|
二月十四日、というものがだんだん憂うつになってきた。
自分の母親と、隣に住む幼なじみの母親から計二つのチョコレートをもらって食べるだけの日、として位置づけられていたのに、最近ようすが違う。
「あしたは誰か、うちに来てくれるかしら?」
ひとの気も知らず、母親がおっとりと言う。
「流星、今年はちゃんと自分で受け取ってあげたら?」
「受け取らない」
流星は短い言葉に確固たる意志をこめて答えた。母親が編み棒を操る手を止める。
「去年も言っただろ。頼んでもないのに、いらないもの持ってこられても迷惑なだけ」
「迷惑だなんて言っちゃだめよ」
「すごく迷惑」
強調すると、ため息をつかれた。しかし呆れられるようなことは言っていないと思う。
去年、中学校に上がって初めてのその日、自宅のポストに複数のチョコレートが入っていた。「好きです」とか「食べて下さい」と添えられたメッセージカードの名前には半分がた心当たりがなくて困惑するばかりで、署名すらない、完全匿名の二、三に関してははっきり言って寒気を覚えた。
玄関先まで届けに来た女の子もいたが、流星は部屋から一歩も出ず、すべて母親に任せた。異性から関心を寄せられているのを知られることもほんとうは恥ずかしかったが、自分で応対するのはもっといやだった。
かわいい子だったわよ、とか、何人かで来ててね、一大決心って感じで、とかいちいち報告されるのもわずらわしいし、とにかく万事が迷惑なのだ。チョコレートには一切口をつけず一ヵ月ぐらい放置していたら母親が諦めて処分した。ホワイトデー、なんて単語には無言の拒絶を通した。
何でこんなどうでもいい行事に巻き込まれて不愉快にならなきゃいけないんだろう、という苦い思いを一年経ってまた引っ張り出してこなければならないのか。
「今年は何かお返しを用意してあげましょうよ」
さりげない提案の口ぶりで義務付けられたような気がして、すこし苛立った。母親に当たるのはお門違いだと分かってはいるのだけれど。
「みんなおんなじの、ささやかなものでいいじゃない。キャンディとか、ね? お母さんが買ってくるから」
「それで母さんが配ってくれるの」
意地の悪い質問をすると、困ったように小首を傾げた。
「もう……どうしてそんなに強情なの? 女の子にはやさしくしなくちゃ」
「じゃあ男は。お年寄りは」
「反抗期ね」
「そんなんじゃない。母さんの言ってることがおかしい」
声を荒らげた息子を軽くにらむと、母はぷいっと顔をそらしてまた黙々と編み物を続けた。流星は居心地の悪いリビングから自分の部屋に引き上げる。くだらないいさかいにまで発展して、まったくろくなことがない。
ほんとうにいやなのだ。面識もないような女の子から、気持ちの熱量は定かでないにしろ贈り物をされるなんて、流星の感覚では気味の悪いことだった。彼女たちは、自分の何を知っているというんだろうか。見た目の話なら、努力で獲得したものじゃない。それを理由に好かれることの意味が心底分からない。そういう嫌悪感を「反抗期」の一言でまとめられるのもいやだった。でも冷静に、納得させられる言葉で母親に伝えるのは難しい。だからぶっきらぼうな口を利き、黙ってしまう。
大人になったら、もっとうまくできるんだろうかと思う。チョコレートをさらりと受け取って、ホワイトデーにはさらりとお返しをして、波風を立てずに? あるいはそのなかの誰かと付き合ったり?
