| Top > 安龍福騒動の鬱陵島 | |
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韓国政府は、 竹島の韓国領有の歴史的根拠として、朝鮮の地理志を引用して、 「鬱陵島からは、竹島(独島)がはっきりと見えると書いてある」と主張しました。 しかし、安龍福がいた頃、 日本と朝鮮政府が鬱陵島の領有権を争いました。 その時、朝鮮政府は 本島峰巒樹木, 自陸地歷歷望見,~ 俱載於我國《輿地勝覽》書 本島は、峰巒と樹木が茂っていて、内陸でも、歴々と眺めることができるし、 そのことは皆我が国の 《輿地勝覧》と言う書籍に載せられていて歴代で伝えていて明らかだ。 と、解釈していたのです。 下の記録は、そのときの朝鮮実録からの引用です。 韓国政府が、「鬱陵島から于山島が見える」と解釈したのは戦後のことなのです。 また、貴州を、「あなたの国」、州=国として解釈していますね。 肅宗 27巻、20年(1694 甲戌 / 清 康煕(康煕) 33年) 8月 14日(己酉) 4番目記事 鬱陵島問題を倭と交信する http://sillok.history.go.kr/inspection/insp_king.jsp?id=wsa_12008014_004&tabid=w ○初南九萬以鬱陵島事, 白上, 議遣接慰官, 直責其回賓作主, 及倭差還, 持春間所受回書而至, 最初に南九万が鬱陵島に関する事で賃金に申し上げて、 接慰官を送ってすぐ其の回賓作主を咎めるようにすることに議論した。 倭差が還って来ながら春頃にもらって行った回書を持って来たし、 又致對馬島主書曰: “我書曾不言鬱陵回書, 忽擧鬱陵二字, 是所難曉, 只冀刪之。” また対馬島主の書契を捧げたが、その書で曰うには、 「私たちの書契には、かつて鬱陵島に言及しなかったが、回書には急に ‘鬱陵’ 二つの字を取り上げました。 これは分かりにくいバイだから、ただ削除してください」” した。 九萬遽欲從其言, 改前書。 尹趾完執不可曰: “旣以國書, 付之歸使, 何取復來請改乎? 今若責之以竹島是我鬱陵島, 我人之往, 何嘗犯界乎? 則倭必無辭矣。” 南九万がついその言葉に付いて、前の書契を直そうとすると、 尹址完がだめだと固執して曰うには、 「この国書は帰る使者に付けたが、どうして敢えてまた来て直すのを請ずるのか? もし今度責めるのを、「竹島はすなわち我が鬱陵島だ。 我が国の人が行くことが、どうして境界を犯したことになるのか?」 と言ったら、倭人たちは言うものがないだろう」 した。 九萬遂以此入奏。 上曰: “狡倭情狀, 必欲據而有之, 其依前日所議, 直辭以報之。” 九萬曰: “曾聞高麗毅宗, 初欲經理鬱陵, 而東西只二萬餘步,南北亦同之, 土壤褊小, 且多巖石, 不可耕, 遂不復問, 然此島在海外, 久不使人視之, 倭言又如此, 請擇三陟僉使, 遣于島中, 察其形勢, 或募民以居之, 或設鎭以守之, 可備旁伺之患也。” 上許之。 南九万がいよいよこれで入って行って申し上げたら、朝廷が言うには、 「狡い倭人たちの情状で見て、必ず占拠して所有しようと欲するから、 其の前日に議論したとおり、すぐものを言って言い返してくれ」 とした。 南九万が申し上げるのを、 「合わせて聞くが、高麗毅宗 初期に鬱陵島を経営しようと思ったが、 東西がただ 2万余歩だけで南北もまた同じだったし、土地が狭くて、また岩石(巌石)が多くて、 耕作することができないので、遂に復た問わなかったです。 