この図式は意外なほど浸透している。とりわけ、子どもに関わる現場の方々は、活動のなかで「子どもを守る」必要に迫られるため、この図式から強硬な規制を反射的に支持する傾向が強い。知りあいの多くが子どもに関わる現場の方々なので、指摘しにくいのだが、「児童ポルノ」とするだけで、アニメやマンガだろうがゲームだろうが「とにかく規制」に近い発想になりがちなのは事実である。
ただし、それは理解できなくはない。虐待防止に関わる方々は、子どもへの性的虐待に直面している。この季節になると、子どもの遊び場に関わる方々も、水遊びする子ども達の姿を、家族や本人の許可もなく携帯電話のカメラに収めようとする見知らぬオトナに悩まされる。また、たかが街のWeb屋さんにすぎない我が現場に、「家族や本人の許可があっても、子ども達の画像をホームページに載せて大丈夫だろうか」と相談する現場の方々も少なくはない。
そのような現場の方々にも反対論を納得してもらうには、「児童ポルノ」がなんであって「どこに反対するのか」を明確にすべきである。それを忘れて「児童ポルノ禁止は日本のマンガやアニメに大打撃」としては、「子どもを守ることよりマンガやアニメが大切なのか」となってしまう。その延長で「ドラえもんのしずかちゃんの入浴シーン」などに言及し「この表現がマンガやアニメの魅力」としても、「マンガやアニメは『児童ポルノ』的な表現で成長してきた」と誤解されかねない。
それらの言説は、活動のなかで「子どもを守る」べき状況に直面している現場の方々を逆なでする。そうなると「アニメやマンガやゲームも『児童ポルノ』として規制すべき」に追いやってしまう。なによりも、子どもに関わる現場とは無縁な方々が、主観的な「児童ポルノ」排撃を主張し、「わたしこそは『子どもの味方』」のように振舞うのを、現場が容認することにつながりかねない。
残念ながら反対する一部の方々は、「子どもに関わる人たちは規制賛成」と断定する傾向もある。それは一部のゲームやアニメを見て「ゲームやアニメは悪影響を及ぼす」というのと同じだろう。たしかに「児童ポルノ」=「倫理に反する」という図式と、現場の条件から、感情的に「とにかく規制」に傾くのは否定できない。
しかし、「なにがなんでも規制」が「子どものためになるのか」を考えることができるのも、子どもに関わる現場である。だから「規制」に傾きながらも、「なにがなんでも規制は違うよね」と悩む方々も現場には多い。その方々が納得してこそ、反対論は幅広く支持されるのではないだろうか。