様
1月も中旬に差し掛かりもうすぐ大寒。
強く寒々と吹く風は、いかにも首を縮めたくなります。
太陽の力が強まり春を感じられる日はまだ遠いようです。
暖かな春が待ち遠しい今日この頃です。
平成19年1月19日 義志東京本店
店長 樽見陽子
【義志情報通】
いきなりですが、訂正とお詫びです。
前回の号外でお知らせした最終セールの日付に誤りがありました。
深くお詫び申し上げます。
正しくは、1月13日(土)〜21日(日)です。
また、19年春物新作も入荷しておりますので是非お立寄り下さいませ。
皆様のご来店心よりお待ちしております。
【新作入荷情報】
Tシャツ型25 「初音」
価格:7,140円(税込) 色:白、黒
薄手で柔らかい天竺素材を使用した半袖Tシャツ。
初春にちなんで、源氏香之図の中から「正月」と「吉」をあらわす「初音」を
白黒のコントラストで派手にあしらった。
柄は箔プリントを使用することにより、通常の顔料プリントよりも無機質で
切れ味鋭い表現に仕上がっている。
裾と袖口の折り返し処理にも軽い遊びがあり、
シンプルにして「味付け十分」な文様Tシャツ。
Tシャツ型33 「太閤」
スラブ天竺を使用したVネックの長袖カットソー。
袖口には腕を長く見せる効果がある親指通しの眠り穴が施されている。
袖のプリントは左右非対称、正面は秀吉が天皇から賜った紋としても有名な「五七の桐」。
因みに桐紋は菊花紋に準じる国章でもある。
心地よい肌触りなので、一枚でさらりと着て楽しんで欲しい。
【店長の編集後記】
新たな1年が始まりました。
みなさんは今年どんな夢や抱負をお持ちでしょうか?
「目標を達成する為の努力を惜しまない」
それが私の今年の最大の抱負。
弱さや甘えで昨年果たすことの出来なかった事も新たな気持ちでスタート。
けれど、目標を成し遂げる為には試行錯誤の繰り返しで
その過程には無駄な努力だってあるかもしれません。
勿論、努力しても目に見えて成果に表れない事だってあります。
むしろその方が多いようにさえ感じます。
(まぁ単に努力が足りないのかもしれませんが・・・)
もうお気づきかもしれませんが、私はゆる〜いノンキ者ですから
失敗と反省の繰り返しの毎日。
でもその経験から得たものは大きくて、それは自分の最高の財産となっています。
今となって無駄だったかなと思う事も、
その時はそうと信じてやってきた事ばかり。
こうして振り返ってみると
無駄だったというような事なんて何ひとつないのではないかと思うのです。
失敗は成功のもととはよく言いますが、努力は決して無駄になる事はないと
信じて昨日より一歩でも、いや半歩でも前進出来たらいいなと思います。
義志と一緒に。
まずは全ての根幹となる努力の継続。
みなさんの夢や抱負も着実に達成されていきますように。
そしてほんの少しでも皆様の豊かな一年のお手伝いが出来たら幸いです。
堂々と布告してしまったからには有言実行しないとな・・・。
店長のブログ
http://blog.livedoor.jp/yoshiyuki_tokyo/
【進化せよ、日本】
〜代表・緒方義志の言いたい放題 7〜
「日本語の乱れについてとやかく言う前に」
母親という存在とその概念が、哺乳類である私達人間にとってどれほど重要なものであるかは説明に及びません。
特に乳幼児にとっての母親は、成人にとっての母親とは比べ物にならないほど重要な存在であり、
生きるために絶対不可欠な神以上の存在であるとも言えます。だからこそ、
母親を最も必要とする子供にとって、それを呼ぶための言葉は絶対になくてはならず、
人間の生涯の言語学習において必然的に最も初期の段階で覚える極めて基本的な言葉でもあります。
その言葉が、今日の日本語において消滅しかけています。消滅と言ってしまうと語弊があるかもしれません。
もう少し厳密に言うと、乳幼児にとっての「母」を表す言葉が、およそ100年の歳月をかけて遂に外国語へ
完全に置き換えられようとしている、と言った方が正しいでしょう。今日の日本では、
圧倒的多数の母親が生まれたばかりの乳幼児に対して自らを「ママ」と表現します。
文字にした際にカタカナで表記されることからも分かるように、「ママ」は外来語種の単語です。
これは、ラテン語を語源とするフランス語の「maman」や英語の「mum」が日本人独自の発音に変化したものです。
