沖縄戦ショウダウン 3
口口7 (1996・6月12日 琉球新報朝刊)
訳注・上原正稔 ホームへ
戦闘で残ったのは6人 アーニー・パイル撃たれる
アーニー・パイルと商工の一人がジープに乗り、前線に向かった時、敵の機関銃が火を噴いた。ニ人はジープから飛び降りると、近くの溝に走り込んだ。将校はずっと身を伏せていたが、アーニーは頭を上げて、様子を見ようとした途端に銃弾が頭を貫通した。おれたちA中隊の全員が、アーニーを殺(や)ったシャツプを殺しに出撃したが、やっつけたかどうか疑わしい。
翌日、おれたちはグスク山に向かった。日本軍が斬(き)り込み隊を送ってきたので、その夜は休む暇もない。住民の群れがおれたちの前線をすり抜けて逃げてきた。多くの者が殺された。子供を背負った母親もいた。一人の若い母親は一発の銃弾で心臓を撃ち抜かれ、その銃弾が背中の乳児の頭に孔(あな)を開けていた。
四月二十一日、夜明けと同時にシャーマン戦車が出動し、おれたちはジヤップの息の根を止めることになった。だが、出動早々、気まずいことが起きた。おれは分隊の連中が戦闘準備の用意ができているか見回りに出た。ところが、訓練学校時代からの戦友が砲弾穴でぐうすか寝ているんだ。おれは薬莢(きょう)をどさりと、あいつの上に投げつけて、起こしてやったところ、あいつはかんかんになってかみついてきた。おれたちは皆、神経が張り詰めていたんだ。一時間後、あいつは戦死した。
平坦な畑を横切って、グスク山へ最後の前進をすることになったが、おれの仕事は小隊の戦車の三十b先での地雷探知作業だった。当然のことだが、戦車はふたを固く閉じ、戦車の中の運転手が覗(のぞ)けるのは潜望鏡の視界だけだ。おれの姿は運転手の視界に入らないから、地雷があるぞ、と合図するには戦車まで駆け戻り、ハッチをガンガンたたかねばならない。戦車の前方を行くおれたちは敵の機関銃の餌食(えじき)になり、次々倒れていく。それでもおれたちは前進を続けた。おれたち右翼の第二小隊の戦車が地雷を踏み、地雷を探していたはずの兵士が吹き飛んだ。戦車の乗組員はびっくり仰天、ハッチから飛び出て、逃げ出した。
おれたちがグスク山に近づくと、野戦砲が火を噴き、日本軍の一〇五_高射砲陣地をたたいた。これで、敵の攻撃が下火になった。その時までに、A中隊の二割が倒れていた。午後一時、全員が配置に就くと、おれたちは一斉に山を駆け登った。集中砲火がおれたちに浴びせられ、多くの者が倒れた。分隊長のデュークもその一人だった。仲間を殺した日本軍陣地の機関銃を火炎放射器で何とかおとなし<させたが、日本兵どもは殺される前にデュークを殺したのだ。おれは山頂に続く小道を見つけ、分隊の残存兵を呼び寄せ、ついてこい、と言った。おれたちは山を駆け登った。小道の両端に塹(ざん)壕が並んでいたが、おれたちは走りながら、手投げ弾を塹壕という塹壕に投げ入れた。おれたちの前方で一人の日本兵が塹壕から飛び出し、手投げ弾をおれたちに向かって投げ、視界から消えた。その瞬間、塹壕の中で轟音が響き、塹壕が踊るように震動した。少なくともニ十人の日本兵が自殺したにちがいない。おれたちには負傷者は出なかったが、後でおれのスボンにいくつも破片が通り抜けた跡があることに気づいた。
まだ、足腰の立つおれたち七人は斜面の頂点に達し、頂上の敵機関銃を黙らせたが、その前に仲間の一人が殺され、とうとうおれたちは六人になった。グスク山の頂上には切り立った岩があったが、今やそれもおれたちの背後にあり、そこから見下ろすと日本軍の要塞(さい)は斜面の下からの攻撃には強いが、上からの攻撃には無防備だということが一目瞭(りょう)然だ。大勢の日本兵どもがおれたちの眼下で殺してくれとばかり、這(は)いつくばっている。おれたちのことば露ほども気づいていない。おれたちはいとも簡単にやつらを仕留めた。四方八方で銃弾が飛び交い、どこから飛んでくるのか、やつらには分からなかったのだ。
