沖縄戦ショウダウン 2
口口4 (1996・6月8日 琉球新報朝刊)
訳注・上原正稔 ホームへ
島の人々の予測超え進む事態 第3戦隊出撃できず
(注)渡嘉敷で何が起きたのか
昨年六月下旬座間味出身の那覇市職員、宮城晴美さんは沖縄タイムス紙上で「梅沢裕第一戦隊長は住民に自決を命令したことはなく、援護法の遺族年金を得るには、梅沢さんの命令が不可欠だと村の有力者たちから言われ、母宮城初枝はやむなくその手記で"梅沢氏は自決命令"を書いた」と衝撃告白をした。
初枝さんは真相を記した手紙を娘の晴美さんに託し、関係者が存命中は公表してはならないが、いつか必ず発表してもらいたい、と伝えたのである。晴美さんは母の意志に背いて沖縄戦後五十年目の年に真相を発表したが、晴美さんの勇気ある証言は、沖縄の人々を沖縄戦の呪縛から一つ、解放し、一つ大人にしてくれたものと信じる。ところが、既に十年以上も前に、西日本新聞と東京新聞は梅沢裕さんの「無実」を報道しでいた。沖縄の新聞は一語もこのことに触れることはなかった。
新聞社、特に「鉄の暴風」を発行した沖縄タイムスの責任は重い。「赤松隊長の命令によって恩納ガーラで集団自決が起き、梅沢隊長の命令で座間味の集団自決が起きた」とする記述は四十年間のロングセラ一「鉄の暴風」で一ヵ所を除いて書き換えられたことはない。
その一ヵ所とは「梅沢なる者は慰安婦と共に不明死を遂げた」との記述である。梅沢さんはまだ存命中である。また、沖縄戦研究者の県職員某氏は梅沢裕さんの「自決命令は出していない」とする長文の手紙を入手しながら、新聞で公表することはせず、沖縄資料編集所紀要にその一部を載せ「自分の責任は果たした」としている。これは責つめる任回避以外の何ものでもない。「紀要」など読む一般市民はいないのである。
さて、話を渡嘉島に移そう。実はここでも同様の要件に発展していたのである。阿波連を流れるウフガーラの上流での集団自殺はまだ関係者の証言がなく、これ以上、知りようもないが、ウァーラヌフールモーの悲劇の証言者は数多く、生き残っている。渡嘉敷村誌と陣中日誌などから「集団自決」への道をたどってみよう。
ウァーラヌフールモーの惨則
三月二十三日晴れ、午前十時頃、数十機の艦載機が渡嘉敷島上空に姿を見せた。住民も兵士も、それ
がアメリ力軍機だと気付くものはいない。突如、空襲が始まり、民家や陣地に、爆弾と焼夷弾が落とされ、至る所で山火事が発生した。述べ三百機の空襲は午後六蒔まで断続的に続き、島は大混乱に陥る。
住民は山腹など各地に用意していた避難境に逃げ込み、陸戦に馴(な)じみのない海上挺身第三戦隊の兵士らは、わずかばかりの銃兵器で対空射撃を試みたが、この日、戦死者十一人、負場者十人を出し、惨々の日となった。これが沖縄戦の始まりとなった。
二十四日晴れ、夜明けと共にアメリ力軍艦載機約五十機が空襲、前日同様全島山火事が発生。二十
五日構れ、夜明けと共に空襲。午前九時半、アメリカ軍機動部隊約十五隻が慶良間内海に侵入し、地上陣地に猛烈な艦砲射撃を開始。全島がスシシ、スシンと揺れる。第三戦隊は反撃する武器がなく、ただ水際陣地と防空壕で静まるのを待つだけだった。午後八時、赤松嘉次戦隊長は独断で、約百隻の三分の一の舟艇に進水を命じ、追って那覇の船舶団本部の指令を待つ。軍民一体となって舟艇進水作業を進めた。午後九時半、本部から「情況によっては那覇に転進すぺし」との命令を受ける。赤松戦隊長ほ渡嘉志久南の第三戦隊本部壕で第一、第二、第三中隊の隊長と協議し、那覇転進を決める。各隊は全舟艇の進水作業を決行。ところが、深夜第十一船舶団長大町茂大佐ら十五人が敵艦船の中を突破して渡嘉志久本部に姿を見た。大町大佐は三月二十三日敵空襲が始まる直前、慶艮間列島の配下部隊を巡視する目的で座間味島に上陸、何の因果か、戦闘のど真ん中に巻き込まれてしまったのだ。
大町大佐は今、特攻舟艇を出せば、敵の警戒が厳しくなり、自分が那覇の船舶団本部に帰るチャンスが失ねれ
