「っ、ヴァンをこのまま逃がしてはいけません!!」

 そう叫ぶことに、もはやためらいはなかった。

 ルークが、ガイが、ナタリアが、アニスが、驚いて振り返る。

 彼らは、そう叫んだジェイドの意図をはかりかねたのだ。ヴァンは地殻に落ちようとしている。地殻に落ちたら──死ぬ。なのに、「逃がすな」とは?

 彼らがまず感じたのは疑問であり、それゆえにジェイドの叫びは彼らの視線を、ヴァンよりジェイドに集めたのだった。概して空気は、「何言ってんだこのオッサン」である。

 だが。

──!! ……っ覚悟!!」

 ジェイドの言葉に、脊髄反射のように動く姿が、一つ。

 ルークたちがジェイドを振り返った、その動きと交わるようにして……彼女だけが、ヴァンへと向かう。

「!! ティア!?」

 にいさん、という声にならない声が、聞こえた気がした──

 

 

象のパレード 4

 

 

 世界が滅びることを恐れたから、彼らはヴァンに立ち向かった。

 だが、ティアには……世界が滅びることより余程、恐れることがあったのだろう。最初から、彼女だけはそうだったのだろう。

 世界が滅びることも、もちろん恐れてはいたけれども。

 いつだって、一番に恐がっていたのは……破壊を為す手が、愛する兄のものだということだった。

「ティアーーーー!!!」

「ティア!」

「っ!」

 一拍遅れた仲間たちの目に映ったのは、地殻へと体を傾げたヴァンと、その体にもたれかかるようにしてナイフを突き刺すティアの姿。

 驚いたようなヴァンの表情も、背を向けたまま顔の見えないティアの後ろ姿も、次の瞬間、視界から消える。

 地殻へと、消える──

「ティア……」

 ジェイドは一人、呆然としていた。

 仲間たちが向こうに、ティアの消えた淵に駆けてゆく。

 その背を見ながら、彼は一人……信じ難い、幻……を見ていた。ありえないほどのリアルさで迫る、幻を。

 

 ──走っていく、ルークの背が見える(これは現実だ)

 ──歩いていく、大勢の人の背が見える(ここには、私たちしかいないのに)

 ──仲間たちの姿は、ティアの消えた淵で立ち止まる(ティアは、どこに……?)

 ──知らない大勢の姿は……その同じ淵で、消える(消える……消えた? 何が……?)

 

「ジェイド!!」

 悲鳴のようなルークの声に、ジェイドはハッと我に返った。

 ジェイドが硬直していたのは、時間にしてわずか数秒。すぐさまルークの隣、淵にまで走ったジェイドの目には、もはや手の届かない深みにあるヴァンと……ティアの姿が映った。

「ティア、譜歌を歌いなさい! 早く!!」

 ティアの目が、大きく見開かれる。

 第一の旋律がジェイドの耳に届いたとき、ジェイドは確かに、ヴァンが開こうとした口を、再び引き結んだのを見た。

 彼が妹のために、自分の命を諦めたのを、見た。

 

 ──未来が動くのを、見た──

 

 再びの幻が、ジェイドの周囲に溢れる。

 さっきの、続き……?

 

 ──象が歩いてくる

 ──千頭の、いや、数える必要もない

 ──何頭か、ではない。この質量を知っている……一万以上の、レプリカ

 ──この淵から、私たちを通り過ぎる……先ほどここで消えた、大勢と同じように

 ──命が……そうだ、そう、なぜ気づかなかった? ………消えることと、死ぬことは全然違うのに

 

 一頭の上に、一人の子どもの姿があった。

 ジェイドは振り返り、見送る……

 子どもが手を振って、そして

 幻は幻のままに

 消えた──

 

