(cache) 京都新聞 2009年7月24日朝刊

京都新聞 2009年7月24日朝刊『私論公論』

(事件の呼称は京都新聞の統一基準によります)

 

自律脅かす「教育的配慮」

京都は大学の街だ。
大学空間」は自律するものとして、その外部の「世間空間」から尊重もされてきた。
学生や先生はいいお客さんだから、ということもある。大学自治など幻想だという人もいる。
それでも、この街はバランスを保ってきた。だがそれも終わりかもしれない。
京都教育大学の学生による集団準強姦容疑事件、そして事件後の経緯についての報道を見ながら、僕はそう強く感じている。

この事件は嫌悪感を強く抱かせる。
それは第一に、卑劣な犯行そのものによる。
加害者が起訴猶予処分になったことにより、また性犯罪の常として、仔細は知る由もない。
それでも、
①未成年の女性学生が飲酒して判断力を低下させていた
②本来そのような後輩を庇護すべき先輩男性たちが、庇護どころか自らの欲望のために事態を悪用した
という2点ははっきりしている。
これだけでもうんざりするが、事態をさらに醜悪にしたのは、
犯罪が報じられた際、同大学の学長が「教育的配慮」という言葉をお題目のように繰り返し、加害学生をかばうかのような態度を見せたことだ。

大学空間」は自律した価値基準、つまり世間の基準とは違うそれを持っていい。
そうでなければ、宇宙や古典の研究も、芸術や表現の追及も、なされるわけがない。
一方、大学の成員も、専門を離れれば大衆の一人であるのも当然だ。

最悪なのは、一見専門家が自律した価値基準として語るものが、その実、大衆のもちうる最低最悪のそれに近いものであるときだ。
教育的配慮」がまさにそれだった。
教育大学の学長が示したのは、深い見識に基づいた「配慮」の衣をまといながら、その実ただの「身内隠し」にしか過ぎなかったのではないか。
「教育」の権威が、「大学空間」の不透明化に使われてしまったようだ
そしてこの図式は、小中高校でよく起こる「いじめ隠し」的行為とも正確に重なっている。

さて現代では、インターネットという名の「第3の空間」がある。
この空間は原理的にボーダーレスを目指すので、そこでは「大学空間」も「世間空間」も領域を溶融する。
今回の事件では、「大学空間」発の被害者中傷が、「ネット空間」を通して「世間空間」にまで流通した。
一般に犯罪被害者が中傷されるのは、自らは犯罪とは無縁な安全な場所にいると思い込みたい大衆の無意識の欲望による。
加えて性犯罪の場合には、そういう噂のほうが助平心を満たしてくれて面白い、ということもあろう。
いずれにせよ、今なおこうした噂の流通に加担する者は恥を知るべきだ。

一方、加害者への執拗な批判も流通している。
見張り役」として訓告を受けながら卒業し、奈良で教職に就いたと報じられた者について、氏名を特定し処分を求めようとする動きもある。
これを「ネット空間」特有のヒステリーと評するのは容易だ。
しかしこれはきっと、「自律」の名のもとに不透明化する「大学空間」への、強い苛立ちの表れではないか。
それは「大学空間」で先の①②について処分された者が、なぜ「世間空間」では教師になるのか、という苛立ちでもある。

僕は「大学空間」の自律性を信じている。
でなければ僕自身、大学になどいない。
学園紛争から管理強化、最近では商業主義の圧倒的な浸透を受けながら、「大学空間」は自律性を守り、京都の地で生き延びてきた。
その危機が今「教育的配慮」によって露呈するとは、皮肉なことだ。