ると考え、赤松戦隊長に進水作業を中止するよう命令した。戦隊長は翌朝にも、敵が上陸せんとする状況では、今が華々しく散る最後の機会だと考え、進氷させるよう頼むが、船舶団長は聞き入れない。種々協議の結果、「戦隊は途中の敵を撃破しつつ船舶団長と共に那覇に転進する。出撃を準備せよ」との中途半端な命令が下る。
三月二十六日晴れ、早朝、慶良間に集結したブランデー提督の艦隊は慶良間各島に猛烈な艦砲射撃をを加え、第七七歩兵師団が慶留間、阿嘉、座間味の島々に上陸した。渡嘉敷島の大町大佐が島を脱出する機会は失われた。赤松戦隊長は出撃準備のため、夜明け前に舟艇を浜に出し、大町大佐に出撃を求めたが、大町大佐は「ここで手の内を晒(さら)せば、本島の船舶団の作戦に支障が出るので船を戻ぜ」と命令。だが、時既に遅く、敵の艦砲射撃が始まっている。赤松戦隊長は涙をのんで
「自沈」を命令。こうして事態は島の全ての人々の予側を超えた方向へ進んでいった。
(ドキュメンタリー作家)
口口5 (1996・6月10日 琉球新報朝刊)
訳注・上原正稔
皆で「天皇陛下万歳!」斉唱 始まった集団自決
(注)渡嘉敷で何が起きたのか
三月二十七日晴れ後雨、海上艇進隊と爆雷二個を搭載した舟艇で夜間敵艦船に体当たり爆破する目的で編成された特攻隊。生きて帰ることはないはずだったが、特攻艇を自沈した今、にわかづくりの守備隊として島に立てこもることになった。
午前ニ時、赤松戦隊長らは渡嘉敷村落北の北(ニシ)山の周囲に守備陣地を敷くことになり、山道を上った。午前九時、アメリカ軍は艦砲射撃のもと、留利加波、渡嘉志久、阿波連に上陸を開始。渡嘉志久を守備する第三中隊の残存部隊は抵抗したもののほとんど戦死。阿波連を守備する第一中隊は阿波連を撤退する時、アメリカ軍A中隊の待ち伏せに遭い、多数が死傷し、生き残った者は阿波連東の山中に四散することになつた。
一方、村の防衛召集兵(以下防衛隊と呼ぶ)は三月二十三日の空襲以来、住民の避難や消火作業でてんてこ舞の忙しさだったが、前夜から「敵が上陸して危険だから恩納ガーラに移動せよ」と各地の避難壕を走り回った。渡嘉敷村落の西側の恩納ガーラには古波蔵村長、真喜屋先生(前校長)、徳平郵便局長ら村の有力者をはじめ数百人が集まった。古波蔵、徳平、真喜屋らの有力者会議が開かれ、「自決の他はない」と皆、賛成し自決が決められた。ある防衛隊員は「闘うため妻子を片づけよう」と言った。前後は確かではないが、村の兵事主任新城は北山陣地に行き、赤松戦隊長に「住民をどこに避難させたらよいか」指示を仰いだ。赤松は陣地周辺が安全だろうと考えて「陣地北方の盆地に避難させてはどうか」と言った。そこがウァーラヌフールモーだった。その後、恩納ガーラに防衛隊員がやってきて「赤松の命令で村民は全員、直ちに陣地裏側の盆地に集まれ」と言った。別の防衛隊員は「自決するから本部前に集まれ」と言った。
十四歳の金城武則は、上陸が始まると、部落内の防空壕を出て、神社の後ろを通って、父がオンナガーラに造ってあった避難小屋を目指した。昼間、ウフジシクビの谷間で過ごした。そこで村長と会ったが、村長は「連合艦隊がやってきて、アミリカーをやっつける」と言った。夜、土砂降りの中、食料を置いてあるオンナガーラに戻った。伝令がやってきて、あっちこっちの避難小屋を巡り、「軍の命令で北山に避難せよ」と伝えた。
十六歳の小嶺勇夫はイチャジシの避難小屋で生活していたが、村の青年がやってきて「村長命令で上の本部に全員集結せよ」と言った。十四歳の山城賢治はウビガーラからオンナガーラに移動したが、「明日あたり玉砕」だという話を聞いた。三十歳の小嶺国技はイチヤジシの避難小屋にいたが「玉砕するから、北山の本部に集まれ]との連絡を防衛隊から受けた。グソースガイ(死に装束)をしてウァーラヌフールモーに向かった。
夜半から二十八日の明け方にかけて、数百人の老若男女が雨の中、恩納ガーラの上流から険しい傾斜面の道なき道を黙々と上って行った。
ウァーラヌフールモーは北山の山頂すぐ北側にあり、馬の蔵(くら)のような形をして、長さ三十メートル、幅五、六メートルで、北に突き出て、その両端は深さ三、四メートルほどの溝をなし、その先は人が下りられないほどの深い渓谷が海に続いている。