しかしこの島が海外にあって、長い間、人をさせて視察するようにしなかったし、 倭人たちの言葉がまたこのようだから、三陟僉使を選んで送るように請ずるが、 于山島の中へ行って、その形勢をよく見て、あるいは民衆を募集して居住するようにして、 あるいは鎭を設置して守るようにしたら、そばで狙う懸念を防備することができるでしょう.」 としたら、朝廷が允許した。 遂以張漢相爲三陟僉使, 接慰官兪集一, 受命南下, いよいよ張漢相を三陟僉使にして、接慰官・兪集一の命を受けて南に下がった。 蓋安龍福ㆍ朴於屯, 初至日本, 甚善遇之, 賜衣服及椒燭以遣之, 又移文諸島, 俾勿問, 而自長碕島, 始侵責之。 蓋して安竜福と朴於屯が初めて日本に行った時に、 非常に善く遇して、衣服と胡椒と燭を与えて送ったし、 またすべての島に移文して、どんな話もできないようにしたが、長碕島から侵責し始めた。 對馬島主書契竹島之說, 是爲他日徼功於江戶之計也。 集一問龍福, 始得其實, 乃喝倭差曰: “我國將移書于日本, 備言侵責龍福等之狀, 諸島安得無事?” 倭差相顧失色, 始自折服。 対馬島主の書契に ‘竹島’と言う言葉は、すなわち他日に江戸で功を誇示するための計策だった。 が、兪集一が安竜福に聞いて見ると初めて事実が分かった。 やっと倭差を叱るのを、 「我が国で将来日本に文を送って、安竜福などを侵責した状況を言ったら、諸々の島々がどうなっていたろうか?」 と言ったら、倭差たち顔色を失って初めて自ら屈服した。 至是, 九萬改前日回書曰: “弊邦江原道蔚珍縣, 有屬島曰鬱陵, 在本縣東海中, 而風濤危險, 船路不便, 故中年移其民空其地, 而時遣公差, 往來搜檢矣。 ここに至って南九万が前日の回書で曰うには、 「我が国の江原道の蔚珍県に属した鬱陵島と言う島があり、本県の東海の中にあって、 風濤が険しくて、船路が便利ではないから、何年か前に民を移して地を空にしておいて、 随時に公差を送って往来したりして捜検するようにしました。 本島峰巒樹木, 自陸地歷歷望見, 而凡其山川紆曲, 地形闊狹, 民居遺址, 土物所産, 俱載於我國《輿地勝覽》書, 歷代相傳, 事跡昭然。 本島は、峰巒と樹木が茂って、 内陸でも、ありありと眺めることができるし、 凡そ山川が屈曲し、地形が広くなくて、住民の遺址と土産物が、 皆我が国の 《輿地勝覧》と言う書籍に載せられていて、歴代に伝えて来る史蹟が明らかです 今者我國海邊漁氓, 往于此島, 而不意貴國之人, 自爲犯越, 與之相値, 乃反拘執我人, 轉到江戶, 幸蒙責國大君, 明察事情, 優加資遣, 此可見交隣之情, 出於尋常, 欽歎高義, 感激何言? 今度、我が国の海辺の漁民たちが、この島へ行ったが、 案外にも貴国の越境して侵犯して来て、お互いにぶつかり合うようになると、 返って我が国の人々を拘束して、江戸まで捕えて連れ行きました。 さいわいにも貴国大君が明らかに事情をよく見て、 過分の路資を与えて送ったから、これは交隣する認定が普通ではではなければが分かる事です。 高い義理に歎服したから、その感激を言えないです。 雖然我氓漁採之地, 本是鬱陵島, 而以其産竹, 或稱竹島, 此乃一島而二名也。 一島二名之狀, 非徒我國書籍之所記, 貴州人亦皆知之。 たとえしかし我が国の民が漁採した地はもともと鬱陵島として、 竹が生産されるからたまに竹島とも言ったが、これはすぐ一つの島を二つの名前で呼んだのです。 一つの島を二つの名前と呼んだ状況は ただ我が国の書籍にだけ記録されたのではなく、貴州の人々もまた皆分かっているのです。 而今此來書中, 乃以竹島爲貴國地, 方欲令我國禁止漁船之更往, 而不論貴國人侵涉我境, 拘執我氓之失, 豈不有欠於誠信之道乎? 