「ほらよ」
その一言とともに男の手から放たれた物は。
赤い空の下、緩やかな放物線を描き、ぽすっ、と彼女の手の中へ。
「ゴチになりまッス」
受け取った桃色長方形の紙パックにストローを挿し、ずずう、と頬をすぼめ小さな口へ。
「ああ、今日のイチゴオレは沁みますねえ」
はふう、と至福の笑みで溜息ひとつ。
「なんスか? 」
「いや、ちゃんと受け取ったなあってさ」
その姿を見て笑う加持。
「すり抜けるとでも思ってました? 」
手ぶらの片方を力なく垂らし、おばけだぞー、とでも言いたげなポーズで舌をぺろり。
「アタシはまだココに居ますよ」
そして彼女は微笑む。
「イチゴオレ飲みますしパン食いますし酒飲みますし車だってカッ飛ばします。
寄って来たお邪魔女にどっかーんとデコパン喰らわせるなんて朝飯前ッスよ」
えへへ、と無邪気な笑みで。
「惚れた男に体預けたり、唇差し出したり、とかね」
頬を微かな朱に染めて。
「センパイ以外には認識出来ないだけです」
不意に消える微笑。
「いいえ」
透明な瞳で。
「認識なんかさせません」
その中に愛しい男を映し。
「貴方だけです」
また笑う。
「ふん」
肩をすぼめ笑う加持。
「お前は」
彼は問う。
「みさと、なのか? 」
その問いに彼女は目を伏せて。
「おとうさん」
まるで囁くように。
「って呼びましょうか? 」
寝物語を枕元でねだる娘のように。
「ばーか」
と、ただ笑う加持。
「ばかって言った方が馬鹿なんスよバーカ」
「ばかって言った方が馬鹿って言った方がバカなんだよばーか」
笑う、笑う。
赤い空の下、向かい合う二つのヒトガタが腹を抱え笑う。
ひとしきり笑い合い、ふと顔を上げ彼女は呟く。
「センパイ」
「ん」
「アタシが憎いですか? 」
すがるような上目遣いで。
「んなわけねえだろう」
その答えを聞く彼女の微笑は。
「ならアタシは違うんでしょうね」
どこか淋しげで。
「みさとは憎悪と共に存在しますから」
なぜか切なげで。
「愛じゃ駄目なのか」
「どんな愛ですか? 」
「ほらアレだ、惚れた好いたの」
「せいぜいデザートですね」
「女の子は砂糖菓子で出来ている、って誰か言ってなかったけかな」
「それでは腹を満たせません」
悪食なんだな、と加持は呟く。
大食なんです、と彼女は返す。
「だってそれは他の誰かに向けられてますから」
「憎悪だってそうだろう」
「ちょっち違うんスよねぇ」
コンヴィクト、と彼女は呟く。
「センパイはもう気付いてますよね、あの場所に集う憎悪は」
ああ、あれは。と加持は言葉を切る。
今だから思う、そう、あの憎悪は。
「子供の憎悪だ」
大人の憎悪、子供の憎悪。
大人のそれは時間によって蓄積され、深く澱む。
それに生涯をかけ己の人生を差し出す者も居るだろう。
だが多くの者は噛み砕く。道徳、倫理、寛容、自戒。経験と共に得たスキル。
それら様々なフィルタは時に憎悪を濾過し薄め消し去り、時に成長の糧ともなるだろう、しかし。
「蓄積の無い衝動」
子供の憎悪は衝動で発生し、爆発的なそれは時に殺意を伴う。
後先を考えない、否、考える事すら無いそれは、故に澱みの無い純真な毒。
「透明な殺意」
加持の脳裏を過ぎるコンヴィクトのテキスト群。
福音の名を騙る悪意、稚拙な物語、その根幹はとても単純で。
つまり彼等は純粋に ―― 殺したい。
「でも、きっと」
後ろめたいんでしょうね、と彼女の口が歪む。
「そう教えられるからな」
「大人から、ですよね」
「ああ、それは悪い事だ、間違っている、いけない事なんだと」
「その狭間で殺意を消化出来ない場合は? 」
大人は時に自身を否定する、それを糧に成長して来た経験から。
ならばその経験の無い子供は? と彼女の口元がより一層艶やかに歪む。
「自分は間違っていると認めたくない、自分自身を否定したくない」
単純にして二元化された悪意 ―― 自分は善だ相手は悪だ。
ならば大丈夫だ、ならば何をしたっていい、思うがままに。
「だからこそ、それを正しい事に置き換えようと歪んでいく」
あの物語の主人公達は正義を叫ぶ。
「その結果どうなると思います?」
自分こそが正しいと。
「もう一つの愛に変換されるんです」
自分だけが愛しいと。
「自己愛という歪んだ愛に」
欺瞞と真実をすり替えて。
「だから自らを正当化する為に悪を生み出す」
自分勝手で我侭で残虐で馬鹿で無能。
「彼等は正義という自己愛の為に悪が必要なんです」
それは邪悪のステレオタイプ。
「だから彼等は、みさとを求める」
それは鏡に映る己の姿。
「その為のコンヴィクト」
己の罪は。
「断罪と言う名の一人舞台」
己が捌くのだ。
「喰われてしまった自分に気付いても」
その女の首に手をかけ絞め殺す己の姿を見るがいい。
どんな顔をしている? 解かるだろう、判っている筈だ。
まるで自慰に耽る様に愉悦に浸るその顔を見るがいい。
だらしなく呆けるその笑みを見るがいい。
見たくはない? そうだろう、お前はいつだって目を伏せる。
「それでも目を閉じ耳を塞ぐ。何も見えない聞こえない、と」
ならばもう一度その女の顔を見るがいい。
自分にとても似ているだろう? 瓜二つ? 当たり前だ。
お前が貶め犯し殺すその女は自分自身なのだから。
己の首を笑いながら締め快楽を得るフリークス、それがお前だ。
「だから彼等は求めるんです」
自らの正義に酔いたいが為に彼等は悪を求める。
自身から抽出された悪を倒す快楽を延々と貪ろうと夜を明かす。
「求めよされば」
「与えられん、ですよ」
微笑みながら彼女は頷く。
「だからか」
「何がですか」
「黒き月だよ」
「ああ、あれですか」
「外部からの圧力に自閉、内部からの衝動で暴発、だよな」
「子供の心みたいでしょ? 」
「ぴったりだ」
「ええ、とても相性が良いんです」
物語を生み出すプラント、世界の製造器、黒き月。
「月は種、それは知ってますよね」
「土地に根付き芽を出し繁るもの」
「はい」
かつてこの地に落とされた黒と白の月。
ヒトと使徒、欲望と無垢を内包した二つの種。
