2009/07/26 23:20
「――アスナはもう聞いた? ゼッケンの話」
リズベットの声に、アスナはホロキーボードを打つ指を止めると、顔を上げた。
「ゼッケン? 運動会でもするの?」
「ちがうちがう」
リズベットは笑いながら首を振り、テーブルの上から湯気を立てるマグカップを取り上げて一口含むと、話を続けた。
「カタカナじゃなくて漢字。絶対のゼツに剣と書いて、絶剣」
「絶……剣。新実装のレアアイテムかなんか?」
「のんのん。人の名前よ。あだ名……というか、通り名かな。誰も本名は知らないんだけどね。あんまり強すぎるんで、誰が呼び始めたのか、ついた名前が絶剣。絶対無敵の剣、空前絶後の剣……そんな意味だと思うけど」
強い、と聞いて、アスナの好奇心は大いに刺激された。もとより剣の腕には大いに覚えのあるところだ。アルヴヘイム・オンラインのプレイヤーである今でこそ、後衛で回復魔法の詠唱が主任務となる水妖精――ウンディーネを種族として選択しているが、それでも時々昔の血がうずいて、腰のレイピアを抜いては敵陣に斬り込んでおお暴れしてしまうので、「バーサクヒーラー」などという優雅さとは縁遠い二つ名を頂戴してしまっている。
毎月開かれるデュエル大会にも積極的に参加して、ALOの三次元戦闘に慣れた今では火妖精族のユージーン将軍や風妖精族のサクヤ領主といった剛の者たちと肩を並べるにまでなっているので、新たなつわもの出現と聞いては無関心ではいられない。
書きかけの生物学のレポートをセーブし、ホロキーボードを消去すると、アスナはかたわらのマグカップを取り上げ、指先でワンクリックして熱いお茶を満たした。床から直接伸びる生木の椅子に深く座りなおし、本格的に話を聞く体勢に入る。
「それで……? その絶剣さんは、どんな人なの?」
「えっとね……」
新生アインクラッド第22層の深い森は、すっぽりと白い雪に覆われていた。
外の世界も一月初旬の冬真っ只中だが、近年とみに温暖化が進行していることもあり、東京では気温が零度を下回ることはほとんどない。現在建設が計画されている「都心第二階層」が数十年後に完成の暁にはほんものの雪が降ることすら無くなると聞く。
しかし、運営体のサービス精神の発露なのか、妖精の国アルヴヘイムではまさに厳冬と言うに相応しい気候が続いている。大陸の中央にある世界樹以北は、フィールドでの体感温度が零下10度、20度に下がることなどザラで、きちんとした防寒装備か、あるいは耐寒呪文の援護なしにはとても空を飛ぶ気にはなれない。
もっとも、小川の底まで凍りつくようなその寒気も、分厚い木壁に守られた部屋のなかまでは届かない。
2015年5月の、アルヴヘイム・オンラインの大規模アップデート――『浮遊城アインクラッド』実装以降、アスナをゲームプレイに駆り立てたモチベーションはただひとつだった。
必要な額のコル、いやユルド硬貨を遮二無二貯めて、誰よりも早く第22層の転移門をアクティベートし、針葉樹林の奥にぽつりとたつログ造りのプレイヤーハウスを購入すること。無論、はるかな昔に存在したもうひとつの浮遊城で、たった二週間だけだが楽しく、甘く、切ない日々を送った、まさにその場所に建つ家である。
22層は森しかない過疎フロアだし、主街区の村にもプレイヤーハウスはいくつも用意されているし、よもや同じ家を狙うライバルはいないだろうと思っていた。それでも、キリトはもちろんリズベットやシリカ、リーファたちの手も借り、どうにか膨大な額の資金を用意して、自らの手で倒した第21層ボスモンスターのしかばねを蹴り飛ばすようにログハウスの前にたどり着き、購入ウインドウのOKボタンをクリックし終えたときには、思わずしゃがみこんで泣いてしまった。(その夜、パーティーが終わって客たちが皆帰ったあと、キリトと、元の少女態に戻ったユイと三人で祝杯のグラスを合わせたときも、もう一度大泣きした)
なぜこの場所にこれほどまで拘ったのか、その理由はアスナにもなかなか言葉にすることはできない。はじめて本気の恋した男の子と、仮想世界のなかでとは言え艱難辛苦ののちにようやく結ばれ、短かったが幸せな日々を過ごした場所だから、と言ってしまうのは簡単だが、それだけではない気がアスナはしている。
おそらく、この家は、現実世界において常に居場所を探していたアスナが、ついに見出した真の意味での『ホーム』だったのだ。つがいの鳥が翼を休め、身を寄せ合って眠るような、小さく暖かい場所。心の還る場所。
もっとも、苦労のすえ手に入れて以来、ログハウスはすっかり仲間たちの溜まり場になってしまって、来客の途切れる日はほとんど無い。アスナが精魂こめて内装した小さな家の居心地よさは、一度訪れた者を例外なく虜にしてしまうようで、SAO時代の仲間はもちろん、ALOで新しくできた友人たちも頻繁にやってきてはアスナの手料理に舌鼓を打っていく。――いちど、どうしたタイミングか、サクヤとユージーンが同席してしまったときはなかなかに緊張感あふれる食卓が出現したものだが。
今日――2016年1月6日も、森の家のリビングルームに「生えた」樹のテーブルは、おなじみの面々で埋まっていた。
アスナの右隣にはシリカが座り、ホロウインドウ上に表示させた数式――冬休みの宿題に頭を捻りながらうなり声を上げている。左隣ではリーファが、同じく英文を睨んで顔をしかめている。
向かい側にはリズベットが座り、こちらは木苺のリキュール片手に椅子にふんぞりかえって脚を組み、ゲーム内で売っている小説に没頭しているようだった。
現実世界では午後4時ごろだが、窓の外はすでにとっぷりと日が暮れ、しんしんと降り積もる雪がランプの光を照り返していた。かすかな風鳴りの音を聞くまでもなく凍えるほどに寒そうだが、部屋の奥のペチカでは赤々と薪が燃え、その上の深鍋ではきのこのシチューがふつふつと湯気を上げて、暖かさとともにいい匂いを届けてくる。
アスナもホロキーボードに両手を置き、ブラウザ窓をいくつも宙に浮かべて(ALOのプレイヤーホームでは、オプション設定によってはゲーム外のネットにも接続できる)、そこに呼び出した資料に目を走らせながら、課題のレポートを順調に仕上げていた。
母親(もちろん現実の)は、アスナが現実世界でできることをVRワールドで済ませることにいい顔をしないが、長時間に及ぶ文章の入力などは、こちら側でやったほうが明らかに効率がいい。眼も手首も疲れないし、自室のモニタのUXGA解像度では不可能な数の資料窓をいくつも見やすい位置に浮かべておけるのだ。
いちど、母親にもそう言って、文章入力専用のアミュスフィア用アプリケーションを試させてみたことがあるのだが、ほんの数分で「眩暈がする」と言ってログアウトし、以来見向きもしなかった。
たしかに仮想世界酔いというものは存在するが、いまやダイレクトVRワールドネイティブであるとさえ言ってもいいアスナにとっては、こちら側の現実感はある意味では現実以上である。両手の指は一度のミスタイプもなく飛ぶように動き、エディタ上の文章は着々と結論へと近づいて――
と、そのとき、右肩にこつんと乗っかるものがあった。
見ると、シリカが、黒いショートヘアの頭をアスナの肩にもたれさせ、突き出た三角形の耳をぴくぴくさせながら、幸せそうな顔で寝息を立てている。
アスナは思わず微笑みながら、そっと左手の人差し指でシリカの猫耳をくすぐった。
「ほら、シリカちゃん。今寝ちゃうとまた夜眠れなくって困るよー」
「うにゅ……むにゃ……」
「冬休みもあと三日しかないんだよ。宿題がんばらないと」
耳をつんと引っ張ると、シリカはぴくんと体を震わせてから頭を起こした。ぼーっとした顔で何度か瞬きを繰り返し、頭をぷるぷる振ってアスナの顔を見る。
「う……うう……ねむいです」
呟きながら、小さな白い牙のある口を大きく開けて大きな欠伸をひとつ。アスナの知っている猫妖精族、ケットシーのプレイヤーたちはこの家にくると皆よく眠るので、ひょっとしてそういう種族的特性でもあるのかと疑いたくなる。
シリカの前のホロパネルを覗き込んで、アスナは言った。
「もうすぐそのページも終わりじゃない。がんばって、やっつけちゃおう?」
「ふ……ふぁい……」
「ちょっとこの部屋あったかすぎる? 温度下げようか?」
聞くと、今度は左隣で、リーファが笑いを含んだ声で言った。
「いえ、そーじゃなくて、アレのせいだと思いますよー」
「?」
振り向くと、リーファは黄緑色の長い髪を揺らして、部屋の奥、ペチカの向こうに視線を向けた。
「……ああ、ナルホド……」
その方向を見て、アスナは深く納得しながら頷いた。
赤々と燃える暖炉の前には、磨かれた木で出来た大きな揺り椅子がひとつ。
椅子に深く沈みこみ、白河夜船の体で眠りこけるのは、浅黒い肌に漆黒のつんつん髪を持つ影妖精族、スプリガンの少年だった。言うまでもなくキリトである。
彼の胸の上では、水色の羽毛を持つ小さなドラゴンが、これまた体を丸め、頭をふわふわのシッポに突っ込んで、心地よさそうに眠っている。ビーストテイマーであるシリカの、SAO時代からの相棒である小竜のピナだ。
そして、ピナの柔毛に包まれた体をベッドがわりに、さらに一回り小さな妖精があどけない寝顔を見せている。艶やかな濃紺のストレートヘア、白いワンピース姿の彼女は、キリト専用の「ナビゲート・ピクシー」でありまたアスナとキリトの「娘」でもある、その実体は旧SAOサーバーから突然変異的に生み出された人工知能のユイである。
キリトとピナとユイが三段の鏡餅のように積み重なり、揺り椅子の上で幸せそうに眠りこける有様は、一種魔力的と言ってもよい催眠効果を放射していて、数秒見つめるだけでアスナの目蓋もとろりと重くなってくる。
キリトというのが、実にまたよく眠る男なのだ。まるで、SAO時代寝る間も惜しんで迷宮区の攻略に明け暮れた貸しを今取り立てているとでも言うかのように、この家にいるときは、ちょっとでもアスナが目を離すとお気に入りの揺り椅子に倒れこんでぐうぐう眠ってしまう。
そして、揺り椅子の上のキリトの寝姿ほど、眠気を催させるものをアスナは知らない。
かつてSAOのなかに居たころは、森の家で、またエギルの店の二階で、キリトが椅子を揺らしていると、必ずといっていいほどアスナはその上に乗っかって、暖かいまどろみを共有したものだ。つまりアスナにとっても大いに身に覚えがあるところなので、シリカやリーファが眠気を誘われるのは理解できる。
しかし不思議なのは、至極単純なアルゴリズムで動いているはずのピナまでが、キリトが寝ているところに居合わせると、ご主人様であるシリカの肩からぱたぱた飛び立って、キリトの上でくるりと丸くなって眠ってしまうことだ。これはもう、寝ているキリトからはなんらかの「眠気パラメータ」が発生しているのではないかと疑いたくなる。実際、さっきまで頭をフル回転させてレポートを書いていたはずなのに、いつのまにか体がふんわりと……
「ちょっとアスナさん、自分が寝てますよ! あっ、リズさんまで!」
シリカに肩をゆさゆさと揺すられ、アスナははっと顔を上げた。
同時に、テーブルの正面ではリズベットがびくんと体を起こし、ぱちぱち目をしばたかせてから照れくさそうに笑った。銀妖精族レプラホーンの特徴である、金属光沢のあるペールピンクの髪をかきあげ、言い訳のようにぶつぶつつぶやく。
「アレ見てるとなんでこう眠くなるのかねぇ……。ひょっとしてスプリガンの幻影魔法じゃないだろうなぁー」
「ふふ、まさか。眠気覚ましに、お茶淹れるね。と言っても手抜きだけど」
アスナは立ち上がると、背後の棚から、カップを四つ取り出した。最近のクエストで手に入れた、「クリックするだけで99種類の味のお茶がランダムに湧き出す」魔法のマグカップだ。
テーブルにカップと、お茶うけのフルーツタルトが並ぶと、ゲンキンに眠気を払拭したシリカも含めて、四人はさっそくそれぞれ異なる香りのする熱い液体を口元に運んだ。
「そういえば、さ」
リズベットが思い出したように言ったのは、その時だった。
「――アスナはもう聞いた? ゼッケンの話」
* * *
「うわさをよく聞くようになったのは、ちょうど年末年始のあたりだから……一週間前くらいからかなあー」
そう言うと、リズベットは何かを合点したかのようにちいさく頷きながらアスナを見た。
「そっか、じゃあアスナが知らないのも当然か。あんた年末からずっと京都だったもんね」
「もう、こっちにいる時に嫌なこと思い出させないでよリズ」
アスナが渋面をつくると、リズは大きな口をあけてあっはっはと笑った。
「いやー、イイトコのお嬢さんも大変だね」
「ほんと大変だったわよ。一日中着物で正座して挨拶ばっかりしてたし、夜に『潜ろう』にも母屋にはいまどき無線LANも入ってないんだよ。アミュスフィアもってったのに無駄になっちゃった」
ふう、とため息をついて、お茶をごくりと飲み干す。
アスナは、昨年末から両親、兄とともに、京都にある結城本家、つまり父親の実家になかば強制的に赴かされていた。アスナの、二年にわたる「入院」の間に親類筋には大いに心配をかけ、また世話になったからそのお礼を、と言われれば嫌とも言えない。
幼い頃は、年始を本家で過ごすのは当たり前のことと思っていたし、同年代のいとこたちに会うのも楽しみだった。
しかし、中学に上がった頃からだったろうか。アスナはだんだん、その恒例行事が気詰まりに思えるようになってしまった。
結城の本家というのは、誇張でなく二百年以上も前から京都で両替商を営んできた家で、維新や戦争の動乱にもしぶとく生き残り、現在では関西一円に支店を持つ地方銀行を経営している。父親の結城彰三が、一代でレクトという大電器メーカーを興せたのも本家の潤沢な資金援助があったればこそであり、親戚筋を見渡せば、社長だの官僚だのはごろごろ転がっているのだ。
当然のように、いとこたちは皆アスナや兄と同じような「いい学校」の「優等生」で、宴席で子供たちが行儀良く並んで座るとなりでは、親たちがうちの子は何の大会で表彰されただの、全国模試で何番を取っただのという話を、表面上は穏やかに、だが延々と応酬し続けるのである。自分を包み込む世界の「硬さ」に恐怖を覚えはじめていたアスナにとっては、毎年のその行事が、子供たち全員に序列を付け直す作業のように思えたのだった。
2012年11月、中学三年の冬にアスナはSAOに捕われ、2015年の1月にキリトの手によって解放されたので、今年の年始の挨拶は実に四年ぶりということになる。本家の、京風数寄屋造りの広大な屋敷で、アスナはきつい振袖を着せられ、祖父、祖母をはじめ膨大な数の親類縁者に、しまいには自分が接客NPCに思えてくるほどに繰り返し挨拶をさせられた。
それでも、ひさしぶりにいとこたちと会えるのは嬉しいことだったのだが、アスナの無事なる帰還を我が事のように喜んでくれる彼ら彼女らの瞳のなかに、アスナは嫌なものを見つけてしまったのだった。
いとこたちは一様に、アスナを憐れんでいた。生まれたときから始まり、そしてまだ何年も続くレースから、早くも脱落してしまったアスナに同情し、可哀想だと思っていたのだ。考えすぎではない。子供のころからずっと人の顔色を窺い続けていたアスナには判る。
もちろん、今のアスナは、その頃の人格とは全く異なる存在だ。あの世界が、そして一人の少年が否応なくアスナを生まれ変わらせた。だから、いとこたちや、おじ、おばたちの憐憫も、アスナの心の表面を微風のように通過していったにすぎない。自分はまず第一に剣士であり、戦う人間である、それはあの世界が消えたいまでも変らないという信念がアスナの心を支えている。
しかし、その価値観は、VRMMOなどというものは害悪としか考えていないいとこたちにはまったく理解してもらえないだろう。そして、本家にいるあいだじゅう、ずっとどこか不機嫌だった母親にも。
いい大学に入り、いい就職をしなければという強迫観念はもう欠片もない。今の学校は好きだし、あと一年かけて、本当にやりたいことをじっくり探すつもりだ。もちろん、いっこ年下の男の子と現実世界でも家庭を持つのが最終目標であるのだが。
――などと考えながら、アスナはにこやかに親戚たちのあれやこれやの詮索をやり過ごし続けたのだが、どうにも参ったのは、明日にはようやく東京に戻れるという晩に、はとこにあたるという二つ年上の大学生と屋敷の奥まった部屋で二人きりにされたことだった。
本家の銀行の専務だかの息子だというその男は、自分が何を専攻しており、もう就職が決定しているという銀行ではどのようなポストにつきどのように出世していくかということをひたすら喋りつづけ、アスナとしてははあそうですかと思いつつ笑顔で感心してみせるしかなかったのだが、引っかかるのはまるで周囲が示し合わせてアスナとその男を二人きりで残したように思えてならないことで、ことによるとそこには何か大人たちの胡散臭い意図が……
「ちょっとアスナ、聞いてる?」
テーブルの下でリズベットにつま先をつつかれ、アスナはハッと物思いから復帰した。
「あ、ご、ごめん。ちょっとヤなこと思い出しちゃって」
「なあにそれ? 京都でお見合いでもさせられた?」
「…………」
「……なにひきつってるのよアンタ。……まさか……」
「ないない、なんにも無いわよ!」
アスナはぶんぶん首を振ると、空になったマグカップを再びクリックし、湧き出した怪しい紫色のお茶をごくごくと喉に流し込んだ。
「それで……強いって、その人はPKerなの?」
「んーん、デュエリストよ。セルムブルグのちょっと北にさ、でっかい樹が生えた観光スポットの小島があるじゃない。あそこの樹の根元に、毎日午後3時になると現われて、立ち合い希望プレイヤーと一人ずつ対戦すんの」
「へええー。大会とか出てた人?」
「や、まったくの新顔らしいよ。でもレベルは相当高そうだから、どっかからのコンバートじゃないかな。最初は、MMOトゥデイの掲示板に対戦者募集って書き込みがあってさ。ALO初心者のくせにナマイキだ、いっちょへこましたろう、って奴らが30人くらい押しかけたらしいんだけど……」
「返り討ち?」
「全員、きれいにね。HPを三割以上削れた人はひとりもいなかった、ってゆーんだから相当だよね」
「ちょっと信じられませんよねー」
フルーツタルトをもぐもぐしながら、シリカが割って入った。
「あたしなんか、まともにエアレイドできるようになるまで半年くらいかかったんですよ。なのに、コンバートしたてであの飛びっぷりですからね!」
「シリカちゃんも対戦したの?」
アスナが訊くと、シリカは目を丸くして首をぶんぶん振った。
「まさか! デュエルを観戦しただけで勝てないのは確信しましたもん。ま、リズさんとリーファはそれでも立ち合ったんですけどね。ほんと、ちゃれんじゃーですよね」
「うっさいなあ」
「何事も経験だもん」
リズベットとリーファが口を尖らせて言うのを笑顔で聞きながら、アスナは内心で少々驚いていた。
もとより種族的に戦闘は不向きで、その上鍛冶スキルを優先的に上げているリズベットはまだしも、シルフ随一と言っていいエアレイドの達人であるリーファを空中戦で上回るとは只者ではない。しかもコンバートしたてで、などという話はもはや前代未聞と言っていい。
「それは本物っぽいねえ。うーん、ちょっとワクワクしてきたなあ」
「ふっふ、アスナはそう言うと思った。もう、月例大会の上位常連どころで残ってるのは、サクヤとかユージーンとかの領主やら将軍組だけなんだけど、あのへんは立場的に辻試合は難しいしねえ」
「でも、そんだけ強さを見せ付けちゃうと、もう対戦希望者なんていなくなっちゃったんじゃないの? 辻デュエルの負け経験値ペナルティって相当なもんでしょ?」
「それがそうでもないんです。賭けネタが奮ってるんですよ」
と、再びシリカ。
「へえ? なにかすごいレアアイテムでも賭けてるの?」
「アイテムじゃないんです。なんと、オリジナル・ソードスキルを賭けてるんですよ。すっごい強い、必殺技級のやつ」
アスナは思わず、キリトの癖を真似て、肩をすくめながらピュウと口笛を吹きたくなる衝動に駆られたが、どうにか我慢した。
「OSSかぁー。何系? 何連撃?」
「えーと、見たトコ片手剣系汎用ですね。なんとびっくり十一連撃ですよ」
「じゅーいち!」
今度こそ、反射的に唇を細めて高い音を鳴らしてしまう。
今は無き旧ソードアート・オンラインをSAOたらしめてした代表的なゲームシステム、それが「ソードスキル」である。
無数の系統の武器ごとに設定された「技」のことで、内容は一撃必殺の単発攻撃から疾風怒濤の連続攻撃まで様々だ。武器による通常攻撃と異なるのは、一度初動を開始すれば、脳神経直結環境技術の本来的な制約である通信ラグを無視して、技の出終わりまでシステムが最大速度で体を自動操縦してくれるという点である。副次的効果として攻撃中は派手なライトエフェクトとサウンドエフェクトを伴い、技の使用者は自分が超戦士となったかのような快感を味わうことができる。
アルヴヘイム・オンラインにおける、一連の大規模アップデートの一環として、新運営体はソードスキル・システムもほとんどオリジナルのままの形で実装するという大胆な決断をした。
つまり新生ALOは、戦闘システムに根幹からの大変革を加えられたことになる。これはさすがにプレイヤー達の間に大論議を巻き起こしたが、反対論者たちもいちどソードスキルを体験するとほとんどの者がその快感に魅せられてしまった。アップデートから半年以上が経過した現在でも、「空中機動」+「剣技」という新しい戦闘体系は、多くのユーザーコミュニティで日々活発な報告と議論の対象となっている。
さて、そのソードスキルだが、冒険心溢れる運営者たちは、先人の遺産をただそのまま拝借することを良しとしなかった。
そこで彼らが新要素として開発・導入したもの、それが「オリジナル・ソードスキル」システムだ。
その名のとおり、「独自の剣技」である。動きすべてがあらかじめ設定されている既存の剣技ではなく、プレイヤー自らが編み出し、登録することのできるソードスキル。
これが発表されたとき、多くのプレイヤー達は、「ド派手」で「かっこいい」自分だけの必殺技を手に入れようと、我先にとそれぞれの武器を振り回した。
そして一様に深い挫折を味わった。
オリジナルソードスキル略してOSSの登録手順は非常に単純だ。
まずウインドウを開き、OSSタブに移動し、剣技記録モードに入って記録開始ボタンを押す。その後、おもむろに武器を振り回し、技が終わった時点で記録終了ボタンを押す。それだけだ。
しかし、「ぼくのかんがえた必殺技」がソードスキルとしてシステムに認められるためには、非常に厳しい条件をクリアする必要があった。
斬り(スラッシュ)と突き(スラスト)の単発技は、ほぼ全てのバリエーションが既存の剣技として登録済みである。よって、OSSを編み出そうと思ったら、それは必然的に連続技とならざるを得ない。しかし、一連の動きにおいて、重心移動や攻撃軌道その他もろもろに無理がわずかにもあってはならず、また全体のスピードは、完成版ソードスキルに迫るものでなくてはならない。
つまり、本来システムアシストなしには実現不可能な速度の連続技を、アシストなしに実行しなくてはならないという、矛盾とさえ言っていいほどの厳しい条件が課せられているのだ。
そのハードルをクリアする方法は只ひとつ、気が遠くなる回数の反復練習あるのみである。一連の動きを、脳のシナプスが完全に覚えこむまで。
本来そういう地味な鍛錬が苦手な傾向のあるVRMMOプレイヤー達は、そのほとんどがあっけなく「俺必殺技」の夢を放棄してしまった。それでも、一部の努力家たちがOSSの開発・登録に成功し、中世の剣術流派開祖にも似た栄誉を手にすることになった。
実際、一部のプレイヤーは「○○流」という名のギルドを興し、街に道場を開くに至っている者すらいる。
それを可能にしたのが、OSSシステムに付随する「剣技伝承」システムだ。
つまり、OSSを編み出すことに成功したものは、一代コピーに限って、技の「秘伝書」を他のプレイヤーに伝授することができるわけだ。
OSSは、対プレイヤーはもちろん、対モンスターにも絶大な効果を発揮する。それゆえ皆が欲する。いきおい技の伝承は非常に高額な代償を必要とするようになり、五連撃を超えるような「必殺技」の秘伝書はALO世界で最も高価なモノとなりつつある。現在一般に知られているなかで、最も強力なOSSは、サラマンダー将軍のユージーンが編み出した『ヴォルカニック・ブレイザー』八連撃であるが、金には困らない立場のユージーンはこれを誰にも伝承させていない。一応アスナ自身も数ヶ月の苦労の果てに六連撃技の開発に成功しているが、それですっかり気力を使い果たし、新しい技に取り掛かる気には当分なりそうもない。
そのような状況のなかに登場したのが、破格の十一連撃技をひっさげた謎の剣豪『絶剣』、というわけなのである。
「まあ、そういうことなら対戦希望者が殺到するのも納得だね。みんなはそのソードスキル、実際に見たの?」
アスナの問いに、三人はそろって首を振った。代表して、リズベットが口を開く。
「んーん、なんでも、辻デュエルを始めた初日のいちばん最初に、演舞として披露したらしいんだけど、それっきり実戦では使ってないみたいね。……というか、OSSを使わせるほど絶剣を追い詰められた人はまだ誰もいない、って言うか」
「リーファちゃんでも無理だったの?」
尋ねると、リーファはしゅんと肩を落として首を振る。
「お互い、HPが六割切るくらいまではいい勝負だったんですけど……結局最後までデフォルト技だけで押し切られちゃいました」
「へええ……。――そう言えば、肝心なことな何も聞いてなかった。種族とか、武装は? どんなの?」
「あ、インプですよ。武器はレイピアですけど、アスナさんの剣よりもうすこし重いかな。――ともかく、速いんです。通常攻撃もソードスキル並みのスピードで……動きが目でも追えないくらいでしたよ。あんなこと初めてですよ、すごいショック」
「スピード型かー。リーファちゃんにも見えないんじゃ、わたしも勝機ナシかな。……――あ」
そこまで言ってから、アスナはようやく重要なことを思い出した。
「動きのスピードと言えば、反則級のヒトがそこで寝てるじゃない。キリト君は? そういう話、興味持ちそうだけど」
言うと、リズベット、シリカ、リーファは互いに目を見交わし、いきなりプッと吹き出した。
「――な、なに、どうしたの?」
あっけに取られるアスナに向かって、リーファがくすくす笑いながら、衝撃的なことを口にした。
「ふふふ。――もう戦ったんですよ、お兄ちゃん。そりゃもう、きれーに負けました」
「ま……」
負けた。あのキリトが。
アスナは口をぽかんと開け、そのままたっぷり数秒間にわたって固まった。
剣士としてのキリトは、アスナのなかでは最早「絶対的強者」という名の観念的存在となっていると言っても過言ではない。SAO、そしてALOの二世代を通して、一対一のデュエルでキリトを破ったのはアスナの知る限り血盟騎士団々長ヒースクリフ唯一人であり、それすらもゲームマスターとしてのシステム的優遇措置に助けられた結果である。
