7.5. わいせつな表現
7.5.1. わいせつな表現に対する規制の例
わいせつな表現も一つの表現であるから、それを法律によって制限することは、表現の自由に対する制限の一態様にほかならない。したがって、憲法21条1項に違反しないか否かが問題となる。 そこでまず、日本の現行法のなかに、わいせつな表現を制限している法令にどのようなものがあるかを見ておくこととしよう。
・刑法
・関税定率法
第21条1 次の掲げる貨物は、輸入してはならない。
1号〜3号(略)
4 公安又は風俗を害すべき書籍、図画、彫刻物その他の物品
5号(略)
・放送法
第3条の2第1項 放送事業者は、国内放送の放送番組の編集に当たっては、次の各号の定めるところによらなければならない。
1 公安及び善良な風俗を害しないこと。
2 政治的に公平であること。
3 報道は事実を曲げないですること。
4 意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること。
・電波法
第108条 無線設備又は第100条第1項第1号の通信設備によってわいせつな通信を発した者は、2年以下の懲役又は30万円以下の罰金に処する。
・児童買春、児童ポルノに係る行為等の処罰及び児童の保護等に関する法律(平成11年法律第52号)
関税定率法では「風俗を害す」るという表現が用いられていて、わいせつという言葉は用いられていないが、同じ意味であると解されている(百選74事件の<判旨>(三)参照)。
以上の国の法律のほか、わいせつな表現を制限するものとして重要なのが、俗に「青少年条例」と呼ばれる各地の条例である。岐阜県条例はその一例であり、百選57事件でその合憲性が問題となった(後述)。同条例によれば、県知事が「図書等」を個別的に審査して、「著しく性的感情を刺激し、又は著しく残忍性を助長するため、青少年の健全な育成を阻害するおそれがあると認める」ものを「有害図書等」として指定すると、当該「有害図書等」は自動販売機で販売することができず、これに違反した者は、刑罰の制裁を受ける。
もっとも、県知事が「図書等」を個別的に審査するとはいっても、業者に「図書等」の提出を義務づけたうえで当局が審査するのでは、「検閲」(憲法21条2項前段)に該当してしまう可能性があるので、条例では、行政当局が自ら「図書等」を収集してきて審査することが予定されている。
さて、同条例によれば、個別的に「有害図書等」を指定するのではなく、条例とそれに基づく規則、告示により有害図書等の基準を一般的に定め、これに該当する図書等 は、当然に「有害図書等」に当たるものとして自動販売機での販売が禁止されることがある。この後者の方式は、通常、「包括指定」と呼ばれる。
以上のように、わいせつな表現を規制する法令にはさまざまなものがあり、その規制の目的・範囲も必ずしも同じではない。しかしここでは、伝統的にわいせつな表現の規制の代表格であり、理論的にも多くの蓄積がある刑法175条を中心として解説する。
7.5.2. 刑法175条の解釈(規制の範囲)
刑法175条については、古くから憲法21条に違反するのではないかという疑問が提起されてきた。同条の合憲性を論ずるには、まずもってその文言、とりわけ「わいせつ」とは何を意味するのか、についての解釈を固めていく必要がある。以下では、判例の態度について略述する。
第一に、判例は、「わいせつ」の定義として、大審院以来のいわゆる三要件を採用しており、このことは現在でも一般論のレベルでは変化がない。しかし、この三要件が定義として十分な明確性を有していないことは明らかである。そのことはおそらく裁判所自身が認識しているのであって、百選60事件では、この要件が大して意味をもっていないことが見てとれる。ここでは、判決が新たに挙げた6つの考慮要素が圧倒的に重要で、伝統的な三要素は独立の役割を果たしていないように見える。
百選60事件は、わいせつの概念に絞りをかけて、性に対する国民の意識の変化に柔軟に対処しようとする最高裁の努力の現れとして、積極的に評価されている。しかし、この6 つの要素を列挙することによって、わいせつの定義が、伝統的な三要素と比べて、特に明瞭になったといえるのかは疑問である。これら諸要素の有無を具体的にどのように判定するのか、それがわいせつ性の有無に関する最終的判断にどのように作用するのか、についてはまったく述べられていない。例えば第4の「文書の構成や展開」という要素は、いったい何を意味するのであろうか。「文書の」どういう「構成や展開」が、わいせつ性の判定にどのように影響してくるというのであろうか。しかも、「これらの事情を総合し、その時代の健全な社会通念に照らして」、いわゆる三要素に当たるか否かを判定せよ、というのである。
しかも、最高裁の態度を「柔軟」(つまり、取締りよりも表現の自由により好意的)なものと見ることが早計であると思わせる判例も存在する。