黒い種からはヒトが生まれ、白い種には使徒が眠る。
「元はどちらも同じモノなんですけどね」
先に稼動した方が黒、後に稼動したほうが白、二つで一つのユニット。
「そういう仕組みらしいですよ」
黒き月から生まれたヒトは欲望を糧に生と死と成長を繰り返し、群体として地を覆う。
しかし彼等は気付く、自分達は不完全な存在だと。そして求めるのは無垢なる完全。
他者を必要とせず己のみで完結する、たったひとつのもの。
群体は魅せられる。黒は白に魅せられる。そういう風に出来ている。
限りある生と他者を必要としながらも傷付け合うジレンマが有る限り物語は始まる。
「ま、根付く場所次第ですよ」
「問題は土壌って事か」
豊穣な土であれば豊かに実が成るだろう。
痩せた土であれば乏しく実が這うだろう。
では、そこが毒の染みた土であるならば。
「それでも芽吹き実は成るんです」
「プランターか、コンヴィクトは」
土を移し変えた小さな小さな電子の箱庭。
そこにはとびきり甘い実が成ると言う。
喰らう者を虜にする毒の実が。
「良く育つんです」
虜にされた者はやがて地に伏し息絶える。
「どんだけ喰ったんだ? 」
「彼らが殺した分だけは」
土は亡骸を取り込み再び実を成らす。
「でも、もうこの物語は」
皮肉ですよね、と彼女は笑う。
「その憎悪でしか繋ぎ止めておけない」
いつしかその土には毒の実しか成らなくなった。
「でも、いえ、だからこそ愛しい」
しかし、彼等が居るからこそ続くのだ。
それが自己愛という甘い甘い毒の実であろうとも。
小さな小さな箱庭、けれど間違いなく世界の欠片。
「コンヴィクトが何故発生したのか、解かるでしょ? 」
豊かな土地に生えた実は、豊穣ゆえに繁り過ぎやがて飽きられ消え行く。
痩せた土地で生えた実は、その身を削り過ぎた為に枯れ果てた。
「物語を延命する為か? 」
「まあ、そんなトコでしょうね」
最後に残ったのは毒に犯された土地。
其処に成る甘い甘い実は、彼等を虜にし離さない。
それが毒だと解かっても彼等はそれを離さない。
次々と倒れ込む同胞の亡骸を押しのけて彼等はそれでも実をかじる。
「そんなのに頼るなんざ、もう随分とガタが来てるんじゃねえか? 」
空を見上げ溜息をつく加持。
かつて空の彼方よりこの地に落ちた二つの月を想い。
「誰が始めたんだよ、こんなの」
その問いにさあ、と首を振る彼女。
「神様とかじゃないんですか」
「やけに投げやりじゃねえか」
「あたりまえです、おかげでこっちはいい迷惑。
きっと作った当人だって忘れてますよ、もうサジ投げちゃってますよ」
「無責任なもんだな、おい」
「それが神様ってもんです」
神様は居るのだろう、間違いなく。
けれど神様は残酷なほど純粋で世界を動かす事だけ考えて。
その前ではヒトの願いなど塵芥、風の中で舞い散る葉のようで。
神様は居る、間違いない。けれどその純粋さに誰もが耐え切れず逃げ狂う。
「でもお前は」
離してくれたんだな、と加持は言う。
自らを保つために必要な苗床を、大切な贄を。
藤木シンジを、貴重な糧を。
「あの子を帰してくれた」
帰した? と、首を傾げる彼女。
「違うのか? 」
少し困ったように笑い。
「手を離しただけです」
力なく彼女は首を振る。
「あとは自分次第、選ぶのはあの子」
どこか淋しげな笑顔。
遊び相手を亡くした子供のような。
「うーん」
釈然としないまま赤い空を見上げる加持。
「ま、それも終わった事だ」
加持の脳裏に浮かぶ月の最期。
爆音と共に地の底へ落ちていく黒き球体。
世界の子供達を抱き闇の底へ。
自らが張り巡らせた糸と共に沈んだ黒き棺。
そう、全ては終わった。ジ・エンドだ。
「終わった? 」
彼女は言葉を変える。
「いいえ、加持さん」
彼を縛る記号で呼ぶ。
「終わっていたんです、あれは」
「終わって、いた? 」
その言葉、その意味に気付き加持は目を見開く。
そうだ、何故気付かなかったのかと。
今、こいつは目の前に居る。
本体も子供達も跡形も無く消え落ちたというのに。
それなのに何故、お前は存在する事が出来るのか。
「タージエの意味、知っていますか? 」
プログラム・タージエ。
黒き月の複製計画、目的は同一線上での並行世界構築。
タージエ、タージィエ、大姐、それは一番上の姉を指す言葉で。
「大きなお姉さんですよ」
あれは複製、その亡骸。と、赤く燃える空の下で彼女は笑う。
その笑顔を凝視し加持は思い出す、あいつの言葉を。
―― やがて、みさとは黒き月すら飲み込む。
「まさか」
―― こんな筈じゃなかった物語を、こうであって欲しい物語へ、願うの。
「お前は」
彼女はただ微笑む。
「こう思った事はありませんか? 」
意味も無く意図も無く。
「自分は所詮記号に過ぎないと、誰かが記したインクの染みに過ぎないと。
誰かが打ったテキストのほんのわずか数バイト、塵の様なデータに過ぎないと。
誰かが書いた戯曲の中で踊り踊らされている演者に過ぎないと、もしくは。
誰かが作り、他の誰かに伝わる事によって初めて動き出すキャラクターに過ぎないと」
ただ、微笑む。
「そう思った事は、ありませんか」
きっとその笑みは全てを呑み込むのだろう。
「記号は誰かに伝わることで初めて意味を成す。
書き手がいて、読み手がいて、初めて成立するのが物語。
けれど、書き手も舞台も役者も観客ですら全てが劇の一つだと考えるならば」
「誰も降りられない、と? 」
「ええ。誰かが降りればこの劇は終わるから」
微笑みながら彼女は、その手を彼の前へと差し出す。
「だからこそ、誰も逃げられない」
加持の眼の前、手の中に握られた紙パック、その像が歪み ―― 消える。
「世界は既に、お前の」
腹の中、か。
加持の問いに彼女は笑う。
笑いながら静かに挙がる片手。
赤く燃える空へと伸びる白い指。
「ねえ、加持さん」
それを合図に彼方から聞こえる音。
ぞるっぞるっ、ぞぶっぞぶっ、と鼓膜の奥で何かが囁く。
「もし、あなたが」
ぞるぞるぞるぞるぞるぞるぞるぞるぞるぞるぞるぞるぞるぞるぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっ
