フェミニズム批判

 

4 フェミニズムの陰謀

  (3) 山口県副知事の破壊的フェミニズム

         ( 『家族破壊』徳間書店、第一章三 )

 

 人間の意識を法律で変えようとする暴挙

「男女共同参画社会基本法」の最も恐ろしいところは、性別役割分担や婚姻の形態など、家庭内での人間関係についての意識を、法律によって規制しようとしているところである。

 人間の観念を「ブルジョア思想」だとか「トロツキズム」だとして粛清の対象にしたのが共産主義を目指すソ連や中国をはじめとする世界の共産党であった。

 フェミニズムは男女性別役割分担を封建制や家父長制の遺物だとして批判してきたが、最近は言論による批判にあきたらず、権力による規制の対象にしようとしている。

 そのように人間の心を力づくで変えようという考え方は、まさにファシスト国家や共産主義国家の思想である。この共産主義的な施策をいま強力に押し進めようとしているのが、山口県副知事の大泉博子氏である。

 

 狙われている山口県

 山口県は保守王国と言われ、性別役割分担をよしとする意見が全国平均の二倍もある。すなわち平成七年の意識調査によると、「男は仕事、女は家庭」という性別役割分担に賛成する人は、山口県では女性の五一・六パーセント、男性の六四・八パーセントである。全国平均では女性は二三・三パーセント、男性は三二・九パーセントである。

 この状況を遅れた「不合理な」ものと決めつけて、「女性の社会進出の割合を増やす」ために、「男女共同参画条例」を制定しようと精力的に活動しているのが、大泉副知事である。大泉副知事は、女性副知事を公約にして当選した二井関成知事が、公約を果たすために厚生省社会援護局企画課長から迎え入れた人物である。

 山口県でこの条例が制定されると、昨年六月に制定された「共参法」に従って都道府県レベルで制定される条例としては、東京都、埼玉県についで三番目の例となることが見込まれる。保守王国で制定されたとなると、この「共参法」の地方自治体への普及に一挙に拍車がかかることになろう。その意味で、フェミニズムの側から見れば大きな突破口になる「快挙」と評価されるであろう。そうなれば大泉氏は英雄となり、7月の任期切れののちは全国規模で「共参法」を広める活動をすることになろう。

 しかしそれは「快挙」どころか、家庭を破壊し、個人をすべて「労働資源」として使おうとする共産主義思想の実現となるであろう。その条例を推進している大泉博子氏の思想は、はっきり共産主義思想だと言うことができる。

 次に彼女の講演やインタービュー記事の中から、その恐ろしい思想の要点を紹介しよう。(資料とするのは、(1)平成十一年十一月二十四日に小郡町公民館で行われた「男女共同参画セミナー──山口リポート・オブ・ウィメン」の基調講演、(2)『朝日新聞』平成十一年十月四日から十一月八日まで、山口版「ティータイム」に毎週月曜日に連載されたインタービュー記事、(3)平成十二年一月二十五日に行われた山口大学・山口県立大学・山口経済同友会主催の「産・学・官新年交流会」第一部のセミナー「これからの社会を語る──男女共同参画社会へ進む中で」の基調講演で「ミレニアムの仕事」、(4)平成十二年四月十二日に日比谷公会堂で開かれた読売新聞社・中央公論新社共催「女性フォーラム21」におけるパネリストとしての発言である。)

 大泉氏の発言の中から、氏の思想の特徴を際だたせる主張を抜き出してみよう。

 

 個人的恨み=不合理感から作られた思想

 大泉氏は「私自身はフェミニストではございません」と言っている。むしろ「行政マンとして客観的に判断して」、「女性を労働力資源」としてどう使うかを考えているのだと言っている(3)。そのとおり、大泉氏はフェミニストというよりも、労働力をも含めた資源をどう計画的に使って生産性を高めるかを考える共産主義的・官僚的な計画経済の思想に最も近い。とはいえ、自覚しているか否かにかかわりなく、氏の心理はフェミニストの心理そのものである。そもそもフェミニズムと共産主義とは近親の思想である。どちらも女性を労働力として捉えている点で共通である。

 以下、大泉氏の思想をくわしく分析してみよう。

 大泉氏は自分の思想と行動の基準は合理性だと言っている。曰く「合理の基準だけで生きてきました。」(1)氏の言う「合理」とはどのようなものか。それは「不合理」の反対である。では氏にとっての「不合理」とはどのようなものか。それについて氏はこう語っている。(1)

 「私自身が人生で出会った最初の不合理」は「お前は醜い女だ」という言葉であった。「生まれつきのものでバカにされるのはおかしいじゃないですか。不合理ではないですか」

 次に中学校の先生が黒板に「男は賢く、女は美しく」と書いた。「私は非常に腹が立った」

 次に不合理だなと思ったことは、「うちは貧乏で金がない」といつも聞かされていたが、「それならお母さんが働けばいい」のに「男の人だけが働いて不合理だなと思いました」

 それから国家公務員でもキャリアで採用されると結婚は難しいことに対して「非常に不合理だと思います」。「私自身は結婚相手がいなかった」。 氏はアメリカに行って人生観が変わった。ずっとふられっぱなしだったが、「男にふられる私が悪いのではない。私をいい女だと思えない日本の男性が悪いのだ」と思って、そのことを実践するためにアメリカから帰るときにアメリカの男と一緒に帰った。ところが母親に結婚を反対されたことが「不合理」だと感じた。