想像すら億劫だった。誰からも見向きもされなくなるほうがまだ楽だと思った。誰も俺に興味なんか持つな、と母親が聞いたら悲しい顔をするに違いないことを強く念じた。
そのせいなのかどうかは分からないが、翌日は朝から微熱があった。三十七度とすこし。学校を休むかどうかは微妙な線だが、身体がひどくだるかったので行かないことにした。
「流星、ココア飲む?」
うたた寝していると、母親がドアをノックして入ってきた。
「後でいい」
「そう。……熱はもうないみたいね」
か細い手を額にあてて、安堵したようにほほ笑む。そんな表情を見ていると、きのうひどい態度を取ったことが急に申し訳なく思えてくる。
「これ、編んだから」
枕元にそっとチャコールグレーのマフラーを置かれて、流星は素直に「ありがとう」と言った。母の顔がぱっと華やぐ。
「太陽くんのも、色違いで編んだの。大地くんには手袋。ネイビーと、黄色。ねえ、喜んでくれると思う?」
隣の兄弟の名前を挙げ、心配そうに尋ねる。いつまでも箱入りのお嬢さんで、少女っぽさの抜けない彼女を見ていると、流星はふと不安になる。言い知れない、もやのような心細さだった。そのたび、もう会えなくなった父親の、最後の言葉を思い出す。
——流星は、お母さんを守ってあげて。
あのときはふかく考えもしなかったけれど、守るって、どうやったらいいんだろう。働けもしない、チョコレートひとつ気に病んで不機嫌になる自分が、何をできるだろう。もしも父に、もう一度だけ会えるのならばそれを尋ねたかった。
「きっと喜ぶよ」
なるべくやさしく言うと、母は安心したように頷いて立ち上がった。
「お隣に届けて、お買い物に行ってくるね。何かほしいものはある?」
「大丈夫」
すぐ戻ってくるから、と言い置いて母は出て行った。別に眠くはなかったが、本を読んだりする気にもなれなくて何となく目を閉じているうち、いつの間にか寝入っていた。
まどろみのなかで、みしりと自分の身体のきしむ音を聞いたような気がした。痛みを伴うわけでないそれはたぶん骨の育っている気配、のようなものなのだと流星のなかで結論付けられている。身長が急に伸び始めてからときどき感じるようになったから。
ふかく根を張り、高く枝を伸ばそうとする身体。流星の意志とはまったく無関係に。それは何だかおそろしい。
未来とか将来とか可能性とか、すべての選択肢が手の中にあるような言い方を大人はするけれど、どのぐらいの身長で、こんな顔で、とそんなことすら思い通りにはならない。背なんか高くならなくていいし、人目を引く顔もほしくないのに。
夢を叶え、望むものを手に入れるような未来が、訪れることなんてあるのだろうか。こんなに無力な自分の上に。
応えるように、誰かが「流星」と呼んだ。
はっと目を開けると、太陽が覗き込んでいる。首には紺色のマフラー。
「ごめん」
太陽は申し訳なさそうに言う。
「何か寝苦しそうだから、起こしちゃった」
「……うん」
ゆっくり上体を起こす。
「大丈夫?」
「平気」
「さっき、お前んちのお母さんと会って、これもらったよ」
大事そうにマフラーに手をやる。
「部屋のなかでぐらい取れば」
見るからに喜んでくれていることが流星にも嬉しいのに、ついそんなことを言ってしまう。が、そっけなさに慣れっこの太陽は「いいじゃん」と笑う。
「ついでに流星のようす見ててって言われたから、上がったよ」
「心配性すぎる」
「何で? 病気なんだから、当たり前だよ。あ、これ、うちの母ちゃんから」
カーペットの上に置いたコートのポケットから、赤いリボンのかかった小さな箱を取り出す。
「買ったやつでごめんねって」
「何で」
「だって、うちいっつもケーキとかもらってんのに」
「母さんの趣味だからいいんだ」
「そっかー。机の上に置いとくな」
太陽が立ち上がりかけたとき、玄関のチャイムが鳴った。母親が帰宅するには早すぎるし、鍵を忘れるとも思えなかった。
「誰だろ」