この単語が今日のように「お母さん」という単語の代用として母親が乳幼児に教えるようになった経緯は、
明治時代の後半にまで遡るようです。当時の洋行帰りの華族や上流階級の親たちが、
フランスやイギリスからこの言葉を持ち帰り、自らも家庭で使うようになったのがこの現象の発端だそうですが、
こうして西洋志向の富裕層が好んで子供にママと呼ばせることが大衆にも知れ渡ると、
今度は今で言う「セレブ」志向の庶民が後に続きます。そして、大東亜戦争の敗戦後は、
更にアメリカを筆頭とする欧米文化の普及とその影響も手伝って、日本のテレビドラマや映画の中でも
庶民の家庭で「ママ」を使う場面が多く見られるようになり、私たち一般の家庭でもその呼称が定着するようになりました。
言語というものを持たずに生まれてくる子供は、とりわけ母親の言葉をもらいながら徐々に自分の意思を
言語で表現するようになります。自分にとって最も重要な存在である母親を呼ぶ言葉は何よりも真っ先に学習するため、
乳児が成長し喃語を話すようになると、親がそう教えていれば、子供は当然母親のことを早々に「ママ」と呼ぶようになります。
しかし、日本語を母国語とする日本人の両親から生まれてくる赤ん坊に、真っ先に与える言葉が「ママ」という
外国語であるということは、正常な文化意識を持った民族としては明らかにおかしな現象であると言わざるを得ません。
それは、これからたくさんの日本語を学習していかなければならない子供にとっては大変紛らわしいことであり、
子供に正しい日本語を教育していかなければならない親としては、出鼻から道を踏み外しているということにもなります。
日本語には「お母さん」という歴とした言葉があります。もともと「お母さん」という言葉は、貴族社会から生まれたもので、
寝殿造りの屋敷における北の方に住む正妻を「御方様(おかたさま)」と呼んだことに由来し、
それが子供訛になって「おかかさま」、「かかさま」、「おっかあ」、「おかん」、「かっか」と地域や社会階級によって
多様な呼び方に変化していったという説が有力です。今日の「お母さん」という言葉が標準語として定着したのは、
明治36年に国語の国定教科書がそう呼ぶように指定してからのことになりますが、言葉の歴史を紐解けば、
その語源は平安時代にまで遡るのです。「タバコ」や「インターネット」のように、物や概念そのものが
外国から入ってくる場合は致し方ありませんが、「お母さん」のように日本語独自の素晴らしい表現があるにもかかわらず、
敢えて子供に外国の言葉を与えることにはいかなる利もありはしません。
これについて何かしらの利点があると確信している人がいるとしたら、是非ともそれを聞いてみたいものです。
しかし、もしそのような信念や確信もなく、ただなんとなくかっこいいから、なんとなく可愛いから、という理由で
「ママ」という言葉を子供に教えているのであれば、それは親が子供に対して行う言語教育における大いなる
失態と言えるでしょう。もちろん、これは決して悪意のある失態ではありませんが、正しい国語を次世代に
継承する責任を持った親としては、あまりにも思慮浅い行為だと批判せざるを得ません。
子供にとっては日本語の「お母さん」という言葉よりもずっと発音がしやすいのだから、「ママ」の方が
子供想いじゃないかという意見も多くありますが、言いやすさを追求するために単語を外国語に置き換えるなどという理屈は、
あまりにも次元が低すぎて議論するに値しません。それは、「わたし」という単語は長くて言い難いから、
それよりも短くて発音しやすい英語の「I」に変えてしまおうというのと全く同じことです。このようなことを、
良識ある日本人ならば、どのような理屈においても正当化することはしないでしょう。「お母さん」を「ママ」に
置き換えるということは、日本人自らが日本語の稀釈行為に参加しているということなのです。
確かに、「ママ」は乳児にとっても発音がしやすく、母親にとっても便利な単語ではあります。
しかし、この言葉を知るようになる以前の日本人は、このような外国語を借りなくとも何不自由なく
母子間の意思伝達を言葉によって行ってきているのです。もちろん、喃語を話し始めたばかりの赤ん坊が、