ぞぶぞぶぞぶぞぶぞぶぞぶぞぶぞぶぞぶぞぶぞぶぞぶぞぶぞぶぞぶっぞぶっぞぶっぞぶっぞぶっぞぶっ
「世界を選べるとしたら」
湧き出でる音、這出でる音、地の底から噴出す音、やがてそれが耳を覆う。
囁きに過ぎなかったその音が濁流となって押し寄せる。
「どんな世界を望みますか? 」
ぞるぞるぞるぞるぞるぞるぞるぞるぞるぞるぞるぞるぞるぞるぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっ
ぞぶぞぶぞぶぞぶぞぶぞぶぞぶぞぶぞぶぞぶぞぶぞぶぞぶぞぶぞぶっぞぶっぞぶっぞぶっぞぶっぞぶっ
ぞるぞるぞるぞるぞるぞるぞるぞるぞるぞるぞるぞるぞるぞるぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっぞるっ
ぞぶぞぶぞぶぞぶぞぶぞぶぞぶぞぶぞぶぞぶぞぶぞぶぞぶぞぶぞぶっぞぶっぞぶっぞぶっぞぶっぞぶっ
「貴方の願う世界は? 」
遠く山並から地平線の彼方から水平線の彼岸から湧き立つ数多(メンゲ)。
目に映る景色、世界の端々から立ち上がる巨大な黒き蛇の群れが視界を覆う。
そして押し寄せる。黒いものが押し寄せる。濁流となって押し寄せる。
押し寄せるそれは墓標の様なビルを倒し道路に溢れ家を呑み。
箱庭の街を埋め空を覆い舞台の書割すら破り捨て。
世界を、世界を、その全てを、ただ黒に染め上げて。
「知るか」
その光景を加持は見つめる。
瞳に何の感慨も無くただ映す。
「そう言うと思いました」
そして漆黒。
右も左も、天も地も。
全てが塗りたくられた黒の中で佇む二人。
暖かい、静止した闇の中で。
「何故俺に聞く」
「出来るかも知れませんよ」
「んな訳ねえだろう」
「おかあさまは言いましたよね? 貴方は常に適応すると。
冬月リツコは言ったでしょう? 貴方は世界に擬態すると」
「ああ、俺は」
ばけもの ―― そう続けようとする加持を彼女は制する。
「おかあさん ―― 冬月リツコは。
白き月に満たされた無垢なるもの、“糸”を持たない第七素体がベースとなっています。
しかしヒトは彼女を制御する為にヒトを縛る糸 ―― 行動特性遺伝子をあえて注ぎました。
本来“糸”に縛られない存在であった筈の彼女を物語に絡ませた。何故だと思います?」
「物語を内部から破壊し改変する為だろう? 」
「でもそれは劇薬、いえ爆薬です、全てを破壊しかねない、それなのに何故でしょう」
「そのリスクを犯してでも手に入れたい物があったと? 」
「白き月の第七素体を増殖器でもある黒き月に移植し培養、精製を行い、抗体を抽出する」
「抗体? ワクチンかよ」
「彼等が欲していたもの、彼等の悲願、それは物語に楔(くさび)を打つ事。
分岐を重ね変容し続ける物語に打ち込まれた唯一のもの、決して流されないモノ」
加持は問う。
「それが俺、だと? 」
はい、と彼女は頷く。
「絶対静止基準点、物語のクロッシング・ポイント」
全ての世界が繋がる点、それが貴方です。と彼女は告げる。
「貴方は貴方で在れ、それは彼女の願い。
故に物語がいくら干渉しようとも貴方はそのコマンドを実行し続ける。
世界がいくら作り変えようとしても、あなたは貴方であり続ける。
そして世界はあきらめる、諦め貴方にひざまずく」
繰り返し行われる世界の変容、現れては消える物語。
上から下、右から左、流れて行く数多の世界、その交差点で彼は佇む。
「貴方はもう変わらない。世界が貴方に適応するんです」
そして彼女は頭を下げる。
「どんなに物語が変容しようと、移り変わろうと貴方だけは其処に居る」
胸に手を置き、慇懃にこうべを垂れる。
笑みの消えた顔で、王よ御命をと言わんばかりに。
御覧下さいませ、御目の前で世界が跪きましたよ、とでも言うように。
「貴方は彼女の願いから生まれたもの」
何も無い透明な顔。
「でも、彼女はもう居ない」
ああ、と加持は答える。
微かな苛立ちを語尾に含ませその通りだと彼は頷く。
けれどその苛立ちは、眼の前の彼女へ向けてでは決して無く。
彼女を失った喪失感さえも己の中で適正化してしまった自分への苛立ち。
「でも、貴方は此処に居る」
「ああ、俺はココに居る」
「それは貴方の意志ですか? 」
泣いて、と彼女は言った。消え逝く自分を見届けてと。
それだけでいい、と。私はそれだけでいい、と。
彼はその言葉通り彼女と、彼女が愛したであろう者達が消え行く様を見送った。
そして彼は残された。たったひとつのものとして。
「それがどれ程恐ろしい事か解かりますか? 」
彼はもう、何処へも行けない、何処へも戻れない帰れない。
もう彼に願うものは無い、故に彼は存在し続ける、未来永劫、見続ける者として。
例え全てが終わったとしても、誰もが歌い止めたとしても、彼だけは。
「加持さん、ならばせめて」
彼女の手が加持の頬に触れる。
冷たい手、まるで冬の鋼。
貼り付けば固着するような痛さ。
「わたしと」
「ざけんな」
彼はその手を払いのける。
「それでいいんですか? 」
微笑みの消えた彼女の顔は、何故だろう、あいつの面影が重なる。
「世界が変わろうと自分だけは変わらない、誰も彼も消え去っても自分だけは其処に居る。
その孤独にすら適応し発狂すら許されずただ見届け見続ける泥濘の安寧、その恐怖に貴方は」
だから、と払われた腕が再び挙がる。
「私なら」
触れた頬から皮膚に染み込み脳裏に反射する光景。
「貴方の夢を」
夕暮れの街 ―― 沈む日と瞬く星。
「貴方の望む、世界を」
灯り始めた街灯と家の明り。
道に伸びる三つの影。
この手を握る小さな手。
あいつと、この子と、三人で手を繋ぎ家へと歩く帰り道。
つい、口元が緩む。
どうしたの? と、あいつが微笑む。
なんでもない。と、笑い返す。
へんなおとーさん! と、あの子も笑う。
三つの笑顔を夕日が照らす。
握った手から伝わる温もり。
たったそれだけのこと、それでも。
