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受け継ぐ’09夏:映画「ヒロシマ・ピョンヤン…」、中区で上映--来月5日 /広島

 ◇「在朝」の存在知って--「親子通した歴史」伝えたい

 広島で被爆し、大竹市に住む母親と離れ、現在北朝鮮に住む李桂先(リケソン)さん(67)の生活や苦しみを通して、被爆者援護を受けられない在朝被爆者の存在を訴える映画「ヒロシマ・ピョンヤン~棄(す)てられた被爆者」が完成し、原爆の日の前日、8月5日午後2時、中区八丁堀のYMCA国際文化ホールで上映される。上映は無料。【矢追健介】

 撮影・監督をしたのは三重県在住のフォトジャーナリスト・伊藤孝司さん(57)。伊藤監督は83年から在日韓国・朝鮮人被爆者を取材しており、北朝鮮では92年から23回に渡って取材している。映画では、原爆のことを一から説明しており、被爆の基礎知識がない人でも理解しやすいようにした。平壌市在住の李さんを中心に在朝被爆者を描きながら、これまで撮りためた北朝鮮の人々の生活が分かる貴重な写真も収められている。英語版も3カ月後に完成予定だ。

 伊藤監督は06年、李さんに初めて取材した。映画を作るにあたり、北朝鮮で12人の被爆者に話を聞いたが、中でも李さんは指の皮がはがれやすく、指先に包帯を巻いていたのが印象的だったという。李さんは消化器系も弱く、1日に何度も下痢に襲われていた。

 李さんは1945年8月18日、母に連れられ広島市で入市被爆した。以後、髪の毛が抜けたり、体調不良が続いたが、被爆の事実を知らされることはなかった。60年春に高校を卒業した李さんは大学進学を希望していたが、家が貧しかったので断念。帰国運動の盛り上がりもあって北朝鮮へ渡った。その後同国の大学へ行き、結婚した。被爆の事実を知ったのは04年。娘が結婚していたこともあり、李さんの母はずっと黙っていたが、あまりにも娘の体調が悪いので、入市被爆したことだけを伝えたという。被爆から59年後の告白に李さんは衝撃を受け、「被爆の事実を日本政府に認めてもらいたい、被爆の証しがほしい」と被爆者健康手帳取得に動く。しかし取得目前で、付添人の来日が認められず、断念せざるを得なくなった。

 「北朝鮮の被爆者は、韓国や日本のとは全く違う状況だということを、一人の被爆者の日常生活の中から伝えたい。単なる被爆者の映画でなく、1組の親子を通した在朝被爆者の歴史です」と伊藤監督。伊藤監督は、被爆体験や戦争の実態があまり継承されておらず、戦争の悲惨さのリアリティーが伝わってないことを危惧(きぐ)する。「人々がいかに傷付くのかということを具体的に継承していくことが必要だ」と訴えた。

 問い合わせはヒロシマ・ピョンヤン制作委員会(090・5450・5934)へ。

毎日新聞 2009年7月25日 地方版

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