リズベット達には喋ったことは無いが、実はアスナ自身もSAO時代に一度だけ、キリトとギリギリの本気デュエルで剣を交えたことがある。
まだ知り合って間もない、アスナがKoB副長として最前線攻略の指揮を取っていた頃の話だ。
あるフロアの強力なボスモンスターの攻略方針を巡って、KoB以下の最速攻略優先派ギルドと、キリト以下数人のソロプレイヤーが対立したことがあった。両者の主張は平行線のまま妥協点を見出すことが出来ず、最終的に双方の代表によるデュエルで結論を出すことにしたのだ。
アスナはその頃すでに、内心ではキリトに惹かれつつあったのだが、まだその気持ちを打ち消そうという気分も大きかった。個人的な感情が、ゲームクリアという大義に優先することは許されないと思っていたのである。
デュエルは、自分のなかの柔弱な心を打ち消すいい機会だとアスナは考えた。キリトを倒し、ボスモンスターをきっちり効率的に討ち取ることで、ふたたび冷徹な自分に戻れるだろうと。
しかしアスナは、キリトという一見頼り無さそうな剣士の隠された実力を知らなかった。
デュエルは熱戦の名に相応しいものだった。剣を打ち交わすうちに、アスナの脳裏からすべてのしがらみは吹き飛び、ただ好敵手と戦うことのよろこびだけが全身にあまねく満ち溢れた。かつて体験したことのない次元での、直接脳神経パルスを交感するかのような戦闘はおよそ20分にも及んだのだが、その時間すらも意識することはなかった。
そしてアスナは敗れた。全身全霊の気合を乗せた突きを、およそ人間技とは思えない反応で回避され、直後にレイピアはアスナの右手から弾かれて空高く舞った。
結局、そのデュエルを経験することによって、逆にアスナの恋心は打ち消しようのないものになってしまったのだが、同時にキリトの剣はアスナのなかにもうひとつの印象を深く刻んでいった。
――最強の剣士。その確信は、SAO時代の「キリト」というキャラクターデータが消滅した今でも、わずかにも薄れてはいない。
ゆえにアスナは、キリトが「絶剣」に敗れたという話に、戦慄すら伴う衝撃を受けたのである。
アスナはリーファからリズベットに視線を移すと、掠れた声で聞いた。
「キリトくんは……本気だったの?」
「う〜〜〜ん……」
リズベットは腕組みをすると眉をしかめた。
「こう言っちゃなんだけど、あの次元の戦闘になると、あたし程度じゃ本気かそうでないかなんて判らないんだよね……。まあ、キリトは二刀じゃなかったし、そういう意味じゃ全力ってことにはならないんだろうけど。それに、さ……」
リズベットはふと言葉を切ると、暖炉の炎を映して煌めく瞳を、眠るキリトに向けた。その口もとに、穏やかな微笑が浮かぶ。
「あたし、思うんだ。たぶん、もう、正常なゲームの中じゃ、キリトがほんとのほんとに本気で闘うことは無いんじゃないかな、ってさ。逆に言えば、キリトが本気になるのはゲームがゲームじゃなくなった時、バーチャルワールドがリアルワールドになった時だけ……だから、アイツが本気で闘わなきゃならないようなシーンは、もう来ないほうがいいんだよ。ただでさえ厄介な巻き込まれ体質なんだから」
「…………」
アスナは、ちくりとする胸の痛みを意識しながら、リズベットの言葉にこくんと頷いた。
「ン……。そうだね」
両隣で、リーファとシリカもそれぞれの感慨を込めながらゆっくりと首を動かす。
しばし訪れた沈黙を破ったのはリーファだった。
「――でも、あたしが感じた限りではですけど……お兄ちゃん、真剣だったと思いますよ。少なくとも、手を抜いてたってことはまったく無いと思います。それに……」
「……なあに?」
「確信はないんですが、勝負が決まるちょっと前、鍔迫り合いで密着して動きが止まったとき、お兄ちゃん何か喋ってたような気がするんですよね……。そのすぐ後、二人が距離を取って、絶剣さんの突進攻撃をお兄ちゃんが回避しきれないで決着したんですが……」
「ふうん……何話してたんだろ?」
「それが、聞いても教えてくれないんですよね。何かありそう……な気はするんですけどねえ」
「そっか。じゃあ多分、わたしが聞いてもだめだろうなあ。あとはもう、直接闘ってみるしかない、かな」
アスナが呟くと、リズベットが眉を上げた。
「やっぱり闘う気?」
「勝てるとは思わないけどねー。なんだかその絶剣ってヒト、何か目的があってALOに来たような気がするんだ。辻デュエルすること以外にね」
「うん、それはあたしも思った」
「ともかく、明日セルムブルグに行ってみるよ。付き合ってくれる?」
くるりと見回すと、リズベット、シリカ、リーファは同時に頷いた。シリカがシッポをぴんぴん振りながら言う。
「もちろんですよ! こんな名勝負見逃せません」
「勝負になるかどうかわかんないけど……じゃ、決まりね。午後3時に現われるんだっけ、なら2時半にここで待ち合わせしよう」
ぽん、と両手を合わせてから、アスナはウインドウを出し、現実時間窓に目を走らせた。
「いけない、もう6時か。晩御飯遅れちゃう」
「じゃ、今日はここでお開きにしましょう」
リーファが自分の前のウインドウをセーブし、ぱぱっと片付ける。三人がそれにならうあいだに、リーファは揺り椅子に歩み寄ると、背もたれを掴んでがっこがっこと派手に揺らした。
「ほら、お兄ちゃん起きて! 帰るよー!」
その様子を微笑しつつ見やりながら、アスナはふとあることに思い至り、リズベットに顔を寄せた。
「ねえ、リズ」
「なに?」
「さっき、絶剣はコンバートプレイヤーだろう、って言ったけどさ……。それだけ強いなら、可能性としては、もしかすると……元SAOプレイヤー、って線もあるんじゃないの?」
小声で尋ねると、リズは真剣な表情を作り、小さく頷いた。
「うん。あたしもまずそれを疑ったんだ。で、キリトが絶剣と闘ったあと、どう思うか訊いてみたんだけどさ……」
「キリト君は、何て……?」
「絶剣がSAOプレイヤーだった可能性は、まず無いだろう、って。なぜなら……」
「…………」
「もし絶剣があの世界にいたなら、二刀流スキルは、俺でなくあいつに与えられていたはずだ、って」
2009/07/26 23:19
爽やかな香りにふわふわと鼻をくすぐられて、あたしはゆっくりと目蓋を開けた。
白い光が世界を満たしていた。いつの間にか夜が明けていたようだ。氷壁に幾重にも反射してきた朝陽が、縦穴の底に積もる雪を輝かせている。
視線を巡らせると、ランタンの上にポットが置かれ、ゆらゆらと蒸気がたなびいていた。芳香の元はそこらしい。ランタンの前には、こちらに横顔を見せて座る、黒衣の人物。その姿を見るだけで、あたしの胸のなかにぽっと小さな火が灯るような気がする。
キリトはこちらを振り向くと、小さく微笑んで、言った。
「おはよう」
「……おはよ」
あたしも言葉を返す。もぞもぞと体を起こすと、キリトが慌てた表情で視線を逸らせた。なんだろう、とぼんやり思ってからふと自分の体を見下ろすと、簡素なキャミソール一枚しか身に着けていない。
「ひゃっ」
あわてて再度上掛けに潜り込んでから、ようやく昨夜の事を思い出す。そうだ――あたしは、このキリトのベッドロールに入って……抱き合って……それで……
燃え出すかと思うほど顔が熱くなる。頭まで布に潜り、恥ずかしさの波が引くのをひたすら待つ。
どうにか心臓を落ち着かせて、顔を出してキリトの様子を覗き見ると、彼も頬を赤くしてソッポを向いていた。その様子にちょっとだけ勇気付けられて、数回口をぱくぱくさせてから、言う。
「あの……あの、ゆうべは……」
そこで、ふと口篭もる。あの体験を言葉にすることはできないと思った。だから、
「……ううん、なんでもない……。夢を、見たよ。すてきな夢」
そう言った。
「そうか……俺もだ」
キリトは短く答え、カップを取り上げてポットの中身を注ぐとあたしに差し出してきた。
「あ、ちょっとまって」
ウインドウを出し、手早く服を着るとベッドロールの外に出る。キリトの右隣に座り、カップを受け取る。
花とミントの香りがする、今まで飲んだことのないお茶だった。一口ふたくち、ゆっくりと含む。ほっと心が温かくなる。
あたしは体をずらすと、キリトにぴたりとくっつけた。顔を向けると一瞬目が合ったけれど二人ともすぐに視線を逸らす。しばらくの間、二人がお茶を啜る音だけが響いた。
「ねえ……」
やがて、あたしはカップに視線を落としたまま呟いた。
「ん?」
「……このまま、ここから出られなかったらどうする?」
「毎日寝て暮らす」
「あっさり即答するわねえ。もうちょっと悩みなさいよ」
笑いながらキリトの腕をひじでつつく。
「……でも、それも悪くないね……」
言って、頭をキリトの肩にもたれさせようとした、その時――。
「あっ……!?」
突然キリトが叫び、身を乗り出した。支えを失ったあたしはコテンと地面に転がってしまう。
「もう、なんなのよ!」
体を起こしながら文句を言ったが、キリトは振り向きもせずに立ち上がった。そのまま、円形の穴底の中央目指して駆けていく。
いぶかしみながらあたしも立ち、後を追った。
「どうしたっての?」
「いや、ちょっと……」
キリトは膝をつき、両手で積もった雪をかき分け始めた。ざくざく、という音とともに、たちまち深い穴が穿たれていく。と――
「あっ!?」
あたしの目に、突然銀色の輝きが飛び込んできた。朝の光を反射して、何かが雪の奥できらめいている。
キリトはその何かを全て掘り出すと、両手で掴み、立ちあがった。興味を抑えきれず、あたしは至近距離から覗き込んだ。
白銀に透き通る、長方形の物体だった。キリトの両掌からわずかにはみ出すくらいの大きさだ。あたしにとっては見慣れた形、見慣れたサイズの代物――金属インゴット。でもこんな色のものは見たことがない。
あたしは右手の指を動かし、そっとインゴットの表面を叩いた。ポップアップウインドウが浮かび上がる。アイテムの名前は『クリスタライト』。
「これ――ひょっとして……」
キリトの顔を見上げると、彼も訝しげな表情ながらも頷いた。
「ああ……。俺たちが取りに来た金属……なんだろうなぁ……」
「でも、なんでこんなとこに埋まってるのよ」
「うーむ……」
キリトは右手の指でつまんだインゴットをためつすがめつ眺めながら首を捻っていたが、不意に「あっ……」と声を漏らした。
「……ドラゴンは水晶を齧り……腹の中で精製する……。はは、なるほどね」
何かを合点したかのように笑いを漏らし、金属をあたしに向かってひょいっと放ってきた。あわてて両手で受け止め、胸にぎゅっと抱く。
「ちょっと何なのよ! 自分だけ納得しちゃってさあ」
「この縦穴はトラップじゃない。ドラゴンの巣だよ」
「え、ええ?」
「つまりそのインゴットはドラゴンの排泄物だ。ンコだ」
「ン……」
あたしは頬を引き攣らせながら、胸の中のインゴットに視線を落とした。
「やだっ」
思わずキリトに投げ返してしまう。
「おっと」
それをキリトが器用に指先で弾き返してくる。子供じみた投げ合いを数回繰り返したあと、最終的にキリトが早技で広げたアイテム欄にインゴットをすぽりと格納してお開きとなった。
「ま、なんにせよ目標達成という訳だ。これで後は……」
「脱出できればねえ……」
二人、目を見交わしてため息。
「とりあえず思いついたことを片端から試すしかないなぁ」
「そうねー。あーあ、ドラゴンみたく翼があれば……」
――と言いかけたところで。あたしはある事に思い至って、口をぽかんと開けたまま絶句した。
「……なんだよ、リズ」
首を傾げながらあたしの顔を覗き込んでくるキリトに向かって、
「ねえ――。ここ、ドラゴンの巣だって言ったわよねえ」
「ああ。ンコがあるからにはそうなんじゃ――」
「それはどうでもいいのよ! ドラゴンが夜行性で、朝になったってことは、巣に帰ってくるんじゃないかって……」
「……」
押し黙ったキリトとしばらく見つめ合い、次いで二人そろって上空、穴の入り口を振り仰ぐ。まさにその瞬間――。
遥か高み、白く切り取られた光のなかに、滲むように黒い影が生まれた。それはみるみるうちに大きくなる。二枚の翼、長い尾、鈎爪を備えた四肢までがすぐに見て取れるようになる。
「き……き……」
あたしたちは揃って後退った。でももちろん、どこにも逃げ場があろう筈もなく。
「来た―――――っ」
二重に叫びながらそれぞれの武器を抜く。
縦穴を急降下してきた白竜は、あたしたちの姿を認めると一声甲高く鳴いて地表すれすれに停止した。今回は隠れる場所はない。緊張を押し殺しながらメイスを構える。
同じく片手剣を構えたキリトが、あたしの前に出て早口で言った。
「いいか、俺の後ろにいろよ。ちょっとHPが減ったらすぐにポーションを飲んどけ」
「う、うん……」
今度ばかりは素直に頷く。
ドラゴンが口を大きく開け、再び雄叫びを上げた。翼の巻き起こす風圧で雪が舞い上がる。長い尻尾が地面をびたんびたんと叩き、その度に雪面に深い溝が穿たれる。
先制あるのみ、とばかりに右手の剣を振りかぶり、突進しようとしたキリトだが――なぜか突然その動きを止めた。
「……あっ……まさか……」
低い声を漏らす。
「ど、どうしたの?」
「……」
あたしの問いには答えず――。剣を下げると、キリトはいきなり振り向き、あたしの体を左手でぐっと抱き寄せた。
「!?」
わけが判らずパニクるあたしは、そのままヒョイとキリトの肩に担ぎ上げられてしまった。
「ちょ、ちょっと、なにを――うわっ!!」
ずばん! という衝撃音とともに、周囲の風景が霞んだ。キリトが猛烈なダッシュをかけたのだと悟るのに一秒ほどかかった。次いで急制動。猛烈な加減速に晒されて目を回しかけたあたしの視界に、ドラゴンの後姿が入った。あたしたちを見失ったかのように、首を左右に振っている。
さては後背から攻撃するつもりなのかな――と思ったのもつかの間、なんとキリトはそろそろとドラゴンに歩み寄り――。何を考えているのか、剣を鞘に収めると、空いた右手で揺れているドラゴンの尻尾の先端をむんずと掴んだ。
その途端、ドラゴンが甲高い叫び声を上げた。驚愕の悲鳴――に聞こえたのは気のせいだろうか。いよいよもってキリトの意図が理解できず、あたしも喚き声を上げようとした所で。
いきなり白竜が両の翼を広げると、凄まじいスピードで急上昇を開始した。
「うぷっ!」
空気が顔を叩く。と思う間もなく、あたし達の体は弓で打ち出されたかのような勢いで宙に飛び出した。竜の尻尾に引っ張られ、左右に揺れながら縦穴を駆け上っていく。円形の穴底がみるみる遠ざかる。
「リズ! 掴まってろよ!!」
キリトの声に、無我夢中で彼の首にすがり付く。周囲の氷壁を照らす陽光はどんどん明るくなり、風切り音のピッチが微妙に変わっていき――白い輝きが爆発した、と思った瞬間、あたしたちは穴の外へと飛び出していた。
一瞬細めた目を見開くと、58層の雪原が周囲一杯に広がっていた。明るい光を受けてきらきらと輝く広い世界。恐怖も忘れ、思わず歓声を上げた。
「わぁっ……」
「イェ――!!」
キリトも大声で叫び、パッと右手を離した。あたしをひょいっと横抱きにして、慣性に任せて宙をくるくると舞っていく。
飛翔は数秒のことだったのだろうが、その数十倍にも感じられた。あたしは笑っていたと思う。溢れる光と風が心を雪いでいく。感情が昇華していく。
「キリト――あたしねぇ!!」
思いっきり叫んだ。
「なに!?」
「あたし、あんたのこと好き!!」
「なんだって!? 聞こえないよ!!」
「なんでもなーい!!」
ギュッと首に抱きついて、あたしは笑い声を上げた。やがて、奇跡にも似た時間が終わり、地表が近づいてきた。最後に一回くるんとまわり、キリトは両脚を大きく広げて着陸姿勢を取った。
ばふん! と雪が舞い上がった。長い滑走。雪を除雪車のように掻き分けながら減速し、とうとう二人は山頂の端に停止した。
「……ふぅ」
キリトは一息つくと、あたしをすとんと地面に降ろした。名残惜しかったが、彼の首に回した両腕を解く。
二人揃って大穴のほうを振り仰ぐと、こちらを見失ったらしいドラゴンが上空をゆっくりと旋回していた。
キリトは背中の剣に手をかけ、僅かに刀身を抜き出したが、すぐに動きを止めた。やがてチン、と音を立てて剣を鞘に戻す。軽い笑みを浮かべると、ドラゴンに向かって小声で言った。
「……今まで狩られまくって迷惑したろうな。アイテムの取り方が広まればお前を殺しにくる奴もいなくなるだろう。これからはノンビリ暮らせよ」
――システムの設定したアルゴリズムによって動いているにすぎないモンスターに向かって何を馬鹿なことを、と昨日までのあたしなら思っただろう。でもなぜか、今はキリトの言葉が素直に心に浸透していく気がした。あたしは右手を伸ばすと、そっとキリトの左手を握った。
二人が無言で見守る中、白竜は首を巡らせると、一度澄んだ声で鳴いて巣穴の中へと降下していった。静寂が訪れた。
やがてキリトがちらりとこちらを見て、言った。
「さて、帰るか」
「そうね」
「クリスタルで飛んじゃう?」
「……ううん、歩いて帰ろ」
あたしは微笑みながら答えると、キリトの手を握ったまま足を踏み出した。そこであることに気が付いて、キリトの顔を見る。
「あ……ランタンとかベッドロールとか、置いてきちゃったね」
「そう言えば……。まあ、いいさ。誰かが使うかもしれないしな」
顔を見合わせて笑い、あたしたちは今度こそ家路を辿るべくゆっくりと山道を歩き始めた。間近の外周部から覗く空は雲ひとつない快晴だった。
「たっだいま〜!」
あたしは懐かしの我が家のドアを勢い良く押し開けた。
「おかえりなさいませ」
カウンターに立つ店番の少女NPCが丁寧な挨拶を返してくるのに手を振って、店の中をぐるりと見回す。たった一日留守にしただけだが、何だか妙に新鮮に見えた。
昨日と同じ屋台で買い食いしたキリトが、ホットドッグをくわえながらあたしに続いて店に入ってきた。
「もうすぐお昼なんだから、ちゃんとした店で食べようよ」
文句を言うと、キリトはにやりと笑って左手を振り、ウインドウを出した。
「その前に、早速作っちゃおうぜ、剣」
ぱぱっとアイテム欄を操作し、白銀のインゴットを実体化させる。ひょいっと放ってきたそれをキャッチし――アイテムの出自については意識的に考えないようにしながら――あたしは頷いた。
「そうね、やっちゃおうか。じゃあ工房に来て」
カウンター奥のドアを開けると、ごとんごとんという水車の音が一際大きくなった。壁のレバーを倒すと、ふいごが動いて風を送り始める。すぐに炉が真っ赤に焼け始める。
インゴットをそっと炉に投下して、あたしはキリトを振り返った。
「片手用直剣でいいのね?」
「おう。よろしく頼む」
キリトは来客用の丸椅子に腰掛けながら頷いた。
「了解。――言っとくけど、出来上がりはランダム要素に左右されるんだから、あんまり過剰に期待しないでよ」
「失敗したらまた取りに行けばいいさ。今度はロープ持参でな」
「……長いやつをね」
あの盛大な落下を思い出して、笑いを漏らす。炉に目をやると、インゴットはもう十分焼けているようだった。火箸を使って取り出し、金床の上に。
壁からハンマーを取り上げ、メニューを設定すると、あたしはもう一度ちらりとキリトの顔を見た。無言で頷いてくる彼に笑みで応え、ハンマーを大きく振り上げる。
気合を込めながら赤く光る金属を叩くと、カーン! という澄んだ音とともに、明るい火花が盛大に飛び散った。
リファレンス・マニュアルの鍛治スキルの項には、この工程について、『作成する武器の種類と、使用する金属のランクに応じた回数インゴットを叩くことによって』という記述しかない。
つまり、金属をハンマーで叩く行為そのものには、プレイヤーの技術の介在する余地はない、というふうに読めるのだけれど、そこは様々な噂やオカルトの飛び交うSAOのこと、叩くリズムの正確さと気合が結果を左右する、という根強い意見がある。
あたしは自分のことを合理的な人間だと思っているけど、この説だけは長年の経験から信奉している。ゆえに、武器を作るときは余計なことを考えず、ハンマーを振る右手に意識を集中し、無の境地で叩き続けるべし――という信条がある。
でも。
カン、カン、と心地よい音を立ててインゴットを叩きながら、今だけはあたしの頭の中に色々な想念が渦巻いて去ろうとしなかった。
もし首尾よく剣が出来て、依頼が終了したら――。当然キリトは最前線の攻略に戻り、そうそう会うこともなくなってしまうだろう。剣のメンテに来てくれるとしても、せいぜい十日に一遍がいいところだろう。
そんなの――そんなの、いやだ。あたしの中で、そう叫ぶ声がする。
人の体温に餓えながら――ううん、だからこそ、あたしは今まで特定の男性プレイヤーとの距離を縮めることに躊躇してきた。あたしの中の寂しさの種が恋心にすりかわってしまうのが怖かったから。それは本当の恋じゃない、仮想世界が作る錯覚だと、そう思ってきたから。
でもゆうべ、キリトの体温に包まれながら、あたしは、そのためらいこそがあたしを縛る仮想の茨だと悟った。あたしはあたし――。鍛冶屋リズベットであり、同時に篠崎里香でもある。キリトも同じだ。ゲームのキャラクターじゃない、血の通った本当の人間だ。なら、彼を好きだ、というこの気持ちだって本物なんだ。
満足の行く剣が打ち上がったら、彼に気持ちを告白しよう。傍にいて欲しい、毎日、迷宮からこの家に帰ってきて欲しいと、そう言おう。
インゴットが鍛えられ、輝きを増していくのと同時に、あたしの中の感情も確固としたものになっていくようだった。あたしの右手から思いが溢れ出して、鎚を通して生まれかけている武器に流れ込んでいくのを感じた。
――そして、とうとうその瞬間がやってきた。
何度目とも知れない――多分二百回から二百五十回の間――槌音が響いた直後、インゴットが一際まばゆい白光を放った。
長方形の物体が、輝きながらじわじわとその姿を変えていく。前後に薄く延び始め、次いで鍔と思しき突起が盛り上がっていく。
「おお……」
低い声で感嘆の囁きを洩らしながら、キリトが椅子から立ち上がり、近づいてきた。あたしたちが並んで見守るなか、数秒をかけてトランスフォームが行われ、ついに一本の剣がその姿を現した。
美しい、とても美しい剣だった。ワンハンド・ロングソードにしてはやや華奢だ。刃身は薄く、レイピアほどではないが細い。インゴットの性質を受け継いでいるかのように、ごくごく僅かに透き通っているように見える。刃の色はまばゆいほどの白。柄はやや青味を帯びた銀だ。
『剣がプレイヤーを象徴する世界』、その謳い文句を裏付けるように、SAOに設定されている武器の種類は途方もなく多い。カテゴリはもちろん、そこに含まれる武器の固有名をかぞえれば数千は下らないと言われている。
普通のRPGとは異なり、その固有名の多様さは、武器のランクが上がれば上がるほど増大していく。下位の武器は、例えば片手直剣なら『ブロンズソード』やら『スチールブレイド』といった味気ない名前で、それらの剣はこの世界に無数に存在するけれど、現在出現している最上級クラスの武器、例えばアスナの(これはレイピアだけど)『ランベントライト』あたりはおそらく世界に一本の、文字通りワンメイク物だ。
もちろん、同程度の性能を持つレイピアは、プレイヤーメイド、モンスタードロップ問わず他にも存在するだろう。でもそれらは皆異なる名前、異なる姿を持っている。それゆえに、ハイレベルの武器は持ち手を魅了するし、魂を分けた相棒となっていくのだ。
武器の名前と姿は、システムによって決定されるため、製作者たるあたしたちでも完成するまでわからない。あたしは金床の上できらめく剣を両手で持ち上げ――ようとして、その優美な外見にそぐわない重さに驚愕した。キリトの持つ黒い剣『エリュシデータ』に劣らないSTR要求値だ。腰に力を入れ、気合とともに胸の前まで持ってくる。
刀身の根元を支える右手の指を伸ばし、軽くワンクリック。浮かび上がったポップアップウインドウを覗き込む。
「えーと、名前は『ダークリパルサー』ね。今のところ情報屋の名鑑には載ってない剣だと思うわ。――どうぞ、試してみて」
「ああ」
キリトはこくりと頷くと、右手を伸ばし剣の柄を握った。重さなど感じさせない動作でひょいっと持ち上げる。左手を振ってメインメニューを出し、装備フィギュアを操作して白い剣をターゲット。これで剣はシステム上もキリトに装備されたことになり、数値的ポテンシャルを確認することができる。
でもキリトはすぐにメニューを消すと、数歩下がってから剣を左手に持ち替え、ヒュヒュン、と音を立てて数回振った。
「――どう?」
待ちきれずに訊ねる。キリトはしばらく無言で刀身を見つめていたが――やがて、大きくニコリと笑った。
「……いい剣だ」
「ほんと!? ……やった!!」
あたしは思わず右手でガッツポーズをしていた。その手を突き出し、キリトの右拳にごつんと打ち合わせる。
こんな気持ちは久しぶりだった。
昔――、10層あたりの町で路上販売していた頃、がむしゃらに作った武器をお客に褒められたときにもこんな気分がした。鍛冶屋をしていてよかった、と心から思える瞬間。スキルを究め、ハイレベルプレイヤーだけを相手にした商売に乗り換えるうちに、いつしか忘れてしまっていた気持ちだった。
「……心の問題、だね……ぜんぶ……」
あたしがふと洩らした言葉に、いぶかしい顔でキリトが首を傾げてくる。
「う、ううん、なんでもないよ。――それより、どっかで乾杯しようよ。あたしお腹空いちゃった」
照れ隠しに大声で言い、キリトの背後から彼の両肩を押す。そのまま工房から出ようとして――あたしはふと、ある疑問に気がついた。
「……ねえ」
「ん?」
肩越しに振り向くキリト。その背中に吊られた、黒い片手剣。
「そう言えば――あんた最初、『この剣と同等の』って言ったわよね。その白いのは確かにいい剣だけど、あんたのそのドロップ品とそんなに違うとも思えないわよ。なんで似たような剣が二本も必要なのよ?」
「ああ……」
キリトは振り向くと、何かを迷うような表情であたしをじっと見つめてきた。
「うーん、全部は説明できない。それ以上聞かない、って言うなら教える」
「何なのよ、もったいぶって」
「ちょっと離れて」
あたしを工房の壁際まで下がらせると、キリトは左手に白い剣を下げたまま、右手で背中の黒い剣を音高く抜きはなった。
「……?」
彼の意図が掴めなかった。先程装備フィギュアを操作したからには、現在システム的に装備状態にあるのは左手の剣だけで、右手にもう一本武器を持ったところで何の役にも立たないはずだ。それどころか、イレギュラー装備状態と見なされてソードスキルの発動ができなくなる。
あたしの戸惑い顔に一瞬視線を向け、キリトはゆっくりと左右の剣を構えた。右の剣を前に、左の剣を背後に。わずかに腰を落とし――、そして、次の瞬間。
赤いエフェクトフラッシュが炸裂し、工房を染め上げた。
キリトの両手の剣が交互に、目に見えない程のスピードで前方に撃ち出された。キュババババッ! というサウンドが空気を圧し、カラ撃ちにも関わらず部屋中のオブジェクトがびりびりと震えた。
明らかにシステムに規定された剣技だ。でも――、二本の剣を操るスキルなんて聞いたことがない!