深望將此辭意, 轉報東都, 申飭貴國邊海之人, 無令往來於鬱陵島, 更致事端之惹起, 其於相好之誼, 不勝幸甚。” 倭差見之, 請改侵涉拘執等語。 集一不從。 ところで今度来た書契の中に、竹島を貴国の地方と言って、 我が国にとって漁船がまた出ることを禁止しようと思ったし、貴国人々が我が国の地境を侵犯して来て、 我が国の民をつかまえて間過ちは論じなかったから、どうして誠信の道理に欠けている事ではないですか? 深く願わくば、こんな言葉意味を持って、 東都)に転報して、貴国の辺方海岸の 人々を重ねて取り締まって 鬱陵島に行き交って、また事端を引き起こす事がないようにしたら、 お互いに良く過ごす義理においてこれよりさいわいさがないです」 したが、 倭差が行って見て、侵渉し、拘執 などの語句を直すように請じたが、兪集一は従わなかった。 倭差又請得第二書【請刪鬱陵二字之書。】之回答。 集一曰: “汝若受上船宴, 則吾當歸奏朝廷而成送之, 蓋權辭也。” 倭差遂受上船宴。 集一乃復命, 然倭差不肯歸。 倭差がまた第2の書契の、 【‘鬱陵’ 二つの字を削除してくれるように請ずる書契】の回答を受けるように請ずるので、 兪集一が言うのを、「もし君が上船宴を受ける事にしたら、私が当然に帰って、朝廷に申し上げて用意して送る」 としたから、たいていその場を逃れて一ですね、倭差がいよいよ上船宴を受けたし、兪集一もここに復命した。 しかし倭差は帰ろうと思わなかった。 漢相以九月甲申, 乘舟而行, 十月庚子, 還至三陟, 言倭人往來固有迹, 而亦未嘗居之。 地狹多大木, 水宗【海中水激處, 猶陸之有嶺也。】 亦不平, 艱於往來, 欲知土品, 種麰麥而歸。 明年復往, 可以驗之。 張漢相が 9月甲申8280) に船に乗って行ってから、10月庚子に三陟に帰って来て、申し上げるのを、 “倭人らが往来した名残は本当にあったが、またかつて居住しなかったです。 地が狭くて大きい木が多かったし、水宗が【海中の水が激しい所だから、陸地の嶺があるところのようだ.】 また平坦ではなくて行き来しにくかったです。 土品が分かろうとモメック麰麦)を植えておいて帰って来たから来年にまた行って見れば徴験することができるでしょう.” とした。 九萬入奏曰: “不可使民入居, 間一二年搜討爲宜。” 上從之。 又言: “禮曹所藏, 有丁卯伯耆州倭, 漁于其食邑竹島, 漂到我界之文, 東萊府所藏, 有光海甲寅, 倭有送使探視礒竹島之言。 朝廷不答, 使東萊峻斥之之文, 倭之漁採此島, 其亦久矣。” 上曰: “然, 時漢相所圖上山川道里, 與《輿地勝覽》所載多舛, 故或疑漢相所至, 非眞鬱陵島也。” 南九万が入奏して申し上げるには、 「民が入って行って暮すようにできず、一二年の間隔を置いて、捜討するようにすることが適当です」と したら、朝廷はそのまま従った。 また申し上げるのを、 「礼曹判書でおさめている文書には ‘丁卯年に伯耆洲の倭人が、其の食邑 竹島で魚を捕っている途中、 我が国の地境に漂流して来た.’という文があって、東莱府におさめた文書には ‘光海 甲寅 に倭が使者を送って、磯竹島を探視すると言ったが、 朝廷で返事しないで、東莱部にとって峻厳に排斥するようにした.’ という記録があるから、倭人たちがこの島で漁採して来てからまた古いのです.” したら、朝廷が言うには“そうだ.” した。 この時、張漢相が描いてあげた山川と道里が 、 《輿地勝覧》の記録と違うところが多く、それ故に、或者は張漢相が行って見たところは、 本当の鬱陵島ではないと疑ったりした。 --------------------------------- ○初南九萬以鬱陵島事, 白上, 議遣接慰官, 直責其回賓作主, 及倭差還, 持春間所受回書而至, 又致對馬島主書曰: “我書曾不言鬱陵回書, 忽擧鬱陵二字, 是所難曉, 只冀刪之。” 九萬遽欲從其言, 改前書。 尹趾完執不可曰: “旣以國書, 付之歸使, 何取復來請改乎? 今若責之以竹島是我鬱陵島, 我人之往, 何嘗犯界乎? 則倭必無辭矣。” 九萬遂以此入奏。 上曰: “狡倭情狀, 必欲據而有之, 其依前日所議, 直辭以報之。” 九萬曰: “曾聞高麗毅宗, 初欲經理鬱陵, 而東西只二萬餘步,南北亦同之, 土壤褊小, 且多巖石, 不可耕, 遂不復問, 然此島在海外, 久不使人視之, 倭言又如此, 請擇三陟僉使, 遣于島中, 察其形勢, 或募民以居之, 或設鎭以守之, 可備旁伺之患也。” 上許之。 遂以張漢相爲三陟僉使, 接慰官兪集一, 受命南下, 蓋安龍福ㆍ朴於屯, 初至日本, 甚善遇之, 賜衣服及椒燭以遣之, 又移文諸島, 俾勿問, 而自長碕島, 始侵責之。 對馬島主書契竹島之說, 是爲他日徼功於江戶之計也。 集一問龍福, 始得其實, 乃喝倭差曰: “我國將移書于日本, 備言侵責龍福等之狀, 諸島安得無事?” 倭差相顧失色, 始自折服。 至是, 九萬改前日回書曰: “弊邦江原道蔚珍縣, 有屬島曰鬱陵, 在本縣東海中, 而風濤危險, 船路不便, 故中年移其民空其地, 而時遣公差, 往來搜檢矣。 本島峰巒樹木, 自陸地歷歷望見, 而凡其山川紆曲, 地形闊狹, 民居遺址, 土物所産, 俱載於我國《輿地勝覽》書, 歷代相傳, 事跡昭然。 今者我國海邊漁氓, 往于此島, 而不意貴國之人, 自爲犯越, 與之相値, 乃反拘執我人, 轉到江戶, 幸蒙責國大君, 明察事情, 優加資遣, 此可見交隣之情, 出於尋常, 欽歎高義, 感激何言? 雖然我氓漁採之地, 本是鬱陵島, 而以其産竹, 或稱竹島, 此乃一島而二名也。 一島二名之狀, 非徒我國書籍之所記, 貴州人亦皆知之。 而今此來書中, 乃以竹島爲貴國地, 方欲令我國禁止漁船之更往, 而不論貴國人侵涉我境, 拘執我氓之失, 豈不有欠於誠信之道乎? 深望將此辭意, 轉報東都, 申飭貴國邊海之人, 無令往來於鬱陵島, 更致事端之惹起, 其於相好之誼, 不勝幸甚。” 倭差見之, 請改侵涉拘執等語。 集一不從。 倭差又請得第二書【請刪鬱陵二字之書。】之回答。 集一曰: “汝若受上船宴, 則吾當歸奏朝廷而成送之, 蓋權辭也。” 倭差遂受上船宴。 集一乃復命, 然倭差不肯歸。 漢相以九月甲申, 乘舟而行, 十月庚子, 還至三陟, 言倭人往來固有迹, 而亦未嘗居之。 地狹多大木, 水宗【海中水激處, 猶陸之有嶺也。】亦不平, 艱於往來, 欲知土品, 種麰麥而歸。 明年復往, 可以驗之。 九萬入奏曰: “不可使民入居, 間一二年搜討爲宜。” 上從之。 又言: “禮曹所藏, 有丁卯伯耆州倭, 漁于其食邑竹島, 漂到我界之文, 東萊府所藏, 有光海甲寅, 倭有送使探視礒竹島之言。 朝廷不答, 使東萊峻斥之之文, 倭之漁採此島, 其亦久矣。” 上曰: “然, 時漢相所圖上山川道里, 與《輿地勝覽》所載多舛, 故或疑漢相所至, 非眞鬱陵島也。” |
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2008/01/24製作 |
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