最高裁は、第一に、依然として、ハード・コア・ポルノとはいえないものについても、わいせつに当たることがあるとしているからである。最判昭和58・3・8刑集37巻2号71頁は、「絡み合う男女の裸体写真を、その性器及び周辺部分を黒く塗りつぶして修正のうえ印刷・掲載した」写真誌の例であるが、最高裁はこれを、「いわゆるハード・コア・ポルノということはできないが、修正の範囲が狭くかつ不十分で現実の性交等の状況を詳細、露骨かつ具体的に伝える写真を随所に多数含み、しかも、物語性や芸術性・思想性など性的刺激を緩和させる要素は全く見当らず、全体として、もっぱら見る者の好色的興味にうったえるものである」(から、わいせつである)、と述べている。
第二に、判例は、伝統的に、わいせつか否かは事実認定の問題ではなく、法解釈の問題である、という態度をとってきた。つまり、わいせつか否かは、一般国民がどう思っていようが、裁判官が独自に判断するのである。
第三に、当該文書のもつわいせつ性と芸術性、思想性との関係について、両者は次元をことにするから、芸術性・思想性などの価値のある文書であってもなお、わいせつの文書に当たることがあることを明らかにした。
このように見てくると、判例の立場は秩序指向の極めて硬直したものであるかのように感ぜられる。しかし、実際にはそれほど硬直しているわけではなく、おそらくは刑法175条の違憲論に配慮しつつ、原則は曲げないものの、規制の範囲を次第に弾力的にとらえるようになっていると考えられる。
例えば、上記の第三の点についていえば、判例は、わいせつ性と芸術性・思想性とは次元の異なる概念であるとしつつも、わいせつ性が、芸術性・思想性によって刑法の処罰の対象となる程度以下に解消される場合があることを認めている(百選59事件)。ただし、同事件は、『悪徳の栄え』(厳密にいうと、マルキ・ド・サドの代表作『ジュリエット物語あるいは悪徳の栄え』の抄訳の後半部分)は、いまだ、芸術性・思想性によってわいせつ性が解消されるには至っていないとされた事例である。なお同事件は、当該文書がわいせつか否かは、わいせつとされる部分だけを取り出すのではなく、文書全体との関連において判定されなければならないことも指摘している。
さらに重要なのは、判例が、わいせつか否かは法解釈問題であるとしながらも、それが万古不易のものではなく、社会通念によって決まるとしていることである。その時々の社会通念がいかなるものであるかを裁判所が明らかにしたことはないが、判例は、社会通念を操作することによって過剰な規制を回避してきたと考えられる。
7.5.3. 合憲性と規制の根拠(保護法益)
判例は、以上のように解釈され定義された「わいせつ」な表現に対する規制を、一貫して、憲法21条1項に違反しないものと判断してきた。学説にも、同条をストレートに違憲であると主張するものは、極く少ない。 ではなぜ合憲なのか。判例はこれまで、その理由について立ち入って述べたことはない。合憲論も違憲論も、明示的にせよ暗黙のうちにせよ、なぜわいせつな表現は規制の対象とされるべきなのか、という保護法益論を念頭に置いて議論している。これまで、わいせつな表現を規制する根拠、すなわち規制によって保護される法益については、主に次のような説明がなされてきたように思われる。
第一に、道徳それ自体が保護法益だという立場がある。道徳的な保守主義者は、性は本来生殖を目的とするものであって、単なる快楽追求の道具となったり、あるいは夫婦の寝室を出て公然と表現されたりすべきものではない、と主張する。こうした主張は、キリスト教的な性道徳意識の強いところで有力である。この考え方は、夫婦間の生殖目的以外の動機で性欲を刺激することによって、究極的には、一夫一婦制を崩壊させることを恐れているといえよう。これほど強烈な主張ではなくても、理性的存在としての人間の社会にあっては、性を公然と表現しないという性道徳・性秩序(性の非公然性)が存在しており、わいせつな表現の自由な流通は、こうした道徳・秩序に反するという考え方もある。
第二に、性犯罪など反社会的行為の発生を防止することが保護法益だという立場もある。これは、わいせつな表現が性犯罪の引き金になるから規制すべきである、という立場である。
第三に、見たくない者を保護することが保護法益だという立場もある。わいせつな表現は刺激的であって、見たくないと思う人も多いのであるから、そうした人々が見たくないときに見なくてもすむようにする程度で規制すべきである、という立場である。
第四に、青少年の保護が保護法益だという立場もある。青少年は感受性が強く、わいせつな表現のもたらす悪影響に対して抵抗力が弱いから、青少年からポルノを遠ざけるべきである、という立場である。
第五に、フェミニズムの立場に立った保護法益論もある。わいせつな表現は、多くの場合、女性を男性に隷属する単なる客体として描いており、これが、女性差別を永続化する効果をもつという。
第六に、いわゆるチャイルド・ポルノに特有の議論であるが、被写体として虐待される子どもを保護するために、この種のポルノグラフィーを規制すべきであると説く立場である。
