- 一ノ瀬 正樹 教授
- 東京大学
大学院 人文社会系研究科 哲学研究室 1957年茨城県生まれ。’88年東京大学大学院人文科学研究科哲学専攻博士課程単位取得満期退学。’91年東洋大学文学部専任講師。’94年同助教授。’95年東京大学大学院人文社会系研究科助教授。’02年英オックスフォード大学客員研究員。’07年より現職。博士(文学)。第10回和辻哲郎文化賞(学術部門)第6回中村元賞(ともに98年)を受賞。哲学会理事長。主な著作に『原因と結果の迷宮』『原因と理由の迷宮』(前著ともに勁草書房)『人格知識論の生成』(東京大学出版会)などがある。
一ノ瀬先生の研究室のURLアドレスはコチラ →
http://www.l.u-tokyo.ac.jp/philosophy/profichinose.html
激動の時代にこそ真の哲学研究が求められる
- 哲学研究室の入る東大「法文2号館」
- 知の伝統が感じられる2号館入り口
今週ご登壇ねがう一ノ瀬正樹先生は、東京大学大学院人文社会系研究科哲学研究室(学部は文学部思想文化学科哲学専修課程)で長く教鞭を執ってこられた。まずは、そもそも「哲学とは何であるのか」から聞いていこう。
「実は、これこそ哲学を研究している我々にとっても、簡単そうでいちばん難しい命題なのですが(笑)。たとえば生物学であるなら、さしあたりは明白な研究対象の実体があって、その分野の領域もおおよそはっきりしています。しかし哲学だけは、そうした諸学問とは少し違っています。これは私の個人的な見解になりますが、スポーツに近いものとして哲学をとらえることが可能だと私は思っています。『考えること』『問い突き詰めていくこと』をトレーニングする、あるいはそれを身体で習慣づけることで、『研究』というより『何かを実際に行なう』こと――そういうものが哲学ではないかとも考えています」
哲学はスポーツに近い――これは浅学ながら初めて出会う考え方だ。ほかにも哲学について一ノ瀬先生独特のユニークな論説をかみ砕きながら展開してくれた。
「哲学に携わる者はマイナーな存在であるべき――私はこう考えています。もし世界中の万民が哲学に関わってしまったら、生産活動や経済活動が停滞して、恐ろしい事態になるでしょう。哲学が必要とされるのは、戦争など社会的に大きな事象や変化が起こるとき(21世紀の今日でいえば地球環境や臓器移植・裁判員制度などの諸テーマも含む)で、そのときに哲学者の本務として意見を述べることにあります。まあ逆にいえば、哲学が(なかでも倫理的な議論ですが)が必要とされるのは、何か危機が生じたときですから、やっぱり哲学など不要なほうが良いのかもしれません」
「哲学者の意見といっても、素人の視点から離れすぎないように述べることも重要です。どんなテーマの問題にもその分野の専門家がいます。専門的な意見はそうした人々に任せればいい。哲学者は、専門に毒されない素人の視点(もっと言えば子どものような根源的なピュアな部分)に立ち返って、公平で俯瞰的な発言をするのが望ましいのです」
因果性に軸を置いて人間の思考の論理や様式を研究
- 本郷キャンパス正門
- 東京大学本郷キャンパスの点描
そんな一ノ瀬先生ご自身の専門分野は、因果性や人格について、英語圏の哲学を手がかりにした一連の哲学研究になる。
「因果性と人格(パーソン)について私が研究するキッカケは、少年のころに犯罪や刑罰について関心を持ったことにあります。犯罪者には刑罰が与えられますが、その刑罰によって何が変わるのだろう? 殺人を犯した犯罪者・容疑者を死刑に処しても、殺された被害者が生き返るわけでもないのに……。そういった子どもっぽい素朴な疑問ですね」
こうした疑問を抱え続けていた少年・青年期の先生は、思案の末ある概念に行き当たる。
「東洋的な『因果応報』という概念が主題化されてきたのです。これは、東洋に限らず西洋にも存在する観念でした。この因果応報の考え方は、自然現象を擬人化して読み解いていくのが基本でした。その擬人性が次第に薄れ、中立化して、出来上がっていったのが『こうなったので、こうなる』といった、近代的かつ科学的な『因果概念』『因果関係』です。こうした由来を理解するにつれ、人間の思考の論理や様式一般について、因果性に軸を置いて研究したいと思うようになったわけです」
こうして、現在の因果性への思索が導き出されていく。その一方で、刑罰を科せられる人間への関心から人格(パーソン)研究へも向かっていく。
「パーソンの語源はラテン語のペルソナ(仮面)だといわれます。いま仮面というと、表情を変えるために使用する道具と思われがちです。しかし、かつてのヨーロッパでは、仮面によって声を変えたり拡声したりする効果などを狙っていたようです。パーソンという言葉は、『自由な責任主体』としても理解されます。この自由の権利を行使するためには、声をあげて主張しないといけません。さらに権利には責任が伴い、問われたときにはまさしく声で応答する義務が生じます。つまりパーソン(人格)とは、『声』を出す主体であるということが導き出されます」
そして、世紀をまたいで一ノ瀬先生が中心的に考察する哲学的テーマのひとつは、死刑問題を含んだ「死の所有」についてであるという。
最高学府で学ぶ者としてプライドを保ち続ける
- 空襲を免れた新緑の本郷キャンパス
東京大学の学部生は1~2年次、駒場キャンパスで全学共通の教養課程を学ぶ。そして3~4年次になると、本郷や弥生のキャンパスに移って専門課程を学ぶ。哲学専修課程は、本郷キャンパスの文学部思想文化学科に属する。
「本学の哲学専修課程は、ゼミ制ではなく演習制を採っています。ここでは、哲学の古典を原典で読むことから始めます。したがって英・独・仏・ギリシャ・ラテンの各言語を、各人の関心に応じて操れるようにというのが、学部生からの必須条件になります」
さすがに東大と言うべきか! 哲学を学ぶ者へのハードルは当然ながら低いはずもない。原典にあたって読み込んでいないと、自ら哲学を研究し、考察するにあたっても、検討違いの方向に導かれてしまいやすい。一ノ瀬先生はそのようにも強調する。
「ただし、あくまで私たちの研究室が目指しているのは、21世紀における最新の哲学研究です。古今東西の古典にあたって哲学史の通観を学ぶのは、プラトンもカントもヒュームも知らないで、いきなり哲学研究でもなかろう――そういう考えからに過ぎません」
哲学専修課程で学ぶ最終的な目的は、哲学的諸問題について議論しつつ、人間の根源的な思索の手法を学生たち自身に身に付けてもらうことにあるとも。改めてそうした学生指導の基本方針について先生は次のように語る。
「いま東大生の学力低下を指摘する声がありますが、わたしは決して、かつての東大生に劣るものではないと思っています。ただ、昔ほど野心むき出しの人が少なくなって、いまの学生はすごく上品になり過ぎているんですね。日ごろから学生たちに私が言っているのは、『(よい意味で)東大生としてのプライドを忘れるな』ということです。そのプライドを意識し、保ち続けるということは、それに見合う努力を常に怠らないということです。世界のなかで自分(そして自分の大学)はどのような位置付けにいるのか? そういうグローバルな相対的視点をもつことが、モチベーションを高めていくには大切になります」
こんな生徒に来てほしい
他人とは違う、何かこだわりをもって粘り強く考えることが好きな人。とことん分かるまで辛抱強く考えることができる人。分からないことをそのまま素通りにできない人。ある意味こうした人は、生き方の不器用な人とも言えます。しかし、こうした人こそが哲学を学ぶのに向いていると思いますよ。