ニ時間ばかり、戦場は静かになった。A中隊の将校が山を登ってきて、死体を数え始めた。信じられないかもしれないが、戦闘中は将校なんていなかったのだ。"兵を率いて敢然と戦う将校″はどこかに消えちまっていたんだ。
おれたちはこの戦闘で中隊の半数以上を失った。おれたちの分隊で生き残ったのは六人だけだ。そこで中隊長はおれに分隊の指揮を執れ、と命じた。それまでおれは"新参兵″だったのだ。自動小銃を携帯していた分隊長が戦死したので、おれが代わりに自動小銃を携帯することになった。その後の伊江島の掃対戦の間、おれは自動小銃を片時も手離さなかった。自動小銃は分隊長の印(しるし)であり、おれの誇りとなった。
口口8 (1996・6月13日 琉球新報朝刊)
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沖縄本島へ上陸 新参兵がわが隊に配属
伊江島を占領して次の二、三日は、敗残兵を殺したり、敵の死体を埋めたりして時を過ごした。死体が山のように積まれていた。おれたちは死体を引きずって砲弾穴に投げ入れた。子供のころ、叔父がよく語ってくれたことがある。木の空洞に隠れているウサギを引ずり出すには、さおの先にフォークを付け、それをウサギの皮に突き刺し、ひとひねりしてから引きずりだすのが一番さ。おれはその話を思い出し、丈夫な木の枝の先にフォークを取り付け死体の衣服に巻き付け、引きずったのだ。
数人の日本兵が滑走路のそばの塹(ざん)壕を再度、占領したという運絡が入った。おれたち十ニ、三人がやつらをやっつけることになった。白リン弾が塹壕に投け込まれると、五、六人の日本兵が、たまらず外に飛び出してきたが、そのうち何人かの衣服に火がついていた。そこを狙い撃ちにして、ぶっ殺した。その時、小型偵察機がおれたちの上空を旋回しているのに気づいた。紙飛行機をでっかくした程度の大きさだから知れている。そいつが溝と溝の間の滑走路に着陸すると、ほやほやの日本兵の死体が転かっている所にゆっくり滑走してきた。
磨きたてのカッコイイ操縦士がポンと飛び出してくると、死体に駆け寄り、戦利品を捜し始めた。小銃やら何やら拾い集めると、愛機に戻り、飛び立とうとして一回転したところが、翼が盛り土に引っ掛かり、車輪が泥に突っ込んだ。おれたちは塹壕の上でこのショーを見物していた。操縦士はおれたちの所に来ると、威張りくさって命令した。「おれの偵察機を泥から引き上げろ」。おれたちは噴き出した。そして言ってやったんだ。「おれたちは実戦歩兵部隊だ。紙飛行機で遊んでいる空軍じゃないぞ」。そいつは怒り出し、命令不服従は軍法会議だ、と脅した。将校は実戦部隊に敬意を示すものだということを知らないんだ。
保安上の理由で、前線では将校を「サー」と呼ぶことば決してないし、敬礼もない。その時、運良く、我が中隊長と将校が様子を見るため、滑走路を車でやってきた。高慢ちきの空軍将校は中隊長に向かい、身振り手振りよろしくおれたちをこきおろしている。中隊長は黙って愚痴(ぐち)を聞いていたが、その将校が話し終えると、やんわりと質問した。「ところで、お願いしますと頼みましたか」。あの空軍将校はおれたちの所に来ると言ったもんだ。「どうか、偵察機を泥から引き揚げていただけませんか」。おれたち全員どっとやつの愛機に駆け寄り、難なく泥から引きた。これで一件落着ってわけだ。