以上のいくつかの立場は、必ずしも相互に排他的なものではないから、「併せ技」で主張されることも多い。例えば、フェミニズムの立場に立ち、かつこのフェミニズムだけがわいせつな表現に対する正当な保護法益であると考えるならば、女性差別的・女性蔑視的ポルノグラフィーだけを規制の対象とすればよく、男女同権的であれば、いかに露骨な性描写であっても、規制の対象とすべきではない、ということになるはずであるが、同時に例えば青少年の健全育成もまた正当な保護法益であると考えることも十分可能であるから、その場合には、青少年の健全育成という目的を達成するために必要な範囲で、男女同権的なポルノの規制も正当だと主張されることとなろう。
では、日本の判例はどのような保護法益論をとってきたのであろうか。はっきりしない、というほかない。ただ、断片的に保護法益論(らしきもの)を展開した事例がまったっくないわけではない。例えば、百選58事件の多数意見は、次のように述べている。
「例えば未開社会においてすらも性器を全く露出しているような風習はきわめて稀れであり、また公然と性行為を実行したりするようなことはないのである。要するに人間に関する限り、性行為の非公然性は、人間性に由来するところの羞恥感情の当然の発露である。かような羞恥感情は尊重されなければならず、従ってこれを偽善として排斥することは人間性に反する。なお羞恥感情の存在が理性と相俟って制御の困難な人間の性生活を放恣に陥らないように制限し、どのような未開社会においても存在するところの、性に関する道徳と秩序の維持に貢献しているのである。」
これは一種の道徳主義的な保護法益論といえるだろう。また、同事件は、次のようにも述べている。それほど明瞭ではないが、性犯罪予防論の一種といえよう。
「ところが猥褻文書は性欲を興奮、刺戟し、人間をしてその動物的存在の面を明瞭に意識させるから、羞恥の感情をいだかしめる。そしてそれは人間の性に 関する良心を麻痺させ、理性による制限を度外視し、奔放、無制限に振舞い、性道徳、性秩序を無視することを誘発する危険を包蔵している。」
他方判例は、青少年の健全育成や見たくない者の保護だけが正当な保護法益であるという考え方、換言すれば、他の保護法益、例えば、道徳主義や性犯罪予防論などを根拠とするわいせつな表現の規制は憲法上許されないという考え方、に対しては、はっきり「ノー」といっている。例えば、最(一小)判昭和58・10・27刑集37巻8号1294頁は、次のように述べているのである。
「刑法175条が、所論のように他人の見たくない権利を侵害した場合や未成年者に対する配慮を欠いた販売等の行為のみに適用されるとの限定解釈をしなければ違憲となるものでないことは、いずれも当裁判所の判例……の趣旨に徴して明らかである……。」
もちろん、青少年の健全育成は、わいせつな表現を規制する正当な保護法益の一つではある。それは、百選57事件が明言するところである。
以上のように、判例の保護法益論は明瞭な中味をもっているものではないが、道徳主義をベースに、それに青少年の健全育成や性犯罪予防なども保護法鋭気に加味する「併せ技」で、刑法175条の合憲性を説明できる、と考えているのではないか推測される。
7.5.4. 刑法175条の明確性
一般に、表現の自由を規制する法律には規定の明確性が厳格に要求される(後述)。この点、最高裁は、一貫して、刑法175条にいう「わいせつ」が不明確な用語ではないと述べている。百選60事件はその一例であり、極く簡単に次のように述べている。
「所論は、憲法31条違反をいうが、刑法175条の構成要件は、所論のように不明確であるということはできないから、所論は前提を欠き、適法な上告理由にあたらない。」
しかし、「わいせつ」という以上に何も説明のない刑法の用語が、いわゆる「萎縮効果」を起こさせず、法の執行に当たる警察官等の裁量を不当に拡大しないほどに明確であるとは思われない。現に、各地の青少年保護条例では、規制の対象をある程度明確にすることが行われている。例えば、上記の岐阜県の条例でいえば、6条2項によるいわゆる 「包括指定」の対象となる写真の内容は、
1 全裸、半裸又はこれに近い状態での卑わいな姿態
2 性交又はこれに類する性行為
であるとされており(岐阜県青少年保護育成条例施行規則2条)、さらに第1号の内容については、
1 女性が大腿部を開いた姿態
2 女性が陰部、臀部又は胸部を誇示した姿態
3 自慰の姿態
4 男女間の愛撫の姿態
5 女性の排泄の姿態
6 緊縛の姿態
として、また第2号の内容については、
1 男女間の性交又は性交を連想させる行為
2 強姦、輪姦その他のりょう辱行為
3 同性間の性行為
4 変態性欲に基づく性行為
として、それぞれ具体化されている(「岐阜県青少年保護育成条例第6条第2項の規定による写真の内容の指定」)。もちろん、上記の各号も、依然不明確性を残しているし、なによりも、本条例は青少年の健全育成を目的としており、理性的で成熟した判断能力をもった成人を念頭においた場合には、規制の対象はこれよりもはるかに制限的でなければならないと考えられる。ただ、ここで注意しなければならないのは、「わいせつ」の意義を具体的に法文化することはもとより困難な仕事ではあるが、現在の刑法の用語法より明確にすることが可能であるにもかかわらず、そうする努力がなされていない、ということなのである。