幸せだ、と彼は思う。たまらなく幸せだ、と。
その幸せに泣きそうになる、その幸せに狂いそうになる。
泣いてしまえ、狂ってしまえ、と何かが囁く。
それもいいだろう、それでいいのだろう、けれど。
これは刹那の夢、一瞬の永遠 、ならばもう充分だ。
「さあ、私と一緒に」
その光景を瞼に焼付け、目を閉じる ―― そして。
「俺から奪うんじゃねえ」
しかし、その腕を男は掴む、握り締め冷たい腕を引き剥がす。
「孤独も恐怖も、俺だけのもんだ」
引き寄せられた腕、身体、二つの唇の距離数センチで呟く言葉。
「あいつからの贈り物だ」
そのギフトは化物をひとがたに縛る。
「だから、奪うな」
いつかこの孤独もその恐怖も男は躊躇無く噛み砕くだろう。
あの、透明な眼をしながら何事もなく笑うだろう。
けれど忘れない。彼女を失った記憶は、その時感じた痛みは、流した涙は忘れない。
それがたとえ幻であろうとも構わない。その時の記憶がある限り男は加持リョウジとして在り続ける。
それが、ひとでなしのばけものであろうとも、彼は彼なのだ。
「なあ」
加持は静かに問う。
「そんなに俺が欲しいか? 」
その言葉に彼女の眉が釣り上がる。
「もう、いいです」
彼を睨み言葉を放つ。
吊りあがる口の端、欠けた月のような赤い唇。
そして黒が、闇が彼女の体から滲み出す。
「貴方が手に入らないのなら、私は」
ぞるぞるぞるぞるぞるっぞぶぞぶぞぶぞぶぞぶっ、と音を立てタールのような闇が加持の体に絡みつく。
「何もいらない」
足元を伝い腰を腹を胸を這い腕に絡み喉元へとせり上がる黒き蛇の群れ。
「いいさ、喰えよ」
笑う加持の口元から覗く犬歯。
口の端と端を吊り上げ凄絶に笑う彼女。
彼へと雪崩込む蛇、その時。
「そんな気も無ぇくせに」
ぶつり、と犬歯が蛇を噛み切る。
飛び散る黒い血、のたまう蛇、唸りせせら笑う男、睨む彼女。
「何故そう思うんですか」
「何故? お前がそれを言うか」
そう、お前は。
「言え、お前は誰だ」
お前は何だ、と加持は問う。
「私は」
一瞬、目を伏せ。
「アタシは」
そして再び。
「アオバです」
笑う。
「だよな」
加持が微笑む。
ふう、と溜息を付くアオバ。
「なんだ、バレてたんスね」
その瞬間口元から弾け飛ぶ蛇、彼を覆う黒きものたちが霧散する。
「でもちょっとはビビったっしょ? ねえ、ねえ? 」
「うっせーよこの大根役者」
「ふうん」
と悪戯な笑みを浮かべながら。
「何で解かったんスか? 」
「お前が言ったんだぜ」
青い箱の様な車の中で。
夕暮れに沈む墓標の街を眼に映し、アオバがふと漏らした言葉。
「覚えてたんスか」
「実はついさっきまで忘れていた」
「ひどいひどすぎる、このひとでなし」
「おあいこだこの野郎」
ですよねー、と笑うアオバ。
「貴方はアタシを引きずり出してしまったんです」
困ったもんです、と他人事のような顔で。
「私は、確かにみさとでした」
彼女の声が闇に溶ける。
「貴方を喰おうと狙っていました」
男を初めて見た時、彼女の心は囚われた。
「けれど私は」
茫洋とした瞳、その奥、鈍く輝く鋼の光。
「出来ませんでした」
ああ、この人は笑いながらも決して慣れない、隙を見せれば誰だろうが牙を突き立て噛み千切る。
いつだって飢えている、これはそうだ、獣だ。決して満たされる事の無い獣の眼だ、そして、それは。
「どうしてだと思います? 」
ああ、このひとは。うつろな瞳で横たわり触れる全てをただ喰らう。
冬月リツコの、リリスの願望から生まれた存在、彼女が欲したただひとりの男。
けれどその本性はヒトも使徒も世界さえ、そ知らぬ顔で平らげる ―― わに。
「さあな」
私はこの眼を知っている。合わせ鏡に映るこの瞳。
同じ眼をした存在が私を見る読む噛む抉る、奥まで、更なる深奥まで。
レセプターが、全感覚の受容体が無条件に花開く。
引き摺り込む為の手、それが逆に掴まれる、来い、こちらへ来いと喰らい付く。
喉下に突き立てられた犬歯、圧倒的な飢餓、足りない、まだ足りないと。
そして私は囚われる。その存在に魅せられ喰われひざまずく。
「この女たらし」
ああそうともそうだとも、化物だって恋をするのだ。
「うるせえよ」
微笑むアオバ、苦笑する加持。
「なあ」
「あい」
漆黒の中で茫洋と佇む男。それを見つめる女。
「また始めるのか? 」
彼は問う、彼女の形をした黒き月へ。
「でしょうね」
お前は何処へ行くのか、どの様な世界を作り、また数多のヒトを弄ぶのか。
明日の世界という舞台で再び糸を繰り直し一体何を作るのか。
「何度繰り返せば気が済むんだ」
「誰かの気が済むまで」
「既に消えた誰かのか? 」
永遠も半ばを過ぎればただの一睡、醒めない夢など無いというのに。
終わる世界を、結ばれた物語を、それでもお前は紡ぎ続けるのか。
「俺は留まり続け」
「私は回り続ける」
「同じ所をぐるぐると?」
回せ回せ物語を回せ、回れ回れ世界を回れ。
世界をお前中心に回せ、世界はお前抜きで回る。
「バターにでもなっちまえ」
けれど俺は此処に居る。回る舞台の片隅で。
手を出さず、手出しをさせず、見続ける。
けれど、本当に孤独なのは俺じゃない。
「ただのシステムで良かったのに」
彼女の声。その呟きはアオバか、みさとか、それとも黒き月か。
「舞台を回す冷たい歯車のひとつで良かったのに」
感情など不要だった、愛など知らずただの装置で居たかった。
「けれど、中途半端に優しいんですよね、神様は。
こんなばけものにさえ想いを乗せて。それって本当に、残酷」
加持は答えない、否、答えられない。
「でも、だからこそ」
なぜなら、その想いは同じだから。
「それでも願っちゃ、駄目ですか? 」
たぶん、その願いは同じだから。
「願えよ」
加持の口が開く。
「聞いてやる」
その願いは神様では無理だ。
その望みは俺でしか聞けない。
だから願え、望め、そのくらいは許される。
「いいんですか」
「おうよ」
「マジですか」
「本気と書いてマジだ」
一瞬、彼女の眼が揺れる。そして。
「ありがとう」
微笑み彼女は歩を進め、茫洋と佇む加持の眼前へ。