三月ニ十八日小雨、晴れ、夜小雨。夜間、敵情視察のため各地に散っていた部隊が夜明けとともに北山陣地に帰隊。道案内の防衛隊は家族とともに手梱(りゅう)弾で自決。このような「自決」が二、三件始まっていた。
ウァーラヌフールモーを埋め尽くした住民と防衛隊は黙々と「その時」を待っていた。防衛隊から手榴弾が手渡された。防衛隊貝は自分の家族にまず、手榴弾を渡し、その使用法を教えた。天皇陛下のために死ぬ。国のために死ぬのだ。誰も疑問はなかった。恐ろしい鬼畜は砲弾を雨あられと降らし、今にもやってくるのだ。
夕刻、古波蔵村長が立ち上がり、宮城遥拝の儀式を始めた。北に向かって一礼し、「これから天皇陛下のため、御国のため、潔く死のう」と話した。「天皇陛下万歳!」と皆、両手を上げて斉唱した。村長は手本を見せようと、手榴弾のピンを外したが爆発しない。真喜屋前校長が最初に手榴弾を爆発させ吹き飛んだ。堰(せき)を切ったように、住民は我も我もと手榴弾を爆発させた。だが、不発弾が多いのか、使用法を知らないためか、爆発しないのが多い。手榴弾の数も足りない。
「本部から機関銃を借りて、皆を撃ち殺そうと防衛隊の誰かが言った。村長は「よし、そうしよう。みんなついてきなさい」と先頭に立って、三、四百メートルほど南の本部陣地に向かった。住民はウァーと叫んで陣地になだれ込んだ。その時、アメリカ軍の迫撃砲弾が近くに落ち、住民はいよいよ大混乱に陥った。
本部陣地では仰天した兵士らが「来るな、帰れ」と叫ぶ。「兵隊さん、殺して<ださい]と懇願する少女もいる。西村大尉が太刀を振りかざし、来るな、斬(き)るぞ」と叫ぶ。その時、住民の持っていた手榴弾が暴発し、破片が大尉に当たり、大尉は倒れた。赤松戦隊長は防衛隊に命じて事態を収めた。住民はウァーラヌフールモー(第一玉砕場)と陣地東の谷間(第二玉砕場)に分かれ戻りていった。「第二玉砕場」に向かった金城武則は生き残った。そこでは"玉砕″はなかったからだ。ウァーラヌフールモーに戻りた住民はどうなったか。陣中日誌は記す。
「ニ月二十八日午後八時過ぎから、小雨の中敵弾激しく住民の叫び声阿修羅の如く陣地後方において自決し始めたる模様。二月二十九日曇雨 悪夢の如き厭相が白日眼前に晒(さら)された。昨夜より自決したるもの二百名(阿波連方面においても百数十名自決。後判明)。首を縛った者、手榴弾で一団となって爆死したる者、棒で頭を打ち合った者、刃物で首を切断したる者、戦いとは言え言葉に表し尽くし得ない情景であった」
(ドキュメンタリー作家)
口口6 (1996・6月11日 琉球新報朝刊)
訳注・上原正稔
夜間、住民が突撃 伊江島上陸、激しい攻防
ここまで長い(注)の「渡嘉敷島で何が起きたのか」を読んでいただいた。その意図は「事実」の発掘な<して「真実」の発見はあり得ないということだ。防衛隊だった大城良平さんは語る。
‐私は自分の妻が自決したと聞き、中隊長になぜ自決を命じたのか、と迫つた。中隊長は「全く知らない」と言った。赤松隊長は「村の指導者が″住民を殺すので、機関銃を借して<れ″と頼んできたが断った」と話してくれた。赤松隊長は少ない食料の半分を住民に分けてくれたのです。立派な方です。村の人で赤松さんのことを悪く言う者はいないでしょう-
比喜喜順さんは語る。
-赤松嘉次さんは人間の鏡(かがみ)です。渡嘉敷の住民のために一人で泥をかぶり、一切、弁明することなくこの世を去ったのです。私は本当に気の毒だと思います。家族のためにも本当のことを世間にお知らせください-
国の援護法が「住民の自決者」適用されるためには「軍の自決命令」が不可欠であり、自分の身の証(あかし)立てることは渡嘉敷村民に迷惑をかけることになることを赤松さんは知っていた。だからこそ一切の釈明をせず、赤松嘉次さんは世を去ったのである。一人の人間をエケープゴー卜(犠牲)にして「集団自決」の責任をその人間阿に負わせてきた沖縄の人々の責任は限りな<重い。筆者も長い間、「赤松は赤鬼だ」との先入観を拭(ぬぐ)い去ることができなかったが、現地調査をして初めて人間の真実を知ることができた。今、筆者は読者と共に一つ脱皮して一つ大人になった気がする。真実を知るがあまりに遅すぎた。赤松さんは帰らぬ人となってしまった。
