上町台地とそこに建つ生国魂(いくくにたま)神社が、かつて朝廷にとっていかに大事な聖なる場所であったかを示すのが、「八十島祭(やそしままつり)」だ。
古代から、上町台地の西にはたくさんの島が浮かんでいて、「難波の八十島」と呼ばれていた。福島や江之子島、四貫島、御幣島(みてじま)などなど、大阪市西部に島の付く地名が多いのは、その昔、島だったからだ。
天皇が即位した翌年、その八十島に向かって行われた儀式が「八十島祭」だった。記録に表れるのは平安時代の850年、文徳(もんとく)天皇からで、鎌倉時代まで続いた。
京の都から女官らが御所車を連ねて、淀川を舟で下ってやって来て、内侍典侍(ないしのすけ)という高級女官が天皇の衣が入ったはこを振る、というものだった。衣に国土の神霊を付けることで、統治者となる意味があったという。この儀式は難波に都があったころに始まり、天皇自らが衣を振ったのでないか、とも推測される。
この儀式で祭られるのが、生国魂神社の祭神である生島神(いくしまのかみ)と足島神(たるしまのかみ)だったのだ。上町台地と難波の八十島が、大八洲(おおやしま)、つまり日本の国土の象徴だったということになる。当時の生国魂神社は今の大阪城の辺りにあり、上町台地の北端に近かった。八十島祭が執り行われた場所ははっきりしないが、神社とそう離れてはいなかったかもしれない。
「別冊天満人 上町台地ファンタジー」所収の「神々の台地」で、北川央・大阪城天守閣副主幹は、こう述べている。「平安時代になっても、天皇家が先祖を振りかえったとき、上町台地が王権成立の記憶を留(とど)める重要な場所と認識されていたことの証(あかし)でしょう」
◇
この八十島祭を題材にした能が06、07年、生国魂神社で開催されている大阪薪能で上演された。その名も「生国魂」。
作者は、城西国際大客員教授で石川県立歴史博物館館長の脇田晴子さん。島根の石見銀山を主題にした「石見銀(いわみがね)」という新作能を作った脇田さんに、「大阪薪能50年を記念して、生国魂神社を主題にした新作能を」と中山幸彦宮司が依頼。脇田さんがすぐに着想したのが「八十島祭」だった。
「八十島祭は女の祭なんです。古代は女性の祭祀(さいし)者が多い。興味を持っていましたので」。1929年に豊国神社に寄贈された絵巻物「八十島祭絵詞」を参考に描き出した物語は--。
生国魂神社に参詣した歌人が、菅笠(すげがさ)を売る女性から八十島祭のいわれを聞く。その女性は内侍典侍の亡霊で、「夢の内に祭を見せよう」と言って消える。夜になると、さきほどの亡霊が童女を連れて現れ、祭を見せる。
クライマックスでは、内侍典侍や童女が舞う。女性が主人公の能楽に仕立てた。脇田さんは「生玉さんは大阪の産土神(うぶすながみ)ですから、もっと知られていい。難波が都だったことも、あんまり知られてないでしょ」と残念そう。
同神社は「今後、大阪薪能の周年事業や、神社の大修理などの際の奉祝能として『生国魂』をやれたら」という。【松井宏員】
毎日新聞 2009年7月2日 地方版