息を呑んで立ち尽くすあたしの前で、おそらく十連撃を超える連続技を放ち終わったキリトが音もなく体を起こした。左右の剣を同時に切り払い――右手の剣だけを背中に収めて、あたしの顔を見て言った。
「とまあ、そういう訳だ。――この剣の鞘が要るなぁ。みつくろってもらえる?」
「あ……う、うん」
キリトに度肝を抜かれるのは何度目だろうか。いいかげん慣れつつあるあたしは、とりあえず疑問を先送りすることにして、壁に手を伸ばしホームメニューを表示させた。
ストレージ画面をスクロールし、馴染みの細工師からまとめて仕入れている鞘の一覧をざっと眺める。キリトが背に装備しているものに良く似た黒革仕上げのやつを選び出し、オブジェクト化。小さくうちの店のロゴが入ったそれをキリトに手渡す。
ぱちりと音をさせて白い剣を鞘に収めたキリトは、ウインドウを開いてそれを格納した。背中に二本装備するのかと思ったらそういうわけでもないらしい。
「……ナイショなんだ? さっきの」
「ん、まあな。黙っててくれよ」
「りょーかい」
スキル情報は最大の生命線、聞くなと言われれば追求はできない。それよりも、秘密の一端にせよ見せてくれたことが嬉しくて、あたしは小さく笑って頷いた。
「……さて」
キリトは腰に手を置くと、表情を改めた。
「これで依頼完了だな。剣の代金を払うよ。いくら?」
「あー、えっと……」
あたしは一瞬唇を噛んでから――ずっと胸の中で暖めていた答えを口にした。
「お金は、いらない」
「……ええ?」
「そのかわり、あたしをキリトの専属スミスにして欲しい」
キリトがわずかに目を見張る。
「……それって、どういう……?」
「攻略が終わったら、ここに来て、装備のメンテをさせて……。――毎日、これからずっと」
心臓の鼓動が際限なく速まっていく。これはバーチャルな身体感覚なんだろうか、それともあたしの本当の心臓も、今同じようにドキドキしているんだろうか――と頭の片隅で考える。頬が熱い。きっと、あたしは今顔じゅう真っ赤になっていることだろう。
いつもポーカーフェイスを崩さなかったキリトも、あたしの言葉の意味を悟ったのか、照れたように顔を赤くして俯いた。今まで年上に見えていた彼だが、その様子を見ていると同年代か、ことによると年下のようにも思えてくる。
あたしは勇気を振り絞って一歩踏み出し、キリトの腕に手をかけた。
「キリト……あたし……」
竜の巣から脱出したときはあんなに大声で叫んだ言葉だったけれど、いざ口にしようとすると舌が動かない。じっとキリトの黒い瞳を見つめ、どうにかそのひとことを音にしようとした――その時だった。
工房のドアが勢い良く開いた。あたしは反射的にキリトから手を離し、飛び退った。
「リズ!! 心配したよー!!」
一瞬遅れて駆け込んできた人物は、大声で叫びつつあたしに体当たりするような勢いで抱きついてきた。栗色の長い髪がフワリと宙を舞った。
「あ、アスナ……」
唖然として立ち尽くすあたしの顔を、アスナは至近距離で睨みながら猛然とまくし立てた。
「メッセージは届かないし、マップ追跡もできないし、常連の人も何も知らないし、一体ゆうべはどこにいたのよ! わたし黒鉄宮まで確認に行っちゃったんだからね!」
「ご、ごめん。ちょっと迷宮で足止め食らっちゃって……」
「迷宮!? リズが、一人で!?」
「ううん、あの人と……」
視線でアスナの斜め後ろを指し示す。くるりと振り向いたアスナは、そこに所在なさそうに立つ黒衣の剣士の姿を見ると、目と口をポカンと開けてフリーズした。次いで、ワンオクターブ高い声で――
「き、キリトくん!?」
「ええ!?」
今度はあたしが仰天する番だった。アスナと同じように棒立ちになってキリトを見やる。
彼は軽く咳払いすると、右手を少し上げて言った。
「や、アスナ、久しぶり……でもないか。一日ぶり」
「う、うん。……びっくりした。そっか、早速来たんだ。言ってくれればわたしも一緒したのに」
アスナは両手を後ろで組むと、含羞むように笑って、ブーツの踵で床をとんとんと叩いた。その頬がわずかに桜色に染まっているのを見て――
あたしはすべてを察した。
キリトがこの店に来たのは偶然じゃないんだ。あたしとの約束を守って、アスナがここを推薦したんだ……彼女の、想い人に。
(どうしよう……どうしよう)
頭のなかで、その言葉だけがぐるぐると渦巻いていた。足先からゆっくりと全身の熱が流れ出してしまうような気がした。体に力が入らない。息ができない。気持ちの行き場が――見付からない……。
立ちつくすあたしの方に向きなおると、アスナは屈託のない様子で言った。
「この人、リズに失礼なこと言わなかったー? どうせあれこれ無茶な注文したりしたんでしょ」
そこで小さく首をかしげ――
「あれ……でも、ってことは、ゆうべはキリトくんと一緒だったの?」
「あ……あのね……」
あたしは咄嗟に足を踏み出し、アスナの右手を掴むと工房のドアを押し開けた。わずかにキリトの方を向き、彼の顔を見ないようにしながら早口に言う。
「少し待っててくださいね。すぐ帰ってきますから……」
そのままアスナの手を引き、売り場に出る。ドアを閉め、陳列棚のあいだを抜けて店の外へ。
「ちょ、ちょっとリズ、どうしたのよ」
戸惑った声でアスナが聞いてきたけど、あたしは無言で表通り目指して早足で歩き続けた。あれ以上、キリトの前にいられなかった。逃げ出さなければ、行き場を無くした気持ちをぶつけてしまいそうだった。
あたしの只ならぬ様子に気付いたのか、アスナはそれ以上何も言わずに黙ってついてきた。そっと彼女の手を離す。
東に向かう裏通りに入り、しばらく歩くと、高い石壁に隠れるように小さなオープンカフェがあった。客は一人もいない。あたしは端っこのテーブルを選ぶと、白い椅子に腰掛けた。
アスナは向かいに座ると、気遣わしげな様子であたしの顔を覗き込んできた。
「……どうしたの、リズ……?」
あたしはなけなしの元気を振り絞って、にこりと大きな笑みを浮かべた。アスナと気安い噂話に花を咲かせるときの、いつもどおりのあたしの笑顔。
「……あの人なんでしょー」
腕を組み、アスナの顔を斜に見る。
「え、ええ?」
「アスナの、好きな人!」
「あ……」
アスナは肩をすぼめるようにして俯いた。頬を染めながら、大きくこくんと頷く。
「……うん」
ずきん、という鋭い胸の痛みをむりやり無視して、更ににやにや笑いを浮かべる。
「確かに、変な人だね、すっごく」
「……キリトくん、なにかした……?」
心配そうなアスナに、力いっぱい頷き返す。
「あたしの一番の剣をいきなりヘシ折ってくれたわよ」
「うわっ……ご、ゴメン……」
「別にアスナが謝ることないよー」
自分のことのように、両手を胸の前で合わせるアスナを見ると、胸の奥がさらにずきずきと疼く。
(もうちょっと……もうちょっとだけ、がんばれリズベット……)
心の中で呟いて、どうにか笑顔を保ちつづける。
「まあそれで、あの人の要求する剣を作るにはどうしてもレア金属が必要だってことになって、上の層に取りにいったのよ。そしたらせこいトラップに引っかかっちゃてさ、脱出に手間取って、それで帰れなかったの」
「そうだったの……。呼んでくれればよかったのに、ってメッセージも届かないのか……」
「アスナも誘えばよかったね、ごめん」
「ううん、昨日はギルドの攻略があったから……。で、剣はできたの?」
「あ、まあね。まったく、こんな面倒な仕事は二度とゴメンだわ」
「お金いっぱいふんだくらないとダメだよー」
同時にあははと笑う。
あたしは微笑を浮かべたまま、最後のひとことを口にした。
「まあ、ヘンだけど悪い人じゃないわね。応援するからさ、頑張りなよ、アスナ」
限界だった。語尾がわずかに震えた。
「う、うん、ありがと……」
アスナは頷きながら、首を傾げてあたしの顔を覗きこんできた。伏せた目蓋の奥を見られないうちに、勢い良く立ち上がり、言う。
「あ、いっけない! あたし、仕入れの約束があったんだ。ちょっと下まで行ってくるね!」
「えっ、店は……キリトくんはどうするの?」
「アスナが相手してて! よろしく!」
きびすを返し、駆け出した。背後のアスナに向かってパタパタと手を振る。振り向くわけには行かなかった。
ゲート広場の方に向かって走り、オープンカフェから見えないところまで来ると、最初の角を南に曲がった。そのまま街の端っこ、プレイヤーのいない場所目指して一心不乱に駆け続けた。視界がゆがむと、右手で目を拭った。何度も何度も拭いながら走った。
気付くと、街を囲む城壁の手前まで来ていた。緩やかに湾曲して伸びる壁の手前に、巨大な樹が等間隔で植わっている。その一本の陰に入ると、幹に手をついて立ち止まった。
「うぐっ……うっ……」
喉の奥から、抑えようもなく声が漏れた。必死に堪えていた涙が、次々と溢れ出しては頬を伝って消えていった。
この世界に来て二度目の涙だった。ログイン初日に、パニックを起こして泣いてしまってからは、もう決して泣くまいと思っていた。システムに無理やり流させられる涙なんて御免だと思っていた。でも今あたしの頬を伝う涙より熱く、辛い涙は、現実世界でも流したことはなかった。
アスナと話しているとき、喉もとまで出かかっていた言葉があった。「あたしもあの人が好きなの」と、何度も言いかけた。でも、言うわけにはいかなかった。
工房で、向き合って話すキリトとアスナを見たとき、あたしは、自分のための場所がキリトの隣にはないことを悟った。なぜなら――あの雪山で、あたしはキリトの命を危険にさらしてしまったから。あの人の隣には、あの人と同じくらい強い心を持った人しか立てない。そう……例えば、アスナのような……。
向かい合う二人の間には、丁寧に仕立てられた剣と鞘のように強く引き合う磁力があった。あたしはそれをはっきりと感じた。それになにより、アスナはキリトのことを何ヶ月も思い続けて、少しずつ距離を縮めようと毎日がんばっているのに――今更そこに割り込むような真似が、できるはずもなかった。
そうだ……あたしは、キリトと昨日出会ったにすぎないんだ。見知らぬ人と慣れない冒険をして、心がびっくりして熱に浮かされてるだけだ。本物じゃない。この気持ちは本物じゃない。恋をするなら、急がず、ゆっくり、ちゃんと考えて――、あたしはずっと、ずっとそう思ってきたじゃないか。
なのに、なんでこんなに涙が出るんだろう。
キリトの声、仕草、この二十四時間で彼の見せたすべての表情が、次々と瞼の裏に浮かび上がる。あたしの髪を撫で、腕を取り、強く抱きしめてくれた彼の手の感触。彼の暖かさ、あの心の温度――。あたしの中に焼きついたそれらの記憶に触れるたび、激痛が胸の奥を深くえぐる。
忘れるんだ。全部夢だ。涙で、洗い流してしまうんだ。
街路樹の幹に指を立て、強く握り締めて、あたしは泣いた。うつむいて、声を押し殺し、泣きつづけた。現実世界ならいつかは涸れるはずの涙だけど、両目から溢れ出す熱い液体は、どれだけ流そうと尽きることはないように思われた。
そして――、あたしの後ろから、その声がした。
「リズベット」
名前を呼ばれて、全身がびくりと震えた。柔らかく、穏やかで、少年の響きを残したその声。
きっと幻だ。彼がここにいるはずがない。そう思いながら、涙を拭いもせず、あたしは顔を上げゆっくりと振り向いた。
キリトが立っていた。黒い前髪の奥の目に、彼なりの痛みに耐えている色を浮べ、あたしを見ていた。あたしはしばらくその瞳を見つめ返し、やがてかすれ、震える声で囁いた。
「……だめだよ、今来ちゃ。もうちょっとで、いつもの元気なリズベットに戻れたのに」
「……」
キリトは無言のまま一歩足を踏み出し、右手をこちらに伸ばそうとした。あたしは小さく首を振ってそれを拒んだ。
「……どうしてここがわかったの?」
訊くと、キリトは首を巡らせ、街の中心部のほうを指した。
「あそこから……」
その指の先、はるか遠くには、ゲート広場に面して立つ教会の一際高い尖塔が、建築物の波の上に頭を出していた。
「街じゅう眺めて、見つけた」
「ふ、ふ」
涙はあいかわらず密やかに流れ続けていたが、それでもキリトの答えを聞いて、あたしは口許に笑みを浮べた。
「あいかわらずムチャクチャだね」
そんなところも……好きだ。どうしようもない程。
再び嗚咽の衝動がこみ上げてくるのを感じた。それを必死に押さえつける。
「ごめん、あたしは……だいじょぶだから。今は、一人にしといて」
それだけどうにか言って振り返ろうとした時、キリトが言葉を続けた。
「俺――、俺、リズにお礼が言いたいんだ」
「え……?」
予想外の言葉に戸惑い、彼の顔を見つめる。
「……俺、昔、ギルドメンバーを全滅させたことがあって……。それで、もう二度と、人に近づくのはやめようって決めたんだ」
キリトは瞬間眉を寄せ、唇を噛み締めた。
「……だから今は、誰かと、その……付き合ったりとか、そんな気にはなれないんだ。パーティー組むのも怖くて……。でも、昨日、リズにクエストやろうって誘われたとき、何故かすぐにOKしてた。一日中、ずっと不思議に思ってた。どうして俺はこの人と一緒に歩いてるんだろうって……」
あたしは胸の痛みも一瞬忘れ、キリトを見た。
それは――それは、あたしが……。
「今まで、誰かに誘われても、全部断ってた。知り合いの……いや、名前も知らない奴でも、人の戦闘を見るだけで足がすくむんだ。その場から逃げ出したくてたまらなくなる。だからずっと、人がいないような最前線の奥の奥ばっかりこもってさ。近いうち、一人でひっそり死ぬだろうって、そう思ってた。――あの穴に落ちたとき、一人生き残るより死んだほうがましだって思ったの、ウソじゃないんだぜ」
かすかに笑みを浮べる。その奥に底知れない疲弊の色を見た気がして、あたしは息を飲む。
「でも、生きてた。意外だったけど、リズと一緒に生きてたことが、すごく嬉しかった。それで、夜に……リズが、俺のとこに、来たとき……わかったんだ。リズがすっごく暖かくて……こんな暖かさがあったのかって、思った。俺、多分……ずっと、誰かに傍に来て欲しかったんだ。それにようやく気がついた」
「……」
今度は、心の奥から、本当の笑みが浮かび上がってきた。あたしは不思議な感慨にとらわれながら、口を開いた。
「それは……それはね……、あたしが考えてたことだよ。あたしも、まったく同じこと思ってた、ずっと」
不意に、心の奥に突き刺さった氷の棘が、ゆるりと溶けだすような、そんな気がした。いつしか涙も止まっていた。あたしたちは、しばらくの間、黙って見詰め合っていた。あの飛翔のとき訪れた奇跡の時間の手触りが、再びあたしの心を捉えた。
報われた。そう思った。
今のキリトの言葉が、割れ落ちたあたしの恋の欠片をくるみ、そのまま深いところに沈んでいくのを感じた。
「今はまだ――」
キリトが言葉をつないだ。
「まだ、無理かもしれないけど、もう少し時間がたてば、俺……」
あたしは小さく手を挙げ、キリトの言葉をさえぎった。微笑しながら、首を左右に振る。
「その先は、アスナに聞かせてあげて。あの子も苦しんでる。キリトの暖かさを欲しがってるよ」
「リズ……」
「あたしは大丈夫」
そっと頷き、両手で胸を押さえた。
「まだしばらくは、熱が残ってるよ。だからね……お願い、キリトがこの世界を終わらせて。それまでは、あたし頑張れる。でも、現実世界に戻ったら……」
ニッと悪戯っぽく笑った。
「第二ラウンド、するからね」
「……」
キリトも笑い、大きく頷いた。次いで左手を振り、ウインドウを出す。何をするのかと思っていると、背中から『エリュシデータ』を外し、アイテム欄に格納した。続けて装備フィギュアを操作すると、同じ場所に新しい剣が実体化した。『ダークリパルサー』、あたしの――思いが詰まった、白い剣。
「今日からこの剣が俺の相棒だ。代金は……向こうの世界で払うよ」
「おっ、言ったわね。高いぞ」
笑いあいながら、ごつんとお互いの右こぶしを打ちつける。
「さ、店に戻ろ。アスナが待ちくたびれちゃうし……お腹も空いたし」
言うと、あたしはキリトの前に立って歩き始めた。最後に一回、ぐいっと両目を拭うと、目尻に留まっていた最後の涙が散り、光の粒になって消えていった。
今日は朝から一際厳しく冷え込んだ。
あたしは両手を擦り合わせながら工房に入った。壁のレバーを引き、すぐに赤く焼け始める炉に手をかざして温める。水車のごとん、ごとんという音だけは相変わらずだが、初冬の今でこれだけ寒いのだ。もし真冬になって裏の小川が凍ってしまったらどうなるのだろうと思うと心配になる。
しばらく考えこんでからハッと我に返り、妙な思考を振り払ってスケジューラを確認した。今日が納期のオーダーが八件も溜まっている。てきぱき片付けないと日が暮れてしまう。
最初の注文は軽量タイプの片手用直剣。インゴット一覧をしばし睨んで、予算と性能の折り合いがつくものを選び出し、炉に放り込む。
この頃ではあたしのハンマー捌きの腕も上がったし、新しい金属もいろいろ入荷するようになって、コンスタントにハイレベルな武器を打てるようになってきている。程よく焼けた頃合を見計らってインゴットを金床の上に。ハンマーを設定して、勢いよく振り下ろす。
でも、片手用直剣に限って言えば――。今年の夏に鍛えたあの剣を上回るものは一つとして出来なかった。それが口惜しくもあり、嬉しくもある。
あたしの心のカケラが埋まったあの剣は、今日も遠い前線で、元気に暴れていることだろう。時々目の前の砥石で面倒を見ているけど、普通の武器とは違い、使い込まれる程に刀身の透明度が増しているような気がする。なんだか、いつか数値的消耗度とは別に、その役目を終えて砕けてしまうのではないか――そんな予感さえする。
でもまあ、それは多分もうしばらく未来のことだ。今の最前線は75層。あの剣にはまだまだ頑張ってもらわないといけない。あの人――キリトの右手の中で。
気付くと、いつの間にか規定回数を打ち終えていたらしく、インゴットが赤い光を放ちながら変形し始めた。魔法の瞬間を固唾を飲んで見守り、やがて出現した剣を手にとって検分する。
「……まあまあ、かな」
呟いて、あたしはそれを作業台の上に置いた。さっそく次のインゴット選びに取り掛かる。今度はツーハンドアクス、リーチ重視……。
お昼をだいぶ過ぎた頃、どうにか全ての注文を片付け、あたしは立ち上がった。首をぐるぐる回しながら大きく伸びを一回。ほっと息をつくと、壁に掛かった小さな写真が目に入った。
肩を寄せてピースサインをするあたしとアスナ。アスナの隣、半歩下がった位置に立ち、苦笑いしているキリト。この建物の前で撮影したものだ。半月ほど前――あの二人が、結婚の報告に来たときに。
誰が見ても似合いの二人なのに、ゴールするまでに結局半年もかかったのだ。あたしもだいぶヤキモキさせられて、色々世話を焼いたから、とうとう結婚すると告げられたときはとても嬉しかった。それに――ほんの少しの、切ない疼きも。
あの夜のことは今でもよく夢に見る。あたしの、さして起伏のない二年間の中で、ささやかな宝石のように光る幻想の夜の思い出。熾火のように、三ヶ月経った今でもあたしの胸を暖めている。
「……我ながら……」
呆れるなあ、と心の中で呟いて、写真をそっと指先でなぞった。合理的なリアリストだと自己評価していたのに、実はこんな健気な性格だったとは自分でもまるで気付かなかった。
「結局、ずーっと恋してるんだよ、キミに」
写真の一点をトン、と叩いて、あたしは身を翻した。遅い昼食は自分で適当に作ろうか、それともたまには外で食べようか、と考えながら、工房を出た――その時だった。
いまだかつて聞いたことのない効果音が、大音量で頭上に響き渡った。リンゴーン、リンゴーンという、鐘のようなアラームのような……。咄嗟に天井を眺めたけれど、どうやら音はそのさらに上、上層の方向から響いているらしい。
慌てて外に駆け出そうとしたところで、さらにあたしを驚愕させる出来事が起こった。ここに店を開いて以来、当然ではあるけれど一日も休まずカウンターに立ちつづけた店番NPCが、いきなり音もなく消滅したのだ。
「……!?」
目を丸くして、さっきまで彼女がいた空間を凝視するものの、戻ってくる気配はない。何か容易ならざる事が起こっている。
転がるように外に出たあたしは、さらなる驚きに見舞われて立ち尽くした。
頭上百メートルに広がる上層の底、その無機質な灰色の蓋の手前に――巨大な、赤い文字がびっしりと並んでいた。食い入るように見ると、『System Supervisory Mode』と『Urgent Notification』の二つの英文が市松模様状に並んでいるようだ。
「システム管理モード……緊急告知……?」
わけが判らず周りを見回すと、あたしと同じように沢山のプレイヤー達が棒立ちになって上層を見上げている。その光景に、何となく違和感が紛れているような気がして少し考えると、すぐにその理由に思い至った。
普段なら、道を歩いたり、物を売ったりしているはずのNPCがただの一人もいないのだ。たぶん、うちの店番と同時に消えたのだと思われるけれど……一体、なぜ――。
不意に、鳴りつづけていたアラーム音が停まった。一瞬の静寂の後、今度はソフトな女性の声が、同じく大音量で降ってきた。
「ただいまより プレイヤーの皆様に 緊急のお知らせを行います」
人工的、電気的な響きのある声だった。明らかにゲーム運営サイドのアナウンスだと思われるけれど、管理者の気配をぎりぎりまで削り落としているSAOでこの手の告知を聞いたのは初めてのことだった。固唾を飲んで耳を澄ませる。
「現在 ゲームは システム管理モードで 稼動しております。すべての モンスター及びアイテムスパンは 停止します。すべての NPCは 撤去されます。すべての トレードを含むメッセージ交換は 不可能となります」
システムエラー? 何か致命的なバグが出た……?
あたしは咄嗟にそう思った。心臓を、不安の手がぎゅっと掴む。でも、次の瞬間――。
「アインクラッド標準時 十一月 七日 十四時 五十五分 ゲームは クリアされました」
――システム音声は、そう告げた。
ゲームは、クリアされました。
その言葉の意味が、数秒間分からなかった。周囲のプレイヤーも、皆凍りついた表情で立ち尽くしていた。でも、更に続く言葉を聞いて、全員が飛び上がった。
「プレイヤーの皆様は 順次 ゲームから ログアウトされます。 その場で お待ちください。 繰り返します……」
突然、うわあっ! という大歓声が巻き起こった。地面が――、いや、アインクラッド中が震えた。皆が抱き合い、地面を転げまわり、両手を突き上げて絶叫していた。
あたしは動けず、何も言えず、店の前でただ立っていた。どうにか両手を持ち上げ、口を覆った。
やったんだ。彼が――キリトが、やったんだ。いつものムチャクチャを……。
それは確信だった。だってまだ75層なのだ。それなのにゲームをクリアしてしまうような無茶、無謀、無軌道は、絶対にキリトの仕業だ。
耳もとで、微かな囁き声が聞こえた気がした。
(――約束、守ったぜ……)
「うん……うん……。とうとう、やったね……」
ついに、あたしの両目から熱い涙が迸った。それを拭いもせず、あたしは思い切り右手を突き上げて、何度も何度も飛び跳ねた。
「おーい!!」
両手を口にあて、遥か上層にいるはずの彼に届けとばかりに、力いっぱい叫んだ。
「絶対、また会おうね、キリト――!! ……愛してる!!」
(ソードアート・オンライン外伝3 『ココロの温度』 終)
2009/07/26 23:18
巨大な水車がゆるやかに回転する心地よい音が、工房の中を満たしている。
さして広くもない職人クラス用プレイヤーホームだけど、この水車のおかげでやたらと高かった。48層主街区リンダースの街開きでこの家を見つけたとき、あたしは一目で「ここしかない!」と思って、次に値段を見て愕然としたものだ。
それからというものあたしは死にものぐるいで働き、各方面に借金をして、目標貯金額三百万コルを二ヶ月で達成した。もしここが現実なら全身にがっちりと筋肉がつき、手に堅いたこが出来てしまうほどにハンマーを振りまくった。
その甲斐あって、数人いたライバルにどうにか先んじて証書を手にし、この水車つきの家は晴れて『リズベット・ハイネマン武具店』となった。三ヶ月前、春にしては肌寒い日のことだった。
水車のごとんごとんという音をBGMに、慌しく朝のコーヒー(これがアインクラッドにあって本当によかった)を飲んだあと、あたしは鍛冶屋としてのユニフォームに着替え、壁の大きな姿見でざっと検分した。
鍛冶屋の――と言っても、作業服のようなものではなく、どちらかと言えばウェイトレスに近い。桧皮色のパフスリーブの上着に、同色のフレアスカート。その上から純白のエプロン、胸元には赤いリボン。
この服装をコーディネートしたのはあたしではなく、友人でお得意様でもある同い年の女の子だ。彼女いわく「リズベットは童顔だからごつい服は似合わないよー」ということで、最初は大きなお世話だ! と思ったけれど、確かにこのユニフォームに替えてから店の売上は倍増し――いささか不本意ではあったものの――以来ずっとこれで通している。
彼女のアドバイスは服だけに留まらず、髪型もことあるごとにいじられて、今はペールピンクのふわふわしたショートヘアという脅威的なカスタマイズを施されている。しかし周囲の反応を見るにどうやらこれもまんざら似合っていないというわけでもないらしい。
あたし――鍛冶屋リズベットは、SAOにログインした時は十五歳だった。現実世界でも歳より幼く見られがちだったけれど、この世界に来てからその傾向はいっそう強くなってしまった。鏡に映るあたしは、ピンクの髪に、ダークブルーの大きめな瞳、小さな鼻と口、古風なエプロンドレスとあいまってどこか人形のような雰囲気を漂わせている。
向こうではお洒落に興味のないマジメ中学生だった――常に眼鏡に三つ編みで通していた――だけにギャップを感じないではいられない。最近ではどうにかこの外見にも慣れてきたものの、性格だけは直せず、時折お客を怒鳴りつけてしまってはギョッとした顔で凍りつかせてしまうこともしばしばだ。
装備のし忘れがないことを確認すると、あたしは店先に出て、「CLOSED」の木札を裏返した。開店を待っていた数人のプレイヤーに最大級の笑顔を向け、「おはようございます、いらっしゃいませ!」と元気良く挨拶する。これが自然に出来るようになったのも実はけっこう最近のことだ。
お店を経営したい、というのは大昔からの夢だったけれど、たとえゲームの中とは言え夢と現実とは大違いで、接客やらサービスの難しさは宿屋を拠点に路上販売をしていた頃から嫌というほど味わった。
笑顔が苦手ならせめて品質で勝負をしようと、早い段階から遮二無二武器作成スキルを上げたのが結果的には正解だったらしく、幸いここに店を構えてからも多くの固定客がうちの武器を愛用してくれている。
ひととおり挨拶を済ませると、接客はNPCの店員に任せて、あたしは売り場と隣り合わせの工房に引っ込んだ。今日中に作らなくてはならないオーダーメイドの注文が十件ほど溜まっている。
壁に設えられたレバーを引くと、水車の動力によってふいごが炉に空気を送り、回転砥石がうなり始める。アイテムウインドウから高価な金属素材を取り出して、赤く燃え始めた炉に放り込み、十分熱せられたところで金床の上に移す。片ひざをついて愛用のハンマーを取り上げ、ポップアップメニューを出して作成アイテムを指定。あとは金属を既定回数叩くだけで武器アイテムが作成される。そこには特にテクニックのようなものは介在せず、完成する武器の品質はランダムだけれど、叩く時の気合が結果を左右すると信じているあたしは神経を集中しながらゆっくりハンマーを振り上げた。地金に最初の一撃を加えようとしたまさにその瞬間――。
「おはよーリズ!」
「うわっ!」
突然工房のドアがばたんと開いて、あたしの手許は思い切り狂った。金属ではなく金床の端っこを叩いてしまい、情けない効果音とともに火花が飛び散る。
顔を上げると、闖入者は頭をかきながら舌を出して笑っていた。
「ごめーん。以後気をつけます」
「その台詞、何回聞いたかなあ。……まあ、叩き始めてからでなくてよかったけどさ」
あたしはため息とともに立ち上がり、再び金属を炉に放り込んだ。両手を腰にあてて振り返り、あたしよりわずかに背の高い少女の顔を見上げる。
「……おはよ、アスナ」
あたしの親友にしてお得意様のレイピア使いアスナは、勝手知ったる工房の中を横切ると白木の丸椅子にすとんと腰を降ろした。肩にかかった栗色のロングヘアを、指先でふわりと払う。その仕草がいちいち映画のようにサマになっていて、長い付き合いにもかかわらずつい見とれてしまう。
あたしも金床の前の椅子に座ると、ハンマーを壁に立てかけた。
「……で、今日は何? ずいぶん早いじゃない」
「あ、これお願い」
アスナは腰から鞘ごとレイピアを外すと、ひょいと投げてきた。片手で受け取り、わずかに刀身を抜き出す。使い込まれて輝きが鈍っているが、切れ味が落ちるほどではない。
「まだあんまりヘタってないじゃない。研ぐのはちょっと早いんじゃないの?」
「そうなんだけどね。ピカピカにしときたいのよ」
「ふうん?」
あたしはあらためてアスナを見やった。白地に赤の十字模様を染め抜いた騎士服にミニスカートの出で立ちはいつもどおりだが、ブーツはおろしたてのように輝いているし、耳には小さな銀のイアリングまで下がっている。
「なーんか怪しいなあ。よく考えたら今日は平日じゃない。ギルドの攻略ノルマはどうしたのよ」
あたしが言うと、アスナはどこか照れたような笑みを浮かべた。
「んー、今日はオフにしてもらったの。この後ちょっと人と会う約束があって……」
「へええー?」
あたしは椅子ごと数歩アスナににじり寄った。
「詳しく聞かせなさいよ。誰と会うのよ」
「ひ、ひみつ!」
アスナは頬をわずかに染めながらそっぽを向く。あたしは腕を組むと、深く頷きながら言った。
「そっかぁー、あんたこの頃妙に明るくなったと思ったら、とうとう男ができたかぁ」
「そ、そんなんじゃないわよ!!」
アスナの頬が一層赤くなる。咳払いをして、あたしの方を横目で見ながら、
「……わたし、前とそんなに違う……?」
「そりゃあねー。知り合った頃は、寝ても醒めても迷宮攻略! って感じでさ。ちょっと張り詰めすぎじゃないのーって思ってたけど、春頃からすこしずつ変わってきたよ。大体、平日に攻略サボるなんて前のあんたからは想像もできないよ」
「そ、そっか。……やっぱ影響受けてるのかな……」
「ねえ、誰なのよ。あたしの知ってる人?」
「知らない……と思うけど……どうかな」
「今度連れてきなさいよ」
「ほんとにそんなんじゃないの! まだぜんぜん、その……一方通行だし……」
「へーっ!」
あたしは今度こそ心の底から驚く。アスナは最強ギルドKoBのサブリーダーにしてアインクラッドで五本の指に入るという美人で、彼女に言い寄る男は星の数ほどいるが、まさかその逆パターンがあろうとは夢にも思わなかった。
「なんだかねー、変な人なの」
アスナはうっとりと宙を見つめながら言う。口元にはほのかな微笑が浮かび、少女漫画ならバックに盛大に花が舞い散ろうという風情だ。
「掴み所無いっていうか……。マイペースっていうか……。その割りにはむちゃくちゃ強いし」
「あら、あんたよか強いの?」
「もう、ぜんっぜん。デュエルしてもわたしなんか多分十秒も持たないよ」
「ほほー。そりゃあかなり名前が限られますなぁ」
あたしが脳内の攻略組名簿を繰り始めると、アスナは慌てて両手を振った。
「わあ、想像しなくていいよー」
「まあ、そのうち会わせて貰えると期待しておきましょう。でもそういうことなら、ウチの宣伝、よろしく!」
「リズはしっかりしてるねえホント。紹介はしとくけどね。――あ、やば、早く研磨お願い!」
「あ、はいはい。すぐに研ぐからちょっと待ってて」
あたしはアスナのレイピアを握ったまま立ち上がると、部屋の一角に備えられている回転砥石の前に移動した。
赤い鞘から細い剣を抜き出す。武器カテゴリ『レイピア』、固有名『ランベントライト』、あたしが今まで鍛えた剣の中でも五指に入る名品のひとつだ。今手に入る最高の材料、最高のハンマー、最高の金床を使っても、ランダムパラメータのせいで出来上がる武器の品質にはばらつきがある。これほどの剣が打てるのは一ヶ月に一本がいいところだろう。
刀身を両手で支え、ゆっくり回転する砥石に近づけていく。武器の研ぎ上げには特にテクニックのようなものは無く、一定時間砥石に当てれば完了するのだけれど、やはりおざなりに扱う気にはなれない。
柄から先端に向かって丁寧に刀身を滑らせる。オレンジ色の火花が飛び散り、それと同時に銀色の輝きが蘇っていく。やがて研ぎが完了した時には、レイピアは朝の光を受けてきらきらと透き通るようなクリアシルバーの色合いを取り戻していた。
剣を鞘にぱちりと収め、アスナに投げ返す。彼女が同時に弾いてきた百コル銀貨を指先で受け止める。
「毎度!」
「今度アーマーの修理もお願いするね。――じゃ、わたし急ぐから、これで」
アスナは立ち上がると、腰の剣帯にレイピアを吊った。
「気になるなぁー。あたしもついて行っちゃおうかな」
「えー、だ、だめ」
「ははは、冗談よ。でも今度連れてきなさいよね」
「そ、そのうちね」
ぱたぱたと手を振って、アスナは逃げるように工房から飛び出していった。あたしは一つ大きく息をすると、再び椅子に腰掛けた。
「……いいなぁ」
ふと口をついて出た台詞に、思わず苦笑い。
この世界に来て一年半、生来あまりくよくよしない性質のあたしは商売繁盛だけに情熱を費やしてここまでやってきたけれど、鍛治スキルをほぼマスターし、店も構え、このところ目標を見失いがちなせいか、ときどき人恋しくなってしまうことがなくもない。
アインクラッドは絶対的に女の子が少ないので、そりゃ今まで口説かれたことはそれなりにあるけれど、何だかその気になれなかった。やっぱり自分から好きになった人がいい――と思う。そういう意味ではアスナのことが正直うらやましい。
「あたしも『素敵な出会い』のフラグ立たないかなぁー」
呟いてから頭をぶんぶん振って妙な思考を払い落とし、あたしは立ち上がった。火箸で炉から真っ赤に焼けたインゴットを取り出し、再び金床の上に。ハンマーを持ち上げて、えいやっと振り下ろす。
工房に響くリズミカルな鎚音は、いつもならあたしの頭をすぐに空っぽにしてくれるのに、今日に限ってはなかなかもやもやするものが去ろうとしなかった。
その男が店にやってきたのは、翌日の午後のことだった。
あたしは昨夜少々無理をしてオーダーメイドの注文を片付けたせいで睡眠不足で、店先のポーチに据えられた大きな揺り椅子に沈没してうたた寝をしていた。
夢を見ていた。小学校のころの夢だ。あたしはマジメでおとなしい子供だった(と思う)けれど、午後一番の授業中にどうにも眠くなってしまうクセがあって、よくうとうとしては先生に起こされていた。
あたしはその、大学出たての若い男性教師に憧れていて、居眠りを注意されるのはとても恥ずかしかったけれど、彼の起こしかたもなんとなく好きだった。そっと肩をゆすりながら、低い、穏やかな声で――
「ね、君、悪いけど……」
「はっ、はいっ、ごめんなさい!!」
「うわ!?」
バネ仕掛けのようにびよーんと立ち上がり、大声で叫んだあたしの前に、唖然とした顔で硬直している男性がいた。
「あれ……?」
あたしはぼんやりと周囲を見渡す。机が並んだ小学校の教室――ではなかった。ふんだんに配された街路樹、広い石畳の道を取り囲む水路、芝生の庭。あたしの第二の故郷、リンダースの街だ。
どうやら久々に思い切り寝惚けてしまったらしい。咳払いで気恥ずかしさを押し隠すと、客とおぼしき男に挨拶を返す。
「い、いらっしゃいませ。武器をお探しですか?」
「あ、う、うん」
男はこくこくと頷いた。
一見したところ、それほどの高レベルプレイヤーには見えなかった。歳はあたしより少し上だろうか。黒い髪に、同じく黒い簡素なシャツとズボン、ブーツ。武装は背中の片手剣ひとつきりだ。あたしの店の品揃えは、装備可能レベル帯の高い武器がほとんどなので正直心配だったが、顔には出さずに男を店内に案内する。
「えーと、片手剣はこちらの棚ですね」
レディメイド武器の見本が陳列されたケースを示すと、男は困ったように微笑みながら言った。
「あ、えっと、オーダーメイドを頼みたいんだけど……」
あたしはいよいよ心配になる。特殊素材を用いたオーダー武器の相場は最低でも十万コルを超える。代金を提示してからお客が赤くなったり青くなったりするのはこちらとしても気まずいので、何とかそんな事態を回避しようと、
「えーと、今ちょっと金属の相場が上がってまして、多少お高くなってしまうかと思うんですが……」
と言ってみたものの、黒衣の男は涼しい顔でとんでもないことを言い返してきた。
「予算は気にしなくていいから、今作れる最高の剣を作ってほしいんだ」
「……」
あたしはしばし呆然と男の顔を見ていたが、やがてどうにか口を開いた。
「……と言われても……具体的にプロパティの目標値とか出して貰わないと……」
つい口調が多少ぞんざいになったけど、男は気にするふうもなく頷いた。
「それもそうか。じゃあ……」
細い剣帯ごと背中に吊った片手剣を外し、あたしに差し出してくる。
「この剣と同等以上の性能、ってことでどうかな」
見たところ、そう大した品には見えなかった。茶色い革装の柄、同色の鞘。でも、右手で受け取った途端――。
重い!!