その後、ニ、三日、地雷除去と死体埋葬作業を続け、それから村の通りを歩いて海岸に出、沖のLST艇に向かった。その途中、第七七師団の臨時墓地を見た。アーニー・パイルの戦死地点を示す標示板と、山と積まれた数百の軍靴の姿が今も瞼(まぶた)焼き付いている。
LST艇に戻ると、シャワーを浴び、着替えた。周辺には多数の船船が停泊していた。夕やみ迫るころ、どこからともなくカミカゼが現れ、海面すれすれに、おれたちに向かって飛んできた。カミカゼが機体の腹に爆弾を抱えているのが見える。またしても「ツイていたが、船の対空機銃士は機銃の点検を終わり、弾倉に弾薬を装填(てん)したぱかりだった。カミカゼを見るや、対空機銃をガガガッと発射した。弾は目標をそれたが、カミカゼ飛行士はひるみ、操縦桿(かん)を引いたのか機体が上がり、甲板の上三bほどの高さをかすめて行った。カミカゼは今度は目標を変え、おれたちのLST艇から一`ほどのLST艇めがけて突っ込み、大爆発が起きた。後で聞いたが、十一人ほどの海兵隊員が死に、敵飛行士の腕や足のとれた胴体が、衝突地点から遠く離れた船員寝棚で見つかったということだ。
第三章"良い日本兵″ほど臭いものはない
翌日、おれたちは沖縄本島に上陸した。読谷飛行場で野営したが、そこで兵員補充が行われた。沖の船からやってきた新参兵ばかりで、みんな地獄の第一日を迎えた罪人の顔付きだ。戦争の初体験が地獄の最前線とは気の毒だ。おれが初めて参戦した時はツイていた。仕事と言えば、偵察と狙撃兵を捜すだけだった。ここは前線からわずか数マイルで、大砲の発射音が聞こえ、一d爆弾が落ちると爆発の振動が地面を伝わって響く。六人の新参兵がわが隊に配属され、分隊の兵力は元に戻った。
翌日、おれたちを乗せたトラック軍団は最前線を目と鼻の先に望む地点ヘ向かった。現場に到着する直前、猛烈な敵の砲攻撃がおれたちのトラック軍団を襲った。トラックは急回転して、スピードを緩めた。荷台の俺たちはしりに火がついたかのように車から飛び降りた。トラックから全員が飛び降りたちょうどその時、直撃弾がトラックに命中し、燃え上がつた。運転手は吹き飛ばされ、即死した。おれたちの新参兵六人は皆、無傷だったが、大切な教訓を学んだはずだ。戦場ではモタモタしちゃならない。死に神は目と鼻の先に待ち構えているのだ。
口口9 (1996・6月18日 琉球新報朝刊)
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日本兵が斬り込み攻撃 前線地区は死体が散乱
(四月の末、グレン・シアレスの七七師団は沖縄本島の中央で苦戦を強いられている九六師団と交代することになり、我如古の南で戦線につく)
おれたちは前線と平行して走る低い尾根の裏手にいた。尾根の北測には強固なコンクリートの墓が並び、墓の真ん中の小さな入り口は縦一b、横六十aのコンクリートの塊で塞(ふさ)がれている。敵砲弾を避けるため、おれたちは墓まで駆け寄り、墓の入り口を開けた。中には骨の入った骨壷が多数置かれている。骨壺を外に出し、避難場所をつくった。やがて、砲声がやみ、おれたちは墓から出て、塹(ざん)壕を掘り、夜営した。
その夜、日本軍は次から次ヘ、斬(き)り込み攻撃をかけてきた。日本兵が墓から続々姿を見せた。日本軍は尾根の南側に壕を掘り、そこから数本のトンネルがおれたちのいる尾根の北側の数カ所の墓に通じていたのだ。ほとんどの斬り込み兵の武器は手投げ弾だけで、命を捨てる作戦だ。夜が明けると、″墓石山″と名付けられたこの山を粉砕する作戦に出た。洞くつを片っ端から吹き飛ぱし、素早く、一`ほど南進した所で、これも前線に平行に走る低い尾根に出た。その間、おれたちは絶えず前面の敵卜ーチカの機関銃や瞳野戦砲の猛烈な攻撃にさらされていた。戦車は地雷を踏み、直撃弾を受けた。おれたちが通った道の両わきにはたたきつぶされたシャーマソ戦車がここにも、あそこにも転がっていた。日没までにおれたちは山を制圧した。
