沖縄戦ショウダウン
  
   集団自決を目撃した米兵士の記録  口ロ1  (1996・6月1日 琉球新報朝刊)


       訳注 上原正稔                     ホームへ   次へ

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   はじめに ー ショウダウン Show downとはポーカ一で賭博(とばく)師が有り金をすべて賭(か)けて、最後の大勝負に出、その手札をさらけ出す様を言う。ここからショウダウンすなわち決戦という用語が生まれた。「人間が試される究極の舞台」である戦場で一人の人間がそのすべてを賭け、戦争と人間の実像を白日の下にさらけ出し、最後に「この世で最も大切なもの」と出合うまでの物語を「沖縄戟ショウダウン」と題して発表することにした。筆者はこの物語と出合った時の衝撃と感動を忘れない。沖縄戟き知っていたつもりの筆者の妄想を完全に、打ち砕いてしまったのだ。これほど「戦争と人間をハ一ドボイルドに、如実に、そして見事に描写した物語は他にない、と断言してよいだろう。語り手のクレン・シアレスさんは米第七七歩兵師団の一兵士として沖縄戦に参加し、慶留間、渡嘉敷の「集団自決」を目の前で目撃した。アメリカ兵が「集団自決」の始めから終わりまで詳しく語った記録はこれが初めてである。そして、これは「集団自決」の隠されていた秘密を解き明かす重要なカギとなった。
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   満潮とともに出撃命令  2等兵、慶留間に上陸

  第一章 ー やめろ、やめろ、子供を殺すな            

 一九四五年三月九日、おれたちの船団はフィリピンを離れ、北東に向かった。おれは二十五歳の年くった二等兵だった。それはおれの志願が遅かったからでほかに理由はない。おれば今、第七七歩兵 師団の三〇六連隊第一大隊A中隊の恐れを知らぬ新参兵として、オキナワという島に向かっているのだ。およそ十二隻のLST (戦車上陸用舟艇)と数隻の駆逐艦とその護衛濫から成る小ちゃな艦隊だった。敵に覚(さと)られないように艦隊はジグザグのコースを取り、三月二十六日夜明け前、慶良間諸島の沖合に着いた。
 そこでは既に凄(すさ)まじい艦砲射撃が始まり、航空機からロケット砲弾が島々に落ちている最中だった。ねが第三〇六連隊は慶留間島に上陸し、占領する予定だった。午前四時、全員起床し、豪勢な朝食をとった。日が昇ると船内のスピーカーががなり立てた。「全員、上陸用舟艇に乗り移れ!」。全員どぉ一と段はしごを駆け下り、それぞれの水陸両用車に乗り移った。
 すし詰めの車内で上陸の合図を待つのは実につらい。戦う方がまだましだ。一持間ばかり待たされ、ようやく、でっかい二枚貝のような鉄のふたがどかっと開き、上陸用はしけが下ろされた。もう一度スピーカーががなり立てた。「全員、武器を装てんせよ!」。全員が一斉に装てんを始めたからたまらない。キンキン、ガチャガチャ、金属音がけたたましい。直ちに、ディ一セルエンジンが始動し、閉まった車の中では、地獄の門の扉がきしむ音のように響く。送風機から風が送られるが、息苦しさは消えやしない。

 やがて、水陸両用車はガラガラ動き出し、LST艇の鉄のはしけを下り、氷しぶきを上げて海中に突っ込み、浮き上がると、わがA中隊の旗を高く掲げた水先案の水陸両用車を追う。
 二十隻もの水陸両用車は約五百メートルの半円形を描き、出撃の合図を待つ。子供のころ、よくみた戦争映画に出てくる、でかい、真っ白な水上発着機にあこがれていたが、今、そいつが慶留間島上空を悠々旋回しながら、艦砲射撃の方向を指示している。
 潮が満ち、ついに出撃命令が出ると、水陸両用車の列は横一線に並び、海岸線に向かう。そのすぐ後ろから小型LST艇がおれたちの頭越しに慶留間島の海岸線と村落に向けロケットを発射、おれたちを援護した。海岸から五百メートルほどの距離まで来ると、そのLSTはくるりと反転し、戻ってゆく。上陸第二波陣に道を開けるためだ。今や、おれたちは自分で自分の身を守らなきゃならない。
 案の定、日本兵のやつらが穴の中から出てきて、軽機関銃をぶっ放し始めた。思い出したように機関銃弾が一、二発、水陸両用車の鉄板にぶつかり、はじけてゆく。おれたちは五〇口径の重機関銃をむちゃくちゃにぶっ放した。敵の機関銃をおとなしくさせるためだ。この上陸作戦は岩礁を避けるため、満潮時を選んで行われたから、大陸両用車が陸に揚がると、目の前に石垣の堤防が立ちふさがっていた。          