あやうく取り落としそうになった。恐ろしいほどの要求STRだ。あたしも鍛冶屋兼メイス使いとして筋力パラメータは相当上げているけど、とてもこの剣は振れそうにない。
恐る恐る刀身を抜き出すと、使い込まれて黒ずんだ光を放つ肉厚の刃がぎらりと光った。一目でかなりの業物だと知れる。指先でクリックし、ポップアップメニューを表示させる。カテゴリ『ロングソード/ワンハンド』、固有名『エリュシデータ』。製作者の銘、無し。ということはこれはあたしの同業者の手になるものではない。
アインクラッドに存在するすべての武器は、大きく二つのグループに分かれる。
一つはあたし達鍛冶屋が作成する「プレイヤーメイド」。もう一つが冒険によって入手できる「モンスタードロップ」だ。自然な成り行きとして、鍛冶屋はドロップ品の武器にあまりいい感情を抱かない。いきおい「無銘」「ノーブランド」などと揶揄的な呼び名も横行することになる。
だがこの剣は、ドロップ品の中でもかなりのレアアイテムだと思われた。通常、プレイヤーメイドの平均価格帯の品と、モンスタードロップの平均出現帯の品を比べれば前者に軍配が上がるのだけれど、たまにこういう「魔剣」が現れることもある――らしい。
とりあえず、あたしの対抗意識は大いに刺激された。マスタースミスの意地にかけてもドロップ品に負けるわけにはいかない。
重い剣を男に返すと、あたしは店の正面奥の壁に掛けてあった一本のロングソードを外した。二ヶ月前に鍛え上げた、あたしの最高傑作だ。白革の鞘から抜き出した刀身は薄青く輝き、氷点下の冷気をまとっているかのように見える。
「これが今うちにある最高の剣よ。多分、そっちの剣に劣ることはないと思うけど」
男は無言であたしの差し出した青い剣を受け取ると、片手でひゅひゅんと振って、首を傾げた。
「少し軽いかな?」
「……使った金属がスピード系の奴だから……」
「うーん」
男はどうもしっくりこないという顔でなおも数回剣を振っていたが、やがてあたしに視線を向けると言った。
「ちょっと、試してみてもいいかい?」
「試すって……?」
「耐久力をさ」
男は左手に下げていた自分の剣を抜くと、店のカウンターの上にごとりと横たえた。その前にすっくと立ち、右手に握ったあたしの青い剣をゆっくり振りかぶる――。
男の意図を察したあたしは慌てて声をかけた。
「ちょ、ちょっと、そんなことしたらあんたの剣が折れちゃうわよ!!」
「折れるようじゃだめなんだ。その時はその時さ」
「んな……」
無茶な、という言葉をあたしは飲み込んだ。剣をまっすぐ頭上に振りかぶった男の目に鋭い光が宿った。すぐに刀身をペールブルーのライトエフェクトが包みはじめる。
「セイッ!」
気合一閃、もの凄い速さで剣が打ち下ろされた。まばたきする間もなく剣と剣が衝突、衝撃音が店中をびりびりと震わせる。炸裂した閃光のあまりのまばゆさに、あたしが目を細めて一歩後退った、その瞬間。
刀身が見事に真ン中からへし折れ、吹き飛んだ。
――あたしの最高傑作の。
「ぎゃああああ!!」
あたしは悲鳴を上げると男の右手に飛びついた。残った剣の下半分をもぎ取り、必死にためつすがめつ眺め回す。
……修復、不可能。
と判断し、がくりと肩を落とした、その直後。半分になった剣がなさけない音と共にポリゴンの破片を撒き散らし、消滅した。数秒間の沈黙。ゆっくりと顔を上げる。
「な……な……」
あたしは唇をわななかせながら、男の胸倉をがしっと掴んだ。
「なにすんのよこのーっ!! 折れちゃったじゃないのよーっ!!」
男も、顔を引きつらせながら答えた。
「ご、ごめん! まさか当てたほうが折れるとは思わなくて……」
……かち――――ん、と来た。
「それはつまり、あたしの剣が思ったよりヤワっちかったって意味!?」
「えー、あー、うむ、まあ、そうだ」
「あっ!! 開き直ったわね!!」
男の服を放し、両手をがしっと腰に当てて胸を反らす。
「い、言っておきますけどね! 材料さえあればあんたの剣なんかぽきぽき折れちゃうくらいのをいくらでも鍛えられるんですからね!」
「――ほほう」
勢いに任せたあたしの言葉を聞いた男が、にやっと笑った。
「そりゃあぜひお願いしたいね。これがぽきぽき折れるやつをね」
カウンターから黒い剣を取り、鞘に収める。あたしはいよいよ頭に血が上り――
「そこまで言ったからには全部付き合ってもらうわよ! 金属取りにいくとこからね!」
あっ、と思った時にはそう言い放っていた。しかしもう後には引けない。男は眉をぴくりと動かすと、無遠慮な視線であたしをじろじろ眺め回した。
「……そりゃ構わないけどね。俺一人のほうがいいんじゃないのか? 足手まといは御免だぜ」
「むきーっ!!」
なんと神経を逆撫でする男であろうか。あたしは両腕をばたばた振り回しながら子供のごとく抗弁する。
「ば、馬鹿にしないでよね! これでもマスターメイサーなんですからね!」
「ほほーお」
男がひゅう、と口笛を吹く。完全に面白がっている。
「そういうことなら腕前を拝見させてもらおうかな。――とりあえず、さっきの剣の代金を払うよ」
「いらないわよ!! そのかわり、あんたの剣よか強いのができたら、思いっきりふんだくるからね!」
「どうぞ幾らでもふんだくってくれたまえ。――俺の名前はキリト。剣ができるまでひとまずよろしく」
あたしは腕を組み、顔をふいっと反らせて言った。
「よろしく、キリト」
「うわっ、呼び捨てかよ、リズベット」
「むか!!」
――パーティーを組むにしては、最悪な第一印象だった。
「その金属」の噂が鍛冶屋の間に流れたのは十日ほど前のことだった。
SAOでは、最上層を目指す、というのが勿論最大のグランド・クエストなわけだけれど、それ以外にも大小さまざまのクエストが用意されている。NPCにお使いを頼まれたり、護衛したり、探し物をしたりと内容は幅広いけど、たいてい報酬にそこそこなアイテムが含まれる上に、一度誰かがクリアすると次に発生するのに時間がかかったり、中には一回こっきりのクエストもあるとあって、プレイヤーの注目度はのきなみ高い。
そんなクエストの一つが、58層の片隅にある小さな村で発見されたのだ。村の長であるNPCいわく――
西の山には白竜が棲んでいる。竜は毎日餌として水晶をかじり、その腹にクリスタルの精髄である金属を溜め込んでいる。
明らかに武具素材アイテムの入手クエストだ。さっそく大人数の攻略パーティーが組まれ、山の白竜はあっけなく討伐された。
――しかし、何も出なかった。小額のコル、けちなアイテム、ポーションや回復結晶代にすらならなかったと言う。
さては金属はランダムドロップなのかと、色々なパーティーが長老に話を聞いてフラグを立てては竜を倒したけど、これがさっぱり出ない。一週間ほどで鬼のような数のドラゴンが殺されたもののとうとう金属を手にするパーティーは出なかった。きっとクエストに見落としている条件があるのだ、と、今は盛んに検証が行われているところらしい。
あたしがその話をすると、工房の椅子に足を組んで座り、あたしが(イヤイヤ)淹れたお茶を啜っていたキリトと名乗る男は、「ああ」と軽く頷いた。
「その話、俺も聞いたな。確かに素材アイテムとしては有望っぽいよな。でも、ぜんぜん出ないんだろ? 今更俺たちが行っておいそれとゲットできるのか?」
「いろんな噂のなかに、『パーティーにマスタースミスがいないと駄目なんじゃないか』っていうのがあるのよ。鍛冶屋で戦闘スキル上げてる人ってそうはいないからね」
「なるほどな、試す価値はあるかもな。――ま、そういうことなら早速行こうぜ」
「……」
あたしはほとほと呆れてキリトの顔を見る。
「そんな脳天気っぷりでよく今まで生き残ってこれたわね。ゴブリン狩りにいくんじゃないのよ。それなりにパーティー整えないと……」
「でもそうすると、もしお目当てのブツが出ても最悪くじ引きだろ? そのドラゴンって何層の奴って言ったっけ?」
「……58層」
「んー、まあ、俺一人でどうにかなるだろ。リズベットは陰から見てればいいよ」
「……よっぽどの凄腕か、よっぽどのバカチンね、あんた。まあ泣いて転移脱出するのを見るのも面白そうだからあたしは構わないけどね」
キリトはふふんと笑うだけで何も答えず、お茶をずずーっと飲み干すとカップを作業台の上に置いた。
「さて、俺はいつ出発しても構わないぜ。リズベットは?」
「ああもう、どうせ呼び捨てにされるならリズでいいわよ。……ドラゴン山自体はそんなに大きくないらしいし、日帰りできるみたいだからあたしも準備はすぐ済むわ」
ウインドウを開き、エプロンドレスの上に簡単な防具類を装備する。愛用のメイスがアイテム欄に入っているのを確認し、ついでにクリスタルとポーションの手持ちが十分あるのも確かめる。
左手を振って「OK」と言うと、キリトも立ち上がった。工房から店頭に出ると、幸いお客は一人もいない。ドアの木札を「CLOSED」に裏返す。ポーチに立って外周を振り仰ぐと、まだまだ明るい陽光が差し込んでいた。日没までは相当間がある。金属入手に成功するにせよ失敗するにせよ――まず間違いなく後者だと思うけれど――あまり遅くならないうちに帰ってこられそうだった。
――なんか、妙なことになったなぁ……
店を出て、転移門広場目指して足を進めながら、あたしは内心で首を捻っていた。
隣でのんびりと歩く黒衣の男には、あたしは決していい印象を持っていない――はずだ。言うことはいちいちムカつくし、尊大で自信家だし、なによりあたしの傑作をぽっきりとやってくれたのだ。
しかしそれでいて、あたしはその初対面の男とこうして並んで歩いている。なんとこれから遠いフロアまで出かけて、パーティーを組んで狩りまですることになっている。これではまるで――まるでデー……
そこで思考を無理やり堰き止める。こんなことはかつて一度もなかった。それなりに仲のいい男性プレイヤーは何人かいるけれど、二人きりで出かけるのはなんだかんだと理由をつけて回避してきた。そう……怖かったのだ。特定の男性と、一歩踏み込んだ関係になるのが怖かった……。そうなるなら、まずあたしからちゃんと好きになった人と、ずっとそう思っていたはずだった。
なのに気付くとこの妙な男と――。これは一体どういうことなのか。
あたしの秘めたる葛藤に気付く風もなく、キリトはゲート広場の入り口に食べ物の屋台を見つけるといそいそと駆け寄っていった。やがて振り向いたその口には、大きなホットドッグが咥えられている。
「りうへっとも食う?」
……内心で思いっきり脱力する。悩んでいるのが馬鹿らしくなり、あたしは大声で答えた。
「食う!」
かりっとしたホットドッグ――正しくはそれに似た謎の食べ物――を齧り終わる頃には、58層北にある噂の村に辿り着くことができた。
フィールドのモンスターはさして問題ではなかった。
現在の最前線が63層であることを考えると、出現するモンスターは強敵の部類に属する。でもあたしのレベルは60台後半だったし、大口叩くだけあってキリトもそれなりに強いようで、ほとんどダメージを負うことなく数回のエンカウントを切り抜けることが出来た。
唯一の誤算は、このフロアのテーマが氷雪地帯だったということで――。
「びえっくし!!」
小さな村の圏内に踏み込み、気が抜けた途端、あたしは盛大なくしゃみを炸裂させた。他のフロアは夏なので油断していたら、ここでは地面に雪が積もり、家々の軒先からは巨大なつららが下がっている。
骨まで凍み通るような寒さにがたがた震えていると、隣に立つキリトが、呆れ顔で聞いてきた。
「……余分の服とかないのか?」
「……ない」
すると自分だってとうてい厚着には見えない黒衣の男はウインドウを操作し、大きな黒革のマントをオブジェクト化させてあたしの頭にばふっと放ってきた。
「……あんたは大丈夫なの?」
「精神力の問題だ、きみ」
まったくいちいちムカつく男だ。だが毛皮で裏打ちされたマントは実に暖かそうで、あたしはその魅力に抗しきれずいそいそとくるまった。途端に冷気が消失し、ほっと一息つく。
「さて……長老の家っていうのはどれかなー」
キリトの声に、小さな村をぐるりと見渡すと、中央広場の向こうに一際高い屋根を持つ家が見えた。
「あれじゃない?」
「あれだな」
頷きあい、歩き出す。
――数分後。
予想たがわずあたし達は村の長である白髯豊かなNPCを発見し、話を聞くことに成功したのだけれど、その話というのが長の幼少時代から始まり、青年期、熟年期の苦労話を経て、唐突にそういえば西の山にはドラゴンが、という経過を辿るとてつもない代物で、全部終わった頃には村はすっかり夕景に包まれていた。
へとへとに消耗して長の家から転がり出る。家々を覆う雪のフードを赤い夕日が染めて、その光景はとても美しいものだったが――。
「……まさかフラグ立てでこんな時間を食うとはなあ……」
「うん……。どうする? 明日また出直す?」
キリトと顔を見合わせる。
「うーん、でもドラゴンは夜行性とも言ってたしなあ。山ってあれだろ?」
指差すほうを見ると、そう遠くない場所に白く切り立った険しい峰が見えた。と言っても、アインクラッドの構造的制約によってその高さは絶対に百メートルを超えることはない。登頂にはそれほど苦労はしないだろうと思われる。
「そうね、行っちゃおうか。あんたが泣きべそかくとこ早く見たいしね」
「そっちこそ俺の華麗な剣さばきを見て腰抜かすなよ」
見合わせた顔を、二人してフンとそむける。でも、なんだか――キリトと憎まれ口の応酬をするのにちょっとワクワクし始めているような――
あたしはぶんぶんと頭を振って妙な気分をリセットし、ざくざくと雪を踏みしめて歩き始めた。
遠くからは険峻と見えた竜の棲む山も、踏み込んでみればさして苦労もせず登ることができた。
よくよく考えれば、今まで数多の混成パーティーが何度となく登頂に成功しているのだ。難易度が高かろうはずもない。
出現するモンスターの中で最も強力なのは、時間帯のせいもあるのか『フロストボーン』なる氷でできたスケルトンだったけど、ホネ系のモンスターならあたしのメイスの敵ではない。がしゃーんがしゃーんと気持ちいい音をさせながら蹴散らしていく。
雪道を登ること数十分、一際切り立った氷壁を回り込むと、そこがもう山頂だった。
上層の底部がすぐ近くに見える。そこかしこに、雪を突き破って巨大なクリスタルの柱が伸びている。残照の紫光が乱反射して虹色に輝くその光景は幻想的の一言だ。
「わあ……!」
思わず歓声を上げて走り出そうとしたあたしの襟首を、キリトががっしと掴んだ。
「ふぐ! ……なにすんのよ!」
「おい、転移結晶の準備しとけよ」
その表情はやけに真剣で、あたしは思わず素直に頷いていた。クリスタルをオブジェクト化し、エプロンのポケットに入れる。
「それから、ここからは俺がやるから、リズはドラゴンが出たらそのへんの水晶の陰に隠れるんだ。絶対顔を出すなよ」
「……なによ、あたしだって素人じゃないんだから、手伝うわよ」
「だめだ!」
キリトの黒い瞳が、まっすぐあたしの目を射た。その途端、不意に――この人は真剣にあたしの身を案じているのだ、ということが判って、息を詰めて立ち尽くしてしまった。何も言い返せず、再びこくりと頷く。
キリトはにっと笑うとあたしの頭にぽんと手を置き、「じゃあ、行こうか」と言った。あたしはもうコクコクと頭を振ることしかできない。
なんだか、突然空気の色まで変わってしまったような気がした。
キリトと二人でここまで来たのは、ちょっとした気分転換というか、その場の勢いというか――生死のかかった戦いだなんて意識はまったくなかった。
あたしはもともと、レベルアップのための経験値のほとんどは武具作成で得たのであって、本当にシビアな戦場には出たことがない。
でも、この人は違うんだ……、そう思った。日常的にギリギリの場所で戦っている人間の目だった。
混乱した気持ちを抱えたまましばらく歩くと、すぐに山頂の中央に到達した。
水晶柱にぐるりと取り囲まれたその空間には――
「うわあ……」
巨大な穴が開いていた。直径は十メートルもあるだろうか。壁面は氷に覆われてつるつると輝き、まっすぐどこまでも深く伸びている。奥は闇に覆われてまるで見えない。
「こりゃあ深いな……」
キリトがつま先で小さな水晶のかけらを蹴飛ばした。穴に落下したそれは、きらりと光ってすぐに見えなくなり――いつまでたっても、何の音もしなかった。
キリトはこつんとあたしの頭を突付くと、言った。
「落ちるなよ」
「落ちないわよ!」
唇を尖らせて言い返す。
その時だった。最後の残照で藍色に染め上げられた空気を切り裂いて、猛禽類のような高い雄叫びが響き渡った。
「その陰に入れ!!」
キリトが有無を言わせぬ口調で、手近の大きな水晶柱を指した。
あたしは慌てて言葉に従いながら、キリトの背中に向かってまくし立てた。
「ええと、ドラゴンのアタックパターンは、左右の鈎爪と、氷ブレスと、突風攻撃だって! ……き、気をつけてね!」
最後の部分を早口で付け加えると、キリトは背を向けたまま気障な仕草で親指を立てた左拳を振った。直後、その前方の空間が揺らぎ、滲み出すように巨大なオブジェクトの湧出が始まった。
ディティールの粗いポリゴンの塊が、立て続けにごつごつと出現する。それらは次々と接合しては、面を削ぎ落とすように情報量を増してゆき、やがて巨大な体がほぼ完成した――と見えたところでその全身を震わせて再び雄叫びを上げた。無数の細片が飛び散り、きらきらと輝きながら蒸発していく。
そこに姿を現したのは、氷のように輝く鱗を持った白竜だった。巨大な翼を緩やかにはためかせ、宙にホバリングしている。恐ろしい――というよりは美しいという表現が相応しい姿だ。紅玉のような大きな瞳をきらめかせ、あたしたちを睥睨している。
キリトが落ち着いた動作で背に手をやり、黒鉄色の片手剣を音高く抜き放った。すると、それが合図ででもあったかのように、ドラゴンが大きくその顎門を開き――硬質のサウンドエフェクトと共に、白く輝く気体の奔流を吐き出した。
「ブレスよ! 避けて!」
あたしは思わず叫んだが、キリトは動かない。仁王立ちのまま、右手に握った剣を、かざすように前に突き出す。
あんな細い武器でブレス攻撃が防げるものか――と思った瞬間、キリトの手を中心に、剣が風車のように回転し始めた。薄緑のエフェクトに包まれているところを見るとあれも剣技の一つなのだろうか。すぐに刀身が見えないほどに回転が速まり、まるで光の円盾のように見える。
そこに向かって、氷のブレスが正面から襲い掛かった。まばゆい純白の閃光。思わず顔を背ける。でも、キリトの剣が作り出したシールドに打ち当たった冷気の奔流は、吹き散らされるように拡散し、蒸発していく――。
あたしは慌ててキリトの体に視線を合わせ、HPバーを確認した。完全にはブレスを防げないのか、じわじわと右端から減少していくが、呆れたことに数秒たつとすぐに回復してしまう。超高レベル戦闘スキルの『バトルヒーリング』だと思われる――けれども、あれはスキルを上昇させるのに、戦闘で大ダメージを受けつづける必要があるので、現実問題として修行するのは不可能と言われている。
一体――何者なの……?
あたしは今更のように黒衣の剣士の正体に思いを馳せた。これほどの強さを持つのは、攻略組以外に考えられない。でも、KoBをはじめ主だったトップギルドの名簿には該当する名前はない。
と、その時、ブレス攻撃が途切れたのを見計らったようにキリトが動いた。爆発じみた雪煙を立てて、宙のドラゴンへと飛び掛る。
普通、飛行する敵に対してはポールアーム系や投擲系の、リーチの長い武器で攻撃して地面に引き摺り下ろし、それからショートレンジの戦闘に持ち込むのがセオリーだ。でも驚いたことにキリトはドラゴンの頭上を超えるほどの高さまで飛翔すると、空中で片手剣の連続技を始動させた。
キュキューン、という甲高い音を立てながら、目で追いきれない程のスピードで攻撃が白竜の体に吸い込まれていく。ドラゴンも左右の鈎爪で応戦するものの、手数が違いすぎる。
長い滞空を経てキリトが着地したときには、ドラゴンのHPバーは三割以上減少していた。
――圧倒的だ。ありうべからざる戦闘を見た衝撃で、背中にぞくぞくするものが疾る。
ドラゴンは、地面のキリト目掛けてアイスブレスを吐いたが、今度はダッシュで回避して再びジャンプ。重低音を響かせながら、単発の強攻撃を次々と叩き込む。その度にドラゴンのHPががくん、がくんと減少する。
バーは、たちまち黄色を通り越して赤へと突入した。もうあと一、ニ撃で決着がつくだろう。今度ばかりは素直にキリトの強さを称えてやろうと、あたしは体を起こした。水晶柱の陰から一歩踏み出す。
その途端。背中に目でもついているかのように、キリトが叫んだ。
「バカ!! まだ出てくるな!!」
「なによ、もう終わりじゃない。ささっとカタを……」
あたしが声を上げた、その時――。
一際高く舞い上がったドラゴンが、両の翼を大きく広げた。それが、音高く体の前で打ち合わされると同時に、竜の真下の雪がどばっ! と舞い上がった。
「……!?」
思わず立ち尽くしたあたしの数メートル前方で、地面に片手剣を突き立てたキリトが何かを言おうと口を開いた。だが直後、その姿は雪煙に包まれ――次の瞬間、あたしは空気の壁に叩かれて、あっけなく宙に吹き飛ばされた。
しまった――突風攻撃――!
空中でくるくると回りながら、今更のように思い出す。だが幸い、攻撃力自体はさほど無いようで、ダメージはそう受けていない。両手を広げ、着地体勢を取る。
けれど――雪煙が切れた、その先に、地面はなかった。
山頂に開いていた巨大な穴。あたしはその真上に吹き飛ばされてしまったのだ。
思考が停止する。体が凍りつく。
「うそ……」
それしか言えなかった。右手を、空しく宙に伸ばす――。
――その手を、黒革のグローブに包まれた手が、ぎゅっと掴んだ。
あたしは、なかば焦点を失っていた両眼を見開いた。
「――!!」
はるか遠くでドラゴンと対峙していたはずのキリトが、宙に身を躍らせ、左手であたしの手を掴んでいた。そのままぐいっと彼の胸に引き寄せられる。いったん離れた左手があたしの背に回り、固く包み込む。
「掴まれ!!」
キリトの叫び声が耳もとで響いて、あたしは夢中で両手を彼の体に回した。直後、落下が始まった。
巨大な縦穴の中央を、二人抱き合ったまま真っ直ぐに落ちていく。風が耳もとで唸り、マントがばたばたとはためく。
もし穴が、フロアの表面ぎりぎりまで続いているなら、この高さから落ちたら間違いなく死ぬ。そんな思考が頭を掠めたけど――現実のこととは思えなかった。ただ呆然と、遠ざかっていく白い光の円を見ていた。
不意に、キリトが剣を握った右手を動かした。背後に引き絞り、次いで前方に撃ち出す。がしゅん! という金属音とともに光芒が飛散する。
重い突き技の反動で、あたしたちは弾かれたように穴の壁面目指して落下の角度を変えた。青い氷の絶壁がみるみる迫ってくる。思わず歯を食いしばる。ぶつかる――!
