国語審議会に於ける提案 (資料)
私は国語や国文学については全く門外漢であり、無学である。それをいつも前置きしながら、戦後の国語政策等に向って発言してゐる。門外漢としては発言が少しく無遠慮にすぎはしないかと反省することもあるほどである。このやうなことになったきっかけは、国語審議会の委員に任命されたことであるが、国語審議会に出て私の先づ知ったことは、審議会が抱へてゐる問題のうち最も根本的なものは、必ずしも国語の専門学者の専門的研究に属する事項ではないといふことであった。考へてみれば当然のことかも知れないが、私にはそれまで思ひもつかなかった新しい認識だった。
そこで私は、日本語に生きてゐる一人の日本人として、ここに私にも出来る一つの仕事があると考へ、次にあるやうな議案を提議し、これらの根本問題についての審議に参加しようと試みたのである。しかし私の提案はすべて無視された。一つも正式の議題として取り上げられて審議されることなく、私の二期間にわたる委員の任期は終ってしまったのである。私の提案は、この種の政府の「審議会」といふものの運営の慣例に合はない、不心得なものであったのかとも思ふが、提案が没になった理由は知りやうもなく、今でも心に残ってゐる。ただ「日本語は、漢字仮名交り文を以てその表記の正則とするものではないのか」といふ趣旨の問題提起だけは、任期の終る直前の総会で再度の提案理由説明の機会を与へられた。しかしそれもただ説明をしただけであった。
右のやうな次第で、これらの提案は、私のやうな者が、なぜ国語・国字や国語政策の問題などに口を出すのであるか、この理由といふか心境を知っていただくのに役立つだらうと私は考へてゐる。私にはかねがね、自分の「国語論」に対して、分を弁へぬ余計な口出しのやうな気兼ねがある。一方に、止むに止まれぬやうな気持もあるので、そのへんの釈明を試みる機会がほしいと思ってゐる。この本の中にこれらの提案と、それぞれの提案理由の説明とが載せられれば、それは一つの機会である。しかし本の体裁としてはどうかとも思はれた。出版の方でも最初は難色を示されたが、結局、一段落した細字で、資料として載せようといふことになった。細字でも、私ははなはだ満足である。
提 案 一
国語審議会が審議する「国語」を規定し、これを公表することに就て
提案者 委員 吉 田 富 三
昭和三十九年三月十三日
議 案
国語審議会が「国語」に関して審議する立場を、次の如く規定して、これを公表する。
「国語は、漢字仮名交りを以て、その表記の正則とする。国語審議会は、この前提の下に、国語の改善を審議するものである。」
提案理由
提案の問題の主体は、話し言葉にではなく、国語の表記にあります。換言すれば、如何なる文字を以てするのを国語表記の正則とするか、その点を明示する事であります。
いかにも自明の事を、ことさらに問題とする様に見えるかも知れませんが、明治以来今日に続く国語問題の紛糾は、その根元に於て、右の一点をあいまいにしたまま、ときには意識的に不問に附したまま、論議を重ねて来たところに、その原因を有すると考へられます。
国語問題と国語国字問題とが、しばしば同義であるのは、国語問題の本質をなすものは、文字その者である事を物語ります。その文字のうちでも、漢字が特に問題である事は、既に明白であります。
明治の初頭に於て、始めて西洋文明に接して起った国語問題は、先づ漢字全廃論を以て始まりました。国語の表記を仮名文字・ローマ字等の表音文字表記に変へようとする論或は運動は、必然的にこれに伴ひました。この「漢字全廃」を究極の目標に置いて、その中間手段として、漢字の制限、仮名遣ひの表音化等の運動が起りました。
政府の国語政策は、時勢、国運、思想の動向等によって、変動、浮沈があり、国語問題の審議にも紆余曲折がありましたが、要するに、国語問題、国語政策を引き廻はし、その紛糾の原因をなしたものは、表面に出ると出ないとに拘らず、明確に意識されるとされないとに拘らず、漢字全廃論に根ざした国語改革思想でありました。この事は、国語問題の歴史からみて否定し得ないところで、今日に到るまで同じ線で続いてゐます。
併し、提案者個人にとっては、漢字仮名交り文を以て表記する言葉以外のものを、「日本語」として念頭に描くことはできないのであります。日本語から漢字と仮名遣ひとを取り去り、「音」だけを残し、これを如何なる表音文字、または記号を以て表記してみても、それを「国語」と考へることはできません。