 それにしても見事な石細工だ。石垣は所々、砲弾で爆破され、崩れ落ちていた。おれたちは逃げる日本兵を追って、崩れ落ちた堤防の間を通り抜けて、左手の村落に一出た。日本軍は村落から退却していた。やつらを山に追い詰めろ、という命令が下った。住民がよく利用する山道を見つけると、おれたちは登って行った。頂上に達するまで何の抵抗もなかった。頂上に着くと、背後から攻撃を受たが、大したものじゃなかった。
 この頂上から続く尾根の向こうで猛烈な銃撃戦が行われていた。「援軍を頼む」との無線連絡が入ってきた。現場に向かう途中、五、六人の日本兵がおれたちの方に逃げてきたところを、やつらが気付く前に撃ち殺した。一時間ほど何事も起こらなかった。山腹に洞くつを見つけた。そこには島の住民が何人かいた。おれたちが強かんして、虐殺すると信じたに違いない。やつらは自分の子供たちをナイフと刀で殺し始め、そして自殺し始めた。みすぼらしい着物を着た老人(男)がはだしでおれたちの方に向かって走ってきた。手には鉄の銛(もり)を付けた竹やりを握っている。 
                                        (うえはらまさとし・ドキュメタリー作家)
 


           口口2  (1996・6月3日 琉球新報朝刊)
 
             訳注・上原正稔         

      3人を3発で仕留める  隊の先頭切って前進
    
 日本軍が老人に槍(やり)を支給したに違いない。老人は何か叫びながら、突進してきた。自動小銃が火を吹き、その老人は倒れた。その時、ようやく日系アメリ力兵が現場に到着し、日本語で壕の中の住民に「やめろ、やめろ」と説得した。ようやく惨劇が終わった。 今でもおれのまぶたの裏に焼き付いて離れないのは、あの若い母親の顔だ。自分の腕の中で死んでいる子供を見つめる母親の目。何てことだ。殺すことなんてなかったんだ。             
 民政班から、鉄条網で囲われた収容所を用意したので住民を村に連れ戻せ、との命令が下った。おれは九十歳ぐらいのとても小柄な老女の襟(えり)首を掴(つか)んで、山道を下りた。その老女はひざまで届くジャケット(ちゃんちゃんこ)を着、黒いだぶだぶのズポン(もんぺ)をはいていた。途中、おれたちは日本兵の死体のそばを通った。こいつは米袋を担いでいる際に撃ち殺されたらしい。銃弾で袋が切り裂かれ、米粒が道路に散乱していた。老女は俺の手を振りはらって、泣き喚(わめ)きながら米粒をかき集め始めた。死体なんて全く眼中にない。

村に着くと民政班は収容所に配給食糧のケースと飲み水の缶を積み上げ、住民のためのテント設営の最中だった。日本軍に虐待されたフィリピン住民は何と言うだろう。まさに雲泥の差の待遇だ。
おれたちはもう一度山に入り、日本兵を捜すことになった。山かろ見下ろすと、海岸線に野戦砲が設置され、ちょうど1マイル離れた島に砲弾を撃ち込んでいる。あの島が、明日、おれたちが上陸する渡嘉敷島だ。
 その夜、おれたちはLST艇に戻り、そこでシャワーを浴びると、通路に並び、食堂に向かった。何と、そこでは、神に仕える従軍牧師様が酒びんを手に、通り過ぎるおれたちの水筒のカップにウイスキーを一杯ずつ注いでいる。ゴクッと飲んだアルコールがすきっ腹に染み込んだ。

 三月二十七日、夜明け前、またおれたちA中隊の出番だ。A中隊は渡嘉敷島の最南端の海岸線に音ぎ立てず上陸した。辺りはまだ暗い。俺たちの役目は、午前八時の上陸前艦砲射撃までに阿波連村落の裏側の尾根を占拠することだった。つまり、艦砲射撃を避けて逃げてくる日本軍を待ち伏せしようという狙いだ。そううまくいくはずはないと思ったが、実際その通りになった。
 いつものように、おれは隊の先頭を切って進むことになった。"一番手"の兵士としてのおれの名声はなかなかのものだった。「シアレス、お前が先頭に立て。レッツ・ゴー」というわけで、おれは隊の先頭に立って山を上っていった。尾根は険しく、そこに数百年、人 が踏みしめ、できあがった山道があった。俺たちほ一列になって北上し、太陽が姿を見せる前に、尾根の先端に近づいた。       