「ジェイド、ジェイド!!」

「……なんですかルーク。騒々しい」

「なに言ってんだよ! ティアが、ティアは……!」

「落ち着きなさい。ティアはおそらく大丈夫です」

「……っでも、いや、どういう……!」

もっと落ち着きなさい、できるから」

「……旦那、答えてやってくれ……」

 見かねたガイが声をかける。ジェイドはしばし考え込むと、全員を見回した。

「皆さん、一度地上に戻りましょう。ティアはおそらく、セフィロトのいずれかに現れます」

「セフィロトに、ですの?」

「ええ。私がティアなら……おそらくは所縁のある、タタル渓谷に」

「……っじゃあ、急いでタタル渓谷に行こうぜジェイド!」

「もっと落ち着けと言ったはずですよ? ルーク。……数日、かかるかもしれません。地上で待つのですよ。セフィロトから、第七音素が観測されるのを」

「そうか……。ルークとティアが公爵邸から消えたときも、大量に観測されたんだもんな」

「そうですね、ガイ。……ですがおそらく、今回は前回の比ではありません。私の予想が正しければ……それはもう半端なく観測されます。だから待つんですよ、観測所のメーターが振り切れるのをね」

「? 大佐ぁ、それってどーゆーコトですかぁ?」

「つまり、ティアと……もう一人、ってことです」

「……ヴァン、か?」

「いいえガイ。ヴァンは死にました、たぶん」

「じゃあ、誰だ?」

 だいぶ落ち着いたルークを見て、ジェイドはすっごくイイ笑顔をした。それを真正面から見たルークは、本能的に一歩引いた。落ち着きの賜物であった。

 そんなルークを楽しそうに見つつ、ジェイドは口を開く……

「ローレライです♪」

『はあ!?』

 仲間たちの声は、見事に重なった。

 ローレライはおそらく、ティアと契約する。そこを解放してやればいい。

 キャッチ&リリースとはこのことですね! とウキウキ言い放ったおっさんを目の当たりに、ルークが大陸降下を完全に忘れ果てていたのは、無理もない話であったと言えよう(なにしてやがる屑! で思い出した)。

 

 

 数日後、タタル渓谷。

 メーターが振り切れたら軍本部に知らせなさい! という極めてアバウトな命令を突きつけられたグランコクマ第七音素観測所の所員は、言いつけられたときは「はあ……?」であったが、二日後にはすごい勢いで報告に来た。

 メーターが吹っ切れるくらいの音素が、タタル渓谷に観測された、と。そしてもう一つ、第七音素が……おそらくは第七譜術士の存在が予想される、とのことであった。

 その報告を受けるやいなや、アルビオールに飛び乗って、彼らはここにいる。

 

トゥエ レイ ズェ クロア リュオ トゥエ ズェ ……

 

「譜歌、ですね……」

「ティア!!」

 

クロア リュオ ズェ トゥエ リュオ レイ ネゥ リュオ ズェ

ヴァ レイ ズェ トゥエ ネゥ トゥエ リュオ トゥエ クロア

リュオ レイ クロア リュオ ズェ レイ ヴァ ズェ レイ

ヴァ ネゥ ヴァ レイ ヴァ ネゥ ヴァ ズェ レイ

クロア リュオ クロア ネゥ トゥエ レイ クロア リュオ ズェ レイ ヴァ

 

 ティアは一旦、歌をとめた。

 そして、ジェイドの記憶の中にしか響いていなかった旋律を、続ける……

 

レイ ヴァ ネゥ クロア トゥエ レイ レイ

 

「第七譜歌、ですか……」

 ジェイドは少なからず驚嘆した。

 ローレライが、いや、ヴァンが、遺したのだろう。

「……ルーク! みんな!」

 こちらの姿をみとめて、ティアが駆け寄ってくる。その細身の姿が現在、実にローレライの塊だと知っているジェイドは若干逃げ腰になったが、他の誰もが躊躇せず彼女の傍に走った。

 ……まあ、いいですか。

 ジェイドもゆっくりと歩き出す。

 ローレライと契約せずして、地殻からの生還は望めない。ジェイドがティアに「譜歌を」と叫んだとき、ヴァンにだけはその意図が理解できたことだろう。

 ……だがヴァンは、譜歌を歌わなかった。

 そんな選択も、彼にはできたのだ。かつて志のために命を落としたのも、そして現在、妹のために命を譲ったのも……等しく、ヴァンという人間であったのだろう。どちらがヴァンにとって幸せであったかなど、ジェイドには分からない。しかし、それが自己の選択である限り、否定するような男ではなかった、と思う。

