upp.so-net.ne.jp/ikeda/matsubara.html) 書評としては、お粗末の一言。なにしろ拙著に書いてあることの要約にしてからが、学生のレポートの水準にも達していない 。批判ならありがたく拝聴するが、拙著には関係ないことばかり書いてあてこするのだから、話にならない。この人は 世間の人が誰も読まない研究所の内輪の雑誌に難しげなテーマで文章を書いているようだが、誰にも分かる書評のような文章を書くととたんに馬脚をあらわして、 読んだり考えたりさらにその結果を文章化するという作業を平静に遂行できないことを、自分で暴露してしまっている。プロとして書評の仕事を頼む活字媒体は稀有らしいが、それも当然であろう。 それでも一応、敢えて本欄を覗いて下さっている方のために、どこがおかしいのか指摘しておく。 ・「著者(松原)は、構造改革によって「制度が崩壊」していることが不安の原因だから、改革をやめて政府が「信頼を回復」すべきだという」 →私が主張しているのは、生産要素にかんする制度を「ビッグバン的に」改革するという構造改革が不安を引き起こしているのだから、「漸進的に」改革すべきだということ 。改革の内容についても土地・資本・労働に分けて論じている。私は「改革をやめて」などとは一言も言っていない。構造改革に反対する論者が述べることはすべて同じに読めてしまうらしいが、この人の読解力の構造改革こそが必要だ。 ・「「お上」の力で国民を情緒的に「統合」しようとする主観主義は、佐伯啓思氏などとも共通する西部一派の特徴だが、問題は逆である。いま不安が広がっているのは、政府が信頼に値しないから ・・」 →私が述べているのは、BSE対策などで政府が信頼を失い、しかもその政府が失敗を棚に上げて構造改革などと言ってみたり、金融制度改革や牛肉買い上げなどを行っていることの滑稽さである。 つまり「お上」じたいが信頼をなくしているのに、その「お上」がさらに制度を解体しようとしていることを批判しているのである。「お上」の力で国民を統合しようというのに近い印象のことを佐伯氏や西部氏は述べているのかもしれないが、私は佐伯氏の著作への書評などではしばしばこの点を批判してきた。 ・「必要なのは、信頼を回復することではなく、信頼できる制度を作り直すことである。」 →これなどは、逆に私が主張していることである。何を言っているのやら。だがしかし、現在進行している「構造改革」では、この人が主張するようには「信頼できる制度を作り直す」ことなど 決して行われていない。「規制緩和」「経済慣行の撤廃」に象徴されるごとく構造を破壊することに主眼があり、その結果現れた現在の金融庁などは、逆に役人が強権を持つよう「制度を作り直」したものだ からだ。「お上の焼け太り」 現象である。この人などは、さしずめ焼けて太った公務員の好例であろう。官僚を焼け太りさせる構造改革ではなく、まっとうな改革を行うべきなのだ。 さらに、この人は「まともな経済学のトレーニングを受けた」とか「ノーベル賞をもらった」とか言えば、何か信頼が得られると思っているらしい。そんなことを信じているのはPh.Dを取ったとかいう既得権益を持つ人たちだけで、市場(関係者)ではない。そういえば、「インフレにする」と日銀が宣言すれば市場が信じるから本当にインフレになる、とインフレ・ターゲット論者 も言っていたが、そんなことを信じているオメデタイ人は経済学者だけ である。この連中の魂胆は、国という「お上」が信用できなくなった隙に、竹中大臣を始めとする学者を「お上」に祭り上げ、自分たちで利権を得ようということだ。だが、国という「お上」も、経済学界という「お上」も、 世人は信じていないのである。 そもそもこの人の言う「まともな・・・トレーニング」は、受ければ書く文章の水準が学生以下まで下がるたぐいのものではないのか。 といった具合だから、私がうんざりするのもお分かりいただけるであろう。とはいえこの手のいじましい人はネットには掃いて捨てるほど生息しているのだから取り立てて触れる必要はないのに、と読者は思われるかもしれない。私もそう思って いたのだが、それでも敢えてここで取り上げようと思い直すことにした。それは、書評への反論を上述のごとく書くためはない (それはあまりにも簡単だと、我がゼミ生も言っていた)。こういった手合いがどのような背景からものを言っているのかについて注釈を付けておきたいのである。 この人は、サイトを御覧いただけばお分かりのように、佐伯氏や西部氏、そして私も含めて「西部一派」と彼が想定する人々を、異様な敵意と粘着性をもって攻撃している。それも本を読んでのまとも な批判ではなく、「学生時代から知っているがあのころはこうだった」という手の、証拠もない与太話や当てこすりばかりである。まったく、「卑しい」としかいいようのない文章の羅列 である。 この人にならって昔話をすれば、私は幾度かこの人を見かけたことがある。彼は学生時分に西部氏の追っかけのようなことをしていて、かまって欲しいのか、うるさくがなり立てては西部氏に一喝され 、しゅんとして逃げ出すといったことを幾度か繰り返していた。しばらく見かけなかったが、インターネットという利器を得て、またぞろ学生時分の恨みを晴らそうとしているらしい。 追っかけても受け入れられないので妄想にかられつつ「一派」にまで執拗なストーカー行為を及ぼすわけだ。まあ、こう した例を見せつけられると、 淋しい人にとって、ネット社会は憂さ晴らしの天国に違いないと 改めて感じる。それでいてこうした人物に限って「信頼できる制度」うんぬんと説教するのだから、たまらない。 ちなみにアマゾンの拙著紹介のページには、非固定のハンドルネームを名乗る人物がこの人にそっくりな文章で拙著をけなすレビューを投稿している。そこでも「西部一派」という言い方 がなされているが、こういう呼び方をする人を私はこの人の ほかには知らないし、とくに前著の景観論以降、西部氏主幹の『発言者』と異なる路線をたどっている私を「西部一派」に加える人も珍しい。 こういった人が官庁に巣くい、社会から信頼を奪う構造改革を主導しているのである。このことを、銘記しておきたい。 (後記)この人がここで私が書いたことを読んだらしい、とふたたび学生が知らせてくれた。サイトを覗くと、私が書いたことが本当かどうか、西部氏を交えて検証しよう、などと 付け加えている。変なこと言うねえ。ならば、佐伯啓思氏やその他、この人が勝手に思い出などを書き散らした人も呼んで検証しなけりゃならんでしょうに。自分の都合のいいことしか考えないんだな。 それと、私が「プロとして書評の仕事を頼む活字媒体は稀有」と書いたら、『ダイヤモンド』誌でやってるのを知らないらしい、と反論している。だからぁ、そんなこと、知ってて書いてるんだって。文意を読めない人ですねえ。 |
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