 目標の阿波連から二マイル足らずの距離だ。こ亡まで日本兵の姿は見えない。やつらはおれたちの上陸に備えて抵坑するため、全員、海岸線に集結しているに違いない。尾根の山道に沿って樹木が生い繁 り、視界が遮(さえぎ)られ、見えるのは、次の曲がり角までの山道だけだ。尾根は狭く、両端は探く落ち込んでいる。目標地点に近づくにつれ、おれたちはいよいよ用心深く進んだ。 
  おればライフルを構え、撃鉄に指を触れる。いつでも来い。二番手の兵士は自動小銃を手に、五メートル後ろ芝ついてくる。おれが撃たれたら、やつが敵をやっつけるという算段だ。"一番手"のおれはおとりってわけだ。一マイルほど下り、おれが角を曲がったその時、妙な物音がした。いや、嫌な気配を感じた。三十メートルほど真っすぐに小道が延び、見るとその先に機関銃が置かれ、その後ろに三人の日本兵がいた。人生で、何度も幸運の女神に助けてもらったが、この瞬間が最もついていたと言えるだろう。おれの方を向いている機関銃の両わきに日本兵二人が横になり、機関銃射撃手のもう一人は、その三メートルほど後ろで、ズホンを下ろし尻を出し、糞(ふん)をしている。三人は同時におれを見た。スロ一モーション映画のようにおれはその場面を覚えている。おれば既に小銃を肩に当てていたからまず機関銃射撃手を一発で仕留めた。やつはふわりと後ろにひっくり返った。残りの二人は機関銃の台座にジャンプした。俺は順々に二人を仕留めた。三人を三発で仕留めた勘定だ。後でおれの背後にいた仲間から聞いた話では、三発の銃声はまるで自動小銃の連続音のように饗いたということだ。

俺の後ろにいた仲間は皆、びっくり仰天、一、二分間もしゃがみ込んで、ほかに日本兵がいるか恐る恐る見張ったが、辺りほしんと静まり返っている。隊長から「前進」の合図が出され、一人ひとり「前進」と叫び、最後尾まで伝えられると、おれたちほ立ち上がり、ゆっくり尾根を下った。その日、任務が終わってから、おれはみんなの笑い話の種にされた。というのは、おれたちは一列になって山道を下ったので、全員、下腹部を丸出しにしたあの日本兵を跨(また)いで進まなきゃならなかったからだ。   
 予定通り、おれたちほ午前八時、目的地に到着し、着色発煙手投げ弾を爆発させ、上空の偵察機におれたちの位置き知らせた。すぐに、艦砲と野戦砲が発砲し、砲弾が眼下の阿波連村落に降り注いだ。しばらくすると、退却する日本兵らが山を駆け上ってきた。およそ半時間、日本兵らは飛んで火に入る夏の虫とはかり、狙い撃ちにされた。二百人のジャップをやっつけた、とだれかが言った。おれが見たのはせいぜい五十人ほとだ。おれたちの損害はニ、三人の戦死者と、五、六人の負傷者だけだった。

 *(注)これまでのいかなる戦記にも渡嘉敷の最南端の浜(ヒノクシ)にアメリ力軍が上陸したことは書かれていない。ところが、昨年筆者が渡嘉敷村の金城武徳さんから入手した「渡嘉敷第三戦隊の陣中日誌」に「三月二十七日・・・ 第一中隊は阿波連より撤収するも渡嘉志久峠の敵に阻止され、突破するすこと得ず東方山中に潜伏・・・」との記録を発見した。第三戦隊はアメリ力軍が裏をかいて、渡嘉敷最南端から闇(やみ)を突いて上陸し、待ち伏せしたことを知らなかったのである。
                                            (ドキュメンタリー作家)


                            口□ 3         (1996・6月4日 琉球新報朝刊)

      訳注・上原正稔

     「子供殺すな」と叫ぶ 2日後、惨劇の現場埋める

 「山を下りて阿波連の村を確保せよ」との命令を受けた。山を下りる途中、小川に出くわした。川は干上がり、広さ十メートル、深さ三メートルほどの川底のくぼみに大勢の住民が群がっている。俺たちが姿を見せると、手投げ弾が爆発し、悲鳴と叫び声が谷間に響いた。想像を絶する惨劇が繰り広げられた。大人と子供、合わせて百人以上の住民が互いに殺し合い、あるいは自殺した。慶留間のときと同じだ。規模がすさまじい点が違うだけだ。俺たちに強姦され、虐殺されるものと狂信し、俺たちの姿を見たとたん、惨劇が始まったのだ。
 年輩の男が小ちゃな少年と少女たちの喉(のど)切っている。俺たちは「やめろ、やめろ、子供を殺すな」と大声で叫んだが何の効果もない。俺たちはナイフ手ににしている大人たちを撃ち始めたが、逆効果だった。狂乱地獄となり、数十個の手投げ弾が次々爆発し、破片がビュンビュン飛んでくるのでこちらの身も危ない。全く手がつけられない。俺たちは「勝手にしやがれ」とぱかり、やむなく退却し、事態が収まるのを待った。A中隊の医療班が駆けつけ、全力を尽くして生き残った者たちを手当てしだが、既に手遅れでほとんが絶命した。