激突の直前、再び右手を振りかぶったキリトが、剣を思い切り壁面に突き立てた。武器をグラインダーにかけた時のような火花が盛大に飛び散る。がくん、という衝撃とともに落下の勢いが鈍る。だが停まるには至らない。
金属を引き裂くような音を盛大に立てながら、キリトの剣が氷の壁を削っていく。あたしは首を動かし、落ちる先を見やった。雪が白く溜まった穴の底が見えた。みるみる近づいてくる。激突までもうあと数秒もない。あたしは、せめて悲鳴だけは上げるまいと必死に唇を噛み、キリトの体にしがみついた。
キリトが剣から手を離した。両腕であたしを固く抱き、体を半回転させて自分が下になる。そして――
衝撃。轟音。
爆発したかのように舞い上がった雪が、ふわふわと落ちてきて頬に触れ、消えた。
その冷たさで、飛びかけた意識が引き戻された。眼を見開く。至近距離にあったキリトの黒い瞳と視線が交差する。
あたしをきつく抱きしめたまま、キリトが唇をわずかに動かした。
「ワォ」
片頬をゆがめてかすかに笑う。
「生きてたな」
あたしもどうにか頷き、声を出した。
「うん……生きてた」
数十秒――ことによったら数分、あたしたちはそのままの姿勢で横たわっていた。動きたくなかった。キリトの体から伝わる熱が心地よくて、頭がぼおっとする。もっと――もっと強く抱いて欲しい――
でも、やがて、キリトは腕を解き、ゆっくりと体を起こした。腰のポーチからハイポーションとおぼしき小瓶をふたつ取り出し、一つをあたしに差し出してくる。
「飲んどけよ、一応」
「ん……」
頷いて、あたしも上体を起こした。瓶を受け取り、HPバーを確認すると、あたしのほうはまだ三分の一近く残っていたが、直接地面と激突したキリトはレッドゾーンまで突入していた。
栓を抜き、甘酸っぱい液体を一息に飲み干してから、あたしはキリトのほうに向き直った。ぺたりと座ったまま、まだうまく言うことを聞かない唇を動かす。
「あの……、あ……ありがと。助けてくれて……」
するとキリトは、例によってシニカルな笑みをかすかに滲ませ、言った。
「礼を言うのはちょっと早いぜ」
ちらりと上空に視線を向ける。
「……ここから、どうやって抜け出したもんか……」
「え……テレポートすればいいじゃない」
あたしはエプロンのポケットを探った。青く光る転移結晶をつまみ出し、キリトに示す。だが――。
「無駄だろうな。ここはもともとプレイヤーを落っことすためのトラップだろう。そんな手軽な方法で脱出できるとは思えないよ」
「そんな……」
あたしはキリトににじり寄り、左手を差し出した。キリトがその手を握ってくるのを確認し、クリスタルを掲げる。
「転移! リンダース!」
――あたしの叫び声が、空しく氷壁に反響し、消えていった。結晶はただかすかにきらめくのみ。
キリトは手を離すと、軽く肩をすくめた。
「結晶が使える確信があったら落ちてる最中に使ったけどな。無効化空間っぽい気配がしたからな……」
「……」
あたしが肩を落として俯くと、キリトがぽん、と頭に手を置いてきた。そのままあたしの髪をくしゃくしゃと撫でる。
「まあ、そう落ち込むな。結晶が使えないってことは、逆に言えばなにか脱出の方法が必ずあるってことだ」
「……そんなの、わかんないじゃない。落ちた人が百パーセント死ぬって想定したトラップかもよ? ……ていうか、普通死んでたわよ」
「なるほど、それもそうだ」
キリトがあっけなく頷くのを見て、あたしは再びがっくりと脱力する。
「あ……あんたねえ! もうちょっと元気づけなさいよ!!」
思わず声を荒げると、キリトはにやっと笑って言った。
「リズは怒ってたほうがかわいいぜ。その意気だ」
「んな……」
不覚にも赤面しつつ硬直してしまったあたしの頭から手を離し、キリトは立ち上がった。
「さあて、いろいろ試してみるかぁ。アイデア募集中!」
「……」
この状況に至ってもマイペースを崩さないキリトの態度に、あたしは苦笑するしかなかった。少しだけ元気が出てきた気がして、ぱちんと両手で頬っぺたを叩くと、あたしも立ち上がる。
ぐるりと周囲を見渡すと、そこはほぼ平らな氷の床に雪が薄く積もった、まさに穴の底だった。直径は変わらず十メートルほどだろうか。はるか高みの入り口から、氷壁に反射しながら差し込んでくる頼りない夕陽の残照にぼんやりと照らされている。じきに完全な暗闇に包まれてしまうだろう。
見たところ、地面にも、周囲の壁にも抜け道のようなものは無かった。あたしは腰に両手を当て、必死に頭を働かせ、浮かんできた最初のアイデアを口にした。
「えーと……助けを呼ぶっていうのはどうかしら」
「うーん、ここ、ダンジョン扱いじゃないか?」
だがキリトにあっさりと否定されてしまう。
フレンド登録しているプレイヤー、例えばアスナになら、フレンドメッセージというメールのようなもので連絡する手段があるのだが、迷宮ではその機能は使えない。ついでに言えば位置追跡もできない。
念のためメッセージウインドウを開いてみたが、キリトの言うとおり使用不可能だった。
「じゃあ……ドラゴン狩りにきたプレイヤーに大声で呼びかける」
「山頂までは高さ八十メートルはあったからなぁ……。声は届かないだろうな……」
「そっか……って、あんたもちょっとは考えなさいよ!!」
次々に意見を退けられ、あたしがややムクレて言い返すと、キリトはとんでもない事を言った。
「壁を走って登る」
「……バカ?」
「かどうか、試してみるか……」
あたしが唖然として見守るなか、キリトは壁ぎりぎりまで近づくと、突然反対側の壁目掛けて凄まじい速さでダッシュした。床に積もった雪が盛大に舞いあがり、突風があたしの顔を叩く。
壁に激突する寸前、キリトは一瞬身を沈めると爆発じみた音とともに飛び上がった。遥か高みで壁に足をつき、そのまま斜め上方へと走りはじめる。
「うっそ……」
眼と口をポカンとあけて立ち尽くすあたしの遠い頭上で、キリトがB級映画のニンジャのごとく、氷壁を螺旋状に駆け上がっていく。みるみるうちにその姿は小さくなり――三分の一近くも登ったところで、ツルンとこけた。
「わあああああああ」
再び壁面に剣を突きたて、がりがり削り取りながらキリトが落ちてくる。
「わあああ!?」
あたしも悲鳴を上げて落下地点に駆け寄る。腕を伸ばすが、わずかに届かず――ごしゃっ! という音とともにキリトが床に貼り付いた。
数分後。二本目のポーションを咥えたキリトと並んで壁際に座り込み、あたしは大きくため息をついた。
「――あんたのこと、バカだバカだと思っていたけどまさかこれほどの……」
「……もうちょっと助走距離があればイケたんだよ」
「そんなわけねー」
ぼそりと呟く。
飲み干した瓶をポーチに放り込んだキリトは、あたしのツッコミを無視して大きく一回伸びをすると、言った。
「ま、ともかく、こう暗くなっちゃ今日はここで野営だな……」
確かに、夕焼けの色はとうに消え去って、穴の底は深い闇に包まれようとしていた。
「そうね……」
「そうと決まれば、っと……」
キリトはウインドウを出すと、指を走らせ、何やら次々とオブジェクト化させた。
大きな野営用ランタン。手鍋。謎の小袋いくつか。大きなマグカップ二つ。
「……あんたいつもこんな物持ち歩いてるの?」
「ダンジョンで夜明かしは日常茶飯事だからな」
どうやら冗談ではないらしく、真顔でそう答えるとランタンをクリックして火をともした。ぼっという音とともに、明るいオレンジ色の光が辺りを照らし出す。
ランタンの上に小さな鍋を置くと、キリトは雪の塊を拾い上げて放り込み、更に小袋の中身をぱぱっとあけた。蓋をして、鍋をダブルクリック。料理待ち時間のウインドウが浮き上がる。
すぐに、ハーブのような芳香があたしの鼻をくすぐりはじめた。よく考えたら昼にホットドッグを齧ったきりだ。ゲンキンな胃が、思い出したように盛んに空腹を訴えてくる。
やがて、ポーン、という効果音と共にタイマーが消えると、キリトは鍋を取り上げて中身を二つのカップに注いだ。
「料理スキルゼロだから味は期待するなよ」
片方を差し出してくる。
「ありがと……」
受け取ると、じんわりとした温かみが両手に広がった。
スープは、香草と干し肉を使った簡単なものだったが、食材アイテムのランクが高いらしく、じゅうぶんすぎるほど美味しかった。冷えた体に、ゆっくりと熱がしみとおっていく。
「なんか……へんな感じ……。現実じゃないみたい……」
スープを飲みながら、ぽつりと呟いていた。
「こんな……初めてくる場所で、初めて会った人と、並んでご飯食べてるなんてさ……」
「そうか……。リズは職人クラスだもんな。ダンジョン潜ってると、行きずりのプレイヤーとにわかパーティー組んで野営するとか、けっこうあるよ」
「ふうん、そうなんだ。……聞かせてよ。ダンジョンの話とか」
「え、う、うん。そんな面白いもんじゃないと思うけど……。おっと、その前に……」
キリトは、空になったふたつのカップを回収すると、手鍋といっしょにウインドウに放り込んだ。続けて操作し、今度は大きな布の塊を二つ取り出す。
広げた所を見ると、それは野営用のベッドロールらしかった。現実世界のシュラフに似ているが、かなり大きい。
「高級品なんだぜ。断熱は完璧だし、対アクティブモンスター用のハイディング効果つきだ」
にやりと笑いながら一つを放ってくる。受け取り、雪の上に広げると、それはあたしなら三人は入れるほどの大きさだった。再び呆れながら言う。
「よくこんな物持ち歩いてるわねえ。しかも二つも……」
「アイテム所持容量は有効利用しないとな」
キリトは手早く武装を解除し、枕許に剣を置いてベッドロールの中にもぐりこんだ。あたしもそれに倣い、マントとメイスを外して袋状の布の間に体を滑り込ませる。
自慢するだけあって、確かに中は暖かかった。その上見た目よりはずいぶんふかふかと柔らかい。
ランタンを間に挟み、一メートル半ほどの距離を置いてあたし達は横たわった。なんだか――妙に照れくさい。
気恥ずかしさを紛らわすように、あたしは言った。
「ね、さっきの話、してよ」
「ああ、うん……」
キリトは両腕を頭の下で組むと、ゆっくりと話しはじめた。
迷宮区で、MPK――故意にモンスターを集めて、他のプレイヤーを襲わせる悪質な犯罪者――の罠に引っかかった話。弱点のわからないボスモンスターと、丸二日戦いつづけた話。レアアイテムの分配をするために百人でジャンケン大会をした話。
どの話もスリリングで、痛快で、どこかユーモラスだった。そして、全ての話が、明らかに告げていた。――キリトが、最前線で戦いつづける攻略組の一人であることを。
でも――そうであるならば――。この人は、その肩に、四万のプレイヤーの運命を背負っているのだ。こんな、あたしなんかの為にその命を投げ出していい人ではないはずだ――。
あたしは、体の向きを変え、キリトの顔を見た。ランタンの光を照り返す黒い瞳が、ちらりとこちらに向けられた。
「ねえ……キリト。聞いていい……?」
「――なんだよ、改まって」
その口もとに、わずかに照れたような笑みが浮かぶ。
「なんであの時、あたしを助けたの……? 助かる保証なんてなかったじゃん。ううん……あんたも死んじゃう確率のほうが、ずっと高かった。それなのに……なんで……」
キリトの口から、一瞬笑いが消えた。やがて、ごくごく穏やかな声で、呟いた。
「……誰かを見殺しにするくらいなら、一緒に死んだほうがずっとましだ。それがリズみたいな女の子なら尚更、な」
「……馬鹿だね、ほんと。そんな奴ほかにいないわよ」
口ではそう言いながら――あたしは不覚にも涙が滲みそうになっていた。胸の奥が、どうしようもなくぎゅーっと締め付けられて、それを必死に打ち消そうとする。
こんなに馬鹿正直で、ストレートで、暖かい言葉を聞いたのは、この世界に来て初めてだった。
ううん――元の世界でもこんなことを言われたことはなかった。
不意に、あたしの中にここ数ヶ月居座りつづけていた人恋しさ、寂しさのうずきのようなものが、大きな波になってあたしを揺さぶった。キリトの暖かさを、もっと直接、こころの触れる距離で確かめたくなって――。
無意識のうちに、唇から、言葉が滑り出していた。
「ね……そっちに……行っても、いい……?」
一瞬キリトが目を見開き、やがてその頬がわずかに赤らむのを見てからようやく、あたしは自分が何を言ったのか意識した。
「あ……あの……」
顔がかーっと熱くなる。心臓ががんがんと鳴り響きはじめる。動かない唇をどうにか動かし、まとまらない言葉を音にする。
「さ、寒くって。……それで……」
――でも、我慢できるから、と続けようとしたところで、キリトが動いた。体をベッドロールの奥側に寄せ、俯いたまま短く呟く。
「……いいよ」
キリトの隣は――ものすごく暖かそうだった。触れたい、体を寄せ合いたいという欲求が、縺れ、絡まりあった思考を押し流していく。
あたしは、ふわふわと熱に浮かされたような気持ちのまま上体を起こした。ベッドロールから這い出し、キリトの枕許まで移動する。
顔を赤くしたキリトは、あたしと目を合わせようとはしなかったが、右手でそっと布を持ち上げた。
無言で狭いすきまに入り込もうとして、硬い生地のロングスカートとエプロンがじゃまだなあと思う。今更恥ずかしがっても仕方ない――とぼんやりした頭の片隅で考え、ウインドウを出して手早く装備を解除。薄いブルーのキャミソール姿になって、つま先から布の中へと滑り込んだ。
途端に、ふわりと穏やかなぬくもりがあたしの全身を包んで、それだけで気が遠くなるほどの心地よさを感じた。もっと――もっと、感じたい。体を動かし、キリトの傍へと移動する。上体を密着させ、お互いの足先を絡める。
キリトが、おそるおそる、という感じに腕をあたしの体に回してきた。彼の肩口に顔を押し付けたまま、微かに囁く。
「もっと……強く、抱いて……」
ぎゅっ、と腕に力が込められ、頭の芯がびりびりと痺れた。
「はぁっ……」
堪えきれず、深い吐息を漏らす。
人間の暖かさだ、と思った。
この世界に来てから、常にあたしの心の一部に居座り続けていた渇きの正体がようやくわかったような気がしていた。
ここが仮想の世界であること――あたしの本当の体はどこか遠い場所に置き去りで、いくら手を伸ばしても届かない、そのことを意識するのが怖くて、次々に目標を作っては遮二無二作業に没頭してきた。剣を鍛え、店を大きくして、これがあたしのリアルなんだと自分に言い聞かせてきた。
でも――あたしは心の底で、ずっと思っていた。全部偽物だ、単なるデータだ、と。餓えていたのだ。本当の、人の温もりに――。
もちろん、キリトの体だってデータの構造物だ。今あたしを包んでいる暖かさも、電子信号があたしの脳に温感を錯覚させているに過ぎない。
けれど、ようやく気付いた。そんなことは問題じゃないんだ。心を感じること――現実世界でも、この仮想世界でも、それだけが、唯一の、真実なんだ。
キリトの心が発する熱で、あたしが溶けていく。からだの境界があいまいになり、心臓の疼きだけが意識を支配していく。
倫理コード解除設定のことは、知識として知っていた。キリトが求めてくればあたしは応じるだろうとも思っていた。でも、もう、そんな必要はなかった。二人の間を行き交う電子パルスが、心の距離をゼロにする――。
「もっと――もっと触って……」
キリトの手が動くたびに、頭の中がばちばちと弾ける。体を包む熱がどんどん高まっていく。
「…………ッ!!」
不意に、ぎゅっと閉じているはずの目蓋の裏が真っ白になった。意識がぱぁっと飛散した。なめらかな暗闇の中を、どこまでも落ちていく――。
眠りに落ちたのか、気を失ってしまったのか、それさえもわからなかった。
2009/07/26 23:18
三日目
「ミナ、パンひとつ取って!」
「ほら、余所見してるとこぼすよ!」
「あーっ、先生ー! ジンが目玉焼き取ったー!」
「これは……すごいな……」
「そうだね……」
アスナとキリトは、目前で繰り広げられる戦場さながらの朝食風景に、呆然とつぶやき交わした。
始まりの街、東七区の教会一階の広間。巨大な長テーブル二つに所狭しと並べられた大皿の卵やソーセージ、野菜サラダを、三十人の子供たちが盛大に騒ぎながらぱくついている。
「でも、凄く楽しそう」
少し離れた丸テーブルに、キリト、ユイ、サーシャと一緒に座ったアスナは、微笑しながらお茶のカップを口許に運んだ。
「毎日こうなんですよ。いくら静かにって言っても聞かなくて」
そう言いながら、子供たちを見るサーシャの目は心底愛しそうに細められている。
「子供、好きなんですね」
アスナが言うと、サーシャは照れたように笑った。
「向こうでは、大学で教職課程取ってたんです。ほら、学級崩壊とか、問題になってたじゃないですか。子供たちを、私が導いてあげるんだーって、燃えてて。でもここに来て、あの子たちと暮らし始めてみると、見ると聞くとは大違いで……。彼らより、私のほうが頼って、支えられてる部分のほうが大きいと思います。でも、それでいいって言うか……。それが自然なことに思えるんです」
「何となくですけど、わかります」
アスナは頷いて、隣の椅子で真剣にスプーンを口に運ぶユイの頭をそっと撫でた。ユイの存在がもたらす暖かさは驚くほどだ。キリトと触れ合うときの、胸の奥がきゅっと切なくなる愛しさとはまた違う、目に見えない羽根で包み、包まれるような、静かな安らぎを感じる。
昨日、謎の発作を起こし倒れたユイは、幸い数分で目を覚ました。だが、すぐに長距離を移動させたり転移ゲートを使わせたりする気にならなかったアスナは、サーシャの熱心な誘いもあり、教会の空き部屋を一晩借りることにしたのだった。
今朝からはユイの調子もいいようで、アスナとキリトはひとまず安心したのだが、しかし基本的な状況は変わっていない。かすかに戻ったらしきユイの記憶によれば、始まりの街に来たことはないようだったし、そもそも保護者と暮らしていた様子すらないのだ。となるとユイの記憶障害、幼児退行といった症状の原因も見当がつかないし、これ以上何をしていいのかもわからない。
だがアスナは、心の奥底では気持ちを固めていた。
これからずっと、ユイの記憶が戻る日まで、彼女といっしょに暮らそう。休暇が終わり、前線に戻る時が来ても、何か方法はあるはず――。
ユイの髪を撫でながらアスナが物思いに耽っていると、キリトがカップを置き、話しはじめた。
「サーシャさん……」
「はい?」
「……軍のことなんですが。俺が知ってる限りじゃ、あの連中は専横が過ぎることはあっても治安維持には熱心だった。でも昨日見た奴等はまるで犯罪者だった……。いつから、ああなんです?」
サーシャは口許を引き締めると、答えた。
「そう昔のことじゃないです、『徴税』が始まったのは。軍が分裂してるな、って感じがし始めたのは半年くらい前からです……。恐喝まがいの行為をはじめた人達と、それを逆に取り締まる人達もいて。軍のメンバーどうして対立してる場面も何度も見ました。噂じゃ、上のほうで権力争いか何かあったみたいで……」
「うーん……。なにせメンバー数千人の巨大集団だからなぁ。一枚岩じゃないだろうけど……。でも昨日みたいなことが日常的に行われてるんだったら、放置はできないよな……。アスナ」
「なに?」
「奴はこの状況を知ってるのか?」
奴、という言葉の嫌そうな響きでそれが誰を意味するか察したアスナは、笑みを噛み殺しながら言った。
「知ってる、んじゃないかな……。団長は軍の動向に詳しかったし。でもあの人、何て言うか、ハイレベルの攻略プレイヤー以外には興味なさそうなんだよね……。キリト君のこととかずっと昔からあれこれ聞かれたけど、オレンジギルドが暴れてるとかそんな話には知らんぷりだったし。多分、軍をどうこうするためにギルドを動かしたりとかはしないと思うよ」
「まあ、奴らしいと言えば言えるよな……。でも俺たちだけじゃ出来ることもたかが知れてるし、そもそも圏内じゃ暴れようもないしなぁ」
眉をしかめてお茶を啜ろうとしたキリトが、不意に顔を上げ、教会の入り口のほうを見やった。
「誰かくるぞ。一人……」
「え……。またお客様かしら……」
サーシャの言葉に重なるように、館内に音高くノックの音が響いた。
腰に短剣を吊るしたサーシャと、念のためについていったキリトに伴われて食堂に入ってきたのは、長身の女性プレイヤーだった。
銀色の長い髪をポニーテールに束ね、怜悧という言葉がよく似合う、鋭く整った顔立ちのなかで、空色の瞳が印象的な光を放っている。
髪型、髪色、さらに瞳の色までも自由にカスタマイズできるSAOだが、もともとの素材が日本人であるため、このような強烈な色彩設定が似合うプレイヤーはかなり少ないと言える。アスナ自身も、かつて髪をチェリーピンクに染め、失意のうちにブラウンに戻したという人には言えない過去がある。
美人だなぁ、キリトくんこういう人が好みなのかなぁという穏やかならぬ第一印象ののち、改めて彼女の装備に視線を落としたアスナは、思わず体を固くして腰を浮かせた。
鉄灰色のケープに隠されているが、女性プレイヤーが身にまとう濃緑色の上着と大腿部がゆったりとふくらんだズボン、ステンレススチールふうに鈍く輝く金属鎧は、間違いなく「軍」のユニフォームだ。右腰にショートソード、左腰にはぐるぐると巻かれた、黒革のウィップが吊るされている。
女性の身なりに気付いた子供たちも一斉に押し黙り、目に警戒の色を浮べて動きを止めている。だが、サーシャは子供たちに向かって笑いかけると、安心させるように言った。
「みんな、この方はだいじょうぶよ。食事を続けなさい」
一見頼り無さそうだが子供たちからは全幅の信頼を置かれているらしいサーシャの言葉に、皆ほっとしたように肩の力を抜き、すぐさま食堂に喧騒が戻った。その中を丸テーブルまで歩いてきた女性プレイヤーは、サーシャから椅子を勧められると軽く一礼してそれに腰掛けた。
事情が飲み込めず、視線でキリトに問い掛けると、椅子に座った彼も首を傾げながらアスナに向かって言った。
「ええと、この人はユリエールさん。どうやら俺たちに話しがあるらしいよ」
ユリエールと紹介された銀髪の鞭使いは、まっすぐな視線を一瞬アスナに向けたあと、ぺこりと頭を下げて口を開いた。
「はじめまして、ユリエールです。ギルドALFに所属してます」
「ALF?」
初めて聞く名にアスナが問い返すと、女性は小さく首をすくめた。
「あ、すみません。アインクラッド解放軍、の略です。その名前はどうも苦手で……」
女性の声は、落ち着いた艶やかなアルトだった。常々自分の声が子供っぽいと思っているアスナはさらに穏やかでない気分になりながら、挨拶を返す。
「はじめまして。私はギルド血盟騎士団の――あ、いえ、今は脱退中なんですが、アスナと言います。この子はユイ」
時間をかけてスープの皿を空にし、シトラスジュースに挑んでいる最中だったユイは、ふいっと顔を上げるとユリエールを注視した。わずかに首を傾げるが、すぐにニコリと笑い、視線を戻す。
ユリエールは、血盟騎士団の名を聞くと、わずかに目を見張った。
「KoB……。なるほど、道理で連中が軽くあしらわれるわけだ」
連中、というのが昨日の暴行恐喝集団のことだと悟ったアスナは、ふたたび警戒心を強めながら言った。
「……つまり、昨日の件で抗議に来た、ってことですか?」
「いやいや、とんでもない。その逆です、よくやってくれたとお礼を言いたいくらい」
「……」
事情が飲み込めず沈黙するキリトとアスナに向かって、ユリエールは姿勢を正して話しはじめた。
「今日は、お二人にお願いがあって来たのです。最初から、説明します。ALF……、軍というのは、昔からそんな名前だったわけじゃないんです……」
「軍が今の名前になったのは、かつてのサブリーダーで今の軍の実質的支配者、キバオウという男が実権を握ってからのことです……。最初はギルドMTDって名前で……、聞いたこと、ありませんか?」
アスナは覚えが無かったが、キリトは軽くうなずいて言った。
「MMOトゥデイだろう。SAO開始当時、日本最大のネットゲーム情報サイトだった……。ギルドを結成したのは、そこの管理者だったはずだ。たしか、名前は……」
「シンカー」
その名前を口にしたとき、ユリエールの顔がわずかに歪んだ。
「彼は……決して今のような、独善的な組織を作ろうとしたわけじゃないんです。ただ、情報とか、食料とかの資源をなるべく多くのプレイヤーで均等に分かち合おうとしただけで……」
そのへんの、「軍」の理想と崩壊についてはアスナも伝え聞いて知っていた。多人数でモンスター狩りを行い、危険を極力減らした上で安定した収入を得てそれを均等に分配しようという思想それ自体は間違っていない。だがMMORPGの本質はプレイヤー間でのリソースの奪い合いであり、それはSAOのような異常かつ極限状況にあるゲームにおいても変わらなかった。いや、むしろだからこそ、と言うべきか。
ゆえに、その理想を実現するためには、組織の現実的な規模と強力なリーダーシップが必要であり、その点において軍はあまりにも巨大すぎたのだ。得たアイテムの秘匿が横行し、粛清、反発が相次ぎ、リーダーは徐々に指導力を失っていった。
「そこに台頭してきたのがキバオウという男です」
ユリエールは苦々しい口調で言った。
「彼は、体制の強化を打ち出して、ギルドの名前をアインクラッド解放軍に変更させ、さらに公認の方針として犯罪者狩りと効率のいいフィールドの独占を推進しました。それまで、一応は他のギルドとの友好も考え狩場のマナーは守ってきたのですが、人数を傘にきて長時間の独占を続けることでギルドの収入は激増し、キバオウ一派の権力はどんどん強力なものとなっていったのです。最近ではシンカーはほとんど飾り物状態で……。キバオウ派のプレイヤー達は調子に乗って、街区圏内でも徴税、と称して恐喝まがいの行為を繰り返すようにすらなっていました。昨日、あなた方が痛い目に会わせたのはそんな連中の急先鋒だった奴等です」
ユリエールは一息つくと、サーシャの淹れたお茶をひとくち含み、続けた。
「でも、キバオウ派にも弱みはありました。それは、資財の蓄積だけにうつつを抜かして、ゲーム攻略をないがしろにし続けたことです。本末転倒だろう、という声が末端のプレイヤーの間で大きくなって……。その不満を抑えるため、最近キバオウは無茶な博打に打って出ました。ギルドの中で、もっともハイレベルのプレイヤー十数人で攻略パーティーを作って、最前線のボス攻略に送り出したんです」
アスナは、思わずキリトと顔を見合わせた。74層迷宮区で散ったコーバッツの一件は記憶に新しいところだ。
「いかにハイレベルと言っても、もともと私達は攻略組の皆さんに比べれば力不足は否めません。パーティーは敗退、隊長は死亡という最悪の結果になり、キバオウはその無謀さを強く糾弾されたのです。もう少しで彼を追放できるところまで行ったのですが……」
ユリエールは高い鼻梁にしわを寄せ、唇を噛んだ。
「こともあろうに、キバオウはシンカーをだまして、回廊結晶を使って彼をダンジョンの奥深くに放逐してしまったのです。ギルドリーダーの証である『約定のスクロール』を操作できるのはシンカーとキバオウだけ、このままではギルドの人事や会計まですべてキバオウにいいようにされてしまいます。むざむざシンカーを罠にかけさせてしまったのは彼の副官だった私の責任、私は彼を救出に行かなければなりません。でも、彼が幽閉されたダンジョンはとても私のレベルでは突破できません。そこに、昨日、恐ろしく強い二人組みが街に現れたという話を聞きつけ、いてもたってもいられずに、お願いに来た次第です。キリトさん――アスナさん」
ユリエールは深々と頭を下げ、言った。
「どうか、私と一緒にシンカーを救出に行ってください」
長い話を終え、口を閉じたユリエールの顔を、アスナはじっと見つめた。悲しいことだが、SAO内では他人の言うことをそう簡単に信じることはできない。今回のことにしても、キリトとアスナを圏外におびきだし、危害を加えようとする陰謀である可能性は捨てきれない。通常は、ゲームに対する十分な知識さえあれば、騙そうとする人間の言うことにはどこか綻びが見つかるものだが、残念ながらアスナ達は『軍』の内情に関してあまりにも無知すぎた。
キリトと一瞬目を見交わして、アスナは重い口を開いた。
「――わたしたちに出来ることなら、力を貸して差し上げたい――と思います。でも、その為には、こちらで最低限のことを調べてあなたのお話の裏付けをしないと……」
「それは――当然、ですよね……」
ユリエールはわずかにうつむいた。
「無理なお願いだってことは、私にもわかってます……。でも……『生命の碑』の、シンカーの名前の上に、いつ線が刻まれるかと思うともうおかしくなりそうで……」
銀髪の鞭使いの、気丈そうなくっきりとした瞳がうるむのを見て、アスナの気持ちは揺らいだ。信じてあげたい、と痛切に思う。しかし同時に、この世界で過ごした二年間の経験は、感傷で動くことの危うさへ大きく警鐘を鳴らしている。
キリトを見やると、彼もまた迷っているようだった。じっとこちらを見つめる黒い瞳は、ユリエールを助けたいという気持ちと、アスナの身を案じる気持ちの間で揺れる心を映している。
――その時だった。今まで沈黙していたユイが、ふっとカップから顔を上げ、言った。
「だいじょうぶだよ、ママ。その人、うそついてないよ」
アスナはあっけにとられ、キリトと顔を見合わせた。発言の内容もさることながら、昨日までの言葉のたどたどしさが嘘のような立派な日本語である。
「ユ……ユイちゃん、そんなこと、わかるの……?」
顔を覗き込むようにして問いかけると、ユイはこくりと頷いた。
「うん。うまく……言えないけど、わかる……」
その言葉を聞いたキリトは右手を伸ばし、ユイの頭をくしゃくしゃと撫でた。アスナを見て、にやっと笑う。
「疑って後悔するよりは信じて後悔しようぜ。行こう、きっとうまくいくさ」
「あいかわらずのんきな人ねえ」
首を振りながら答えると、アスナはユリエールに向き直って微笑みかけた。
「……微力ですが、お手伝いさせていただきます。大事な人を助けたいって気持ち、わたしにもよくわかりますから……」
ユリエールは、空色の瞳に涙を溜めながら、深々と頭を下げた。
「ありがとう……ありがとうございます……」
「それは、シンカーさんを救出してからにしましょう」
アスナがもういちど笑いかけると、いままで黙って事態のなりゆきを見守っていたサーシャがぽんと両手を打ち合わせ、言った。
「そういうことなら、しっかり食べていってくださいね! まだまだありますから、ユリエールさんもどうぞ」
初冬の弱々しい陽光が、深く色づいた街路樹の梢を透かして石畳に薄い影を作っている。『はじまりの街』の裏通りは行き交う人もごく少なく、無限とも思える街の広さとあいまって寒々しい印象を隠せない。
しっかり武装したアスナと、ユイを抱いたキリトは、ユリエールの先導に従って足早に街路を進んでいた。
アスナは、当然のこととしてユイをサーシャに預けてこようとしたのだが、ユイが頑固に一緒に行くと言って聞かなかったので、やむなく連れてきたのだ。無論、ポケットにはしっかりと転移結晶を用意している。いざとなれば――ユリエールには申し訳ないが――離脱して仕切りなおす手はずになっている。
「あ、そう言えば肝心なことを聞いてなかったな」
キリトが、前を歩くユリエールに話し掛けた。
「問題のダンジョンってのは何層にあるんだ?」
ユリエールの答えは簡素だった。
「ここ、です」
「……?」
アスナは思わず首をかしげる。
「ここ……って?」
「この、始まりの街の……中心部の地下に、大きなダンジョンがあるんです。シンカーは……多分、その一番奥に……」
「マジかよ」
キリトがうめくように言った。
「ベータテストの時にはそんなのなかったぞ。不覚だ……」
「そのダンジョンの入り口は、王宮――軍の本拠地の地下にあるんです。発見されたのは、キバオウが実権を握ってからのことで、彼はそこを自分の派閥で独占しようと計画しました。長い間シンカーにも、もちろん私にも秘密にして……」
「なるほどな、未踏破ダンジョンには一度しか湧出しないレアアイテムも多いからな。そざかし儲かったろう」
「それが、そうでもなかったんです」
ユリエールの口調が、わずかに痛快といった色合いを帯びる。
「基部フロアにあるにしては、そのダンジョンの難易度は恐ろしく高くて……。基本配置のモンスターだけでも、60層相当くらいのレベルがありました。キバオウ自身が率いた先遣隊は、散々追いまわされて、命からがら転移脱出するはめになったそうです。使いまくったクリスタルのせいで大赤字だったとか」
「ははは、なるほどな」
キリトの笑い声に笑顔で応じたユリエールだが、すぐに沈んだ表情を見せた。
「でも、今は、そのことがシンカーの救出を難しくしています。キバオウが使った回廊結晶は、先遣隊がマークしたものなんですが、モンスターから逃げ回ってるうちに相当奥まで入り込んだらしくて……。レベル的には、一対一なら私でもどうにか倒せなくもないモンスターなんですが、連戦はとても無理です。――失礼ですが、お二人は……」
「ああ、まあ、60層くらいなら……」
「なんとかなると思います」
キリトの言葉を引き継ぎ、アスナは頷いた。60層配置のダンジョンを、マージンを十分取って攻略するのに必要なレベルは70だが、現在アスナはレベル87に到達し、キリトに至っては90を超えている。これならユイを守りながらでも十分にダンジョンを突破できるだろうと思って、ほっと肩の力を抜く。だがユリエールは気がかりそうな表情のまま、言葉を続けた。
「……それと、もう一つだけ気がかりなことがあるんです。先遣隊に参加していたプレイヤーから聞き出したんですが、ダンジョンの奥で……巨大なモンスター、ボス級の奴を見たと……」
「……」
アスナは、キリトと顔を見合わせる。
「ボスも60層くらいの奴なのかしら……。60層ボスってどんなのだったっけ?」
「えーと、確か……四本腕の、でっかい鎧武者みたいな奴だろう」
「あー、アレかぁ。……あんまり苦労はしなかったよね……」
ユリエールに向かって、もう一度頷きかける。
「まあ、それも、なんとかなるでしょう」
「そうですか、よかった!」
ようやく口許をゆるめたユリエールは、何かまぶしい物でも見るように目を細めながら、言葉を続けた。
「そうかぁ……。お二人は、ずっとボス戦を経験してらしてるんですね……。すみません、貴重な時間を割いていただいて……」
