鳶が着る仕事着や空手着、柔道着など日本の伝統的な着物のデザインを大胆に取り入れたアパレル、義志(よしゆき)を展開する緒方義志さん。前回は義志と“やんちゃ買い”の共通点について触れた。今回は、緒方さんがなぜ義志を展開するようになったのか、なぜ徹底的に日本にこだわるようになったのかを探ろう。
高架線を走る電車の窓から見た風景が人生を決める
それは緒方さんが学生の頃に生活していた場所にヒントがある。埼玉県に住んでいた緒方さんは、東京都板橋区にある私立の中学、高校に通った。
京浜東北線、埼京線のどちらを使うにしても、電車は高架線を走る。都心部と違って沿線に高いビルが少なく、車窓からはかなり遠くまで見渡せ、晴れた冬の日には遠く富士山を臨むことができる。見晴らしの良い路線である。
中学と高校の6年間、電車から毎日外の景色を眺めながら通っていた緒方さんはしかし、景色の良さに見とれることはなかった。むしろ失望感にさいなまれる。
「何て言うんですかね。高いところから見下ろしていると、街がみすぼらしく見えたんですよ。街が全然美しくない」
緒方さんの高校時代は今から20年も前である。日本経済はそれこそバブル経済の絶頂期にあった。日本はどこまで豊かになるのだろうと、誰しもが永続的な成長を信じて疑わなかった。
世界第2位の経済大国を不動のものとし、国民1人当たりのGDP(国内総生産)が世界一になる日もそう遠くないと思われていた頃だ。
しかし、高架線の上から見える延々と遠くまで続く街並みは、世界一のそれとは似ても似つかないイメージだった。何かがおかしくなっている。そう緒方さんは思った。
「日本人の美意識はこんなものではないはずだと思ったんですよ。京都や奈良に代表される歴史的な建造物はどれも素晴らしい美を誇っているじゃないですか。それが、どうしてこうなってしまうんだろうと」
米国のシアトルに留学、そこでまたも失望
大学に進んだ緒方さんは4年生の時、米国のシアトルに1年間留学する。豊富な水と森に街全体が包み込まれた美しいところだ。ここでさらに失望感を深めることになった。
「私が通っていた大学には世界中から学生が集まってきていました。ドイツ人もいればフランス人もいる、イタリア人に中国人もいました。彼らと話をしているとどこから来た人でもお国自慢をするんですね。俺の国はこれがすごいぞって」
「ところが日本人の私には自慢ができない。家は狭いし電車はいつも満員だけど料理は美味しいし、こんなに美しいところもあるんだぞと言おうとしても、何だかむなしくて言えないんですよ。心から自慢できる自信がない」
若者が人生の進路や目標を決める時というのは、往々にしてこのような場合が多い。緒方さんもこの時に決心した。日本の街を美しくしてやろう、日本の美を自分なりに表現して世界に伝えてやろうと思った。そしてすぐさま行動に移す。日本に戻った後、大学に通いながら環境デザインの専門学校にも同時に通うことにした。
しかし、専門学校の校長に自分の夢を語った緒方さんは目の前が真っ暗になった。「どんなに一生懸命勉強しても街全体の設計は無理だよ。街の一部、パーツの設計はできるようになるだろうけど」。校長のこの一言で夢が粉々に砕け散った。
留学時代の友人が原宿で買い物を楽しむ姿に「おかしいぞ」
悶々とした日々を送るうち、留学時代の友人が海外から立て続けに遊びに来るようになった。恐らく英語の観光ガイドに書いてあるのだろう。遊びに来たほぼ全員が原宿とか渋谷に連れて行ってほしいと言う。そして楽しそうに買い物をしている。
「その時、思ったんですよ。絶対におかしいって。彼らが買っている物はどうして原宿とか渋谷で買わなければならないんだろう。アメリカやヨーロッパでも買えるものではないか。だってデザインの原型は欧米から来ているものばかりだから。せっかく遠くから日本に来たんだからもっと日本的な日本人の心がこもった物を買っていってほしい」
日本の街を美しく作り変えようという夢が、日本を表現しようというファッションデザインに変わった。緒方さんは大学卒業後、ファッション関係の会社に就職。その時から既に義志の構想は温め始めていた。その後、2つの会社を経て2004年に現在の会社を設立して独立した。
しかし、スタート時点から “やんちゃな” 男物の衣料には進出できなかった。
サラリーマン時代に貯めたささやかな預金と当時の信用で借りられるお金では、都心に小さな店を構えるのも難しい。その時、緒方さんの目に留まったのが、「渋谷109に出店してみませんか」という新規店舗を発掘するための広告だった。
渋谷109というと女子学生のメッカであり、“やんちゃな” 男の商品が売れる場所ではない。しかし、条件が魅力的だった。審査にパスすれば、出店費用がほぼゼロになるだけでなく、様々な支援をしてくれる。ほとんど元手がかからずに渋谷の一等地に店を開くことができる。
