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<先望鏡>石碑が泣いている大阪――都市の格向上へ歴史・文化大事に2009/06/24配信
大阪市内には意外に石碑が多い。道頓堀かいわいだけでも、道頓堀の名の由来になった道頓と道卜の顕彰碑に、人形浄瑠璃の竹本座の跡を伝える碑、相合橋の由来を示す碑……といった具合。大阪市教育委員会の文化財保護担当に問い合わせると、「正確なところは分からないが、市内に推定1200基前後」と教えてくれた。
□ □ 石碑は民間や公的機関などが、その時点の大阪の街や風土がつくられるうえで、何らかの役割を果たした人物や事象を顕彰するために建ててきた。「約1200基」という数字は大阪が歴史の古い街であり、様々な人物が足跡を刻んできたことを物語る。 だが、それらの石碑を見ていると、寂しい気持ちにさせられる。ビルや住宅のはざまに立っていたり、違法に止められた自転車に埋もれていたりするからだ。大阪城天守閣の研究副主幹、北川央さんは「東京は知名度でC級の人物でもきれいに整備していってるのに、大阪はA級でもお寒い状況のものがある」と嘆く。 行政や地元は、手をこまねいていたわけではない。例えば、道頓と道卜の顕彰碑。阪神大震災で碑が少しはくらくしたため、市が修復している。 石碑ではないが、数々の名作を生み出した劇作家、近松門左衛門の墓もそうだ。墓の立っていた寺の移転に伴って一緒に移されそうになったが、「何とかお墓だけは」とすぐそばの市の土地に仮安置された。建物のはざまにあるため、「大近松の墓がこんな場所に」と顔をしかめる向きも多いが、関係者の努力があってようやく残ったのが実情だ。 一方、歴史好きが悔しがるのは、羽柴秀吉を支えて武功を重ねた蜂須賀小六のお墓。市内に残すことはかなわず、昭和40年代に徳島にある蜂須賀家の墓所に移された。小六の墓が大阪にあったのは、大阪城下の大名屋敷にいた時に亡くなったという背景がある。墓の移設で、大阪は大名屋敷の存在を伝える事跡の一つを失った。 □ □ 文化状況を含めた大阪の“都市の格”を考えるうえで、北川さんが面白い話をしてくれた。「小京都(しょうきょうと)」「小江戸(こえど)」と、これに類する「大阪」をはめ込んだ言葉だ。改めて言うまでもないが、「小京都」は京都のような趣のある町、「小江戸」は江戸のような風情を感じさせる町をいう。 問題なのは、「関東の大阪」「四国の大阪」といった言葉。かつては、商業の盛んな町を指した。ところがである。「ゴミゴミした町を表す言葉に変わりつつある」と、北川さんは残念がる。 大阪は明治以後も、近代化に成功した町として良いイメージで語られていた。そのイメージが大きく損なわれたのは、「ここ20年ほどのこと」という。確かに、道頓堀かいわいの石碑の置かれた状況などは、「ゴミゴミとした」との印象を観光客に与えかねない。 「関東の大阪」「四国の大阪」と、あこがれを持って再び語られるようにするには、経済面の立て直しだけでは足りない。文化面でも、一層の手立てが必要だ。 (編集委員 小橋弘之)
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