中野麻美『労働ダンピング』 “男性正社員が女性非正規を搾取している” 男性正社員は、既得権益のうえにあぐらをかき、そのしわ寄せを女性などの非正規労働者はうけている――というタイプの主張をかなり見かけるようになった。派遣や請負など非正規の深刻な実態が明らかになるにつれて、その攻撃の矛先を「男性正社員」にむけるのだ。 たとえば、城繁幸『若者はなぜ3年で辞めるのか?』(光文社新書)などもこうした論調に巻き込まれているし、ぼくがこのサイトで扱った「良心的」な本、たとえば丸山俊『フリーター亡国論』(ダイヤモンド社)なども解決策はこうした結論に傾斜している。 ドラマ「ハケンの品格」でさえこの影響を受けている、といっていい。 驚くべきことに、この新自由主義の旗手は、同書において派遣など非正規の女性労働者の「正義の味方」として登場する。 その主張を要約すれば、いまの労働環境は「男は仕事、女は家」という男性正社員のみが家計を支える働き方を前提としており、「非正規社員の雇用の不安定さは正規社員の長期雇用保障の裏返し」「両者の間には基本的な利害の対立関係がある」、ゆえに、男性正社員的雇用は解体されねばならず、その代わりにあらゆる雇用規制をとりはらい、徹底した競争環境を整えた雇用の完全な流動化を実現すべきだ、ということである。 そうすれば「多様な働き方の選択肢」が生まれ、「男性は仕事、女性は家庭という固定的な役割分担を暗黙の前提としている日本企業の働き方」をぶっこわし、「現行の正規社員と非正規社員との賃金・労働条件の大幅な格差を、『身分』の違いではなく、個々の生産能力に見合った水準にまで縮小させることができる」んだそうだ! これが八代の説く「『ジェンダー・フリー』の原則に沿った、より競争的な環境」である。 そして恐ろしいことに、この男の設計図にそって、今の労働の流動化=「労働ビッグバン」がすすめられてきたのだ。 「この『労働ビッグバン』構想の主唱者が八代尚宏氏(国際基督教大学教授)です。八代氏は『ミスター規制緩和』、つまり急進的な新自由主義派の論客として知られ、小泉政権時代には規制改革・民間開放推進懐疑の委員でしたが、安倍政権発足とともに経済財政諮問会議の民間委員となりました。また、新しく設置された経済財政諮問会議の労働市場改革専門調査会の会長にも就任しています。いま彼を先頭とする『労働ビッグバン』の推進体制がつくられつつあります」「一九九九年に八代氏が『雇用改革の時代』で説いた、以上のような『改革』の方向は、その後、着々と実施に移されてきました」「こうしたこれまでの規制緩和・新自由主義の『改革』は、財界の側からみれば依然として不徹底なものでした。……〔中略〕……それゆえ、このような限界を突破し、規制緩和・新自由主義の流れを一気に加速させるべく、安倍政権のもと『労働ビッグバン』が唱えられることになり、名うての規制緩和・新自由主義論者である八代氏が政策立案の中枢にすわった、と考えられます」(岩佐卓也「格差問題を逆手にとる『労働ビッグバン』推進論」※)。 この八代の著作はフリーターとかワーキングプア、格差や貧困といったカテゴライズが社会的に大きな問題になる前(1999年)の著作だから、実にあけすけ。不用意といってもいい。理屈というのはどういうところからでもつけられるものだなあ、と思うほど、現行の規制がいかに悪かということを論じる。八代は、それを保護貿易と自由貿易の例を使ってたとえている。 さらに「労働は商品ではない」という有名なフィラデルフィア宣言を批判し、「『労働は商品ではない』という、一見、誰もが否定できないイデオロギーの亡霊が、今も日本の労働市場をさまよっている」として先述のような規制緩和徹底論を唱え、自由競争環境にさらすべき「商品」として扱うのである。 八代批判としての本書 さていよいよ本書である。 まず第1章「いま何が起きているのか」で、労働が「商品」として競争にさらされた結果、激しい「ダンピング」が起きていることを、弁護士らしい生々しい現実のケースをとりあげて批判する。 〈最近増えている「アルバイト派遣」「日雇い派遣」といわれるスタイルで製造ラインに派遣された、ある神奈川在住の女性は、時給七〇〇円しか支給されなかった。当時の神奈川県の最低賃金は七一二円(二〇〇五年一〇月一日)だから、これは最低賃金法に違反している。この女性の場合、さらに、交通費が一日一〇〇〇円支給されるという話だったのに支給されなかったという。アルバイト派遣は、低賃金であることに加え待遇もハードだ〉(p.16) 中野によれば、「アルバイト派遣」「日雇い派遣」は登録型派遣という働き方の究極の形態である。〈労働者派遣は、「契約本位」の専門性を活かして働くことができるという「選択の自由」が売り物だったが、実際の派遣労働は、もうそれとは無縁のものだ。