「いえ、今は休暇中ですから」
アスナはあわてて手を振る。
そんな話をしているうち、前方の街並みの向こうに巨大な白亜の建築物が姿を現しはじめた。四つの尖塔が、次層の底に接するほどの勢いでそびえ立っている。始まりの街最大の施設、通称『王宮』だ。ゲームが通常どおり運営されれば、何らかのイベントなりクエストなりが行われる場所だったのだろうが、開始直後からほぼ無人であり現在では軍が本拠地として占拠している。ゲート広場を挟んで向かい側にある漆黒の宮殿『黒鉄宮』にはプレイヤーの名簿である『生命の碑』があるためアスナも数回訪れたことがあるが、王宮にはいまだかつて一度も足を踏み入れたことはない。
ユリエールはまっずぐ王宮の正門には向かわず、広場をぐるりと迂回して城の裏手に回った。巨大な城壁と、それを取り巻く深い堀が、侵入者を拒むべくどこまでも続いている。人通りはまったく無い。
数分歩き続けたあと、ユリエールが立ち止まったのは、道から堀の水面近くまで階段が降りている場所だった。覗き込むと、階段の先端右側の石壁に暗い通路がぽっかりと口を開けている。
「ここから城の下水道に入り、ダンジョンの入り口を目指します。ちょっと暗くて狭いんですが……」
ユリエールはそこで言葉を切り、気がかりそうな視線をちらりとキリトの腕の中のユイに向けた。するとユイは心外そうに顔をしかめ、
「ユイ、こわくないよ!」
と主張した。その様子に、アスナは思わず微笑を洩らしてしまう。
ユリエールには、ユイのことは「一緒に暮らしているんです」としか説明していない。彼女もそれ以上のことは聞こうとしなかったのだが、さすがにダンジョンに伴うのは不安なのだろう。
アスナは安心させるように言った。
「大丈夫です、この子、見た目よりずっとしっかりしてますから」
「うむ。きっと将来はいい剣士になる」
キリトの発言に、アスナと目を見交わして笑うと、ユリエールは大きくひとつ頷いた。
「では、行きましょう!」
「でええええええええ」
右手の剣でずば―――っとモンスターを切り裂き、
「りゃあああああああ」
左の剣でどか―――んと吹き飛ばす。
久々に二刀を装備したキリトは、休暇中に貯まったエネルギーをすべて放出する勢いで次々と敵を蹂躙しつづけた。ユイの手を引くアスナと、金属鞭を握ったユリエールには出る幕がまったくない。全身をぬらぬらした皮膚で覆った巨大なカエル型モンスターや、黒光りするハサミを持ったザリガニ型モンスターなどで構成される敵集団が出現する度に、無謀なほどの勢いで突撃しては暴風雨のように左右の剣でちぎっては投げ、ちぎっては投げであっという間に制圧してしまう。
アスナは「やれやれ」といった心境だが、ユリエールは目と口を丸くしてキリトのバーサーカーっぷりを眺めている。彼女の戦闘の常識からは余りにかけ離れた光景なのだろう。ユイが無邪気な声で「パパーがんばれー」と声援を送っているので尚更緊迫感が薄れる。
暗く湿った地下水道から、黒い石造りのダンジョンに侵入してすでに数十分が経過していた。予想以上に広く、深く、モンスターの数も多かったが、キリトの二刀がゲームバランスを崩壊させる勢いで振り回されるため女性三人には疲労はまるでない。
「な……なんだか、すみません、任せっぱなしで……」
申し訳なさそうに首をすくめるユリエールに、アスナは苦笑しながら答えた。
「いえ、あれはもう病気ですから……。やらせときゃいいんですよ」
「なんだよ、ひどいなぁ」
群を蹴散らして戻ってきたキリトが、耳ざとくアスナの言葉を聞きつけて口を尖らせた。
「じゃあ、わたしと代わる?」
「……も、もうちょっと」
アスナとユリエールは顔を見合わせて笑ってしまう。
銀髪の鞭使いは、左手を振ってマップを表示させると、シンカーの現在位置を示すフレンドマーカーの光点を示した。このダンジョンのマップが無いため、光点までの道は空白だが、もう全体の距離の七割は詰めている。
「シンカーの位置は、数日間動いていません。多分安全エリアにいるんだと思います。そこまで到達できれば、あとは結晶で離脱できますから……。すみません、もう少しだけお願いします」
ユリエールに頭を下げられ、キリトは慌てたように手を振った。
「い、いや、好きでやってるんだし、アイテムも出るし……」
「へえ」
アスナは思わず聞き返した。
「何かいいもの出てるの?」
「おう」
キリトが手早くウインドウを操作すると、その表面に、どちゃっという音を立てて赤黒い肉塊が出現した。グロテスクなその質感に、アスナは顔を引き攣らせる。
「な……ナニソレ?」
「カエルの肉! ゲテモノなほど旨いって言うからな、あとで料理してくれよ」
「ぜったい嫌よ!!」
アスナは叫ぶと、自分もウインドウを開いた。キリトのそれと共通になっているアイテム欄に移動し、『スカベンジトードの肉 ×24』という表示をドラッグして容赦なくゴミ箱マークに放り込む。
「あっ! あああぁぁぁ……」
世にも情けない顔で悲痛な声を上げるキリトを見て、我慢できないといったふうにユリエールがお腹をおさえ、くっくっと笑いを洩らした。その途端。
「お姉ちゃん、初めて笑った!」
ユイが嬉しそうに叫んだ。彼女も満面の笑みを浮べている。
それを見て、アスナはそういえば――、と思い返すことがあった。昨日、ユイが発作を起こしたのも、軍の連中を撃退し、子供たちが一斉に笑った直後だった。どうやら少女は周囲の人の笑顔に特別敏感らしいと思われる。それが少女の生来の性格なのか、あるいは今までずっと辛い思いをしてきたからなのか――。アスナは思わずユイを抱き上げ、ぎゅっと抱きしめた。いつまでも、この子の隣で笑っていようと心の中で誓う。
「さあ、先に進みましょう!」
アスナの声に、一行は再びさらなる深部を目指して足を踏み出した。
ダンジョンに入ってからしばらくは水中生物型が主だったモンスター群は、階段を降りるほどにゾンビだのゴーストタイプのオバケ系統に変化し、アスナの心胆を激しく寒からしめたが、キリトの二本の剣は意に介するふうもなく現れる敵を瞬時に屠りつづけた。
通常では、高レベルプレイヤーが適正以下の狩場で暴れるのはとても褒められたことではないが、今回は他に人もいないので気にする必要はない。時間があればサポートに徹してユリエールのレベルアップに協力するところだが、今はシンカー救出が最優先である。
マップに表示される、現在位置とシンカーの位置を示す二つの光点は着実な速度で近づいてゆき、やがて何匹目ともしれぬ黒い骸骨剣士をキリトの剣がばらばらに吹き飛ばしたその先に、一際明るい、暖かな光の漏れる通路が目に入った。各ダンジョンで共通の色あいとなっているそのオレンジ色は、間違いなく安全エリアの照明だ。
「シンカー!」
もう我慢できないというふうに一声叫んだユリエールが、金属鎧を鳴らして走りはじめた。剣を両手に下げたキリトと、ユイを抱いたアスナもあわててその後を追う。
右に湾曲した通路を、明かり目指して数秒間走ると、やがて前方に大きな十字路と、その先にある部屋が目に入った。
部屋は、暗闇に慣れた目にはまばゆいほどの光に満ち、その入り口に一人の男が立っている。逆光のせいで顔は良く見えないが、こちらに向かって激しく両腕を振り回している。
「ユリエ―――――ル!!」
こちらの姿を確認した途端、男が大声で鞭使いの名を呼んだ。ユリエールも左手を振り、一層走る速度を速める。
「シンカ――――!!」
涙まじりのその呼び声にかぶさるように、男の声が――
「――来ちゃだめだ――――ッ!! その通路は……ッ!!」
それを聞いて、アスナはぎょっとして走る速度をゆるめた。だがユリエールにはもう聞こえていないらしい。部屋に向かって必死に駆け寄っていく。
その時。
部屋の手前数メートルで、三人の走る通路と直角に交わっている道の右側死角部分に、不意に黄色いカーソルが出現した。一つだけだ。アスナは慌てて名前を確認する。表示は『The Soulslasher』――。
「だめ――っ!! ユリエールさん、戻って!!」
アスナは絶叫した。間違いなくボスモンスターだ。黄色いカーソルは、すうっと左に動き、十字の交差点へ近づいてくる。このままでは出会い頭にユリエールと衝突する。もうあと数秒もない。
「くっ!!」
突然、アスナの左前方を走っていたキリトが、かき消えた――ように見えた。実際には恐ろしい速度でダッシュしたのだ。ずばんという衝撃音で周囲の壁が振動する。
瞬間移動にも等しい勢いで数メートルの距離を移動したキリトは、背後から右手でユリエールの体を抱きかかえると、左手の剣を床石に思い切り突き立てた。すさまじい金属音。大量の火花。空気が焦げるほどの急制動をかけ、十字路のぎりぎり手前で停止した二人の直前の空間を、ごおおおおっと地響きを立てて巨大な黒い影が横切っていった。
黄色いカーソルは、左の通路に飛び込むと十メートルほど移動してから停止した。ゆっくりと向きを変え、再び突進してくる気配。
キリトはユリエールの体を離すと、床に突き刺さった剣を抜き、左の通路に飛び込んでいった。アスナも慌ててその後を追う。
呆然と倒れるユリエールを抱え起こし、そのまま交差点の向こうへと押しやる。ユイも腕から降ろし、安全エリア側に進ませると、アスナは細剣を抜いて左方向へと向き直った。
二刀を構え、立ち止まったキリトの背中が目に入る。その向こうに浮いているのは――身長2メートル半はあろうかという、ぼろぼろの黒いローブをまとった骸骨だった。
フードの奥と、袖口からのぞく太い骨は濡れたような深紅に光っている。暗く穿たれた眼窩には、そこだけは生々しい、血管の浮いた眼球がはまり、ぎょろりと二人を見下ろしている。右手に握るのは長大な黒い鎌だ。凶悪に湾曲した、鈍く光る刃からは、ぽたりぽたりと粘っこい赤い雫が垂れ落ちている。いわゆる死神の姿そのものである。
死神の眼球がぐるりと動き、まっすぐにアスナを見た。その途端純粋な恐怖に心臓を鷲掴みにされたような悪寒が全身を貫く。
でも、レベル的にはたいしたことないはず。
そう思って細剣を構えなおしたとき、前に立つキリトがかすれた声で言った。
「アスナ、いますぐ他の三人を連れて安全エリアに入って、クリスタルで脱出しろ」
「え……?」
「こいつ、やばい。俺の識別スキルでもデータがわからない。強さ的には90層クラスだ……」
「!?」
アスナも息を飲んで体をこわばらせる。その間にも、死神は徐々に空中を移動し、二人に近づいてくる。
「俺が時間を稼ぐから、早く逃げろ!!」
「き、キリトくんも、一緒に……」
「後から行く! 早く……!!」
最終的離脱手段である転移結晶も、万能の道具ではない。クリスタルを握り、転移先を指定してから実際にテレポートが完了するまで、数秒間のタイムラグが発生する。その間にモンスターの攻撃を受けると転移がキャンセルされてしまうのだ。パーティーの統制が崩壊し、勝手な離脱をするものが現れるとテレポートの時間すら稼げず死者が出てしまうのはそういう理由による。
アスナは迷った。四人が先に転移してからでも、キリトの脚力をもってすれば、ボスに追いつかれることなく安全エリアまで到達できるかもしれない。しかし先程のボスの突進速度はすさまじいものだった。もし――先に脱出して、そのあと、彼が現れなかったら――。それだけは耐えられない。
アスナはちらりと後ろを振り返った。こちらを見つめるユイと視線が合った。
ごめんね、ユイちゃん。ずっと一緒だって言ったのにね……。
心の中でつぶやき、アスナは叫んだ。
「ユリエールさん、ユイを頼みます! 三人で脱出してください!」
凍りついた表情でユリエールが首を振る。
「だめよ……そんな……」
「はやく!!」
その時だった。ゆっくりと鎌を振りかぶった死神が、ローブから瘴気を撒き散らしながら恐ろしい勢いで突進を開始した。
キリトが両手の剣を十字に構え、アスナの前に仁王立ちになった。アスナは必死にその背中に抱きつき、右手の剣をキリトの二刀に合わせた。死神は、三本の剣を意に介さず、大鎌を二人の頭上めがけて叩き降ろしてきた。
赤い閃光。衝撃。
アスナは自分がぐるぐると回転するのを感じた。まず地面に叩きつけられ、跳ね返って天井に激突し、再び床へと落下する。呼吸が止まり、視界が暗くなる。
朦朧とした意識のままキリトと自分のHPバーを確認すると、両方とも一撃で半分を割り込んでいた。無情なイエロー表示は、次の攻撃には耐え切れないことを意味している。立ち上がらないと――。そう思うが、体が動かない――。
――と、不意に、傍らに立つ人影があった。小さなその姿。長い黒髪。背後にいたはずのユイだった。恐れなど微塵もない視線でまっすぐ巨大な死神を見据えている。
「ばかっ!! はやく、逃げろ!!」
必死に上体を起こそうとしながら、キリトが叫んだ。死神はふたたびゆっくりとしたモーションで鎌を振りかぶりつつある。あれほどの範囲攻撃に巻き込まれたら、ユイのHPは確実に消し飛んでしまう。アスナもどうにか口を動かそうとした。だが唇がこわばって言葉が出ない。
だが、次の瞬間、信じられないことが起こった。
「だいじょうぶだよ、パパ、ママ」
言葉と同時に、ユイの体がふわりと宙に浮いた。ジャンプしたのではない。見えない羽根で舞い上がるように移動し、二メートルほどの高さでぴたりと静止した。次いで、右手を高くかかげる。
ごうっ!! という轟音と共に、ユイの右手を中心に紅蓮の炎が巻き起こった。炎は一瞬広く拡散したあとすぐに凝縮し、細長い形にまとまり始めた。みるみるうちにそれは巨大な剣へと姿を変えていく。焔色に輝く刀身が炎の中から現れ、後方へと伸び続ける。
やがてユイの右手に出現した巨剣は、優に彼女の身長を上回る長さを備えていた。熔融する寸前の金属のような輝きが通路を照らし出す。剣の炎にあおられるように、ユイの身に着けていた分厚い冬服が一瞬にして燃え落ちた。その下からは彼女が最初から着ていた白いワンピースが現れる。不思議なことに、ワンピースも、長い黒髪も炎に巻かれながらも影響を受ける様子は一切無い。
自分の身の丈を超える剣を、ぶん、と一回転させ――
「いやああああああ!!」
炎の軌道を描きながら、ユイは恐るべきスピードで黒い死神へと撃ちかかった。
あくまでCPUが単純なアルゴリズムに基づいて動かしているにすぎないボスモンスター、その血走った眼球に、アスナは明らかな恐怖の色を見た――ような気がした。
炎の渦を身にまとったユイが、轟音とともに空中を突進していく。死神は、自分よりはるかに小さな少女を恐れるかのように大鎌を前方に掲げ、防御の姿勢をとった。そこに向かって、ユイは真っ向正面から巨大な火焔剣を思い切り撃ち降ろした。
一際激しく炎を噴く刀身が、横に掲げられた大鎌の柄と衝突した。一瞬両者の動きが止まる。
と思う間もなく、再びユイの火焔剣が動き始めた。途方も無い熱量で金属を灼き切るがごとく、じわじわと赤い鎌の柄に発光する刃が食い込んでいく。ユイの長い髪とワンピース、そして死神のローブが千切れんばかりの勢いで後方にたなびき、時折飛び散る巨大な火花がダンジョン内を明るいオレンジ色に染め上げる。
やがて――。
轟、という爆音とともに、とうとう死神の鎌が真っ二つに断ち割られた。直後、いままで蓄積していたエネルギーすべてを解き放ちながら、炎の柱と化した巨剣がボスの頭蓋骨の中央へと叩きつけられた。
「!!」
アスナとキリトは、その瞬間出現した大火球のあまりの勢いに、思わず目を細めて腕で顔をかばった。ユイが剣を一直線に振り下ろすと同時に火球が炸裂し、紅蓮の渦は巨大な死神の体を巻き込みながら通路の奥へとすさまじい勢いで流れ込んでいった。大轟音の裏に、かすかな断末魔の悲鳴が響いた。
火炎のあまりのまばゆさに思わず閉じてしまった目を開けると、そこにはもうボスの姿は無かった。通路のそこかしこに小さな残り火がゆらめき、ぱちぱちと音を立てている。その真っ只中に、ユイひとりだけがうつむいて立ち尽くしていた。床に突き立った火焔剣が、出現したときと同じように炎を発しながら溶け崩れ、消滅した。
アスナは、ようやく力の戻った体を起こし、細剣を支えにゆっくりと立ち上がった。わずかに遅れてキリトも立つ。二人はよろよろと少女に向かって数歩あゆみ寄った。
「ユイ……ちゃん……」
アスナがかすれた声で呼びかけると、少女はゆっくりと振り向いた。小さな唇は微笑んでいたが、大きなふたつの瞳にはいっぱいに涙が溜まっていた。
ユイは、じっとアスナとキリトを見つめると、やがて口を開き、ゆっくりと言った。
「パパ……ママ……。ぜんぶ、思い出したよ……」
王宮地下迷宮最深部、安全エリアとなっている正方形の部屋。入り口は一つで、中央にはつるつるに磨かれた黒い立方体の石机が設置されている。
アスナとキリトは、石机にちょこんと腰掛けたユイを無言のまま見つめていた。ユリエールとシンカーにはひとまず先に脱出してもらったので、今は三人だけだ。
記憶が戻った、とひとこと言ってから、ユイは数分間沈黙を続けていた。その表情はなぜか悲しそうで、言葉をかけるのがためらわれたが、アスナは意を決してそっと話し掛けた。
「ユイちゃん……。思い出したの……? いままでの、こと……」
ユイはなおもしばらくアスナを見つめつづけていたが、やがてこくりと頷いた。泣き笑いのような表情のまま、小さく唇を開く。
「はい……。全部、説明します――キリトさん、アスナさん」
その丁寧なことばを聞いた途端、アスナの胸はやるせない予感にぎゅっと締め付けられた。何かが終わってしまったのだという、切ない確信。
四角い部屋の中に、ユイの言葉がゆっくりと流れはじめた。
「この世界、『ソードアート・オンライン』は、ひとつの巨大な制御システムのもとに運営されています。システムの名前は『カーディナル』、それが、この世界のバランスを自らの判断に基づいて制御しているのです。
「カーディナルはもともと、人間のメンテナンスを必要としない存在として設計されました。二つのコアプログラムが相互にエラー訂正を行い、更に無数の下部プログラムによって世界のすべてを調整する……。モンスターやNPCのアクション、アイテムや通貨の出現バランス、何もかもがカーディナル指揮下のプログラム群に操作されています。――しかし、ひとつだけ人間の手に委ねなければならないものがありました。プレイヤーの精神性に由来するトラブル、それだけは同じ人間でないと解決できない……そのために、数十人規模のスタッフが用意される、はずでした」
「GM……」
キリトがぽつりと呟いた。
「ユイ、君はゲームマスターなのか……? アーガスのスタッフ……?」
ユイは数秒間沈黙したあと、ゆっくりと首を振った。
「……カーディナルとその開発者たちは、プレイヤーのケアすらもシステムに委ねようと、あるプログラムを試作したのです。ナーヴギアの特性を利用してプレイヤーの感情を詳細にモニターし、問題を抱えたプレイヤーのもとを訪れて話を聞く……。『メンタルヘルス・カウンセリングプログラム』、MHCP試作一号、コードネーム『Yui』。それがわたしです」
アスナは驚愕のあまり息をのんだ。言われたことを即座に理解できない。
「プログラム……? AIだっていうの……?」
かすれた声で問い掛ける。ユイは、悲しそうな笑顔のままゆっくりと頷いた。
「プレイヤーに違和感を与えないように、わたしには感情模倣機能が与えられています。――偽物なんです、ぜんぶ……この涙も……。ごめんなさい、アスナさん……」
ユイの両目から、ぽろぽろと涙がこぼれ、光の粒子となって蒸発した。アスナはゆっくりと一歩ユイのほうに歩み寄った。手を差し伸べるが、ユイはそっと首を振る――アスナの抱擁を受ける資格などないのだ――というように――。
いまだ信じることができず、アスナは言葉をしぼり出した。
「でも……でも、記憶がなかったのは……? AIにそんなこと起きるの……?」
「……二年前……。正式サービスが始まった日……」
ユイは瞳を伏せ、説明を続けた。
「何が起きたのかはわたしにも詳しくはわからないのですが、カーディナルが予定にない命令を下部プログラム群に下したのです。プレイヤーに対する一切の干渉禁止……。わたしの他のケア用プログラムは、不要なものとして全て消去されました。しかしわたしは試作品として正式に登録されていなかったためか、管理者権限を奪われただけで存在は残されたのです。
「プレイヤーへの接触が許されない状況で、わたしはやむなくプレイヤーのメンタル状態のモニターだけを続けました。状態は――最悪と言っていいものでした……。ほとんどすべてのプレイヤーは恐怖、絶望、怒りといった負の感情に常時支配され、時として狂気に陥る人すらいました。わたしはそんな人たちの心をずっと見つづけてきました。本来であればすぐにでもそのプレイヤーのもとに赴き、話を聞き、問題を解決しなくてはならない……しかしプレイヤーにこちらから接触することはできない……。義務だけがあり権利のない矛盾した状況のなか、わたしは徐々にエラーが蓄積し、崩壊していきました……」
しんとした地下迷宮の底に、銀糸を震わせるようなユイの細い声が流れる。アスナとキリトは、言葉もなく聞き入ることしかできない。
「ある日、いつものようにモニターしていると、他のプレイヤーとは大きく異なるメンタルパラメータを持つ二人のプレイヤーに気づきました。その脳波パターンはそれまで採取したことのないものでした……。喜び……やすらぎ……でもそれだけじゃない……。この感情はなんだろう、そう思ってわたしはその二人のモニターを続けました。会話や行動に触れるたび、わたしの中に不思議な欲求が生まれました……。そんなルーチンは無かったはずなのですが……。あの二人のそばに行きたい……直接、わたしと話をしてほしい……。すこしでも近くにいたくて、わたしは毎日、二人の暮らすプレイヤーホームから一番近いシステムコンソールで実体化し、彷徨いました……。その頃にはもうわたしはかなり壊れてしまっていたのだと思います……」
「それが、あの22層の森なの……?」
ユイはゆっくりと頷いた。
「はい。キリトさん、アスナさん……わたし、ずっと、お二人に……会いたかった……。森の中で、お二人の姿を見たとき……すごく、嬉しかった……。おかしいですよね、そんなこと、思えるはずないのに……。わたし、ただの、プログラムなのに……」
涙をいっぱいに溢れさせ、ユイは口をつぐんだ。アスナは言葉にできない感情に打たれ、両手を胸の前でぎゅっと握った。
「ユイちゃん……あなたは、ほんとうのAIなのね。ほんものの知性を持っているんだね……」
ささやくように言うと、ユイはわずかに首を傾けて答えた。
「わたしには……わかりません……。わたしが、どうなってしまったのか……」
その時、いままで沈黙していたキリトがゆっくりと進み出てきた。
「知性とは……自己の相対化ができるということだ。自分の望みを言葉にできるということだよ」
柔らかい口調で話し掛ける。
「ユイの望みはなんだい?」
「わたし……わたしは……」
ユイは、細い腕をゆっくりと二人のほうに伸ばした。
「ずっと、いっしょにいたいです……パパ……ママ……!」
アスナは溢れる涙をぬぐいもせず、ユイに駆け寄るとその小さな体をぎゅっと抱きしめた。
「ずっと、一緒だよ、ユイちゃん」
少し遅れて、キリトの腕もユイとアスナを包み込む。
「ああ……。ユイは俺たちの子供だ。家に帰ろう。みんなで暮らそう……いつまでも……」
だが――ユイは、アスナの胸のなかで、そっと首を振った。
「え……」
「もう……遅いんです……」
キリトが、戸惑ったような声でたずねる。
「なんでだよ……遅いって……」
「この場所は、ただの安全エリアじゃないんです……。GMがシステムにアクセスするために設置されたコンソールなんです」
ユイがちらりと視線を向けると、部屋の中央の黒い石に突然数本の光の筋が走った。直後、ぶん……と音を立てて表面に青白いホロキーボードが浮かび上がる。
「さっきのボスモンスターは、ここにプレイヤーを近づけないように配置されたものだと思います。わたしはこのコンソールからカーディナルにアクセスし、オブジェクトイレイサーを呼び出してモンスターを消去しました。その時にカーディナルのエラー訂正機能で破損したデータを復元できたのですが……それは同時に、いままで管理外にあったわたしにカーディナルが注目してしまったということでもあります。今、コアシステムがわたしのプログラムを走査しています。すぐに異物という結論が出され、わたしは消去されてしまうでしょう。もう……あまり時間がありません……」
「そんな……そんなの……」
「なんとかならないのかよ! この場所から離れれば……」
二人の言葉にも、ユイは黙って微笑するだけだった。ふたたびユイの白い頬を涙が伝った。
「パパ、ママ、ありがとう。これでお別れです」
「嫌! そんなのいやよ!!」
アスナは必死に叫んだ。
「これからじゃない!! これから、みんなで楽しく……仲良く暮らそうって……」
「暗闇の中……いつ果てるとも知れない長い苦しみの中で、パパとママの存在だけがわたしを繋ぎとめてくれた……」
ユイはまっすぐにアスナを見つめた。その体を、かすかな光が包み始めた。
「ユイ、行くな!!」
キリトがユイの手を握る。ユイの小さい指が、そっとキリトの指を掴む。
「パパとママのそばにいると、みんなが笑顔になれた……。わたし、それがとっても嬉しかった。お願いです、これからも……わたしのかわりに……みんなを助けて……喜びを分けてください……」
ユイの黒髪やワンピースが、その先端から光の粒子を撒き散らして消滅をはじめた。ユイの笑顔がゆっくりと透き通っていく。重さが薄れていく。
「やだ! やだよ!! ユイちゃんがいないと、わたし笑えないよ!!」
溢れる光に包まれながら、ユイはにこりと笑った。消える寸前の手がそっとアスナの頬を撫でた。
『ママ、わらって……』
アスナの頭の中にかすかな声が響くと同時に、ひときわまばゆく光が飛び散り、それが消えるともう、アスナの腕のなかはからっぽだった。
「うわあああああ!!」
抑えようもなく声を上げながら、アスナは膝をついた。石畳の上にうずくまって、子供のように大声で泣いた。つぎつぎと地面にこぼれ、はじける涙の粒が、ユイの残した光のかけらと混じり合い、消えていった。
ending epilogue 四日目
昨日までの冷え込みが嘘のような、あたたかい微風が芝生の上をそっと吹き抜けていく。陽気に誘われたのか、小鳥が数羽庭木の枝にとまり、人間たちの様子を興味深そうに見下ろしている。
サーシャの教会の広い前庭には、食堂から移動させた大テーブルが設置され、時ならぬガーデンパーティーが催されていた。大きなグリルから魔法のように料理が取り出されるたび、子供たちが盛大な歓声を上げる。
「こんな旨いものが……この世界にあったんですねえ……」
昨夜救出されたばかりの『軍』最高責任者シンカーが、アスナが腕を奮ったバーベキューにかぶりつきながら感激の表情で言った。隣ではユリエールがにこにこしながらその様子を眺めている。第一印象では冷徹な女戦士といった風情の彼女だったが、シンカーの横にいると陽気な若奥さんにしか見えない。
そのシンカーは、昨日は顔も見る余裕がなかったのだが、こうして改めて同じテーブルについてみると、とても巨大組織『軍』のトップとは思えない穏やかな印象の人物だった。
背はアスナより少し高い程度、ユリエールよりは明らかに低いだろう。やや太めの体を地味な色合いの服に包み、武装は一切していない。隣のユリエールも今日は軍のユニフォーム姿ではない。
シンカーは、キリトの差し出すワインのボトルをグラスで受け、改めて、という感じでぐっと頭を下げた。
「アスナさん、キリトさん。今回は本当にお世話になりました。何とお礼を言っていいか……」
「いや、俺も向こうでは『MMOトゥデイ』にずいぶん世話になりましたから」
笑みを浮べながらキリトが答える。
「なつかしい名前だな」
それを聞いたシンカーは丸顔をほころばせた。
「当時は、毎日の更新が重荷で、ニュースサイトなんてやるもんじゃないと思ってましたが、ギルドリーダーに比べればなんぼかマシでしたね。こっちでも新聞屋をやればよかったですよ」
テーブルの上に和やかな笑い声が流れる。
「それで……『軍』のほうはどうなったんですか……?」
アスナが訊ねると、シンカーは表情をあらためた。
「キバオウと彼の配下は除名しました。もっと早くそうすべきでしたね……。私の争いが苦手な性格のせいで、事態をどんどん悪くしてしまった。――軍自体も解散しようと思っています」
アスナとキリトは軽く目を見張った。
「それは……ずいぶん思い切りましたね」
「軍はあまりにも巨大化しすぎてしまいました……。ギルドを消滅させてから、改めてもっと平和的な互助組織を作りますよ。解散だけして全部投げ出すのも無責任ですしね」
ユリエールがそっとシンカーの手を握り、言葉を継いだ。
「――軍が蓄積した資財は、メンバーだけでなく、この街の全住民に均等に分配しようと思っています。いままで、酷い迷惑をかけてしまいましたから……。サーシャさん、ごめんなさいね」
いきなりユリエールとシンカーに深々と頭を下げられ、サーシャは眼鏡の奥で目をぱちくりさせた。慌てて顔の前で両手を振る。
「いえ、そんな。軍の、いいほうの人達にはフィールドで子供たちを助けてもらったこともありますから」
率直なサーシャの物言いに、再び場に和やかな笑いが満ちた。
「あの、それはそうと……」
首をかしげて、ユリエールが言った。
「昨日の女の子、ユイちゃん……はどうしたんですか……?」
アスナはキリトと顔を見合わせたあと、微笑しながら答えた。
「ユイは――お家に帰りました……」
右手の指をそっと胸元にもっていく。そこには、昨日まではなかった、細いネックレスが光っていた。華奢な銀鎖の先端には、同じく銀のペンダントヘッドが下がり、中央には大きな透明の石が輝いている。類滴型の宝石を撫でると、わずかなぬくもりが指先に沁みるような気がした。
あのとき――。
ユイが光に包まれて消滅したあと、石畳に膝をついてこらえようもなく涙をこぼすアスナの傍らで、不意にキリトが叫んだ。
「カーディナル!!」
涙に濡れた顔を上げると、キリトが部屋の天井を見据えて絶叫していた。
「そういつもいつも……思い通りになると思うなよ!!」
ぐいと腕で両目をぬぐうと、彼は突然部屋の中央の黒いコンソールに飛びついた。表示されたままのホロキーボードに猛烈な勢いで指を走らせ始める。
たちまちキリトの周囲には無数のウインドウが出現し、高速でスクロールする文字列の輝きが部屋を照らし出した。呆然とアスナが見守るなか、キリトの指はどんどん速度を上げ、キーボード全体に青白いスパークが閃きはじめた。
「行くな……ユイ……ユイ……!」
うわごとのように呟くキリトは、もう周囲のウィンドウを見てさえいない。両目を半眼に閉じ、直接システムと交信しているかのように思えた。
緊迫した数秒間が過ぎ去ったあと、不意に黒い岩でできたコンソール全体が青白くフラッシュし、直後、破裂音とともにキリトがはじき飛ばされた。
「キ、キリトくん!!」
あわてて床に倒れた彼のそばににじり寄る。
頭を振りながら上体を起こしたキリトは、憔悴した表情の中に薄い笑みを浮べると、アスナに向かって握った右手を伸ばした。わけもわからず、アスナも手を差し出す。
キリトの手からアスナの手のひらにこぼれ落ちたのは、大きな涙のかたちをしたクリスタルだった。複雑にカットされた石の中央では、とくん、とくんと白い光が瞬いている。
「こ、これは……?」
「――全部は無理だったけど……ユイのコアプログラム部分をどうにかシステムから切り離して、圧縮してオブジェクト化した……。ユイの心だよ、その中にある……」
それだけ言うと、キリトは力を使い果たしたように床にごろんところがり、目を閉じた。アスナは手の中の宝石を覗き込んだ。
「ユイちゃん……そこに、いるんだね……。わたしの……ユイちゃん……」
ふたたび、とめどなく涙が溢れ出した。ぼやける光の中で、アスナに答えるように、クリスタルの中心が一回、強くとくん、とまたたいた。
別れを惜しむサーシャ、ユリエール、シンカーと子供たちに手を振り、転移ゲートから22層に帰ってきたアスナとキリトを、森の香りがする冷たい風が迎えた。わずか三日の旅だったが、ずいぶん長く留守にしていたような気がして、アスナは胸いっぱいに空気を吸い込んだ。
なんという広い世界だろう――。
アスナはあらためてこの不思議な空中世界に思いを馳せた。無数にあるといっていい層ひとつひとつに、そこに暮らす人々がいて、泣いたり笑ったりしながら毎日を送っている。いや、大多数の人にとっては辛いことのほうがはるかに多いだろう。それでも、皆が自分の戦いをたたかっているのだ。
わたしの居る場所は……。
アスナは我が家へと続く小道を眺め、次いで上層の底を振り仰いだ。
――前線に戻ろう。不意にそう思った。
近いうち、わたしは再び剣を取り、わたしの戦場に戻らなくてはならない。いつまでかかるかわからないけど、この世界を終わらせて、みんながもう一度、本当の笑顔を取り戻せるまで戦うのだ。みんなに喜びを――。それが、ユイの望んだことなのだから。
「ね、キリトくん」
「ん?」
「もしゲームがクリアされて、この世界がなくなったら、ユイちゃんはどうなるの?」
「ああ……。容量的にはぎりぎりだけどな。俺のナーヴギアのローカルメモリに保存されるようになっている。向こうで、ユイとして展開させるのはちょっと大変だろうけど……きっとなんとかなるさ」
「そっか」
アスナは体の向きを変え、ぎゅっとキリトに抱きついた。
「じゃあ、向こうでまたユイちゃんに会えるんだね。わたしたちの、初めての子供に」
「ああ。きっと」
アスナは、二人の胸の間で輝くクリスタルを見下ろした。ママ、がんばって……。耳の奥に、かすかにそんな声が聞こえた気がした。
(Sword Art Online外伝2 『Four days』 終)
2009/07/26 23:18
二日目
朝の白い光の中でまどろむアスナの意識に、ゆっくりと穏やかな旋律が流れ込んでくる。オーボエによって奏でられる起床アラーム、曲は「Country Road」だ。アスナは覚醒直前の浮遊するような感覚の中、懐かしいメロディーに身をゆだねる。やがてストリングスの軽快な響きと、クラリネットの主旋律が重なり、そこにかすかな声でハミングが――。
(――ハミング?)