渋谷109に出店するも簡単には売れない
会社を辞めてしまった身にとって、つべこべとこだわりを言っている時ではなかった。まず女物の着物からデビューすることにした。しかし、その前に厳しい審査がある。
ところが面白いようにいくつもの関門をパスしていった。その理由は緒方さんにもよく分からないという。恐らく、「日本男児を世界にアピールしたい」というな強烈なエネルギーが、女物のアパレルや小物でも斬新な提案やデザインになって表れたのだろう。少なくとも審査員の目にはそう映った。
とにかく109に出店を果たすことができた。ただ、現実の世界はそう甘くはなかった。商品を作って店頭に並べてもなかなか売れない。渋谷に集まる自己主張の強い若い女性たちにとっても、少し奇をてらい過ぎた商品だったのかもしれない。契約期間の1年間が終わりに近づいても渋谷109に出店している店の平均的な売上高の数分の1を売り上げるのがやっとだった。
とはいえ、出店費用などがほぼゼロだったことから、売れた分は利益に直結、ある程度の貯えを作ることができた。これを元手にして義志を創業することになる。一方で、渋谷での経験はその後、ミス・ユニバースの仕事をするうえでも生きてくる(前号参照)。
人生には一見、回り道をしているような時がある。しかし、回り道をしているからこそ人生に幅ができ彩りを添えることができる。緒方さんにとって、義志を創業する前の渋谷109はそういう重要な回り道の時期だったのだろう。
伝統工芸品となった真田紐(さなだひも)を日用品として採用
日本を世界に主張することが大きな目的である義志では今、日本の伝統工芸を製品に取り入れる試みを始めている。かつては日本人が日常の生活で使う物だったが、技術革新や海外からの安い製品の輸入によって日用品としての役割を失い、伝統工芸品となって細々と生き残っている技術。それを今一度、日常品として復活させようというのだ。
最初に取り組んだのが真田紐(さなだひも)だった。その名の通り、戦国武将の中でも最も人気の高い武将の1人である真田幸村にゆかりの紐である。幸村と父、真田昌幸が関が原の合戦で負けた後、和歌山県の九度山に蟄居していた際に考案したとされる織って作る紐だ。
紐は普通は組むもので、織物の紐は珍しいうえに真田紐は世界で最も幅が狭い織物と言われている。非常に丈夫で男性美を持っている。そのため、かつては鎧兜を絞める際や、刀の下げ緒として武将たちの間で重用された。しかし、現在では正真正銘の真田紐を作れる人はほとんどいなくなった。
「この紐を今でもきちんと作っている人が関東にも1人だけいると聞いて、すぐに飛んで行きました。しかし作られている方がご高齢で、日用品で大量に使いたいと言ってもすぐには取り合ってもらえませんでした」
しかし、使いたいと思ったらあきらめない性格の緒方さんは、それこそ三顧の礼を尽くしてお願いする。その熱意に折れ、義志に納入してくれるようになった。ただし、価格は1メートル当たり約1000円。アパレルに使われている普通の紐なら原価はせいぜい数十円だから、桁違いに高い。
日本の伝統工芸品と最新のファッションの組み合わせ。ちぐはぐな組み合わせのように思えるが、こういう発想こそイノベーションと呼ぶべきものではないだろうか。端的な例として京都を思い起こせばいい。
イノベーション都市、京都は伝統を守る一方で進取の気性にも富む
京都人は一般に排他的と言われるが、一方で進取の気性にあふれている。京セラや村田製作所、任天堂など京都を代表する一流企業はほとんどが京都以外の出身者が創業した企業である。排他的な環境の中にも、新風を吹き込む人々に対しては支援を惜しまない。その風土があるからこそ、京都は常に日本のイノベーションの拠点であり続けた。
緒方さんの試みもまた、京都の手法に共通する部分があるのではないだろうか。一時の時代の波にさらされて消えてしまいそうな伝統工芸品を「守る」のではなく、新しいファッションに取り入れて「攻める」材料に使う。
緒方さんたちの世代は大学を卒業した時には既にバブル経済が弾けていて、社会人となってから日本の成長をほとんど実感したことがない世代である。ある意味で不幸な世代と言えるかもしれない。
しかし、それゆえに変な成功体験に毒されることなく、日本の真の姿を見ることができるのかもしれない。そして、その素晴らしさに素直に感動を覚え世界に向けて発信しようと考えることができる。「時代は大きく変わり始めたのではないか」。緒方さんのエネルギッシュな行動力と豊かな発想に触れ、日本の先行きに明るさを実感した。(おわり)