マイケルの死でロンドン公演は露と消えた。だが、実は日本でも東京ドーム公演に向けて水面下での動きがあった――。
米ワシントン州立大学教授 北谷賢司
「遅れて悪かった。今、マイケルのサインを取ってきた。これで、ロンドンからのスタートが決まったぞ」
普段は喜怒哀楽をあまり表さないAEGライブCEO(最高経営責任者)のランディー・フィリップスが、珍しく満面の笑みで席についた。今年一月二十八日の夜、私はロサンゼルスのハイアットリージェンシーセンチュリープラザ・ホテル内のレストランの個室で、旧友である欧米音楽業界のプロモーターたちとディナーを共にしていた。
AEGライブとはアメリカの大手総合エンタテインメント企業アンシューツ・エンタテインメント・グループ(AEG)の一つで、音楽プロモーションなどを行なう興行事業会社。七月十三日から行なわれるはずだったマイケル・ジャクソンのロンドン公演の興行主でもある。
会合に集まったのは、過去にマイケルやローリング・ストーンズの世界ツアーを手がけたドイツの大物プロモーター、マーセル・エブラム。ポール・マッカートニーのツアーマネージャーとして著名な英国のバリー・マーシャル。そしてAEGライブのコンサート事業部門共同社長で、セリーヌ・ディオンの四年間のラスベガス興行を仕掛けたジョン・メグレン。更にメグレンと同じく共同社長で、マイケルのツアー会計士を経て、プリンスのロンドンO2アリーナでの二十一回興行を成功させたポール・ガンガウエアー。業界の実力者が勢揃いしていた。当初は、旧友会を開く意図で集まったのだが、会合は急遽、マイケルがロンドン興行を終えた後、どのような方法で世界ツアーを行なうかを協議するブレーンストーミングの場に変わった。
消えたと思った企画が
私は東京ドームのニューヨーク駐在取締役として、一九九二年十二月に行なわれたマイケルの世界ツアー「デンジャラス」を八回、九六年十二月の「ヒストリー」ツアーを四回、東京ドームで招聘興行し、マイケルと行動を共にした経験がある。その後、マイケルが契約している米ソニー・ミュージックの親会社である米国ソニーの経営にも携わっていたので、AEGの幹部たちから日本やアジアにおける洋楽アーティストのツアー規模やマーチャンダイジング(関連物品販売)などの副次権ビジネスについて平素から意見を求められることが少なくなかった。
「ロンドンが終わったら、次は欧州大陸の番だ。俺がハンブルクで二十回は請け合うし、南米も出来るぞ」とエブラムが畳み掛けた後、「ところで東京ドームで最大の公演記録を持っているのは誰だった?」とメグレンが私に訊ねた。「ローリング・ストーンズのスティール・ホイールズ・ツアーの十回、一九九〇年のドーム自社興行の初回だよ」「じゃあ、マイケルは十一回だな。“キング”としては世界で一番が最重要。プリンスがロンドンO2で二十一回ならマイケルは五十回。東京ドームで今年か来年の十二月頃で十一回取れるか、至急確認してくれよ」。あっと言う間に、マイケルの東京ドーム十一回興行の話が具体化したのである。
マイケルのツアー再開の話は二〇〇七年ごろから浮上していた。世界規模の音楽興行ビジネスは、共にロサンゼルスを拠点とし主要都市に会場と支店網を所有する世界最大の音楽興行会社ライブネーションと前述のAEGの二社によって寡占的に掌握されている。私は双方から、当時、マイケルのマネージャーを務め、負債処理で実績を上げていたレイモン・ベインという女性からアプローチがあったことを聞かされ、「もしマイケルが日本、アジアにツアーに出ればどの程度の売り上げが予測できるか」との打診を受けていたので、可能性が現実味を帯びてきていることには気付いていた。
しかし、健康面やスキャンダルによるネガティブ・パブリシティーの不安が残るマイケルの場合、興行リスクはかなり高く、更に本人が総額三百二十億円規模の巨額負債を抱えているとなれば、ツアーの舞台装置やリハーサルのコスト、PR費用などの全てを興行会社側が持たなければならない。おそらくキャンセル保険も、保険会社側が応じてくれず掛けられない。本当に契約が成立する可能性は一割もあればいい方だと考えていた。実際、昨秋にはマドンナやU2の世界興行を手がけるライブネーションのツアー担当COO(最高執行責任者)から「リスクが高すぎて話にならないんだ。俺たちは降りるよ」との電話があり、その後、ベイン女史も解雇されたと聞いていたので、企画は消えたものと思っていた。
そのため、マイケルのロンドン公演が決まったと聞いた時は、AEGが抱えることになるリスクがまず気になった。しかし、AEGは、石油、鉄道、通信事業で次々と成功を収め、北米で十指に入る大富豪のフィリップ・アンシューツが個人所有しているため、資金面の不安はない。北米、欧州を基盤に、数多くのアリーナ、スポーツチームの経営を行なっているAEGのほうが、上場しているライブネーションより、ハイリスク興行に挑戦できる素地は整っていた。ロンドンのO2アリーナは、経営不振に喘いでいた施設をAEGが通年で借り上げ経営権を取得していることから、自社会場での大型興行となればオーナーの同意も取りやすかったのだろう。
「ロンドンではマイケルと家族のプライバシーを守るためにキャッスル(城)を借り上げて、ヘリでO2アリーナに通わせる。東京でもキャッスルが必要になるが、探し始めてくれないか。ついでにヘリの許可が取れるかも確認してくれよ」と、ロンドンで、プリンス公演の二十一回興行記録を塗り替える使命を負うガンガウエアーからも、具体的な話が届き始めていた。
チケット払い戻しの問題点は
六月二十五日に突如として襲ったマイケルの死がAEGに与えた損失は莫大だ。約二十億円の手付金、舞台装置やリハーサルの経費が概ね二十億円、他にチケットのための宣伝広告費を含めると総額五十億円になる。更に、チケットの売り上げや放映権、マーチャンダイジングなどの副次権収入を含めると逸失額はロンドン公演だけで五百億円以上と見られている。マイケルが自らデザインしたと言われるホログラム写真付きのチケットを公開し、返金の代わりに幻のチケットを購入できるオプションを提供するなど、返金額を抑制するための様々な手法が取られ始めている。
だが、AEGはコンサート終了後の配給を目論み、マイケルが亡くなる二日前にロサンゼルスのスタジオで十曲程度の映像を複数の映画用高画質デジタルカメラで収録していた。したがって、マイケルの資産相続権を所有するとみられる母親や資産管財人の許諾が取れれば、幻のコンサートがデジタルシネマ作品として世界市場で興行される可能性もある。更に、ペイテレビやホームビデオでも配給すれば、百億円規模の売り上げになる可能性もあるという。
今回のキャンセルによる最大の被害者は、欧米では合法なダフ屋サイトから券面価格を大きく上回る金額でチケットを購入したファンだ。完売となった百万枚のチケットのうち、約半数はこうした二次流通チケットと考えられるが、購入者には券面価格は返却されても、プレミアム(上乗せ)分の料金は戻って来ない。
ソニー・ミュージックと共有していたビートルズの二百五十一の楽曲を含む出版権がマイケルの資産のなかで最も価値があったが、二年後にはソニーが彼の持分を買い上げるオプション権を履行すると見られていた。その価値は五百億円から九百億円と試算されていたが、それでも、マイケルには手元の現金が枯渇し、負債処理の重圧にもさいなまれていたのだろう。再度キングの座に復帰しようとした完璧主義の天才が二度と東京ドームに現れることが無いのが悔やまれてならない。