携帯メール小説大賞第53回佳作
「カニの世界」
乍
散歩とちゅうのあぜ道でふいに私に呼びかける声が聞こえた。どこから、誰からの声かも分からないし、周囲に目をやっても人影は無し。
これは不思議、声はすれども姿は見えず、ましてや声の主に覚えが無いときたものだ。
「あんの、もしもし」
次の呼びかけでようやく信じがたい方向から声が飛んできたのに気づく。そうしてまさか、と思いながらもこうべを垂れる。
声の主は赤いカニだった。片方のハサミがアンバランスなほど大きくて、殻の、赤と橙の模様がどうもやぼったい、どこにでもいるようなカニだった。いったいその小さな口からどうやって今の大きな声が出たのかはいささか興味をそそる疑問である。
「ああ、すんませんな。ちょい訊きたい事があるんだよ」
でも間延びした声の調子はこのカニのイメージにぴったりで少し愉快。
そんなで、私はついどうしたの、と馴れ馴れしく返事をしてしまったのである。
前代未聞の事態ではあったが、あまりにこうも自然に話しかけられると逆に違和感がないのだ。実家のとなりのうちの木村おじさんだって、だいたいそんな感じの口調でよく大根だのキュウリだのをくれたし、そんな悪いカニでもなさそうである。
「ああ、よかった」
口元の泡が膨らむ。
「こういうアットホオムな人だと思ったんだよ。あんのさ、やまなし河原ってところに行きたいんだけんどさ、場所を知ってるかね」
ええ知ってる、知ってる。あっちの方に……本当は道案内するのは苦手だった。が、奇遇にもその場所を知っている上、これがまたカニに話しかけられるというひどく面白い経験なので、下手なりに誠意を込める。すると向こうも意を得たようだった。安心する。
「そおか、あのときあぜ道を左に行ったのが悪かったんだな、どうもありがとうね、キレイなお姉さん」
「あら、言葉もだけど、お世辞もお上手ね」
そういうと、ぷくぷくと泡を吐き出す。それは笑っているようだった。つられてか、私も笑う。
「お姉さん珍しいよお。わしらなんて人に話しかけてもいつも相手にされないのによ。さあて、よめさんが待ってるんで、おいとましますわ。どうもありがと」
横ばいでアスファルトをくすぐりながら遠ざかるカニは、西日でかたどられた影すらも明るい。こぼれた泡がアスファルトに点々と染みを作っていく。すぐ消える。
しばらく歩いて、私も家に帰った。朝に読み損ねた紙面には陰鬱なニュースがあぐらをかいている。
幸せが見えにくい日々。カニの世界はどうなんだろう。それを想像する。ぷくぷくぷく。幸せな気持ちになる。
ぷくぷくぷく。