年々低賃金化や雇用期間の短期化をくりかえしながら、残業できなければ仕事はないという状態で、派遣先の正社員以上に残業する職場もふえている。賃金の低下や雇用の短期化を回避したいのなら、市場において高く売れる希少価値のある技能をその都度身につけていかねばならないが、何歳になっても最先端の技能を身につけて自分自身を更新し続けることは不可能だ。専門的な技能も、短期間で陳腐化していく〉(p.9〜10) ここでは、まさに八代の「雇用の多様化」が「多様な選択肢をもたらす」というたわごとが、現実によって厳しく批判されている。 労働は商品ではない、ということの意味 第2章「ダンピングの構造」は、面白い出だしである。 〈非正規雇用を「多様な働き方」としてポジティブに位置づけることは、一面においては労働のあり方を考えるうえで非常に重要な視点である。なぜなら、「多様な働き方」のなかには、正規雇用のネガティブな側面に対する強烈なアンチテーゼが含まれているからである。正社員では、自分なりのライフスタイルや家族と過ごす時間を大事にするとか、「会社」に就くのではなく「職」に就くといった価値観を実現することが困難な傾向がある。一つの企業にこわだるのではなく、いろいろな企業で仕事を経験することができるという見方にたてば、「雇用の流動化」も肯定的に受け止められる〉(p.44) なぜ面白いかといえば、八代が企図したことを、いったん肯定的にひきとっているからである。そしてこれは単なる方便ではなく、実は中野が本書で本当にいいたいことの萌芽はここにある。 すなわち、この一文は男性正社員を「問題」にする点において、八代の旗印と似ている。これまでの男性正社員の働き方には無理がありすぎることは疑いない。 しかし、八代のような新自由主義的な「多様化」が、労働者に地獄をもたらしたのにたいし、中野は本当の意味での「働き方の多様化」をめざそうというわけである。 だが、この章ではまだその本論を展開しない。 中野は、この章では、八代のような規制緩和的「多様化」が、なぜ地獄の労働ダンピングをもたらしてしまうのかという「構造」に迫る。 そこではさまざまな問題が指摘されるのだが、なかでも、派遣労働という働き方が「商品」として取り扱われる、ということについては、ぼくはなるほどと思った。 〈労働者派遣法は、事業法としての性格をも持つため、派遣先はユーザー=消費者として位置づけられる。派遣元と派遣先との間で締結され、派遣労働者の就業条件を決定づける労働者派遣契約は、商取引契約としての基本的性格を有し、労働法による競争抑制的な規制ではなく、独占禁止法による競争促進的規制が働く。派遣料金を競争にさらして良質なサービスを低料金で提供すればそれだけ消費者=派遣先の利益になるとして、競争入札のような取引が促進されるので、派遣労働者の賃金等労働条件はますます深刻な影響をこうむることになる〉(p.56〜57) 独占や規制をとっぱらってどんどん競争して安くする、というのがまさに「商品」としての扱いで、労働契約の場合は逆にそれでは生活していけなくなるのでむちゃな競争を規制するのが労働法の精神だというわけだ。派遣労働者は「商品」として扱われることでこのダンピング競争に巻き込まれていってしまうのである。 新自由主義者は「技能を高めれば、自由競争下なら逆にどんどん高くすることもできるではないか」というかもしれないが、「商品」をみてみればわかるがみんながほしいほしいといってグングン高値がつくなどというのはホンのごく一部。それもすぐに陳腐化してしまい、現実にはあっというまに安値になってしまう。労働「商品」もまったく同じである。実際には圧倒的に多くの「安値」の上に、ごく一握りの「高値」があって、その高値さえすぐに安くなってしまうのだ。 当然、そうくれば、労働が商品として扱われることの問題に目がいくだろう。ゆえに、第3章は「労働は商品ではない」なのである。これも八代が「亡霊」扱いしたテーゼだ。第3章はそうした見方への批判になっている。同時に、労働を商品として扱わないための「労働法」のそもそもの役割について説きながら、それが今どのように変質させられるようとしているかを見ていく。 中野がめざす社会 そして、第4章は「隠された差別を可視化する」だ。この章こそ、中野が展開した積極的なめざすべき社会である。 これも、八代が「ジェンダー・フリーの競争的環境」を唱えて、男性正社員を攻撃し、一億総不安定雇用化することがあたかも問題の解決であるかのように述べたことに対応している。 もちろん、八代のような極論は現実政策としてただちに実施されるわけではない。 ここで問題にされているのは、厚労省の「パートタイム労働研究会報告書」(パート研報告)である。2章で明らかにされていることだが、パートタイム労働は、女性・低賃金・有期というふうに現代の不安定雇用のすべての「原型」である。このパートタイム労働者についての政府の研究を批判するのだ。 