ここから本文エリア 09年新年連載 連峰の向こうへ
【1】滝田洋二郎さん×山田辰夫さん 12009年01月01日
立山連峰を越えて活躍する「富山発の人々」。著名人や業界のトップランナー……。「変化の時代」に、その人生をたどりながら富山の「土壌」を探ってみたい。初回は高岡商業高校で同級生だった映画監督・滝田洋二郎さん(53)=旧福岡町出身=と、俳優・山田辰夫さん(52)=旧大島町出身=に語ってもらった。2人は東京で別々の下積み時代を経て、映画「壬生義士伝」で再び結びつく。昨年は「おくりびと」でも仕事をともにした。いま故郷にどんな視線を送るのか。(聞き手・構成、雨宮徹 撮影、堀英治) -どんな少年時代を過ごしていましたか? 滝田 全くふつうの少年。酒屋の息子で。野球をやって、それなりの反抗期と思春期を経て。「将来の夢? 分からんわ、おれ」みたいな。山田さんは俳優になろうと思っていたかも知れないけど……。 山田 思っている訳ないじゃない。中学3年間は野球をやって、理不尽な縦社会を味わって。嫌な思い出しかない。だから中3の夏の大会で負けたときは、うれしかった。これで自由になれるって。高校に入って解放された。 -第一印象はどうでした? 滝田 あんまり覚えてない。ずっと一緒だから。 山田 気がついたら一緒にマージャン……、中国語の勉強です。勉強は全くしませんでしたけど。教科書を持って歩いた記憶がない。 滝田 いつも電車で高岡駅で降りて、朝、うどん食って、みんなでバスに。行きたくない奴(やつ)は途中で降りる。 山田 監督は昔から親分でした。知らない間にいわゆる勉強しない奴らのリーダー。僕は割と群れの中の1人。 滝田 偏差値みたいなものにおける「落ちこぼれ」であることは間違いない。僕らは職業専門みたいなことをやっていた。そのコンプレックスで、やっぱり大学に行ってみたいと。でもあまのじゃくだから投げやり。だから、のんきな高校生活を、あえて送っていた。それと「何をやりたいか」が分からない。とにかく富山が嫌だった。嫌というか現実逃避と夢がごっちゃになっている少年だから。 -富山にいたくなかった? 滝田 おれに合う場所はないと思った。働くとか将来の設計図が描けなかった。それが「嫌」という言葉になる。 山田 僕の俳優としての元に、今、監督が言ったような「ぼんやりした不安」がずっとある。 -共通の思い出は? 山田 富山県人の気質かも知れないし、滝田洋二郎の気質でもあると思うけど、とっておきの話。高3の夏休みに入る前、インターハイ出場を祝って全校生徒が体育館に集められるセレモニーがある。そのとき「ボクシング、滝田洋二郎」って。うちの高校はボクシング部なんてない。全校生徒、もう驚き。「洋二郎、マージャンばっかりやってたじゃないか」って。彼は僕らが知らない間にジムに通っていた。ダメなところも努力しているところも人に見せない。あのざわめきは今でも覚えています。 -受験に失敗しました。 山田 卒業生が250人ぐらいいて、僕と監督の2人だけ進路が決まってなかった。高商の歴史が始まって以来と言われた。東京で三流大学を卒業して帰ってきても就職口はない、高商卒業の方が条件はいいぞとも言われた。高岡では高商閥が強く、会社の枠も持っているし。でも、そこには行きたくない。じゃあ大学ってリアルにあるかっていうと、ない。 滝田 卒業時に決めなければならないことがあったでしょうけど「何で決めなければならないのか分からない。大学受けて落ちただけじゃないか」って。おれは今でも分からない。なんで18歳の少年が一生のことを決めなければならないのか。「色んなことやりてえよ」って。社会人になってもそういうこと、ボーっとしている。つまりアホなんだ。こっち(山田氏)は浪人。僕は専門学校。とにかく早く東京に行きたかった。 山田 田舎にはいたくなかった。脱出です、逃避。常にぼんやりした不安があって「おれは何者になるんだろう」っていう。だから世間の物差しから、ずれていた。 滝田 自分の職業って自分で見つけるしかない。型にはめられることや「お前はこうだ」みたいなのが嫌だった。それと東京には何かあると思った。田舎の少年の単純なあこがれなんだろうな。京都でも大阪でも良かった。なんで東京に行ったかというのは、これはナンセンスです。 対談2に続くhttp://mytown.asahi.com/toyama/news.php?k_id=17000310812310008
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