「あのシスコンが……」

 ジェイドはとりあえず、クサしておいた。これくらい言ってもいいと思った。

 だが、そのとき。

「あああああああ! なんでぇ〜!!?」

 アニスのもんのすごい声が渓谷に響く。

「何事ですかアニース。騒々し……」

 感慨を邪魔され、嘆息しつつアニスの視線を追ったジェイドも、思わず口ごもる。

 少し離れたところに佇むその姿は、ジェイドにとっても全くの予想外であった。

「……巨大な第七音素と……、一人の第七譜術士……」

 そうか、確かに観測所所員はそう言っていた。うかつだった。

 ティアはローレライと融合しているわけだから、もう一人、とはティアでなく……

「あなたもホンットに、空気読まない復活をしますねぇ……シンク」

「……うるさいよ、ネクロマンサー」

 緑の髪をした少年は、心の底から不機嫌そうに言い捨てたのだった。

 

 

 一通り、全員が驚いたのち。

「さてシンク、選びなさい」

 ジェイドは愉快そう〜に言葉を発する。シンクの処置は義務というより、もはや趣味の領域であった。

「1、国際裁判。2、ディストと牢獄。3、イオン様と同居。どれがいいですか?」

「ふざけんな! 3だけは嫌だよ!!

「ですよね〜」

 ディストより嫌か……、ディストより嫌なんだ……、といったヒソヒソ声が、周囲に行き渡る。ジェイドは軽く肩をすくめて、シンクに向き直った。

「……ま、ヴァン亡き今、あなたに何ができるとも思えません。個人的には野放してもいい、と思いますね。ですが……」

 そこでジェイドは、少し首を傾げる。シンクは何も答えなかった。代わりにガイが、そりゃマズいんじゃないかな旦那……、とこの場に必要なつっこみを入れていた(無視されたが)。

「シンク、あなたは、なぜ戻ってきたんですか? 私にはそれが分かりません。……そしてティア。あなたはなぜ、シンクを助けたのです」

「……大佐……私は……」

「ジェイド!」

 その責めるような口調に対し、小さく口を開いたティアの声を、ルークが遮った。

 まっすぐに厳しく、彼はジェイドを見つめる。

「目の前の命を助けたいと思うのも……助かりたいと思うのも、当たり前のことだろ! ……それ以上の意味とか、必要ねーよ」

「……そうですね、ルーク」

「ルーク……」

 ティアは俯く。

 目前で、ヴァンを失った。だから……手を伸ばした。

 それは自分勝手だったと、ティアは思っていたのかもしれない。だがルークはまっすぐに肯定する。その双方の心理を、ジェイドは理解できた。が……

「あなたは? シンク」

「ジェイド! だから……」

「いいから黙っていなさいルーク。……そうですね……もし、シンクがこの世で憎んでいるものがあるとすれば……それはローレライだったはずではないですか? だから不思議なのですよ。なぜ、ティアの手を受け容れたのです? シンク。……結果的に、ローレライの助けを」

「……僕は、その女の手をとったつもりはない。ローレライの手も、だ」

「……? はあ」

「僕がとったのは、仲間の手だ。他の何も、僕は受け容れない」

「仲間? 六神将ですか?」

「違う。僕の……」

イオン様ですか?」

「殺すぞネクロマンサー」

 ジェイドは本格的に肩をすくめた。意味がわからん。

 一方シンクは、いらだたしげに……なのに、どこか泣きそうな顔で言葉を続ける。

「……ザレッホ火山で廃棄された。彼らだけが、僕の本当の仲間だ」

「暗いですねぇ……」

「何とでも言え。…………笑って、いたんだ。名前すらないはずの、イオンのレプリカが。……この世に怖いものなんて、なんにもないみたいに。僕は、その手だけは……拒めなかった」

「……笑った? そんな馬鹿な」

 感情も芽生えてなかった、生まれたばかりのレプリカが?