パート研報告では、パート労働が男性正社員の異常な働き方と女性パート社員の不公正な実態という「男女格差」の問題になっていることに不自然なまでに触れようとしない。同報告は男性正社員の異常な長時間労働にメスを入れず、〈残業、配転、転勤等の拘束性が正社員と異なる場合には合理的な差を設けることもあり得る〉というふうにパートと正社員の格差を是認してしまう。そのうえで「短時間正社員」などという方向を出すもんだから、結局これでは正社員のパート化を生み出すだけじゃねーの、あるいは「男は仕事、女は家庭」をやめるけども「男は仕事、女は仕事と家庭」みたいになるだけじゃん、と中野は批判するのだ。 性差だと大っぴらにはいわないけども、残業も転勤もいやだというやつには正社員の身分や給料はやれねーな、というんじゃあ、実は男しか正社員待遇をしませんよ、といっているものじゃないか、というわけである。 中野はここで、最近日本の法律の中でもようやくとりあげられはじめた「間接差別」(直接女性はダメといわないけど事実上女性だけを差別しているようなコード)の禁止の活用を論じ、それによって本当の意味での「ジェンダー・フリーの労働環境」を実現しようとする。 〈ハードな働き方のできる人だけが生き残れるような、仕事の抱え込みや奪い合いを繰り返していくようなやり方では、やがて社会は行き詰まってしまう。そうではなく、誰もが、力が発揮できる限り、生活や身体の状況に合わせて参加し、自立して生活できるようなシステムが確立される必要がある。そのためにも、働き方のモデルを男性モデルから女性モデルにシフトさせ、男女がそれぞれ自立して生きられるような、公正な賃金と生活の尊重を旨とする雇用システムを実現しなければならない〉(p.168〜169) 中野が例に挙げたのがヨーロッパのコーポラティズムで、とりわけオランダ・モデルを高く評価している。中野によれば、オランダは単に賃金抑制でワークシェアリングを実現したのではなく、賃金を抑制したことで実は税や保険料の負担がダウンし、実質的な手取りは維持されたのだという。そして、パートが単なる家計補助ではなく、均等待遇を保障された「選択可能な労働形態」として登場した、と中野は主張する。 つまり、まさにくらせるだけの賃金がもらえ、しかも時間を短くして働ける「パート正社員」というわけで、これによって、男性も女性も家事と労働の両方に参入できるようになったのだという。 すぐに思うことは、「日本みたいに派遣労働者はどうなるのか。仕事は短時間で給料が多少よくても、仕事そのものがなくなりはしないのか」ということだった。これについての中野の解説が興味深かった。 〈同国では、フレキシビリティが雇用不安につながらないよう、一九九九年には変形労働に関する法律が施行されていることにも注目すべきである。この法律は、変形労働の促進とあわせ、派遣労働者や有期契約労働者などの雇用等の保障を定めている。その内容は、(1)有期契約労働者は三か月継続して就業していれば労働契約を締結することができる、(2)有期契約労働者は、労働時間の取り決めがなく、実労働時間が平均労働時間に達していない場合でも、平均労働時間に対する賃金を支給される、(3)派遣労働者は、労働の義務を遂行しなかったとしても、六か月の賃金の支払いを受ける権利がある……〔中略〕……(5)有期契約労働者の再契約は、二回を限度とし、三年以上の期間を定める雇用契約は禁止される、というものである〉(p.167) もちろん実際にこのようになっているかどうかはわからない。 ただ中野がこのような社会をめざしているのだということはわかる。 オランダ・モデルは実は、八代の本の後半にも登場する。八代は「パートタイムや派遣労働者の活用によるワークシェアリングの成功例」として同モデルを紹介し、「世帯単位・年功制の正規社員の賃金体系を個人単位でフラットなパートタイム賃金に近づけることが、その〔導入の〕大きな前提となる」としている。個人単位賃金という着眼は中野と同じだが、いかに厳しい雇用規制があるかについては八代は口を閉ざしているのだ。 さて、最後、第5章は「現実の壁に向かって」。そのような公正な働き方を実現するために、現実におきている運動を紹介する。八代の「空想的新自由主義解決策」にたいする現実的な対案、というか現実そのものの変革運動である。また、具体的な解決策についてもふれられる。 みてきたように、この本全体が八代の『雇用改革の時代』への雄弁な反論となっており、しかもそれは単なる逐語的な批判ではなく、現実そのものと格闘しながら、しかも現実の中から理想を組み立てていくという力強い構成になっている。 登録型派遣という働き方は「あってはならない」 本筋とは少し違うところでいくつか。 一つは、3章以降は少々文章が硬い。ロジックも、ぼくのようなシロウトにはちょっと複雑でわからないところもあった。