その夜、東翼の第七師団がおれたちの陣地に移動してきて、おれたちは西翼の九六師団陣地に移動した。おれたちが一個小隊ずつ移動する時、日はかなり高くなっていた。日本兵どもは右側の高地からおれたちを見張り、歓迎式とばかり、猛烈な砲撃を浴びせてきた。おれたちの分隊は低い砂山の陣地に入った。九六師団の連中は喜び勇んで陣地を出て行った。この陣地は島中央の最前線地区、つまり地獄のど真ん中だったから、解放される兵士が喜ぷのも無理はない。おれたち塹壕に飛び込み、九六師団の連中が這(は)い出ようと、すれ違った時、その一人がおれの顔を見て尋ねた。「シアレスさんですか」。おれは「どこかで見た顔だね」と言った。「ドン・ホワイトです」。ひげは伸ばしっ放しで汚れているが、確かに高校の級友だ。「幸運を祈る。運良く命があれば、また会おう」と言って、ドンは後方に去って行った。数ヵ月後、カリフォルニアの病院であいつに再会したら、俺と出会って数分後、砲弾の破片で負傷したということだ。
おれたちの陣地は敵の目にさらされ、絶えず敵襲の危機にさらされていた。夜になると、おれたちの戦線に斬り込み攻撃が続いた。おれたちのすぐ前方の前線地区には日本兵の死体が散乱し、かなり腐敗が進んでいた。どこヘ行っても腐肉のにおいが染みついてとれない。
生暖かい毎日で、死体がパンパンに膨れ、ハエがたかるのに時間はかからない。その同じハエがおれたちの配給食目がけて群かってくるわけだから、タマったもんじゃない。
仰向けに転かっている″良い日本人″は腹がパンパンに膨れ、皮は張りつめ、硬直した足を引っ張り上げる。かってアメリカでは「良いインディアンは死んだインディアンだけだ」と言われていたが、今では「良い日本人は死んだ日本人だけだ」という言葉に変わっていた。やつらが全員、″良い日本人″になっていることを確認するため、おれたちは時々、死体の腹に弾丸を撃ち込んだ。すると、ピューとガスが抜けてくる。たまらないにおいだ。おれたちの食糧も、水も、何もかも嫌なにおいが染みつくのだ。
おれたちがこの陣地に着いたその夜、突然どこからともなく数人の日本兵が姿を現した。実際、どこからやって来たのか分からなかった。だが、海軍の照明弾に照らされた敵の人影でその理由が分かった。ふつう、照明弾が上かって、パラシュートで落下するニ、三分間、昼間のように明るい。照明弾は約十分間隔で発射される。日本兵は照明弾が消えるのを待ち、三人組が暗がりを走り、おれたちの塹壕の近くに倒れている死体をニ人が拾い、引き揚げ、後の一人は死体の代わりに横になり、死んだふりをする。次の照明弾が消える前に、おれたちの眼前に手榴弾や爆雷を手にした日本兵がいる、というわけだ。おれたちは腹いせに、ひと晩中、日本兵の死体を撃ちまくった。プシュー、うぇー臭い。プシュー、うぇー臭い。
後方地区から敵の狙撃兵がおれたちを狙つた。数個分隊が派遣されたが、発見できない。すぐにも、また狙撃弾が飛んで<るだろう。実際、仲間が一人、腰を撃ち抜かれた。許せない。おれは志願して、その狙撃兵を捜すことにした。壊れた農家の屋根のわらが動いた。小銃の銃口がにょきにょきと出てきた。おれたちは一斉射撃で狙撃兵をやっつけた。隊長に証拠を見せるため、おれはその"良い日本人″の両耳をナイフで切り取り、戦利品の小銃と一緒に隊長に届けた。隊長は″よ<やった″と言った。
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