「おかかさま」や「おっかあ」などという高度な音を発音できるわけはありませんが、
乳児は乳児なりにその音を出そうと自分なりに精一杯の発声技法でそれらしき音を出そうとするはずです。
津軽弁で母親のことを「あっぱ」と呼ぶそうですが、これなどはもしかすると、高度な発音がままならない乳幼児の口から
自然と出てきた言葉なのかもしれません。いずれにしても、元来「ママ」という言葉を持たなかった日本語にとって、
それは育児過程において絶対不可欠な言葉でも何でもないのです。
ところが、母親の間で子供に自分のことを「ママ」と呼ばせる傾向がどんどん強くなっていることを、
私は日常生活の中で身を持って実感せずにはいられません。週末にショッピングセンターへ行けば、
自らを「ママ」と呼ぶ母親と幾度となくすれ違いますし、私の友人知人においては、自らを「ママ」と呼ばない母親が数える程もいません。
テレビをつければ、国営放送のNHK教育テレビまでもが、語り手や司会者に「ママ」という言葉を進んで使わせている有様です。
昨今、日本語の乱れということが「良識ある大人」たちの間で問題視されていますが、
子供に自分のことをママ(またはパパ)と呼ばせている親たちや、そう呼ぶことに何の問題意識も持つことがない大人たちに、
最近の若者に見られる日本語の乱れについて大上段から非難する資格は到底ないと私は思います。
最近の言葉の乱れの一例として、「ら」抜き言葉(「食べられない」を「食べれない」と表現)や
若者特有の言い回し(「鬱陶しい」を「うざい」と表現)などが槍玉にあげられています。これらは確かに日本語の乱れです。
しかし、言語というものは時代と共に変化するものであるということを考えれば、それらは、
「おかたさま」が「おっかあ」や「かっか」に変化することと同次元の乱れと捉えることも可能です。
しかし、「お母さん」を「ママ」と呼ぶのは、もはや「乱れ」という次元で説明することはできず、それは言葉の淘汰に他なりません。
元来使っていた言葉が、変化するのではなく、全く別の言語から持ってきた単語に置き換わってしまったのですから。
そう考えると、なんとなくイカしているから自分のことを「ママ」と呼ばせることは、なんとなくかっこいいから「うぜえ」と言うことよりも、
もしかするとその精神性や教養の程度においては低いものなのかもしれません。
最近、特にメディアや知識人たちは、今日の若者文化を取り上げては、眉間に皺を寄せながら、
「最近の若者の日本語は文法も単語も何もかもが滅茶苦茶だ」とか「今の若者の日本語はもはや日本語ではない」などと
苦言を呈して、教養および品格ある日本人は自分達の世代で終わったと言わんばかりの発言を繰り返しています。
このような態度は、今日の大人たちが言語教育における極めて当たり前の原理について何も理解していないということを
如実に表しています。その原理とは、「言葉は親から子へ継承される」ということです。子供は親から言葉をもらうのです。
よく、「子は親の鏡」と言いますが、子供の言葉が乱れるのは、親の言葉が乱れているからです。それに気づきもせずに、
子供の言葉の乱れについてとやかく言うのは、自分の子供に向かって「おまえは一体どういう躾をされてきたんだ」と
怒るようなものです。これを今風に言うと、いわゆる「逆ギレ」以外の何者でもありません。
もし、私達が、今日における若者の日本語の乱れについて、少しでも不快に感ずるところがあるのならば、
まずは自分達が何気なく使ってきた言葉をもう一度見直すべきです。私達は、果たして自分達の子供に
きちんとした日本語を与えることができているのか。そもそも、私達が子供に与えている言葉は日本語なのか。
これから子供を育てていこうとする世代の人たちは、今改めてこのことについて考えてみる必要がありそうです。
そして、真の意味でかっこいい日本語を子供に話してもらいたいと願うならば、まずは私達がかっこいい日本語を
絶えず意識し、そして話せるようになる以外、事態を改善する方法はないのではないでしょうか。
その活動の第一歩として、もういい加減に「ママ」は卒業しましょう。
やはり、これからの日本をかっこよくしていく鍵は、私達大人が握っているのです。
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