「選ばれる男たち―女たちの夢のゆくえ」
講談社、2009年7月17日
信田さよ子 著

さまざまな動機から書き始めた本書であるが、書き進めるうちに新たな視点や課題がどんどんあらわれてきた。このことは、本書に限らず、私が文章を書くときの常であるのでそれほど驚くことではない。
事前の予測としては、私たち還暦を過ぎた女性たちが、思う存分きれいな男性についてさまざまな角度から書き連ねることはきっと楽しいだろうというものだった。見られる対象としての年齢をはるかに過ぎた私たちは、大年増、ババア、ばあさま、おばはん、などなどおよそ賛辞やほめことばとは無縁の呼ばれ方を甘受しなければならない存在である。同じ年齢の男性が、おやじと呼ばれながらも、職業的達成をずっと光背のように背負っているのとは大違いである。おまけに、ちょっと前はロマンスグレー、最近はカレセンのように、年をとった男性を賛美する言葉までが創造されている。
彼らは、老女である私たちとは違い、毎朝鏡を見てしわやしみにため息をつくことなどないだろう。それをカバーしてあまりある社会的地位や経済力があれば、異性に対してずっと見る主体、選ぶ主体であり続けられるからである。それらがなくなったとしても、それなりの、自分に見合った女性を強制的にものにすることは不可能ではない。対象の要求水準を下げればいいだけの話だからだ。
彼ら男性たちが、異性である女性から査定され、評価され、選択される可能性については、想像の世界や言葉の上では否定などしないだろう。いっぱしの教養ある男性なら必ずそう言明するだろう。ところが、彼らの日常の行動はそうではない。老いも若きも、教養があろうとなかろうと、女性をもののように弄んだり、釣り堀感覚でゲットしたりする。時には、激しい暴力すらふるうのだ。
遠い昔、学生時代にカール・マルクスの「経済学・哲学草稿」を読んだことがあるが、その中の一節に、ひとりの人間(=男性)がもっとも明瞭に判断されるのは女性との関係においてであると述べられていた。正確な引用ではないし、その他難しいことは忘れてしまったが、その一節だけは今でも鮮明に覚えている。マルクスが実際女性との関係でどうだったのかについてはさておき、深く私はそれに同意するものである。
とすれば、私たち老いの坂道を転げ落ちる(もしくは登っていく)しかない女性たちこそ、もっともよく男たちの実態を知っているということになる。夫や恋人だけでなく、上司や部下も含め、彼ら男性が、女性相手だとどれほど信じられない態度をとるかを骨身にしみてわかっているのだ。
本書の意義はその点にある。性的対象から外れたからこそ自由になれることがあるからだ。自由になれたからこそ、私たち女性がしあわせに生きるためにはどのような男性が望ましいかを描くことができる。それは20代、30代、いや40代でも無理だった。50歳を過ぎ、還暦を迎えたからこそ描き、主張できると思う。
苦しかった過去、忘れたい過去、これらはすべて宝物である。
誤解を招かないように述べれば、過去をどのように振り返り、どのようにそれを語れるかによって宝物になりうるのだ。
男性からは歯牙にもかけられないポジション、やっと手に入れたこのポジションから、思い切り夢の男を造形してみたのである。しかもそれは机上の空論ではなく、散々な目にあわされたからこそ描けるリアルさも兼ね備えている。そこからは、おのずと選ばれるべき男性像が浮かび上がるはずだ。
本書を終わりまでお読みになった方が女性であれば、きっと深く同意していただけるものと信じている。わが意を得たりと思っている多くの女性の顔が目に浮かぶようだ。
また、これから選ばれたいと思っている男性であれば、目からうろこの内容かもしれない。先輩や年長の男性からまことしやかに言い伝えられた女性に関する常識を、本書は明瞭にひっくり返してしまうだろうから。しかし、女性が望んでいること、夢見ていることを知らなければ、彼らは選ばれることはないのだ。
選ぶのは、女性なのだ。なぜなら、結婚によってはるかに多くのものを失い、はるかに高いリスクを背負うのは女性なのだから。
人生がかかっているからこそ、女性こそが男性を選ぶのだ。