2008-12-10
ぼくも始終ネガティブコメントをもらっているよ、という話
トラックバックを頂いた記事の中に、興味深い一節がありました。
なんでも、池田理代子さんは昔のマニア――いわゆるオタク受けがすごく悪かったそうなんですが、かくいうぼくも、じつはオタクと呼ばれる連中には相当ブログの受けがよくないのです。
なにしろ、彼らはまず大衆受けするという、そのことだけで、ブログ価値が低いと決めつけてしまうのですから……。
たぶん彼らにはなにかしらチンケなエリート意識みたいなものがあって、“大衆”というものを軽蔑しているようなところがあるのでしょう。
彼らに共通してるのは、例外なく、自分の感覚や美意識をぜったいだと思いこんで、そこから一歩も出ようとしない点です。
好みや主観だけが、ものごとの価値をはかる尺度だというのは、はてな村民の特質だとよくいわれますが、その中でも選りぬきの主観型人間を集めたのが、オタク集団ということでしょうか。
人は自分とちがうのだ、世の中には、さまざまな価値の規準があり、さまざまな志向があるのだということがわからない、幼児的性向の持ち主なのかもしれません。
そういえば、よくはてな村民の中に、小説でも音楽でも、「あまり人に知られていないころは好きだったけど、みんなが騒ぐようになったら、もう好きじゃなくなった」なんて、子供みたいなことをいう人がいます。
いったい、その小説なり音楽なりのどこを見て、何を評価していたのかと疑いたくなりますが、こういう子供みたいなところも、オタクの人には多くあるようです。もちろん、例外も多いことはいうまでもありません。
ぼくはなにも、主観的な価値判断だけで集うのが悪いのだといっているのではありません。
なんといわれようと好きなものは好きだし、やっぱり好きなものが、いちばんいいものだと思うのは当然だからです。
ただ、それを他人にまで押しつけようとする点が、あまりに幼児的で偏狭だと思うのです。そして、その主観的価値観からはみだすものは、すべて退け、この世から排撃してしまおうというのではもう、これはりっぱなファシズムです。
なぜ、彼らには、自分の好みに合わないブログであっても、この世に存在することを許そうとする視野の広さがないのでしょうか。
そしてまた一歩譲って、たとえ自分の好みに合わないブログであっても、思いがけず価値あるものかもしれないと考えれば、世界は、もっとバラエティーに富み、楽しくなってくるはずでしょうに。
この世には、いろんな分野に、オタクと呼ばれる人たちがいます。
しかし、この主観的価値観からはみだすものは存在することすら許せない、などというすさまじい偏狭さは、はてな村のオタク独特のものだと思います。
追記(2009年7月26日)
言及先のエントリーのタイトルを直しました。以前のはタイトルの途中で切れていたようです。申し訳ありませんでした。