「それじゃ、もう一つ」
「まだあんのか」
「ダメっスか? 」
―― ありがと、もう一つはね。
そうだったな、あいつもお願いは二つだった。
なんだかんだで似てやがる、と苦笑する加持。
「いいぜ、なんだ? 」
へへへー、と無邪気に笑い。
かかとを挙げ、男の頬に両手を添え。
「えいっ」
触れるくちびる。
「これで、おなかいっぱい」
その瞬間、暗闇が霧散する。
「おお」
暗幕を切り落とす様に突如流れ込む眩しい光。
反射的に目を瞑る。
しかし閉じてもなお瞼の裏から眼窩を刺すオレンジの光芒。
そして頬に当たる風。
静かに開いた細目から漏れる色、ブルー。
「ほら」
雲一つ無い空の下、いつもと同じ朝、眼下に拡がる箱庭の街。
「今日が始まりますよ」
何事もなかったかの様に戻った景色、遠く山間から顔を出す太陽、けれど。
「行くのか? 」
その言葉に頷く彼女。日に背を向けたその輪郭は。
「いつだってばけものは、朝日に溶けるんスよ」
光を遮らずに透けていた。
「お前は、ばけもんなんかじゃねえ」
「じゃあなんスか?」
その姿に触れようと加持は手を伸ばす。
「ただの行き遅れだ」
べーっ、と舌を出すアオバ。
儚い輪郭、その口元が笑みを作る。
加持の伸ばした手が空を切る。ただ、空に泳ぐ。
そして、日が昇る。
その眩しさに一瞬、目を閉じる。
そして開けば案の定、彼女は跡形も無く消えていて。
まるで始めから其処になど居なかったかのように、しかし。
「ふん」
―― センパイにだけは、覚えていて欲しいなあ。
「忘れるもんか」
それだけが彼女の願い。
ただそれだけが彼女達の望み。
憎悪と共に生まれ忘却と共に消える、みさと達の祈り。
「決して忘れるものか」
物語が変わっても。
世界が消えたとしても、彼だけは忘れない。
「覚えてるさ、ずっとな」
そして、風が吹く。
遠く海から山を越え朝靄を散り飛ばし加持の頬を撫でる。
前髪を揺らし屋上を吹き抜けふわりと軽く舞い上がる。
見上げれば雲ひとつ無い洗いざらしのブルー。
真っ青な空の下、いつもと変わらぬ箱庭の街。
けれど始まった今日が、昨日からのバトンを託された明日であるとは限らない。
新しい一日、その言葉通りに始まった今日。
けれど此処にはもう、彼が居る。
託された記憶、世界の欠片のひとつを刻み、加持リョウジが踵を返す。
さあ、物語を見届けよう。
presented by グフ様
「シンジ? 」
随分と長い夢を見ていたような気がする。
「シンジ !? 」
目を開ければそこに。
「おじ、さん?」
髭面の叔父さんが居て。
「ヒカリさん! シンジ、シンジがッ! 」
涙ぐむ母さんが居て。
「かあ、さん?」
ああ、夢は醒めたんだ。
「シンジぃ! 」
ああ、帰って来たんだ。
「シンジ、シンジっ!」
どんな夢だったのか。
何処から帰って来たのか。
それすら思い出せないけれど。
その後、叔父さんは色々な事を教えてくれた。
僕は一年くらい眠っていたらしい。一時期は相当危なかったらしい。
その原因が何処かのサイトらしかった事、それを調べてくれた刑事さんが居たらしい事。
母さんが何度か倒れた事、叔父さんは仕事を休んでずっと付き添ってくれていた事。
「シンジぃ、こんどまた変な奴にハマってみろぉ」
ひと月に渡るリハビリが終わり、母さんと一緒に見送りに来た駅で、別れ際に叔父さんは言った。
「そん時はぁ、地球の裏側からでもぉ、かッ飛んで来てぇ」
大げさにゲンコツを作り、息を吹きかけるジェスチャーで。
「お前を、殴りつけてやるからな! 」
笑う髭面が嬉しくて涙があふれる。
叔父さんの太い腕が泣きじゃくる僕を力強く抱きしめる。
そして手の平でぽんっ、と軽く肩を突き列車に駆け込んだ。
僕はホームの果てから遠ざかる列車を、彼方へ消えていく影を、いつまでも見送った。
叔父さんはまた仲間達と旅に出るらしい。足腰立たなくなっても一生そうするんだ、と。
最後に僕の肩を突いたのはきっと、お前はもう一人で立て、という彼なりのエール。
もっとも、その事に気付いたのは随分経ってからの事だけど。
そして僕は歩き始める。
夏を秋を冬をそしてまた春を、いくつもの季節を進む。
様々な経験を経て色々な事を覚え、引き換えにいくつかの事を忘れ、それでも振り返らずに。
慌しく流れていく日常、喧騒と停滞とささやかな平穏、その中で手に入れたもの、家族 ―― けれど。
去年、妻が逝った。
母を亡くして十年目、また大切なものを僕は失くした。
僕の元に残ったのは、いま傍らで墓石に向かい静かに手を合わせる一人娘。
やっとの思いで掴んだかけがえのないものは、いつだって掌から零れ落ちる。
その時僕は思い出した。何故この感覚を今迄忘れていたのだろう。
あの日、僕は感じた筈だ。
空白の14歳、何があったのか未だ思い出せはしない、けれど。
目を開けたあの時、僕はそれを確かに強く強く感じた。
安堵感と暖かな気持ちの奥で急激に湧き上がるその感覚。
何かとても大切な物を、何処かに置き去りにした、あの喪失感を。
【最終話】ワールドオンフールズ
「お父さん」
「ん? 」
一周忌の法要が終わり来客も一人また一人と消え、そして二人きりの家。
がらんとした部屋の中、横顔を暮れかかる西日に照らし、彼女がぽつり、と呟く。
長い黒髪の後姿、頬に涙の跡を残したままで。
「ご飯、今晩からわたしが作るから」
男はネクタイを緩め、彼女の前に膝を付く。
「どうした、今日の当番は俺だぞ」
「いいの、わたしがやる」
ポケットからハンカチを取り出し、ほら拭きなさい、と渡し。
いきなりどうしたんだ? と尋ねれば。
「わたし、もう中学生だよ」
その答えに首を傾げる。
「そうだ、これからはもっと忙しくなる、だから」
一緒に助け合ってだな、と続く言葉に小さな顔をふるふると振り。
「違うの」
「何が違うんだ? 」
「甘えちゃいけない。わたし、しっかりしなきゃいけないの。
泣いてばかりはいられない、もう頬杖はつかない」
その言葉が胸を突く。
「わたし、もう大人なんだよ」
「そうか」