歌っているのは自分ではない。アスナはぱちりと目を開けた。
腕の中で、黒髪の少女が目蓋を閉じたまま――アスナの起床アラームに合わせてメロディーを口ずさんでいた。
一拍たりともずれていない。しかし、そんなことはあり得ない。アスナはアラームを自分にのみ聴こえるよう設定しているので、彼女の脳内のメロディーに合わせて歌うなどということは誰にも不可能だ。
だが、アスナはその疑問をとりあえず先送りすることにした。それよりも――。
「き、キリト君、キリトくんってば!!」
体を動かさないまま、背後のベッドに眠るキリトに呼びかける。やがて、むにゃむにゃという声と共にキリトが起き上がる気配がする。
「……おはよう。どうかしたかー?」
「早く、こっちに来て!」
床板を数歩あるく音。ひょいとアスナの体越しにベッドを覗き込み、すぐにキリトも息を飲んだ。
「歌ってる……!?」
「う、うん……」
アスナは腕の中の少女の体を軽く揺すりながら呼びかけた。
「ね、起きて……。目を、覚まして」
少女の唇の動きが止まった。やがて、長い睫毛がかすかに震え、ゆっくりと持ち上がった。
濡れたような黒い瞳が、至近距離からまっすぐにアスナの目を射た。ぱちぱちと数度まばたきして、ふたたび色の薄い唇がゆっくりと動く。
「あ……う……」
少女の声は、極薄の銀器を鳴らすような、はかなく美しい響きだった。アスナは少女を抱いたままゆっくりと体を起こした。
「……よかった、目が覚めたのね。自分がどうなったか、わかる?」
言葉をかけると、少女は数秒のあいだ口をつぐみ、やがてゆっくりと首を振った。
「そう……。お名前は? 言える?」
「……な……まえ……。あた……しの……なまえ……」
少女が首をかしげると、艶やかな黒髪がふわりと動き、頬にかかる。
「ゆ……い。ゆい。それが……なまえ……」
「ユイちゃんか。いい名前だね。わたしはアスナ。この人はキリトよ」
アスナがキリトのほうを示すと、ユイと名乗る少女の視線も動いた。アスナと、中腰で身を乗り出すキリトを交互に見て、口を開ける。
「あ……うな。き……と」
たどたどしく唇が動き、切れ切れの音が発せられる。アスナは、昨夜感じた危惧がふたたびよみがえるのを感じていた。少女の外見は少なくとも八歳程度、ログインから経過した時間を考えれば現在の実年齢は十歳ほどには達していると思われる。しかし少女のおぼつかない言葉の様子は、まるで物心ついたばかりの幼児のようだ。
「ね、ユイちゃん。どうして22層にいたの? どこかに、お父さんかお母さんはいないの?」
ユイは目を伏せ、黙り込んだ。しばらく沈黙が続いたあと、ゆっくりと首を振る。
「わかん……ない……。なん……にも、わかんない……」
抱き上げて食卓の椅子に座らせ、暖めて甘くしたミルクを与えると、少女はカップを両手で抱えるようにしてゆっくりと飲み始めた。その様子を目の端で見ながら、すこし離れた場所でアスナはキリトと意見を交換することにした。
「ね、キリト君。どう思う……?」
キリトは厳しい顔で唇を噛んでいたが、やがて俯いて言った。
「記憶は……ないようだな……。でも、それより……あの様子だと、精神に……ダメージが……」
「そう……思うよね、やっぱ……」
「くそっ」
キリトの顔が、泣き出す寸前のように歪む。
「この世界で……色々、酷いことも見てきたけど……こんなの……最悪だ。残酷すぎるよ……」
その瞳が濡れているのを見ると、アスナの胸にも突き上げてくるものがあった。両腕でぎゅっとキリトの体を包み込み、言う。
「泣かないで、キリトくん。……わたしたちに、出来ることだって、きっと……あるよ」
「……そうか。そうだな……」
キリトは顔を上げると、小さく笑ってアスナの両肩に手を置き、食卓へと歩き出した。アスナもその後に続く。
がたがたと椅子を移動させてユイの横に座ると、キリトは明るい声で話しかけた。
「やあ、ユイちゃん。……ユイって、呼んでいい?」
カップから顔を上げたユイが、こくりと頷く。
「そうか。じゃあ、ユイも俺のこと、キリトって呼んでいいよ」
「き……と」
「キリト、だよ。き、り、と」
「……」
ユイは難しい顔でしばらく黙りこむ。
「……きいと」
キリトはにこりと笑うと、ユイの頭にぽんと手を置いた。
「ちょっと難しかったかな。何でも、言いやすい呼び方でいいよ」
ふたたびユイは長い時間考え込んでいた。アスナがテーブルの上からカップを取り上げ、ミルクを満たして目の前に置いても身じろぎもしない。
やがてユイはゆっくり顔を上げると、キリトの顔を見て、おそるおそる、というふうに口を開いた。
「……パパ」
次いでアスナを見上げて、言う。
「あうなは……ママ」
アスナの体が抑えようもなく震えた。こみ上げてくるものを必死に押さえつけ、ユイに向かって笑いかける。
「そうだよ……ママだよ、ユイちゃん」
それを聞くと、ユイははじめて笑顔を浮かべた。切りそろえた前髪の下で、表情の乏しかった黒い瞳がきらりと瞬き、一瞬、人形のようなその整った顔に生気が戻ったように見えた。
「――ママ!」
こちらに向かって差し出された手を見て、アスナは両手で口許を覆った。
「うっ……」
もう限界だった。こらえきれず嗚咽がこぼれる。椅子からユイの小さな体を持ち上げ、しっかりと胸に抱きながら、アスナは色々な感情が混じりあった涙が溢れ、頬を伝うのを感じていた。
ホットミルクを飲み、小さな丸パンを一つ食べると、ユイは再び眠気を覚えたらしく椅子の上で頭を揺らしはじめた。
テーブルの向かい側でその様子を見ていたアスナは、ぐいと両目をひと拭きすると隣の椅子に腰掛けるキリトに視線を向けた。
「わたし――わたし……」
口を開くが、言いたいことをなかなか形にすることができない。
「ごめんね、わたし、どうしていいのかわかんないよ……」
キリトはいたわるような眼差しでしばらくアスナを見つめていたが、やがてぽつりと言った。
「……この子が記憶を取り戻すまで、ずっとここで面倒みたいと思ってるんだろ? 気持ちは……わかるよ。俺もそうしたい。でもな……ジレンマだよな……。そうしたら当分攻略には戻れないし、そのぶんこの子が解放されるのも遅れる……」
「うん……それは、そうだね……」
自分はともかく、とアスナは思う。誇張ではなくキリトの攻略プレイヤーとしての存在感はずば抜けたものがあり、迷宮区の未踏破エリアのマップ提供量はソロプレイヤーでありながらあまたの有力ギルドを上回っていた。数週間のつもりの新婚生活だが、こうして自分ひとりがキリトを独占していることにある種の罪悪感を抱いてしまうほどだ。
「とりあえず、出来ることをしよう」
キリトは寝息を立て始めたユイを見やりながら言葉を続けた。
「まず、始まりの街にこの子の親とか兄弟とかがいないか探しにいくんだ。これだけ目立つプレイヤーなら、少なくとも知ってる人間がいると思うし……」
「……」
もっともな意見だった。しかしアスナは、自分の中にこの少女と別れたくないと思っている部分があることに気付いていた。夢にまでみたキリトと二人だけの生活だったが、なぜかそれが三人になることに抵抗はない。まるでユイが自分とキリトの子供のように思えるからだろうか――とそこまで漠然と思考してから不意に我に返り、アスナは耳まで赤くなった。
「……? どうしたの?」
「な、なんでもないよ!!」
いぶかしむキリトに向かってアスナはぶんぶんと首を振って、言った。
「そ、そうだね。ユイちゃんが起きたら、始まりの街に行ってみよう。ついでに新聞の尋ね人コーナーにも書いてもらおうよ」
キリトの顔を見ることができず、早口で言いながらアスナは手早くテーブルの上を片付けた。椅子で眠るユイに目をやると、もう完全に熟睡しているようだったが、気のせいかその寝顔は昨日とは違いどことなく安らかな笑みを浮べているように思えた。
ベッドに移動させたユイは午前中ずっと眠りつづけ、また昏睡してしまったのではないかとアスナはやや心配したのだが、幸い昼食の準備が終わる頃目を覚ました。
ユイのために、普段はほとんど作らない甘いフルーツパイを焼いたのだが、テーブルについたユイはパイよりもキリトが旨そうにかぶりつくマスタードたっぷりのサンドイッチに興味を示し二人を慌てさせた。
「ユイ、これはな、すごく辛いぞ」
「う〜……。パパと、おなじのがいい」
「そうか。そこまでの覚悟なら俺は止めん。何事も経験だ」
キリトがサンドイッチを一つ差し出すと、ユイはためらわず小さな口を精一杯あけてがぶりと噛み付いた。
二人が固唾をのんで見守るなか、難しい顔で口をもぐもぐさせていたユイは、ごくりと喉を動かすとにっこり笑った。
「おいしい」
「中々根性のある奴だ」
キリトも笑いながらユイの頭をぐりぐりと撫でる。
「晩飯は激辛フルコースに挑戦しような」
「もう、調子に乗らないの! そんなもの作らないからね!」
だが始まりの街でユイの保護者が見つかれば、ここに帰ってくるときはまた二人きりだ。そう思うとアスナの胸中には一抹の寂しさがよぎる。
結局残りのサンドイッチを全て平らげてしまい、満足そうにミルクティーを飲むユイに向かって、アスナは言った。
「ユイちゃん、午後はちょっとお出かけしようね」
「おでかけ?」
きょとんとした顔のユイに向かって、どう説明したものか迷っているとキリトが言った。
「ユイの友達を探しにいくんだ」
「ともだち……って、なに?」
その答えに、思わず二人は顔を見合わせてしまう。ユイの「症状」には不可解な点が多い。単純に精神的年齢が後退していると言うよりは、知能があちこち欠損しているような印象がある。
その状態を改善させるためにも、本当の保護者を見つけたほうがいいんだ……。アスナは自分にそう言い聞かせ、ユイに向かって答えた。
「お友達っていうのは、ユイちゃんのことを助けてくれる人のことだよ。さ、準備しよう」
ユイはまだいぶかしそうな顔だったが、こくりと頷いて立ち上がった。
少女のまとう白いワンピースは、短いパフスリーブで生地も薄く、初冬のこの季節に外出するにはいかにも寒そうだ。もっとも寒いと言ってもそれで風邪を引いたりダメージを受けたりということはないのだが――氷雪エリアで裸になったりすれば話は別だが――、不快な感覚であることに変わりはない。
アスナはアイテムリストをスクロールさせて次々と厚手の衣類を実体化させ、どうにか少女に合いそうなセーターを発見すると、そこではたと動きを止めた。
通常、衣類を装備するときはステータスウインドウから装備フィギュアを操作することになる。布や液体などの柔らかいオブジェクトの再現はSAOの苦手分野であり、衣類は独立したオブジェクトと言うよりは肉体の一部として扱われているからだ。
アスナの戸惑いを察したキリトがユイに尋ねた。
「ユイ、ウインドウ、開けるか?」
案の定少女は何のことかわからないように首を傾げる。
「じゃあ、左手の人差し指を振ってみるんだ。こんなふうに」
キリトが指を振ると、手の下に紫色の四角い窓が出現した。それを見たユイはおぼつかない手つきで動きを真似たが、ウインドウが開くことはなかった。
「……やっぱり、何かシステムがバグってるな。でも、ステータス開けないってのは致命的すぎるぞ……。何もできないじゃないか」
キリトが唇を噛んだ、その時。むきになって左手の指を振っていたユイが、今度は右手を振った。途端、手の下に紫に発光するウインドウが表示された。
「でた!」
嬉しそうににっこり笑うユイの頭上で、アスナはあっけにとられてキリトと顔を見合わせた。もう何がなんだかわからない。
「ユイちゃん、ちょっと見せてね」
アスナはかがみ込むと、少女のウインドウを覗き込んだ。だが、ステータスは通常本人にしか見ることができず、そこには無地の画面が広がっているだけだ。
「ごめんね、手を貸して」
アスナはユイの右手を取ると、その細い人差し指を移動させ、カンで可視モードボタンがあると思われるあたりをクリックさせた。
狙い違わず、短い効果音とともにウインドウの表面に見慣れた画面が浮き上がってきた。基本的に他人のステータスを盗み見るのは重大なマナー違反であるので、こういう状況ではあってもアスナは気がとがめて極力画面に目をやらずアイテム欄のみを素早く開こうとしたのだが――。
「な……なにこれ!?」
画面上部を視線が横切った瞬間、驚きの言葉が口をついて出た。
メニューウインドウのトップ画面は、基本的に三つのエリアに分けられている。最上部に名前の日本語/英語表示と細長いHPバー、EXPバーがあり、その下の左半分に装備フィギュア、右半分にコマンドボタン一覧という配置だ。アイコン等は無数のサンプルデザインから自由にカスタマイズすることができるが、基本配置は不可変である。のだが、ユイのウインドウの最上部には、『ユイ / Yui-MHCP001X』というネーム表示があるだけでHPバーもEXPバーも、レベル表示すらも存在しない。装備フィギュアはあるものの、コマンドボタンは通常と比べて大幅に少なく、わずかに『アイテム』と『オプション』のそれが存在するだけだ。
アスナの動きが止まったことをいぶかしむように近づいてきたキリトも、ウインドウを覗きこむなり息を飲んだ。ユイ本人はウインドウの異常など意に介せぬふうで、不思議そうな顔で二人を見上げている。
「これも……システムのバグなのかな……?」
アスナがつぶやくと、キリトは喉の奥でちいさく唸りながらいらえた。
「なんだか……バグというよりは、もともとこういうデザインになってるようにも見えるけどな……。くそ、今日くらいGMがいないのを歯がゆいと思ったことはないぜ」
「ふつうはSAOってバグどころかラグることもほとんどないから、GMなんて気にしたことなかったけどね……。これ以上考えてもしょうがない、よね……」
アスナは肩をすくめると、あらためてユイの指を動かし、アイテム欄を開かせた。その表面に、テーブルから取り上げたセーターをそっと置くと、一瞬の光を発してアイテムはウインドウに格納された。次いでセーターの名前をドラッグし、装備フィギュアへとドロップする。
直後、鈴の音のような効果音とともにユイの体が光の粒に包まれ、淡いピンクのセーターがオブジェクト化された。
「わあー」
ユイは顔を輝かせ、両手を広げて自分の体を見下ろした。アスナはさらに同系色のスカートと黒いタイツ、赤い靴を次々と少女に装備させ、最後に元々着ていたワンピースをアイテム欄に戻すとウインドウを消去した。
すっかり装いを改めたユイはうれしそうに、ふわふわしたセーターの生地に頬をこすりつけたりスカートの裾を引っ張ったりしている。
「さ、じゃあお出かけしようね」
「うん。パパ、だっこ」
屈託なく両手を伸ばすユイに、キリトは照れたように苦笑しながら少女の体を横抱きにかかえ上げた。そのままちらりとアスナに目を向け、言う。
「アスナ、一応、すぐ武装できるように準備しといてくれ。街からは出ないつもりだけど……あそこは『軍』のテリトリーだからな……」
「ん……。気を抜かないほうがいいね」
頷いて、手早く自分のアイテム欄を確認すると、アスナはキリトと連れ立ってドアへと歩き出した。少女の保護者が見つかればいい、というのは素直な気持ちだったが、ユイと別れる時のことを考えると不思議な動揺も感じてしまう。出会ってわずか一日で、ユイはアスナが長らく忘れていた、心の柔らかい部分をすっかり捉えてしまったかのようだった。
『始まりの街』に降り立ったのはほとんど一年ぶりのことだった。
アスナは複雑な感慨を覚えながら、転移ゲートを出たところで立ち止まり、広大な広場とその向こうに広がる街並みをぐるりと見渡した。
もちろんここはアインクラッド最大の都市であり、冒険に必要な機能はほかのどの街よりも充実している。物価も安く、宿屋の類も大量に存在し、効率だけを考えるならここをベースタウンにするのがもっとも適している。
だが、アスナの知り合いに関して言えば、ハイレベルのプレイヤーで未だに『始まりの街』に留まっている者はいない。『軍』の専横も理由のひとつだろうが、何よりこの巨大な時計塔広場に立って上空を見上げると、どうしてもあの時のことを思い出さざるを得ないからだ、とアスナは思う。
最初はほんの気まぐれだったのだ。
実業家の父親と学者の母親の間に生まれたアスナ――いや明日奈は、物心ついたころから両親の期待を強く感じながら育ってきた。両親はともに穏やかだが毅然とした人物で、明日奈にはいつも優しかったが、そうであればあるほど、彼らの期待を裏切った時その笑顔の下からどのような表情が顔を出すのかと考えることが恐怖となった。
それは兄も同じだったろう。兄と明日奈は、そろって両親の選んだ私立の小学校に入学し、何ひとつとして問題を起こさず、つねに上位の成績を保ち続けた。中学は有名な進学校にすすみ、歳の離れた兄が大学に入って家を出てしまってからは、ただただ両親の期待を裏切らないことだけを考えて生きてきた。複数の習い事をこなし、両親の認めた友達とのみ付き合い、しかしそんな生活の中で、明日奈はいつしか世界が小さく、硬く収縮していくのを感じていた。このまま既定された方向に――両親の決めた高校、両親の決めた大学に進み、両親の決めた相手と結婚してしまったら、自分はきっと自分よりも小さな、とてつもなく硬いカラに押し込められ、永遠にそこから出ることはかなわないだろう、という恐怖におびえていた。
だから――、父親の会社に就職し、家に戻ってきた兄が(残念ながら兄はそのカラにとらわれてしまったのだ、と思った)ナーヴギアとSAOをコネで手に入れ、珍しく目を輝かせながら明日奈に向かってゲーム世界のことを語ったとき、テレビゲームなど触ったこともなかった明日奈だがその不思議な新世界にはわずかな興味を覚えたのだった。
もちろん、兄が自室で使用していれば、ナーヴギアのことなどすぐに忘れて思い出すこともなかっただろう。だが間の悪いことに兄はSAO初日に海外へと出張することになってしまい、それゆえにほんの気まぐれで明日奈は兄に一日だけ貸してくれ、と頼んだのだった。普段見たことのない世界を見てみたい、ただそれだけの気持ちで――。
そして、全てが変わってしまった。
あの日、明日奈からアスナへと姿を変え、見知らぬ街、見知らぬ人々の間に降り立ったときの興奮は今でも覚えている。
だがその直後、頭上に降臨した半透明の神によってこの世界の真実の姿が脱出不可能のデスワールドであることを告げられたとき、最初にアスナが考えたのは、まだ手を付けていない数学の課題のことだった。
すぐに帰ってあれを片付けないと、翌日の授業で教師に叱責されてしまう。そんなことはアスナの人生においてはあってはならないことで……しかしもちろん、事態の深刻さはそんなものではなかった。
一週間、二週間と日々が無為に過ぎ去っても、SAOに救出の手は伸びなかった。始まりの街の宿屋の一室に閉じこもり、ベッドの上にうずくまって、アスナはとてつもないパニックを味わいつづけた。時として悲鳴を上げ、絶叫しながら壁を叩きさえした。今は中学三年の冬なのだ。すぐに受験が、そして新学期がやってきてしまう。そのレールから外れることは、アスナにとって人生の終焉そのものに等しかった。
アスナは毎日狂おしく頭を抱えながら、暗く深い確信を抱いていた。
両親はきっと、娘の身を案じるよりは、ゲーム機などのせいで受験を失敗しようとしている娘に激しく失望していることだろう。友人たちは悲嘆に暮れつつも同時にグループの脱落者を哀れみ、蔑んでいるだろう。
それらの黒い思念が臨界に達したとき、ようやくアスナはひとつの決意を固め、宿屋を出た。救出を待つのではない、自分からここを脱出するのだ。世界の救世主となるのだ。そうすることでしか、自分はもう周囲の人々の心を繋ぎとめておくことはできないだろう。
アスナは装備を整え、リファレンスマニュアルを全て暗記し、フィールドへと向かった。睡眠は日に二、三時間をとるのみで、残りの時間は全てレベルアップにつぎ込んだ。生来の知力と意思力をすべてゲーム攻略に傾けたとき、彼女がトップレベルプレイヤーに名を連ねるようになるまでそう長い時間はかからなかった。狂剣士・『閃光』アスナの誕生であった。
そして今――。二年が経ち、十七歳になったアスナは、当時の自分をいたましい気持ちとともに振り返る。いや、ゲーム開始直後の頃だけではない。それまでの、硬く収縮した世界でのみ生きていた自分に対しても、痛々しく、切ない感情を覚える。
自分は「生きる」という言葉の意味を知らなかった。ただただ、あるべき未来のことだけを考え、現在を犠牲にしつづけた。「今」というのは、正しい未来へと向かう過程でしかなく、それゆえに過ぎ去ると同時に虚無の中に消えてしまった。
どれか一つだけではだめなのだ。SAO世界を俯瞰すると深くそう思う。
未来のみを見る者は、かつての自分のように狂ったようにゲーム攻略にあけくれ、過去だけを抱く者は宿屋の一室でうずくまっている。現在だけに生きる者は犯罪者として刹那的な快楽を追い求める。
だが、この世界においてなお、現在を楽しみ、数々の思い出を作り、脱出に向けて努力することができる人々もいる。それを教えてくれたのが、一年前に出会った黒髪の剣士だ。彼のように生きたい、そう思ったときからアスナの日々は色彩を変えた。
今なら、現実世界でもあの殻を破れそうな気がする。自分のために生きられそうな気がするのだ。この人が傍らにいてくれる限り――。
アスナは、隣に立ち、彼なりの感慨を抱いて街並みを見ているのであろうキリトにそっと寄り添った。上空の石の蓋を眺めると、あの時の記憶がふたたび甦ってきたが、感じた痛みはかすかなものだった。
感傷を振り払うように頭を一振りすると、アスナはキリトの腕の中のユイの顔を覗き込んだ。
「ユイちゃん、見覚えのある建物とか、ある?」
「うー……」
ユイは難しい顔で、広場の周囲に連なる石造りの建築物を眺めていたが、やがて首を振った。
「わかんない……」
「まあ、始まりの街はおそろしく広いからな」
キリトがユイの頭を撫でながら言った。
「あちこち歩いてればそのうち何か思い出すかもしれないさ。とりあえず、中央マーケットに行ってみようぜ」
「そうだね」
頷きあい、二人は南に見える大通りに向かって歩き始めた。
それにしても――。歩きながら、アスナは少々いぶかしい気持ちで改めて広場を見渡した。意外なほど、人が少ない。
始まりの街のゲート広場は、二年前のサーバーオープン時に全プレイヤー五万人を収容しただけあってとてつもなく広い。完全な円形の、石畳が敷き詰められた空間の中央には巨大な時計塔がそびえ、その下部に転移ゲートが青く発光している。塔を取り囲むように、同心円状に細長い花壇が伸び、それに並んで瀟洒な白いベンチがいくつも設置されている。こんな天気のいい午後には一時の憩いを求めるプレイヤーで賑わってもおかしくないのに、見える人影は皆ゲートか広場の出口に向かって移動していくばかりで、立ち止まったりベンチに腰掛けたりしている者はほとんどいない。
上層にある大規模な街では、ゲート広場は常に無数のプレイヤーでごった返している。世間話に花を咲かせたり、パーティーを募集したり、簡単な露店を開いたりと、たむろする人々のせいでまっすぐ歩けないほどなのだが――。
「ねえ、キリト君」
「ん?」
振り向いたキリトに、アスナは尋ねた。
「ここって今プレイヤー何人くらいいるんだっけ?」
「うーん、そうだな……。生き残ってるプレイヤーが約四万、その三分の一くらいが始まりの街から出てないらしいから、一万三千人ってとこじゃないか?」
「そのわりには、人が少ないと思わない?」
「そう言われると……。マーケットのほうに集まってるのかな?」
しかし、広場から大通りに入り、NPCショップと屋台が建ち並ぶ市場エリアにさしかかっても、相変わらず街は閑散としていた。やたらと元気のいいNPC商人の呼び込み声が、通りを空しく響き渡っていく。
それでもどうにか、通りの中央に立つ大きな木の下に座り込んだ男を見つけ、アスナは近寄って声をかけてみた。
「あの、すみません」
妙に真剣な顔で高い梢を見上げている男は、顔を動かさないまま面倒くさそうに口を開いた。
「なんだよ」
「あの……この近くで、尋ね人の窓口になってるような場所、ありません?」
その言葉を聞いて、男はようやく視線をアスナに向けてきた。遠慮のない目つきでアスナの顔をじろじろと眺めまわす。
「なんだ、あんたよそ者か」
「え、ええ。あの……この子の保護者を探してるんですけど……」
背後に立つキリトの腕に抱かれ、うとうとまどろんでいるユイを指し示す。
クラスを察しにくい簡素な布服姿の男は、ちらりとユイを見やると多少目を丸くしたが、すぐにまた視線を頭上の梢へと移した。
「……迷子かよ、珍しいな。……東七区の川べりの教会に、ガキのプレイヤーが一杯集まって住んでるから、行ってみな」
「あ、ありがとう」
思いがけず有望そうな情報を得ることができて、アスナはぺこりと頭を下げた。物はついでと、更に質問してみることにする。
「あのー……一体、ここで何してるんですか? それに、なんでこんなに人がいないの?」
男は渋面を作りながらも、まんざらでもなさそうな口調で答えた。
「企業秘密だ、と言いたいとこだけどな。よそ者なら、まあいいや……。ほら、見えるだろ? あの高い枝」
男が伸ばした指の先を、アスナは目で辿った。大ぶりな街路樹は、頭上に張り出した枝々に赤金色に色づいた葉をびっしりと付けているが、目をこらしてみるとその葉影にいくつか、深紅の楕円形をした実が成っているのが見て取れる。
「もちろん街路樹は破壊不能オブジェクトだから、登ったって実はおろか葉っぱの一枚もちぎれないんだけどな」
男の言葉が続く。
「一日に何回か、あの実が落ちるんだよな……。ほんの数分で腐って消えちまうんだけど、それを逃さず拾えば、NPCにけっこうな値で売れるんだぜ。食ってもうまいしな」
「へえええー」
料理スキルをマスターしているアスナは、食材アイテムの話にはひとかたならぬ興味がある。
「幾らくらいで売れるの?」
「……これは黙っててくれよ。一個、12コルだ」
「……」
得意げな男の顔を見ながら、アスナは思わず絶句した。その値段の、あまりの安さに驚愕したためだ。それでは、丸一日この樹に張り付いていても百コルも稼げない計算になる。
「あ……あの……それじゃあんまり割に合わないっていうか……。フィールドでワームの一匹も倒せば、150コルにはなりますよ」
そう言った途端、今度は男が目を丸くした。頭がおかしいんじゃないか、と言わんがばかりの視線をアスナに向けてくる。