勿論、これは飽くまで私見であります。国語学或は言語学を専門としない一人の日本人の感覚に過ぎませんから、議論はあると思ひます。そこで提案者の願ふのは、果して議案に述べた様に、「国語」或は「国語問題」を規定して、これを国語審議会の名に於て広く公表することができるものかどうか、その審議であります。
審議の結果、この大前提が明示されることになるならば、それは、漢字と仮名とは国語表記の要素、即ち「国字」である事が確認された事を意味しますから、漢字の使用に対して、或る範囲の制限をつける施策にしても、その限界は、現実に即して、自ら余裕のあるものとならざるを得ないでせう。仮名遣ひの問題にしても、単に発言通りに近づけるだけの目的のために、無理を敢てしないでもすむ様になりませう。漢字と仮名とを、日本語の文字、即ち国字として、最大に尊重しながら、その上で、国語の表記を、正確に、平明に、美しくするための審議は、広く日本人の良識に訴へて、楽しく、漸進的方法を以て進められる様になるでありませう。国語教育に於ても、先づ子供たちに何を教へるべきか、何に拠らしむべきか、教育の基本が確立され得るでありませう。
世には、国語を愛し、従って政府の国語政策に対しては、多大の関心を以てこれを見張ってゐる人々が、決して少なくはありません。またこれらの人々のうちには、国語問題のこれまでの経過に鑑み、政府の基本的態度に不審の念を抱いてゐる者も少なくありません。
いま国語問題は、如何なる根本理念により、何を目標として、審議されてゐるのであるか。平たく言へば、政府は我々の国語を何処へ持って行かうとしてゐるのか。そこに疑惑の念を抱いてゐる人は決して少なくありません。今もし、国語の表記と国字に関する基本的立場が、上述の如くに明示されるならば、これらの年来の疑惑は一掃され、国語は全国民と共にその本来の明るい大道を歩み、全国民の手によって、正しく、美しいものに育てられて行く様になるだらうと思ひます。
但し、この提案は、国語を、場合によって、ローマ字、カナモジ等を以て表記し、伝達・通信の利便と能率の向上とに資する方法の活用と研究とを排するが如き意図は、毛頭これを有するものではありません。むしろ、これらの副次的国語表記の研究と、より有効な方法の開発とは、益々助成、奨励さるべきものであると考へてゐます。併し、飽くまで留意すべきは、これらはどこまでも副次的、便宜的表記法であって、国語の正則の表記の問題とは別個である点だと思ひます。
国語は、国の文化の根元であり、一人々々の国民の思想その者であります。「国語」によって創造され、「国字」を以て表記された思想を、単に伝達・通信するための便宜上、何らかの表音記号に仮託する機械的手続の問題と、思想が拠って以て立つところの国語の問題とは、別個であります。両者は峻別すべきで、混同されてはならないと考へます。況んや、後者の立場だけから前者を論ずるが如きは、厳に誠むべきでありませう。
終りに一言附言致します。
提案者は、自分が今「国語」として自覚し得る様な国語を問題としてゐるのであって、極めて遠い将来に、日本人の言葉が如何なる変化を示すものであるか、それが「如何なるものであるべきか」等を問題としてゐるのではありません。これは極めて大きな民族文化史の問題であります。専門的学問の研究課題としても、広大な規模と年数とを要する大問題だと想像します。或は、この種の問題は、想像を絶するものといふべきでありませう。
それは、例へば、遠い将来に、日本民族はこの四つの島から散らばって、地球上の何処にどう拡散するのであらうか、その時の日本人は「如何にあったらよいのか」――さういった問題と同じであります。従って、いまの国語審議会が、この種の遠い未来を念頭において審議を進めるのであれば、我々の如きが意見をさしはさむ余地は全くない事を、提案者は自覚してゐます。
提案者は今この提案理由を考へ、書きながら、漢字と仮名とで物を考へてゐます。それ以外の事はできないのです。これは厳しい事実であります。いま小学校に通ってゐる無数の日本人の子供たちにも、この私のものと同じ道以外のものはないでありませう。即ち現実に考へ得る限り、国語は日本人の思想その者であり、現実に日本人が所有する文化の根元だと信ずるのであります。
国が国語を如何なるものと考へ、それを如何に尊重し、如何に愛するか。それを明示し、子供たちに国語学習の拠り所を与へ、学習の重要性を知らしめることは、国民の思想の形成に、或は日本人の人間形成に、何者にも優先する重大要件であると信ずるのであります。不敏を顧みず、敢てこの提案を試みるのは、このためであります。
(附記) 提案者は、本提案と同一の提案を第六期国語審議会に於て行ひましたが、第六期に於ては提案として審議をされるに到りませんので、再度提案する次第です。