子供だ子供だ、と思っていたのに。
その胸に込み上げる想い、染みていく寂しさ。
「偉いなあ、父さんがお前くらいの頃は」
「どうだった? 」
彼は微笑む。愛娘の頭を撫でながら。
「ガキだったよ」
ふうん、とハンカチで頬を拭いながら、男子ってそうなのよね、と彼女も笑う。
やがてぱんっ、と膝を叩き、着替えてくるね、と立ち上がり。
「お父さん、何が食べたい? 」
階段に足をかけながら振り返る顔はどこか眩しくて。
「お父さん? 」
目を細め笑う父に首を傾げる娘。
「ハンバーグ」
「なーんかガキっぽい」
「お前の好物だろ? 」
「ま、いいわ」
ふん、と胸を張り得意げな顔で。
「そんなに食べたいなら作ってあげる」
「甘えん坊も卒業か」
「何か言った !? 」
「なんにもー」
おーしりふーりふーり、ぴっぴ、ぴっぴ。
と、そ知らぬフリで小さい頃、彼女が得意げに踊っていた拍子を口ずさみ。
「もうっ! 」
ぱしっとハンカチを投げつけドスドスと階段を昇っていく足音。
真っ赤に頬を膨らませた愛しいその後姿へ、彼はそっと呟く。
「ありがとう、あすか」
愛娘の名前を呟き微笑む。ただ、微笑む。
笑わなければならない。こういう時は笑わなければいけないのだ。
そうだろう、子の自立を喜ばない親など居ない、そういうものだ。
けれど、何だろうこの気持ちは、このやるせなさは、せつなさは。
これは、この既知感はきっと。
あの喪失感だ。
■
「藤木君」
「あ、はい」
車窓に映る一週間ぶりの街は、やけに華やかで。
「疲れたか? 」
「そう、ですかね」
「すまんな、急な出張に付き合わせてしまって」
「いえ、仕事ですから」
冷たい雨の振る冬の夜。フロントガラスを流れる水滴。
「もう今年も終わるんだなあ」
滲む光の渦、彩られたイルミネーションを見つめ上司の米所が呟く。
「確か娘さん、今月が誕生日だったかな」
「はい、実は明日」
と腕時計に目を移せば24:00の表示。
「いえ、今日ですね」
「おお良かった。娘さんに恨まれずに済む」
「しかし良くご存知で」
「前に言ってたじゃないか藤木君。
以前クリスマスと一緒のプレゼントにしたら口聞いてくれなかったって」
「そんな事もありましたねえ」
あれはそう、まだ妻が元気だった頃の話だ。
けれど今の彼女を思うに、それはもう遠い昔話に思える。
「女の子はすぐ大きくなるよなあ」
「常務も確か娘さんが」
「ああ、上の子は車が欲しいとさ」
「もうそんなに」
「嬉しいが、やっぱり切ないよ」
ふう、と同時に息を吐く二人、やがて。
「すまなかったな、心配だっただろうに」
年端のいかぬ娘を一人置き、一週間の出張に同行させた後悔からか米所が頭を下げる。
常務、そんな止めて下さい、と慌てて止める藤木。
「娘なら大丈夫です。親の私が言うのもなんですが本当に生意気なくらいしっかり者で。
どちらかと言えば家じゃ私の方が尻に敷かれて、本当に情けない限りですよ」
流れ行くイルミネーションの光を目に映し、藤木シンジは思う。
本当にあの子は大きくなった。背伸び気味だった一年前とは比べ物にならないくらいに。
意志の強い子だ。本当に、本当に大人になった ―― でも、それは。
「プレゼントは買ったのかね? 」
米所の問いかけに藤木の思考が引き戻される。
「ええ、ギリギリでしたが」
と足元の袋を取り出し。
「お、S.A.Lか、しかも赤」
有名ブランドとのコラボモデル、と言っても興味無い者には変なサルのヌイグルミ。
「本当に良くご存知ですねえ」
「娘が集めていてな、でも赤は確かサンタダとのコラボで入手困難な限定品、だったかな」
「偶然手に入ったんですよ、運が良かったんですね」
もちろんそれは大嘘で。
出張先で隙を見ては何度も抜け出し駆けずり回りやっと手に入れた最後の一体。
ラッピングは間に合わなかったが、そんなものはゴミになるだけ、と笑いながらきっとあの子は言うだろう。
けどまあ、ぬいぐるみ、か。何だかんだでやはり子供なんだよな、と心底嬉しそうにシンジは笑う。
「娘さん名前は? 」
「あすか、です」
「あすかちゃん、か。良い名前だ」
本当に良い名前だ、と腕を組みうんうん、と頷く米所。
「あ、運転手さんここで」
と、家の近くでタクシーを止め降りるシンジ。
「藤木君また来週。ゆっくり休めよ」
窓を開け労う上司に深く頭を下げ。
去り行く車を見送った後、冷たい雨の中早足で急ぐ。
「あれ? 」
家の前に立つ彼の口から思わず漏れた言葉。
明りの灯らぬ暗い玄関、おかしい、とシンジは思う。
あの子はいつも自分が帰って来るまで明りを消した事は無い。
ましてや出張中は防犯の為にも夜は灯し続けるように伝えた筈だ。
「もう寝た、かな? 」
不安を紛らわす為の独り言を呟き、ドアに手を掛ける。
しかし、手から伝わる感触は微かな希望を打ち砕く。
開いた。
鍵は、掛かっていない。
心臓が早鐘の様に鳴り響く。
急激に襲い掛かる圧迫感と戦いながら靴を脱ぎ捨て。
「あすか! 」
暗い家の中響く声、けれども返事は無く。
「返事をしなさい、あすか!」
荷物を投げ捨て階段を駆け上がり彼女の部屋の前で止まる足。
半開きの扉から漏れる青白い光、未だ消えぬ動悸がドアを開けとせき立てる。
ノックすら忘れ彼の手がドアを開け放つと、そこに。
「あすか? 」
ベッドの向こう、勉強机の上で光を放つモニター。
その光が、机上でうつ伏せに横たわる彼女の輪郭を青白く照らす。
「あすかッ! 」
駆け寄り肩に触れるとずるり、と崩れ落ちる少女。
反射的に彼は娘を抱き止める ―― その時。
かがんだ彼の鼻先、視線と同じ高さに煌々と光を放つモニター。
そして彼は直視する、そこに浮かぶものを。
彼、藤木シンジが見たもの。
それは ―― アルファベット9文字。
" Convicted "
■
雨は朝方に止んだらしい。
冬の午後、水溜りを避けながら帰路に着く。
「お父さん」
「ん? 」
病院からの帰り道、手を繋ぎ歩く二人。
「ごめんね」
「あ、いや」
―― 睡眠不足と軽い栄養失調ですね。
―― はい?
