執務室にて
エルドラントの戦いから、二年。
ルークとアッシュが帰ってきてから、数ヶ月。
ルークは現在、グランコクマ軍本部の廊下でネフリーと向かい合っていた。世界が救われてからの年月はそのまま、バルフォア兄妹が交流を取り戻してからの年月でもあった。
先週も兄に米と靴下とインスタント食品を段ボールで送りつけた妹は、兄が一人暮らしの大学生ではなく三十路の軍人であることを、綺麗さっぱり見過ごしていた。そして今日は手ずから、ケテルブルク市今期の決算書を持参したのである。そういうものこそ郵送でいいと思うのだが、彼女の行動理念は彼女にしか分からない。
来訪してしばらく兄の執務室で話していたネフリーだったが、そこにうっかりと床穴から皇帝が顔を出したため、「あら、ご無沙汰しております。兄とお話があるのでしょう? 失礼しますね」と笑顔でドアに向かったものだ。そのドアからこれまた、ルークがノックもせずに入ってきた。
そして、今に至る。
「ごめんなさいねルーク君。こんな廊下で引きとめてしまって」
「いいえ。……あの、ネフリーさん。ええっと……ジェイドの部屋に入りませんか?」
「大丈夫。兄への用事はもう済んだわ」
「いやそうでなく……」
ルークは頑張ったが、その頑張りはネフリーの聖母のような微笑みの前に、はかなく散らされた。なんか陛下が、ちょっと見たことも想像したこともないほど情けない顔してたんですけど……、とは言えなかった。
「それにしても、あなたがマルクトに来るなんてね。なあに? とうとう、お兄さんと王女の婚礼なの?」
「ネフリーさん。その『お兄さん』がアッシュなことは分かってるんですけど、あなたが言うとシャレにならない人が思い浮かぶんでやめて下さい。いや、そうじゃありません……んー、でもま、そう……なのかなぁ。ピオニー陛下に、空いてる日ありませんかって聞いてこい、って言われたから」
その用事でなんで兄(ジェイド)の部屋に、とネフリーは思ったが黙っていた。そんな問題以前に、この子どもには外交官としての自覚がなさすぎる。あくまでダチ感覚……いや、招待状がないぶんダチより遠慮がない。
「キムラスカ王族の婚礼にマルクトの皇帝が出席、ねぇ……。時代は変わったものね」
「そうですね。でも、そんなことが増えると思いますよ。これからは」
「あなたは? いっそW結婚式、とかしないの?」
「……それはまた……」
アッシュがことのほか嫌がりそうだな、とルークはどこかズレた感想を抱く。それはそれで面白いかもしれない、とサラリと思ったあたり、彼はだいぶ成長していた。
「まあ、こちらのお祝い事にも、ナタリアをはじめとして参列しますよ。結婚式は無理かもしれないけど、陛下的に」
「ええ。手始めに、マルクト建国の祭典に顔を出すといいと思うわ。婚礼はあるかどうか分からないけど、陛下的に」
ネフリーが言っては哀れすぎる。
そんな気の毒さを見なかったことにして、ルークはジェイドの執務室のドアをちらっと見やった。中からはかすかにだが、低い話し声が聞こえる。ジェイドとピオニーであろう。
「でも、オレ、思ってたんだけど……」
「なあに?」
「みんな、陛下の結婚とお世継ぎ問題ばっかり、あーだこーだと言ってますけど……ま、皇帝っていう立場からしても当然だとは思うんですけど…………陛下だって、ジェイドには言われたくないだろうなって。そろそろジェイドも、上の子が中学校にあがってても不思議じゃない年齢でしょう?」
「……そうね。長男が兵役に入って、長女に縁談がきてもおかしくない年だわね。家柄としては」
「だけど、結婚してないじゃないですか」
「できないんじゃなくて?」
「いやそれは……そうですけど……でも言ってよかったかよくなかったかっつーと、断じて言ってはいけなかった、それは」
「でもルーク君。もしお兄さんが、『結婚することになりました』とか報告してきたら……私、全身全霊で説得すると思うわ。新婦を」
「……なんてですか? やめとけって?」
「そうね。早まるなって」
「オレ、実は……ジェイドはアニスを狙ってるんじゃないかと思ったことがありました……数日眠れなかった」
「それは……怖かったわね」
「はい……。果たしてアニスが好きなのか、それとも幼女が好きなのかと……」
「幼女が好きなんじゃない?」
「うわぁ」
呼吸するような自然さでジェイドをクサしたネフリーを、ルークは異次元の住人を見るような目で見つめる。まったくもって、ネビリムの私塾は大物の輩出スポットである。
「ネフリーさんがそう言うなら、そうなんだろうなって思います」
「気を強く持つのよ」
謎の納得をしたルークを見て、ネフリーは、女神のように柔らかく微笑んだのだった。
一方、執務室内。
「…………」
「………………」
「……………………ジェイド」
「…………………………なんですか陛下」
「気持ちは分かるが、ルークにはあたるなよ? な?」
廊下の話は、ものの見事に筒抜けだった。眼鏡のブリッジを持ち上げ、ジェイドは氷のような声を出す。
「では、誰にあたれと。なんですかあの妹は。私の人生のラスボスですか?」
「裏ボスが女教師、ラスボスが妹、か……。痛々しい人生だなジェイド」
「……。そもそも、陛下がいいトシしてウダウダしてるから、私にまで矛先が向くんじゃないですか。嫁取りしなさい陛下、権力にもの言わせて。この際ティアでいいですから」
「ルークにあたるなと言っただろう。あと俺にもあたるな。いくら皇帝っつったって、キチンと選ぶ権利くらいあったっていいと思わんか」
「一般的には、ティアにも選ぶ権利がある、と言われるところでしょうねぇ」
「だがジェイド、よく考えてみろ。……相手に選ぶ権利があるからこそ、俺はまだ独身なんじゃね? ない方がよくないかその権利。そう……、この国のためにもだ」
その権利=皇帝の求婚を断る権利。
ジェイドは思わず泣きたくなった。そりゃー……うん、駄目すぎる。
「陛下……」
「なんだ」
「頑張れ」
「…………おう」
そのとき、思わず素で励ましたネクロマンサーの思いやりは、先程ネフリーにスルーされたときより遥かに深く、ピオニーの心を傷つけたという。
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