これまでこの種の問題に親しんできた人には「すっ」とわかるかもしれないのだが、何度も読み直さないと具体的にイメージしていることがよくわからない、という箇所がいくつかあった。 二つは、「登録型派遣」というものへの根本的な懐疑だ。 あるサヨ系議員と話していたとき、「いやーこの前、小集会で派遣労働者の実態のひどさについて話していたら、聴衆のなかに派遣会社の社長っちゅう、まだ30代くらいの人がいてさー。『あなたが方は一体派遣というものについてそもそもどう考えているんですか』って詰問されちゃったよー」ということを聞いた。 そもそもどう考えているのか。 考えれば考えるほど「登録型派遣」というのはひどい働き方・働かせ方だと思う。親のたくわえとかがあって仕事がない日があってもシノいでいけるような人にはあまり関係ないのかもしれないけど、それで生計をたてようとしている方には「都合のいいときだけ呼び出される」なんてたまったもんじゃないという働かせ方だ。いや、そもそもこんな都合のいい労働予備軍がいたらもう好きなだけ常用雇用は派遣に置き換わっていってしまうだろう。 中野は、雇用の継続実績さえ認められないなどということが通用するのなら、と前置きしつつ、こうのべている。〈もはや「登録型」という雇用自体、この社会に認めてはならない働き方だというべきであろう〉(p.194)。 ぼくも同感である。 男性正社員の異常な長時間労働にふみこむしかない ところで、結論なんであるけども、男性正社員の労働を解体する、という点において、八代と中野は同じである。もっといえば、「男性正社員のパート化」という点だけとりだせば、両者の主張はそこでも同じなのだ。 しかし、実態は天と地ほどちがってくることに注意しよう。 なぜなのか。 一言でいえば、八代は徹底して労働を商品として扱うから価格は自然にダンピングにさらされるが、中野は労働しているのは生身の人間だというところが出発するので暮らしていける賃金、均等待遇、身分保障をセットにするために、財界的にいえば「高コスト」になるのである。最後に出てくる「公契約」の主張はその典型である。 さて、これだけ両者の主張の外見がよく似ていると、うっかり財界の罠にハマりそうになるので、左翼のぼくは「男性正社員のパート化」という主張に賛同するのはとても恐ろしい。 しかし、男性正社員の異常労働をそのままにしてこの問題を解決することはできない。大企業がたくわえた異常なためこみを使って、男性正社員の今の働き方および男女の非正社員の悲惨な実態を部分的に修正していくという過渡的な措置はありえるかもしれない。しかし根本的に変えていくには男性正社員の異常な労働をただすところにふみこまなければならない。男性も女性も働けて育児や家事もでき、しかも暮らしていけるという働き方を、勇気をもって選択しなければならないだろう。 この感想への質問メール&答え が来ましたのでまずはご紹介。
これはもっともな疑問です。言葉が足りてねーなと思っておりました。 ひとことで言えば「じゃあ、オランダみたいにパート化しようか」みたいに財界側が足をすくうような提案をしてきて、一気にざっと持っていかれるかもしれないなという危惧です。 「パート研報告」批判がすでに中野の本の中にはあるわけですが、現在国会に出されているパート労働法の「改正」案は、こうしたワナがいくつかふくまれています。現在の労資の彼我の力関係では、こういうワナがいかにも出やすい。 また、男性労働者が家計を支えるという形態が中心のいまの時代に、働きに出られない女性もいます。こういう家庭の場合、男性労働者の給与だけ減ってしまうような事態になったとき、どうなるのか、という問題もあります。もちろん、それは資本の意図が貫徹した場合ですから労働者が望む状態ではないわけですが、先ほども述べたような彼我の力関係のもとでは、いかにも「男性の賃金だけカットして男女共にいっそう不安定な雇用形態にしてしまう」みたいなサギが通りやすいのではないかと思います。 だから、社会デザインを提案するような形で問題を提起するのは少し危険だなあという思いがあるのです。「労働時間の短縮」「不安定雇用の正規化」「もしくは同一労働同一賃金・均等待遇」などの運動を、それぞれバラバラに、独自のロジックですすめていったほうが、いいのではないかという思いもあるのです。 しかし、やはりそこは勇気をもって、労働運動側が社会デザインを提起しないといけないのかな、と思ったわけです。 この感想への女性労働者からの感想メール が来ましたのでこれもご紹介。どちらも正規雇用の女性です。30〜40代の方。ぼくは面識がありません。そしてどちらも、高学歴系の方です。
前者の意見はぼくも周りでも聞きますが、後者のような意見は、ぼくとほんの少し離れた文化圏のところでしばしば聞きます。 |
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