渡嘉敷の戦争の物語は今、ほんの一ページが開かれただけでる。次のページに何が隠されているのかだれも知らない。さて、長い(注)を終えてグレン・シアレスさんの語る本編に戻ろう。
第ニ章-死体を片づけるにはウサギ狩りの手が一番
おれたちは数日震嘉敷島に残り、敗残兵を捕まえたり、狙撃兵を捜索したりした。最後に、上陸日に通った同じ山道を戻り、最初に上陸した海岸に出た。
おれたちはポー卜で近くの島々に行き、住民を集め、収容所に送った。おれたちが殺さないと分かると、住民はよく協力して<れた。中には、家族や親族の者を救出するため、自ら進んでおれたちと一緒に山に入る者もいた。その間、あの東京ローズはラジオで、おれたちが海に放り出された後、おれ
たちの妻や恋人は故郷で郷土防衛員と寝ているのだ、と放送していた。
四月一日、イースター(復活祭)の日曜日、おれたちは渡嘉敷の山頂に座り、沖縄本島上陸作戦を見守った。凄(すさ)まじい艦砲射撃の音が島まで響き、噴煙がもくも<上がった。味方がたくさん死んだだろうと思われたが、後で無血上陸だと知らされた。日本軍はわが軍の上陸に抵抗しないことに決め、島の南端の要塞(さい)陣地に立てこもり、防衛することにしたらしい。それからニ週間、おれたち第七七師団は予備軍として待機することになった。LST艇に乗り、カミカゼ特攻機を避け、戦場から遠く離れることになった。
四月十六日、沖縄本島北西部の本部半島からニ、三マイル離れた伊江島に上陸した。伊江島は東西五マイル.南北三マイルのわりかし小さな島だったが、太平洋最長の滑走路があったから占領することになったのだ。またしても、おれたちはツイていた。危うく命を失うところだった。水陸両用車で狭い水路を進み、例のごとく鉄のはしけを下ろそうとしたが、どういうわけか、鉄のケーブルが途中で引っ掛かってどうしてもはしけが下りない。おれが飛ぴ下りて、とんでもない物を見つけた。はしけが下りるはずの砂地に大型爆弾の地雷が仕掛けられていたのだ。ケーブルが止まらなきゃ、おれたちは皆、吹き飛ぱされて、おだぷつとなるところだった。
おれたちのA中隊は先頭を切って滑走路を横断した。日本軍はおれたちの離着陸を妨げんとして、サンゴ石の滑走路表面をギザギザに切り刻んでいた。溝の深さは一・二メートルほどで、二、三百メートルおきに掘られていた。滑走路を横断している途中、日本軍のゼロ戦特攻機が樹木の上をかすめて、おれたち目がけて突っ込んできた。敵飛行士は高度の判断を誤ったに違いない。博のそばに積み上げた土石の山にプロペラを引っ掛け、スキップすると、機体を傾け、四百メートルほど滑って、草むらに突っ込み、逆さになってスローモーションでそのまま進み、止まった。飛行士が操縦席を抜け出して、草むらに向かって逃げ出した。島の中央には小さな火山のようなすり鉢山(グスク山=イージマタッチュー)がある。そこから敵がおれたちの動きを見張っていたが、おれたちが飛行士を追っかけるのを見ると、奴らは四〇_対空砲火をおれたちに向けてきた。だが、おれたちはその飛行士を捕まえることができた。
運悪く、仲間の一人の近くに砲弾が落ち、致命傷を負った。二、三分後、戦友は死んだ。砲弾の破片が生殖器を引きちぎり、下腹部を切り裂き、はらわたが飛び出していた。その夜、おれたちは滑走路の近くの地雷源の麦畑に塹(ざん)壕を掘った。夜間、麦畑の中を多数の住民が身体に爆雷を巻き付け、突撃してきた。おれたちは奴らのほとんどを銃でやっつけたが、爆雷が爆発すると、肉片が四方八方に飛び散った。五メートルもの大腸が藪(やぷ)に引っ掛かっていた。肩や腕や足の断片、何でもこざれだ。
全師団は島の中央のグスク山攻路を目指していた。そこには日本軍も住民も集結していた。奴らはモグラのように地中に潜み丘の斜面に数十のトーチかを高く構築し、奴らの砲火が平地‐おれたちがいる所だが‐
上陸二日後、有名な従軍記者、アーニー・パイルが戦況視察のため、伊江島にやってきた。三〇五
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