「本気で言ってるのかよ。フィールドで、モンスターと戦ったりしたら……死んじまうかもしんねえだろうが」
「……」
アスナは返す言葉がなかった。確かに男が言うように、対モンスター戦には死の危険が常に付きまとう。だが現在のアスナの感覚では、それは現実世界で交通事故に遭うのを心配するようなもので、怖がってもはじまらないと言うしかない。
SAO内での死に対する自分の感覚が鈍磨しているのか、男がナーバスすぎるのか、咄嗟に判断することができずにアスナは立ち尽くした。多分、どちらが正解というものではないのだろう。始まりの街では、きっと男の言う事が常識なのだ。
アスナの複雑な心境など気にもとめぬ様子で、男はしゃべり続けた。
「で、何だっけ、人がいない理由? 別にいない訳じゃないぜ。みんな宿屋の部屋に閉じこもってるのさ。昼間は軍の徴税部隊に出くわすかもしれないからな」
「ちょ、ちょうぜい……。それは一体なんなの?」
「体のいいカツアゲさ。気をつけろよ、奴等よそ者だからって容赦しないぜ。おっ、一個落ちそうだ……話はこれで終わりだ」
男は口をつぐむと、真剣な眼差しで上空を睨み始めた。アスナはぺこりと頭を下げると、今の会話中ずっとキリトが沈黙していたことに気付き、後ろを振り返った。
「……」
そこにあったのは、戦闘中もかくやという真剣な目つきで赤い木の実を見据えているキリトの姿だった。どうやら次に落ちる実を全力で奪取するつもりらしい。
「やめなよもうー! 大人気ないなぁ」
「だ、だってさ、気になるじゃん」
アスナはキリトの襟くびを掴むと、ずるずる引きずりながら歩きはじめた。
「あ、ああ……うまそうなのに……」
未練たらたらなキリトの耳もとで、小声でささやく。
「あの人には悪いけど、買値12コルの木の実がそんなに美味しいわけないよー」
「そ、そうか……」
「それより、東七区ってどのへん? 教会で若いプレイヤーが暮らしてるみたいだから、行ってみよう」
すっかり眠りに落ちてしまったユイを受け取り、しっかりと抱くと、アスナはマップをのぞき込みながら歩くキリトの横に並んで歩調を合わせた。
ユイは外見的には10歳程度の体格なので、現実世界でこんな真似をしたら数分で腕が抜けそうになるところだが、ここでは筋力パラメータ補正のお陰で羽毛のまくらほどの重さしか感じない。
相変わらず人影の少ないだだっぴろい道を、南東目指して十数分も歩くと、やがて建築物の少ない、広大な庭園めいたエリアに差し掛かった。黄色く色づいた広葉樹の林が、初冬の寒風の中わびしげに梢を揺らしている。
「えーと、マップではこのへんが東七区なんだけど……。その教会ってのはどこだろう」
「あ、あそこじゃない?」
アスナは、道の右手に広がる林の向こうに一際高い尖塔を見つけ、視線でその方向を示した。青灰色の屋根を持つ塔のいただきに、十字に円を組み合わせた金属製のアンクが輝いている。間違いなく教会のしるしだ。各町に最低ひとつはある施設で、内部の祭壇ではモンスターの特殊攻撃『呪い』の解除や対アンデッドモンスター用の武器の聖別などを行うことができる。魔法の要素がほとんど存在しないSAOにおいて、もっとも神秘的な要素のある場所と言ってよい。また、継続的にコルを納めることで教会内の小部屋を借りることもでき、宿屋の代わりに使う場合もある。
「ち、ちょっとまって」
教会に向かって歩き出そうとしたキリトを、アスナは呼び止めた。
「ん? どうしたの?」
「あ、ううん……。その……もし、あそこでユイちゃんの保護者が見つかったら、ユイちゃんを……置いてくるんだよね……?」
「……」
キリトの黒い目が、アスナをいたわるように和らいだ。近寄り、両腕でそっと、眠るユイごとアスナの体を包み込む。
「別れたくないのは俺もいっしょさ。何て言うのかな……ユイがいることで、あの森の家がほんとうの家庭になったみたいな……そんな気がしたもんな……。でも、会えなくなるわけじゃない。ユイが記憶を取り戻したら、きっとまた訪ねてきてくれるさ」
「ん……。そうだね」
ちいさく頷くと、アスナは腕の中のユイに頬をすり寄せ、意を決して歩き出した。
教会の建物は、街の規模に比べると小さなものだった。二階建てで、シンボルである尖塔も一つしかない。もっとも始まりの街には複数の教会が存在し、ゲート広場近くのものはちょっとした城館ほどのサイズがある。
アスナは、正面の大きな二枚扉の前に達すると、右手で片方の扉を押し開けた。公共施設なので当然鍵は掛けられていない。内部は薄暗く、正面の祭壇を飾るろうそくの炎だけが石敷きの床を弱々しく照らし出している。一見したところ人の姿はない。
入り口から上半身を乗り入れ、アスナは呼びかけた。
「あのー、どなたかいらっしゃいませんかー?」
声が残響エフェクトの尾を引きながら消えていっても、誰も出てくる様子はない。
「誰もいないのかな……?」
首を傾げながら横に立つキリトの顔を見ると、彼はそっと首を振りながら口を開いた。
「いや、人がいるよ。右の部屋に三人、左に四人……。二階にも何人か」
「……索敵スキルって、壁の向こうの人数までわかるの?」
「熟練度980からな。便利だからアスナも上げろよ」
「いやよ、修行が地味すぎて発狂しちゃうわよ。……それはそうと、何で隠れてるのかな……」
アスナはそっと教会内部に足を踏み入れた。しんとした静寂が周囲を包むが、なんとなくその中に息を潜める気配を感じるような気がする。
「あの、すみません、人を探してるんですが!」
今度はもう少し大きな声で呼びかける。すると――右手のドアが僅かに開き、そのむこうからか細い女性の声が響いてきた。
「……軍の人じゃ、ないんですか?」
「ちがいますよ。上の層から来たんです」
アスナもキリトも、帯剣はおろか戦闘用の防具ひとつとして身につけていない。軍所属のプレイヤーは常にユニフォームの重武装をまとっているので、格好だけでも、軍とは無関係であることがわかってもらえるはずだ。
やがて、ドアがゆっくりと開くと、その向こうから一人の女性プレイヤーがおずおずと姿を現した。
暗青色のショートヘア、黒ぶちの大きなメガネをかけ、その奥で怯えをはらんだ深緑色の瞳をいっぱいに見開いている。簡素な濃紺のプレーンドレスを身にまとい、手には鞘に収められた小さな短剣。
「ほんとに……軍の徴税官じゃないんですね……」
アスナは安心させるように女性に微笑みかけると、頷いた。
「ええ、私たちは人を探していて、今日上から来たばかりなんです。軍とは何の関係もないですよ」
その途端――。
「上から!? ってことは本物の剣士なのかよ!?」
甲高い、少年めいた叫び声と共に、女性の背後のドアが大きく開き、中から数人の人影がばらばらと走り出してきた。直後、祭壇の左手のドアも開け放たれ、同じく数名が駆け出してくる。
あっけにとられたアスナとキリトが声もなく見守るなか、メガネの女性の両脇にずらりと並んだのは、どれも少年少女と言ってよいうら若いプレイヤーたちだった。下は十二歳、上は一四歳といったところだろう。皆興味しんしんといったふうにアスナとキリトを眺め回している。
「こら、あんた達、部屋に隠れてなさいって言ったじゃないー」
慌てたように子供たちを押し戻そうとする女性だけが二十歳前後と思われる。もっとも、誰一人として命令に従う子はいない。
だが、やがて、先程真っ先に部屋から走り出してきた、赤毛の短髪をつんつん逆立てた少年が、失望したような叫び声をあげた。
「なんだよ、剣の一本も持ってないじゃん。ねえあんた、上から来たんだろ? 武器くらい持ってないのかよ?」
後半はキリトに向かって発せられた言葉である。
「い、いや、ないことはないけど……」
目を白黒させながらキリトが答えると、再び子供たちの顔がぱっと輝いた。見せて、見せてと、口々に言い募る。
「こらっ、初対面の方に失礼なこと言っちゃだめでしょう。――すみません、普段お客様なんてないものですから……」
いかにも恐縮したように頭を下げるメガネの女性に向かって、アスナはあわてて言った。
「い、いえ、かまわないです。――ね、キリトくん、いくつかアイテム欄に入れっぱなしだっと思うから、見せてあげたら?」
「う、うん」
アスナの提案に頷くと、キリトはウインドウを開き、指を動かし始めた。たちまち幾つもの武器アイテムがオブジェクト化され、傍らの長机の上に積み上げられていく。最近の冒険でモンスターがドロップしたアイテムを、換金する暇がなくて放置していたものだ。
キリトが、二人の装備品を除く余剰アイテムを全て取り出しウインドウを閉じると、子供たちが歓声を上げてその周囲に群がった。次々と剣やメイスを手にとっては刃の銀色の輝きに見入っている。過保護な親が見たら卒倒しそうな光景だが、街区圏内では武器をどう扱おうとそれによってダメージを受けることは有り得ない。
「――すみません、ほんとに……」
メガネの女性が、困ったように眉を寄せつつも、喜ぶ子供たちの様子に笑みを浮べながら、言った。
「……あの、こちらへどうぞ。今お茶の準備をしますので……」
礼拝堂の右にある小部屋に案内されたアスナとキリトは、振舞われた熱い茶をひとくち飲んでほっと息をついた。
「それで……人を探してらっしゃるということでしたけど……?」
向かいの椅子に腰掛けたメガネの女性プレイヤーが、ちいさく首を傾けながら言った。
「あ、はい。ええと……わたしはアスナ、この人はキリトといいます」
「あっ、すみません、名前も言わずに。わたしはサーシャです」
ぺこりと頭を下げあう。
「で、この子が、ユイです」
膝の上で眠りつづけるユイの髪をそっと撫でながら、アスナは言葉を続けた。
「この子、22層の森の中で迷子になってたんです。記憶を……無くしてるみたいで……」
「まあ……」
サーシャという女性の、大きな深緑色の瞳がメガネの奥でいっぱいに見開かれる。
「装備も、服以外はなんにもなくて、上層で暮らしてたとは思えなくて……。それで、始まりの街に保護者とか……この子のことを知ってる人がいるんじゃないかと思って、探しに来たんです。で、こちらの教会で、子供たちが集まって暮らしていると聞いたものですから……」
「そうだったんですか……」
サーシャは両手でカップを包み込むと、視線をテーブルに落とした。
「……この教会には、いま、小学生から中学生くらいの子供たちが三十人くらい暮らしています。多分、いま始まりの街にいる子供プレイヤーのほぼ全員だと思います。このゲームがはじまったとき……」
声はか細いが、意外にはっきりした口調でサーシャが話しはじめた。
「それくらいの子供たちのほとんどは、パニックを起こして多かれ少なかれ精神的に問題を来しました。勿論ゲームに適応して、街を出て行った子供もいるんですが、それは例外的なことだと思います」
当時中学三年だったアスナにも覚えのあることだった。宿屋の一室で閉じこもっていた頃は確かに精神が崩壊するぎりぎりまで追い詰められていたと思う。
「当然ですよね、まだまだ親に甘えたい盛りに、いきなりここから出られない、ひょっとしたら二度と現実に戻れない、なんて言われたんですから……。そんな子供たちは大抵虚脱状態になって、中には何人か……自殺した子もいるようです」
サーシャの口許がかたくこわばる。
「わたし、ゲーム開始から一ヶ月くらいは、ゲームクリアを目指そうと思ってフィールドでレベル上げしてたんですけど……ある日、そんな子供たちの一人を街角で見かけて、どうしても放っておけなくて、連れてきて宿屋で一緒に暮らしはじめたんです。それで、そんな子供たちが他にもいると思ったらいてもたってもいられなくなって、街じゅうを回っては独りぼっちの子供に声をかけるようなことを始めて。気付いたら、こんなことになってたんです。だから、なんだか……お二人みたいに、上層で戦ってらっしゃる方もいるのに、わたしはドロップアウトしちゃったのが、申し訳なくて」
「そんな……そんなこと」
アスナは首を振りながら、一生懸命言葉を探そうとしたが、喉がつまって声にならなかった。後を引き継ぐようにキリトが言った。
「そんなこと、ないです。サーシャさんは立派に戦ってる……俺なんかより、ずっと」
「ありがとうございます。でも、義務感でやってるわけじゃないんですよ。子供たちと暮らすのはとっても楽しいです」
ニコリと笑い、サーシャは眠るユイを心配そうに見つめた。
「だから……私たち、二年間ずっと、毎日一エリアずつ回って、困ってる子供がいないか調べてるんです。そんな小さい子がいれば、絶対気付いたはずです。残念ですけど……始まりの街で暮らしてた子じゃあ、ないと思います」
「そうですか……」
アスナはうつむき、ユイをきゅっと抱きしめた。気を取り直すように、サーシャの顔を見る。
「あの、立ち入ったことを聞くようですけど、毎日の生活費とか、どうしてるんですか?」
「あ、それは、わたしの他にも、街周辺のフィールドなら絶対大丈夫な程度のレベルになった年長の子が何人かいますので、食事代くらいはなんとかなってます。ぜいたくはできませんけどね」
「へえ、それは凄いな……。さっき街で話を聞いたら、フィールドでモンスターを狩るなんて常識外の自殺行為だって言ってましたよ」
キリトの言葉に、サーシャはこくりと頷いた。
「基本的に、今始まりの街に残ってるプレイヤーは全員そういう考えだと思います。それが悪いとは言いません、死の危険を考えれば仕方ないことなのかもしれないんですが……。でも、そのせいでわたしたちは、この街の平均的プレイヤーよりお金を稼いでいることになっちゃうんです」
確かに、この教会の客室を常時借り切っているなら、一日あたり数百コルが必要になるだろう。先刻の木の実ハンターの男の日収を大きく上回る額だ。
「だから、最近目をつけられちゃって……」
「……誰に、です?」
サーシャの気弱そうな目が一瞬厳しくなった。言葉を続けようと口を開いた、その時――。
「先生! サーシャ先生! 大変だ!!」
部屋のドアがばんと開き、数人の子供たちがなだれ込んできた。
「こら、お客様に失礼じゃないの!」
「それどこじゃないよ!!」
先程の赤毛の少年が、目に涙を浮べながら叫んだ。
「ギン兄ィ達が、軍のやつらにつかまっちゃったよ!!」
「――場所は?」
別人のように毅然とした態度で立ち上がったサーシャが、少年に尋ねた。
「東五区の道具屋裏の空き地。軍が十人くらいで通路をブロックしてる。クリオだけが逃げられたんだ」
「わかった。――すみませんが……」
サーシャはアスナとキリトのほうに向き直ると、軽く頭を下げ、言った。
「わたしはすぐに子供たちを助けに行かなければなりません。お話はまたのちほど……」
「俺たちも行くよ、先生!!」
赤毛の少年が叫ぶと、その後ろの子供たちも口々に同意も声を上げた。少年はキリトのそばに駆け寄り、必至の形相で言った。
「兄ちゃん、さっきの武器、貸してくれよ! あれがありゃあ、軍の連中もすぐ逃げ出すよ!」
「いけません!」
サーシャの叱責が飛ぶ。
「あなたたちはここで待ってなさい!」
その時、今まで無言で成り行きを見守っていたキリトが、子供たちをなだめるように右手を上げた。普段は茫洋と掴み所のない態度の彼だが、こんな時だけは不思議な存在感を発揮し、子供たちがぴたりと口をつぐむ。
「――残念だけど――」
落ち着いた口調でキリトが話しはじめた。
「あの武器は、必要パラメータが高すぎて君じゃ装備できない。俺たちが助けに行くよ。こう見えてもこのお姉ちゃんは無茶苦茶強いんだぞ」
ちらりと視線を向けるキリトに、アスナも大きく頷き返した。立ち上がり、サーシャのほうに向き直って口を開く。
「わたし達にもお手伝いさせてください。少しでも人数が多いほうがいいはずです」
「――ありがとう、お気持ちに甘えさせていただきます」
サーシャは深く一礼すると、メガネをぐっと押し上げ、言った。
「それじゃ、すみませんけど走ります!」
教会から飛び出したサーシャは、腰の短剣をきらめかせながら北に向かって一直線に走りはじめた。キリトと、ユイを抱いたアスナもその後を追う。走りながらアスナがちらりと後ろを振り返ると、大勢の子供たちがついてくるのが見えたが、サーシャも追い返す気は無いようだった。
林の間を縫うように走り、やがて現れた東六区の市街地の裏通りを抜けていく。最短距離をショートカットしているようで、NPCショップの店先や民家の庭などを突っ切って進むうち、前方の細い路地を塞ぐ、見覚えのある制服を身にまとった男達の一団が目に入った。どうやらその向こうで、狩りに出ていた教会の子供たちを取り囲んでいるらしく、威圧的な胴間声が漏れ聞こえてくる。
路地に走りこんだサーシャが足を止めると、それに気付いた軍のプレイヤーたちが振り返り、にやりと笑みを浮べた。
「おっ、保母さんの登場だぜ」
「……子供たちを返してください」
硬い声でサーシャが言う。
「人聞きの悪いこと言うなよォ。すぐに返してやるよ、ちょっと社会常識ってもんを教えてやったらな」
「そうそう。市民には納税の義務があるからな」
ひゃははは、と男達が甲高い笑い声を上げた。固く握られたサーシャの拳がぶるぶると震える。
「ギン! ケイン! ミナ!! そこにいるの!?」
サーシャが男達の向こうに呼びかけると、すぐに怯えきった少女の声でいらえがあった。
「先生! 先生……助けて!」
「お金なんていいから、全部渡してしまいなさい!」
「先生……だめなんだ……!」
今度は、しぼり出すような少年の声。
「クッヒャッ」
道をふさぐ男の一人が、ひきつるような笑いを吐き出した。
「あんたら、ずいぶん税金を滞納してるからなぁ……。金だけじゃ足りないよなぁ」
「そうそう、装備も置いてってもらわないとなァー。防具も全部……何から何までな」
男達の下卑た笑いを見て、アスナは路地の奥で何が行われているか咄嗟に察した。たぶん兵士たちは、少女を含む子供たちに、着衣も全て解除しろと要求しているのだ。アスナの内部に殺意にも似た憤りが芽生える。
サーシャも同時にそれを察したらしく、殴りかからんばかりの勢いで男たちに詰め寄った。
「そこを……そこをどきなさい! さもないと……」
「さもないと、何だい、保母先生? あんたがかわりに税金を払うかい?」
にやにや笑う男達は、まったく動こうとするそぶりを見せない。
街の内部、いわゆる街区圏内では、犯罪防止コードというプログラムが常時働いており、他のプレイヤーにダメージを与えることはもちろん、無理矢理移動させるような真似は一切できない。しかしそれは裏を返せば、行く手を阻もうとする悪意のプレイヤーも排除できないということであり、このように通路を塞いで閉じ込める「ブロック」、更には直接数人で取り囲んで相手を一歩も動けなくしてしまう「ボックス」といった悪質なハラスメント行為の存在を許す結果となっている。
だがそれも、あくまで地面を移動する場合においてのみ可能な行為だ。アスナはキリトを見やると、言った。
「行こう、キリトくん」
「ああ」
頷きあい、二人は地面を蹴った。
敏捷力と筋力のパラメータを全解放する勢いで跳躍した二人は、呆然とした表情で見上げるサーシャと軍メンバーの頭上を軽々と飛び越え、数回建物の壁を蹴りながら飛翔すると、四方を壁に囲まれた空き地へと降り立った。
「うわっ!?」
その場にいた数人の男達が驚愕の表情で飛びすさる。
空き地の片隅には、十代なかばと思しき二人の少年と一人の少女が、固まって身を寄せ合っていた。少女は白いキャミソール一枚、少年たちも下着姿だ。アスナは唇を噛むと、子供たちに歩み寄り、微笑みかけながら言った。
「もう大丈夫よ。早く服を着なさい」
少年たちはこくりと頷くと、慌てて足元から着衣を拾い上げ、ウインドウを操作しはじめる。
「おい……オイオイオイ!!」
その時、ようやく我に返った軍プレイヤーの一人がわめき声を上げた。
「なんだお前らはァ!! 邪魔すんのかコラァ!!」
「おっ、待て待て、この女いけるじゃん」
アスナの顔をじろじろ見ながら、ひときわ重武装の男が進み出てきた。どうやらリーダー格らしい。
「姉ちゃん、見ない顔だけど、俺たちの邪魔すっとどうなるか、わかってんだろうな? 逃がしゃしねえぞ。本部でじっくり話、しようや」
「おお、それいいねぇ」
周囲の男達が追従するように笑い声を上げる。調子に乗って近寄ってきたリーダーは、夏みかんの皮に切れ目を入れたようなごつごつした顔を突き出してアスナの顔を覗き込み、次いでアスナの腕の中で眠っているユイに視線を落とした。ぴゅう、とヘタな口笛を吹き、言う。
「うほっ、これ姉ちゃんのガキかよ?」
再び、野卑な爆笑。
「ま、姉ちゃんがあいつらのかわりに税金払ってくれるなら文句はねえや。さ、本部いこうか。そのガキもいっしょにな」
「そのへんにしといたほうがいいぞ」
低い、キリトの声が流れた。
「いますぐ消えろ。そろそろ我慢の限界だからな」
「……なんだと?」
リーダーの細い目が凶暴な光を帯びる。腰から大ぶりのブロードソードを引き抜くと、わざとらしい動作でぺたぺた刀身を手のひらに打ちつけながら数歩キリトに歩み寄った。剣の表面が低い西日を反射してぎらぎらと輝く。一度の損傷も修理も経験していない、新品の武器特有の輝き。
「てめえこそ消えろや! 邪魔すんじゃねえよ、何なら圏外行くか圏外! おぉ?」
「……剣を振ったことも無い人間が剣士じみた口を利くな……」
アスナの唇からかすれた声が漏れた。事が穏便に済めばそれが一番といままで我慢していたが、ユイを欲望でぎらつく目で見られた瞬間、憤激が限界を超えたのを自覚していた。
「……キリトくん、ユイちゃんをお願い」
キリトにユイを渡すと、彼はいつの間にか実体化させていたアスナの細剣を片手でひょいと放ってきた。受け取りざま鞘を払い、リーダーに向かってすたすたと歩み寄る。
「お……お……?」
状況が飲み込めず、口を半開きにする男の顔面に向かって、アスナはいきなり全力の片手突きを叩き込んだ。
周囲を染める紫色の閃光。爆発にも似た衝撃音。男の重そうな体が宙をくるくると回りながら吹き飛び、数メートル離れた石壁に激突して再び紫の閃光を撒き散らした。
「そんなに戦闘がお望みなら、わざわざフィールドに行く必要はないわ」
地面に座り込んで、両目を限界まで丸く見開いた男の前まで歩み寄ると、アスナは再び右手を閃かせた。閃光。轟音。リーダーの体が地面をごろごろと転がる。
「安心して、HPは減らないから。そのかわり、圏内戦は恐怖を刻み込む」
容赦ない歩調で三たび歩み寄るアスナの姿を見上げ、リーダーはようやくアスナの意図を悟ったように唇をわななかせた。
犯罪防止コード圏内では、武器による攻撃をプレイヤーに命中させても見えない障壁に阻まれてダメージが届くことはない。だがこのルールにも裏の意味があり、つまり攻撃者が犯罪者カラーに落ちることもないということになる。
それを利用したのが「圏内戦闘」であり、通常は訓練の模擬戦闘として行われる。しかし、攻撃者のパラメータとスキルが上昇するにつれ、コード発動時のシステムカラーの発光と衝撃音は過大なものとなり、また両者のステータス差があまりに大きいと、発生する衝撃によって宙を吹き飛ぶような事も起こりうる。慣れない者にとっては、HPが減らないとわかっていてもその恐怖はおおよそ耐えられるものではない。
「ひあっ……ぐぎゃっ……やめっ……」
アスナの剣撃によって宙を舞うたびに、リーダーはだらしない悲鳴を上げた。
「お前らっ……見てないで……なんとかしろっ……!!」
その声に、ようやく我に返った軍メンバーが、つぎつぎと武器を抜いた。
南北の通路からも、予想外の事態を察したブロック役のプレイヤー達が走りこんでくる。
半円形に周囲を取り囲む男達に、アスナは狂戦士時代に戻ったような爛々と光る眼を向けた。物も言わず地面を蹴り、集団に突っ込んでいく。
たちまち、轟音と絶叫の連続が狭い空き地に充満した。
数分後――。
我に返ったアスナが足を止め、剣を降ろすと、空き地にはわずか数人の軍プレイヤー達が失神して転がるのみだった。残りは皆リーダーを見捨てて逃げ出したらしい。
「ふう……」
大きくひとつ息をついて、細剣を鞘に収め、振り返ると――そこには、絶句してアスナを見つめるサーシャと、教会の子供たちの姿があった。
「あ……」
アスナは息を詰めて一歩後ずさった。先程の、怒りに身を任せた修羅のごとき荒れようは、さぞかし子供たちを怯えさせただろうと思い、悄然とうつむく。
だが突然、子供たちの先頭にいた、例の赤毛で逆毛の少年が、目を輝かせながら叫んだ。
「すげえ……すげえよ姉ちゃん!! 初めて見たよあんなの!!」
「このお姉ちゃんは無茶苦茶強い、って言ったろう」
にやにや笑いながらキリトが進み出てきた。左手でユイを抱き、右手には剣を下げている。どうやら数人は彼が相手をしたらしい。
「……え、えへへ」
困ったようにアスナが笑うと、子供たちがわっと歓声を上げて一斉に飛びついてきた。サーシャも両手を胸の前で握り締め、両目に涙を溜めて泣き笑いのような表情を浮べている。
その時だった。
「みんなの――みんなのこころが――」
細いが、よく通る声が響いた。アスナははっとして顔を上げた。キリトの腕のなかで、いつのまにか目覚めたユイが宙に視線を向け、右手をその方向へ伸ばしていた。
アスナはあわててその方角を見やったが、そこには何もない。
「みんなのこころが――ひかりに……」
「ユイ! どうしたんだ、ユイ!!」
キリトが叫ぶとユイは二、三度まばたきをして、きょとんとした表情を浮べた。アスナもあわてて走りより、ユイの手を握る。
「ユイちゃん……何か、思いだしたの!?」
「……あたし……あたし……」
眉を寄せ、うつむく。
「あたし、ここには……いなかった……。ずっと、ひとりで、暗い場所にいた……」
何かを思い出そうとするかのように顔をしかめ、唇を噛む。と、突然――。
「うあ……あ……ああああ!!」
その顔がのけぞり、細いのどから高い悲鳴がほとばしった。
「!?」
ザ、ザッという、SAO内で初めて聞くノイズのような音がアスナの耳に響いた。直後、ユイの硬直した体のあちこちが、崩壊するようにぶれ、振動した。
「ゆ……ユイちゃん……!」
アスナも悲鳴を上げ、その体を両手で必死に包み込む。
「ママ……こわい……ママ……!!」
かぼそい悲鳴を上げるユイをキリトの腕から抱き上げ、アスナはぎゅっと胸に抱きしめた。数秒後、怪現象は収まり、硬直したユイの体から力が抜けた。
「なんだよ……今の……」
キリトのうつろな呟きが、静寂に満ちた空き地にかすかに流れた。