「あんたの言いたいことは分かるよ、死霊使い。……僕はたぶん、幻覚でも見たんだろうさ。まったく、とんだ話だよ……手を伸ばしてそいつの手をとった、と思ったら……総長の妹の驚いた顔が、目の前にあった。それだけだ」

「……シンク」

「なんだい?」

「その……レプリカは、全員ですか? ザレッホ火山で死んだ」

「? ……いいや、一人だよ。でも、そんなこと別に、どうだっていいだろ」

「そう、ですか……」

 

 笑って、シンクに手を伸ばして。

 

「よりによって、あなたが……」

 

 感情もないうちに死んだ者たちでは、ありえないのなら。

 

「あなたが、シンクの生を望むのですか……?」

 

 ジェイドの脳裏に、象の上に乗っていた、一人の子どもが浮かび上がる。

 手を振って、消えた。そう、あのとき一万の命は……本当に「消えた」のだ。

 

「……あれは、葬列か……」

 

 生まれなかった者たちが、通り過ぎていったのか。

 ヴァンの死とともに……彼らが存在しない道筋へと、未来は転じてしまった。

 生まれることすらできなかった子どもを悼む術を、ジェイドは持たない。……ネフリーでさえ、その子を知らない。ジェイドのほか悼める者などいないというのに、方法が分からない。

 それなのに……他の命を尊ぶことができるのか。

「……? どうした? ネクロマンサー」

「ああ、すみません。……シンク、事情が変わりました」

「は?」

「とりあえず……これを食らいなさい!」

「!!!」

 ジェイドがポケットからぽんっと取り出して投げつけたものを見て、その場の全員が驚愕した。特にルークは飛び上がって叫んだ。

「ジェイドそれ……っ、アンチフォンスロット!!?

「おや〜ルーク。いい子ですね〜♪ 覚えてましたか」

「ちょ、旦那! なんでンなもんが、一軍人のポケットに入ってんだよ!」

「嫌ですねー、ガイ。乙女のハートと軍人のポケットは、ヒミツでいっぱい☆ が常識です」

「ふ、ざけるなよネクロマンサー!」

「言える立場ですかシンク」

 いとも楽しげにシンクを見下ろしたジェイドは、さらに楽しげに言葉を続ける。

「これは万が一、ヴァンが生きていた場合のために持ってきたんですがね。……一旦作っちゃったものに費やした予算は、どうせ戻ってきませんし? 別にいいでしょう、あなたに使っても」

「なん、の、つもりだ……!」

「いえいえ。個人的には、あなたのことなど別に放っといてもよかった、というのが紛うことなき本音だったのですが。……さっき申し上げたとおり、事情が変わりまして」

「なに……?」

「シンク」

 ジェイドはその場で腰をかがめた。地面から立ち上がれないシンクに、視線を合わせる。

「私はローレライに関して、たった一つだけ心から評価しております。……あんっだけ人様に多大な面倒と迷惑をかけておいて…………それでも最後まで、自分の消滅だけは決して……絶対に望まなかったことだ。解放しろって何ですか。捕まっちゃったって何ですか。なのに音符帯に隠遁する気満々ですか図々しい」

「は……? あんたがローレライの、何を知ってんの。……ていうか、あんたの意見に興味はないよ」

「でしょうね〜。ま・それはともかく」

「…………あのね……!」

「まぁあなたには……そうですね〜……こりゃーちょっと死ぬわけにはいかないな、ってとこに強制収容されていただきます。やれやれ、手間がかかる。面倒極まりませんね」

「な……! 大きなお世話だよ!」

「アンチフォンスロット……まあ、頑張れば五年くらいで解けるんじゃないですか? ファイト!」

「ちょ……!!」

 ジェイドは立ち上がった。

 その紅い瞳はシンクを見下ろしつつ……どこか、遠くを見ている。

 誰に言うとでもなく、ネクロマンサーはもう一度、さっきと同じような言葉を小さく呟いた。

「あなたが、シンクを望むのですか……」

 ……その声音が、あまりに死霊使いらしからぬものだったせい、かもしれないが。

 このときジェイドが口にした名前を、シンクはその生涯にわたって忘れることがなかった。……こののち数十年にわたって、ずっと、ただ、覚えていた。

 これ以降、ジェイドですら二度と口にしなかった、その名を。

「……フローリアン」

 ──あのとき自分に手を差し伸べてきた、無垢な微笑みとともに。

 

 

 

ティアのお話でした。+シンク。5に続きます。

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