流星は窓際に行き、そっと外を窺った。門の前に、数人の女の子。やっぱり。太陽に気づかれないように嘆息する。
「流星、パジャマだから出れないよな。俺が行って来ようか」
言うが早いか、機敏に出て行きかけた太陽の手を、とっさにつかむ。
「いい」
自分でも驚くような、強い声が出た。太陽も目を丸くしている。
「流星?」
「出ないでいい」
「でも」
「いいんだ」
ほんとうはたぶん、行かないでくれ、と言いたかったのだ。自分を訪ねてきた女の子に会ってほしくなかった。物も言葉も、何も言付けられてほしくなかった。その、衝動にも似た思いを、流星は口にすることができなかった。
もう一度、チャイムの音がした。太陽がちらりと扉に目をやる。しぜんと、手に力がこもった。それを察した太陽はすぐに流星を見て、きゅっと手を握り返した。
「出ないよ」
安心させるように笑いかけて「手、熱いな」と言う。
「やっぱ寝てたほうがいいよ」
他人の家であっても、居留守を使うなんて決していい気持ちはしないだろうに、誰が来ていたのか、どうしてなのか、訊こうともしなかった。なま温かいシーツに潜りながら、流星は、守られてる、と思った。今、太陽に。
ぽふぽふシーツを叩くと、太陽は「ココア飲む?」と尋ねた。
「台所に作ってあるからって言われたんだけど」
ほんとうはさして飲みたくなかったし、ここにいてほしかったのだけれど、そういう自分の甘えが気恥ずかしくて流星は「飲む」と頷いた。
「すぐあっためてくるな」
太陽は嬉しそうにキッチンへ向かう。流星はベッドの中で手を握ったり開いたりした。そんなに熱いだろうか。熱はないはずなのに。
ふと床を見ると、コートの近くにカラフルなマーブルチョコの筒が落ちていた。
トレイにマグカップをふたつ載せて戻ってきた太陽はすぐにそれに気づいて「あ」と言った。
「ごめん、俺の」
「……もらったの」
問いかける声はなぜか硬くなったが、答えは屈託なかった。
「うん。学校の帰りに、部活の女子が。『あんたはこれでじゅうぶんでしょ』って投げてきた」
ひどくない? と笑う太陽は、何も気づいていないのだろう。でも流星には何となく分かった。憎まれ口を叩きながら安物のチョコを投げ渡した女の子の、ほんとうの気持ちが。今頃、自分の不器用さに腹を立てながら思っているのかもしれない。もっと大人になりたいと。
差し出されたカップを黙って受け取り、ココアを含む。熱い甘さのなかに、ぴりりと舌を刺す何かが入っている。流星には飲み慣れた味だが、太陽はへんな顔をしていた。
「隠し味に唐辛子が入ってるんだ」
「唐辛子? こんなかに?」
「赤いままのじゃなくって、チリパウダー。風邪引いたときに、母さんがよく作る。身体が温まるからって」
「へー……」
太陽はふしぎそうに、チョコレート色の液体を覗き込む。
「残していいよ」
「何で? うまいよこれ。最初ちょっとびっくりしたけど」
ふうふう湯気を吹く合間に「流星」と呼ぶ。おずおずとした顔。
「なに」
「一応さ、お返しとかしたほうがいいと思う? 勘違いすんなって笑われるかな」
「……そんなことない。喜ぶと思う」
口にしながら、胸が唐辛子を舐めたみたいにちりりとした。理由はよく分からなかった。でも「しなくていい」と言うのはずるいような気がした。
「そうかなー。流星は? してる?」
「してない」
「何だ」
太陽は心からほっとしたように相好を崩した。
「流星がしてないんなら、俺もいいや」
「何で」
「何となく!」
顔を見られるのをいやがるように背中を向けてベッドにもたれる。
「どうせいっぱいもらってんだろ? ちゃんと返してるって言われたら、流星、何か大人だなーって焦ったと思う」
よかった、とつぶやく無防備な首筋や、髪や肩にさわりたいと思った。けれどそれを実行に移すなんて臆病な子どもには到底無理で、流星は持て余した気持ちごと腹の中に納めてしまおうとするようにココアを飲み込んだ。スパイスは熱く、喉を焼いた。
|
|
|