医者の言葉に彼は気の抜けた声しか出せなかった。
点滴は午前中で終わりますから後はご自宅で静養下さい。
その言葉を聴き、初めて肩の力が抜けるシンジ。
すうすうとベッドで寝息を立てる彼女の顔は間違いなく愛娘で。
それでもなお、胸の奥でごろりと固まるしこりはきっと錯覚で。
見覚えのあるあの英単語もきっと何かの勘違いで。
そう、思いたかった。
「一体どうしたんだ? お前らしくも無い」
「うん、あのね」
立ち止まり、うつむき、そのまま彼女は口をつぐむ。
「どうした? 」
「うん」
目が覚めてから何度目かの同じやりとり。
けれどもここで、いつも彼女は言葉をつぐむ。
ふうっ、と彼は軽く溜息を吐き焦る事は無いか、と思い直す。
この子が無事だった事が今は何よりも有り難い。
話題を変えよう、と再び彼は口を開く。
「俺の方こそ」
ふと漏らしたものは悔恨。
「悪かったよ」
仕事とはいえ一週間も家を開けて。
良く考えてみれば彼女はまだ14歳、しっかりしてるとは言えやはり子供。
この子らしく無い? 違う、これが普通なのだ。
そう、子供なのだ。彼女はまだ子供なのだ。だから悪いのはこちらの方だ。
子供に対し、信頼という名を借りた無自覚な依存を行ってしまった自分のせいなのだ、しかし。
「なんで? 」
ぎゅう、と繋がれた手に力が篭る。
「なんでお父さんが謝るのよ」
ぎりっ、と彼の手が締められる。
「あすか」
「悪いのは私なのよ」
その力が増して行く。
「痛いよあすか」
万力のように彼の手を締め付ける。
「私は大人なの、だから悪いのは私なの。
お父さんの信頼に答えられなかった私が悪いの。
だから悪いのは私なの、私だけが悪いの」
手から伝わる激痛が彼の視界を歪ませる。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」
けれど、折れそうな手の痛みさえその言葉の前では麻痺をする。
「生意気でごめんなさい、我侭でごめんなさい、自分勝手でごめんさい、
自己中でごめんなさい、傲慢でごめんなさい、人の気持ちを考えなくてごめんなさい」
光の消えた瞳が自分の落とした影を見つめ、繰り返し漏れる呪詛。
「あすか! 」
彼女の名を叫び力の限り腕を引く。
けれど引き過ぎた力の反動が二人の姿勢を崩し、彼は娘を押し倒す。
冷たい飛沫に濡れながら水溜りの中に倒れこむ二人。
「しっかりしろ、どうしたんだよ、おい! 」
掴む腕を振りほどき、水溜りの中で虚ろな眼をした娘の肩を揺らすシンジ。
濡れる体、揺れる身体、飛沫する水滴がその冷たさが服を濡らす。
それでも彼女は繰り返す、壊れたプレイヤーの様に繰り返す。
「本当は弱いくせに強がって無能なくせに有能ぶって何も出来ないくせに何でも出来るって勘違いして
ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい」
うわ言のように繰り返す言葉。
「お前、あれを」
その時、彼の脳裏に弾ける文字 ―― " Convicted "
「違う!あすか違うんだ! 」
忘れていた? 思い出せない? ―― 違う。
「あれはお前じゃない! 」
目を背けたかった、忘れたかった、自分の所業を、そういう事にしたかった。
「あれは誰かの創り出したものだ!」
幼い自分が作り出した稚拙な物語を、恥ずかし過ぎる思い出を。
だから忘れたふりをして奥底に仕舞い込み無かった事にしたかった。
「つくり、だした? 」
「そうだ、そうなんだよだから」
「おとうさん、が? 」
「違う、俺は」
俺は、僕は、違う、そうじゃない。
確かにあの中には彼女を蔑む物語もあっただろう。
けれど僕は違う、そうだとも、アスカもレイも僕は愛していたよ。
皆等しく愛していたじゃないか、僕はただ、みんなが幸せになる為に。
そういう物語を僕は。
「僕は違う」
「そう、なの? 」
「そうさ、そうだよあすか」
「あいして、る? 」
「ああ、愛しているとも」
その時、彼女の口が、にぃ、と笑う。
「でも、ころしたくせに」
静かな口調。
「愛してるって言ったのに」
歪む。
「愛したふりして、愛してなかった」
薄い唇が歪む。
「貴方が愛していたのは、私じゃなかった」
微笑みながら。
「自分だけを愛していた、だから」
毒を吐く。
「殺したのね」
虚ろな瞳を男に向けて。
「ちが」
「ちがわないでしょ、シンジ」
白い手が、固まる男の顔を撫でる。
「あれは僕の書いた物語の」
「物語の中で殺したのね」
シンジ、あんた何を ―――― 赤い少女の叫び、その声が彼の脳裏に反射する。
あの狂った夢の中で、彼を弄ぶ化物と対峙するために行った事。
―― 僕はね、ミサトさん。
「ちが、う」
―― あなたと同じものになったよ。
「違うッ! 」
耳を塞ぎ男が叫ぶ、違う、違う違う、違う違う違う、ちがう!
「嘘つき」
ぽこっ、と水溜りから泡が立つ。
「英雄になりたかったの? 王子様になりたかったの? 違うでしょ」
水溜りの中、沈む彼女の黒髪がゆらりと揺れ、そして色が褪せて行く。
まるで水が色を吸い取るように黒から灰色そして白、やがて ―― 色褪せた赤錆色の髪。
「あなたはただ、殺したかっただけ」
虚ろな瞳がゆるりと動く。
「自分が作った世界の中で、思う存分殺したかっただけ」
組み伏せる男の眼を見据え、その外輪に満ちる光沢。
「身動きの取れない哀れな人形の手を足を千切っては楽しんでいただけ」
濃褐色の虹彩が、瞬く間に青く染まる。
「気持ち良かった? 」
二対の青、彼を捉えるブルーアイズ。
「ねえ、気持ち良かったんでしょ? 」
そして、呟く。
「気持ち悪い」
その言葉に彼は顔を歪め、胸を掻き毟り腕を振り上げ、そして。
「う、うおおお、おおお、おおおおお」
彼は叫ぶ。
「ウおおオおおおおおおおおおおおっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっ!」
獣の咆哮。その叫びが固まる身体を軽くする。
潜む何かを解き放ち身を任せ心を委ねその渇望に注げ情欲放て獣性。
己の喉に爪を立て頬を切り裂きその指で塞げ目と耳と鼻。
お前は何も見ない、何も聞かない、何も嗅がない。
開いているのは口だけだ、ならば言葉は只一つ。
「何が悪い」
掻き毟られた眼窩から滴る血。
「お前は、お前達は」
だらりと垂れた手が彼女の細い首に触れる。
「僕が創ったものだ」
その腕に力がこもる。浮き出る血管が脈を打つ。
「僕に逆らうな」
その指が細い彼女の首を。
「僕の思う通りに僕を愛し」
締める。
「僕を誉め、僕を称え」