 一日か二日後、工兵隊がやつて来、川岸に爆薬を仕掛け、惨劇の現場を埋めた。数カ月後、故郷ヘ帰る途中、俺がカリフォルニアでヒッチハイクをしたとき、年輩の男が拾つてくれた。その時、彼は俺がオキナワ戦に参加したことを聞くと、自分の息子はトカシキという島に行った将校だが、息子の話では、豪雨の後、無数の人骨が川を流れ落ちて来たそうだが、アメりカ兵が多数の住民を殺したせいらしい、と語った。俺たちが殺した、とは参ったね。もちろん、本当のことを話してやった。

 ※(注)渡嘉敷島で何か起きたのか
 筆者はこれまで渡嘉敷島の「集団自殺」についてニューヨーク.タイムズの記事やG2リポートを読者に紹介してきた。だが、「沖縄戦ショウダウン」が伝える「集団自殺」の物語は目の前で事件が起きている点で特異であり、場所も人数もこれまでの報告と全く違う。
 一昨年末、「おきなわプラス50市民の会」の活動の中で、デイブ・ダーベンポートさんから「沖縄戦ショウダウン」の物語の原稿を入手して、昨年の春と夏、渡嘉致島を訪ね、「集団自殺」の生き残りの人々や関係者か情報を集めた。金城武徳さんに自決現場へ案内していただき、海上挺進第三戦隊の陣中日誌を入手した。後に大城良平さん、比嘉喜順さん、知念朝睦さんらから貴重な情報を入手することができた。もちろん、調査は完璧ではありえないが、これまでの先入観を覆してしまった。

 注としては長くなるが、われわれが真相を知ることが「人間の尊厳」を取り戻す、すなわち「おとな」になることだと信じるので許していただきたい。
 「沖縄戦ショウダウン」はA中隊が阿波連の裏山で日本軍を待ち伏せしたことを伝えているが、第三戦隊陣中日誌は「三月二十七日、・・・第一中隊は本隊に合流すべく阿波連を撤収、渡嘉志久高地に上陸せる敵に前進を阻止せられ、二、三度斬り込み突破行ふも前進不能となり・・・」と記録している。
 阿波連の集団自殺については三月二十九日−悪夢のごとき様相が白日眼前に晒(さら)された。昨夜より自決したるもの約二百名(阿波連方面においても百数十名自決、後判明)」と記録している。A中隊の一兵士の物語と第三戦隊の記録は見事に符合する。渡嘉敷では「恩納ガーラ」と阿破連の川の上流で二つ「集団自決」があったことになる。

 筆者は金城武徳さんに渡嘉敷村落北の山中の「恩納ガーラ」へ案内してもらつた。山頂の石碑のすぐ北に「自決」現場があった。だが、金城さんは、ここは「恩納ガーラ」ではなく、ウァーラヌフールモーで、第一玉砕場と呼ばれていると言う。恩納ガーラは渡嘉敷村落のすぐ西側を流れる川の中流だったのだ。そこは深い谷間で空襲を避ける絶好の避難場所だった。この川岸に住民は避難.小屋を造ったが、ここでは「集団自決」はなかったのである。恩納ガーラの上流から険しい斜面を登り、北(ニシ)山を越え、ウァーラヌフールモーに達するのだが、現在、川にはダムができ、昔の面影はない。

 筆者は自分の思い込みに呆(あき)れたが、さらに驚いたことに金城さんや大城良平さんらは「赤松隊長は悪人ではない。それどころか立派な人だった」というのである。そこで北中城村に住む比嘉(旧姓・安里)喜順さんに会つて事件を聞くと、「その通りです。世間の誤解をといて下さい」と言う。知念朝睦さんに電話すると「赤松さんは自決命令を出してない。私は副官として隊長の側にいて、隊長をよく知つている。尊敬している。嘘(うそ)の報道をしている新聞や書物は読む気もしない。赤松さんが気の毒だ」と言う。これは全て白紙に戻して調査せねばならない、と決意した。
                                                                  (ドキュメンタリー作家)


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