力の限り、締める。
「僕を宥め、僕を敬い」
かはっ、かはっと喘ぐ喉、押され歪む青い瞳。
「僕の為に生き」
彼の腕に爪を立て引き掻き毟り肌を裂く。
ばしゃばしゃと飛沫を上げる水溜りの中で揺れる赤い髪。
「僕の為に」
一瞬、華奢な体が跳ね上がり。
「死ね」
そして、沈黙。
「ははっ」
笑う。
「はははっ」
亡骸の上で彼が笑う。
「ははははははははっ」
心底満足したように笑い尽くし。
「は、ははっ、はは、は」
絶える笑み。
「え? 」
そして、我に返れば。
「あす、か? 」
水溜りの中、目を剥き息絶える黒髪の少女。
「ひぃっ! 」
彼にとってこの上も無く愛しかった筈のものは既に。
「そんな、違う、違う」
飛び退き頭を抱えうずくまる。
「なんで、なんでこんな事を」
違う、これは何かの間違いだ。
「そうだよ、こんな事がある訳が」
間違いだ、そうだとも何故なら。
「僕がこんな事するわけないじゃないか」
そうだ僕は愛していた。
「大体お前がいけないんだ」
そうだ僕は悪くない。
「先に大人になろうなんて」
そんな勝手が許される訳ないじゃないか。
「お前は子供なんだ、そうさ、僕より先に行こうなんて」
僕を置いて進もうなんて。
「そうさ」
そんな事は許さない。
「お前が悪いんだ」
そうだ、こいつがわるいんだ、だからこうなってあたりまえなんだ。
わるいやつだからなにをしたっていいんだ、そうさそうだとも、ぼくは、ぼくは。
「僕は、悪くない」
そして、目を閉じる。
悪くない悪くない僕は悪くないと呪文の様に繰り返し、再び ―― 目を開ければ。
「え? 」
そこにはただ水溜りがあるだけで。
「あすか? 」
彼女の姿など微塵も無く。
「そんな」
立ち上がり駆け出し水溜りの中で膝を付く。
ばしゃばしゃと水面に手を入れ娘の姿を探す。
「あすか! あすか! 」
半狂乱で暴れ叫ぶ。
「あすか、あすか? 」
けれど、その名を叫べば叫ぶほど醒めて行く。
「あすか」
やがて手が止まる。
「あすか、って」
静止した彼の腕、消えていく波紋。緩やかに覚醒して行く頭。
「誰だよ」
そうだ、あすかって誰だ?
僕に子供なんて居たか?
僕はいつ結婚した? 母親の名前は?
それよりもいつ、僕は。
「僕? 」
口にしたその言葉に驚くシンジ。
何時から俺は自分の事を“僕”と呼んでいた?
「僕は」
いや違う、逆だ。
何時から自分の事を僕では無く“俺”と呼んでいた?
「僕は何時、目を醒ましたんだ? 」
今は冬じゃなかっただろうか、ならば額から滴る汗は何だ。
何時から自分は袖の無い、半袖のシャツを、この服はまるで。
額から滝のように流れ続ける汗を拭おうともせず手を入れた水溜りを凝視する。
「そんな」
その水面に映る姿は、驚きに目を見開く ―― 少年。
「夢、だったの? 」
自分の事を慕ってくれた娘も。
最愛の妻を失くした事も、得た物も捨てた物も歳月も時間も。
進み始めた日常も目覚めた時に抱きしめてくれた叔父も母も。
「全て、夢」
気が付けば足元の水溜りさえ消え。
真夏の昼下がり道路の真ん中でただひとり佇む少年。
「全てが、まぼろし」
ならば、自分が創り出た物語さえも。
そう、それならばあの ―― ばけものも。
「そうだったら、良かったのにね」
背後から女の声。
身をよじり振り向けばそこに。
「残念でした」
陽炎に揺れる道の果て、あの女が立っている。
「あなたの夢もこれでお終い」
葛城ミサトが微笑む。
「楽しかった?」
夏の陽の下で氷の様に身を固める少年。
「あんた、は」
「なあに?」
カッカッカッカッと女の靴音が無人の街に響く。
「僕を、どこまで」
「弄ぶのかって? 違うわ」
噴出す汗がまつ毛をつたり見開くまぶたに流れ込む、その刺激に一瞬のまばたき、そして。
「貴方言ったじゃない」
汗を拭いまぶたを開けると鼻面に ―― 微笑む女。
「僕が、何を」
「大人になりたかったんでしょ? 」
その腕が少年の胸倉を掴み引き寄せる。
「叶えてあげたのに」
息が触れ合うほど近くで笑う女。
「手を放してあげたのに」
にい、とその唇が吊り上がる。
「また貴方は選んでしまった」
侮蔑も無く軽蔑すらなく、ただ笑う。
「また私を生んでしまった」
何の感慨も無く吐き捨てる。
「さあ、行きましょう」
と、少年の腕を取る。
「い、いやだ」
それに抵抗する少年の華奢な体。
「いやだ、僕はもう」
必死の抵抗、地面に倒れもがき叫ぶ。
「いやだ!いやだ!」
「いやよいやよも、好きのうち、ってね」
しかし、それすら意に介さず、ずるっ、ずるっ、と片手で軽々と引き摺る女。
「もう嫌だ、僕は行きたくない! 」
「だぁめ」
ずるっ、ずるっ、ずるっ、ずるっ。
「いやだ、やめて、やめてよ! 」
ずるっ、ずるっ、ずるっ、ずるっ、ずるっ、ずるっ。
「それは無理なの、だって」
ずるっ、ずるっ、ずるっ、ずるっ、ずるっ、ずるっ。
「貴方が願う限り、私は現れる」
彼女は進む、軽い少年を引き摺りながら。
「さあ、また殺し殺され殺し合いましょう」
その先に待つのはあの車、フレンチブルーのアルピーヌ。
「いやだ、いやだ、いやだっ! 」
始まりの場所で彼を迎えに来た青い車。
泣き叫ぶ少年を放り込み、その耳元で葛城ミサトは囁く。
いつものように、優しく。
「逃げちゃ駄目よ、自分自身から」
閉まるドア。固まる少年に笑いかけキーを捻る彼女の手。
唸りを上げる電動機、クラッチを踏みギア叩き伝わる駆動がタイヤを回す。
そして車は動き出す。二人を乗せて走り出す。明日の世界を駆け抜ける。
望むのならば醒めぬ夢。
この世界の真ん中で。
さあ、物語を始めよう。
おねえさんといっしょう
最終話/ワールドオンフールズ/終劇
Can you follow?
Really?
All right.
Here We Go.
To the world that you hope.
but.
You can never come back.
Never.
OK, I will dance.
Let's dance.
In the world middle run away to nobody.
I will continue dancing.
Eternally.
■Special thanks■
north様、臥蘭堂様、我乱堂様、マンギー様、ぶらじりえ様、海老様、
石龍様、こめどころ様、ながちゃん様 (順不同)
そしてお読み頂きました全ての皆様へ、ありがとうございました。
Fin...
(2009.07.26 初版)
作者(グフ様)へのご意見、ご感想は、 または まで