 さらに夫がアメリカに転勤になったときに「ついてこい」と言ったのが「不合理そのもの」だと思って離婚した。今では「結婚生活は人を堕落させる」と思っている。

 

 以上が大泉氏の不合理体験のおもなものである。氏の人生はこれらの「不合理」と戦い、「絶対に自我を通して」きたのだそうである。

 このように大泉氏の思想はすべてを「合理と不合理」に分け、自分の主張を「合理」とし、気に入らない考えを「不合理」と決めつける。「不合理」なものとは、要するに自分が不利にされたり、自分の思うようにならないことすべてである。ここにはひどく負けん気の強い人間の思想と行動が語られている。負けん気の強さからくる恨みつらみを、「不合理との戦い」という言葉によって正当化し、女性差別との戦いへと一般化したつもりらしい。

 この思想の特徴は、「自分が生まれつき持っているもの」が低く評価されたことに対して、その評価基準そのものを否定し(価値逆転し)、その評価基準を支えている観念や制度を否定しようという思想である。これはニーチェが喝破した「ルサンチマンによって作られた思想」である。この種の思想の特徴は、その破壊性である。「よい」ものをすべて破壊したい衝動を隠し持っている。

 

 家族破壊の共産主義思想

 このように個人的な体験から直接的に導き出された思想は、えてして極端で偏ったものになる傾向を持っている。価値観が一元的であり、きわめて主観的で、客観性に欠けるという欠陥を持っている。大泉氏の思想もまたきわめて偏向した破壊的なものである。

 たとえば、「結婚は女を堕落させる」にとどまらず、「結婚は必要ないが、子どもは必要」だと言う。これはシングル・マザーを肯定し、「片親でもいい」と言っているに等しい。また子どもは誰が育てても同じだと言っている。これは父親の存在意義、母親の存在意義を否定するに等しい。ひいては家庭の意味を否定する共産主義思想である。

 氏はまた「女におさんどんだけさして女性を輝かそうとしない夫がいるなら、そういう夫をもしかして皆さん持ってらっしゃるなら、ただちに別れて下さい。その結婚はぜんぜん惜しくないですよ。輝くためにも、これから別れて食っていくためにも、女性に社会に(出て)活躍していただきたいと思うわけでございます」と言っている。離婚奨励の思想である。

 このほかにも、氏は「男女別姓はグローバルスタンダード」だとか、「家事はアウトソーシング(外注)せよ」とか、「専業主婦を優遇するな」とか、極端な考えによって女性たちを扇動している。

 これらの主張を合わせると、結局は家族・家庭の破壊、個人単位の推奨、男女の役割分担を全面的に否定して、女性の労働者化をはかるという共産主義的な思想となる。

 東大を卒業していわゆるキャリアとして中央官庁に入り、権力の中からしか物事を見ないでくると、こうも偏った思想を臆面もなく垂れ流して恥じない精神になってしまうのかという悪い見本のような人格である。自分の個人的なコンプレックスをそのままぶっつけているような思想形成は、フェミニスト一般に頻繁に見られるものであるが、これほど純粋培養的な例は珍しい。それだけにフェミニズムの本質を知る上で貴重な例と言える。 

 

 日本的な繊細な感覚の破壊

 氏の感覚から見ると、これまで日本的な美風とされてきたものはことごとく破壊の対象になる。氏は「先祖の行事とのつき合いはなく、地縁、血縁はほとんどなく」「合理の基準だけで生きてきた」そうで(1)、いわゆる「日本的なもの」は「不合理」として批判の対象になる。たとえば、市の職員が一日かけて正月料理を作ったということも「不合理」(時間の無駄?)として槍玉に挙げられる。家事はすべからく「アウトソーシング」(外注)すべしという考えからである。「主人」という言い方も役所ではするなと言う。

 また「私の講演は下半身の話が多すぎる」という抗議がきた。下半身の話とはどういう話かと思うと、たとえば「私はすごいデブと結婚したんですよ。だから結婚している間は圧死しそうになった」と言ったことに対する抗議だった。その抗議に対して大泉氏は「どんな性愛観を持っているか分からないとつき合いが深まらない」から、「タブーと思われる話題、性的な話題も避けることはない」と正当化している(1)。

 しかし「どんな性愛観を持っているか」を語ることと、下品な表現をすることとは同じではない。氏は性についてあからさまに語るのを「はしたない」とか「恥ずかしい」といって嫌う日本な感覚を意図的に捨てさせようという作戦なのである。そういうものはすべて女性を縛る「不合理」として廃棄させようというのであろう。それはフェミニズムに特有の「崩し」の思想の特徴をはっきりと示している。

 

「日本人の意識を近代化する」!?

 不合理な日本の意識や制度に代わって大泉氏が唱えるのが、市場原理による近代化・合理化である。氏によれば、介護保険制度とは、「家事として行われてきたサービスを外化し、介護者・被介護者の生活のクオリティーを上げることである。」(2、平成十一年十月四日)そのためには介護保険制度を市場原理に基づいたものに、「市場を介在した近代的利用者と近代的事業者の関係」に、すべきだと主張する(2、十月十八日)。

 氏の主張のキーワードは「アウトソーシング」と「市場原理」である。その背後にあるのは、女性の全労働者化の思想である。全国民を近代的市場原理の中にぶちこみ、家庭で行われてきたすべての機能を商品化して外注させるのが、氏の考える近代化・合理化である。そこには心のゆとりや豊かさといった観点はまったく見られない。ただあるのは、近代的合理主義という寂寞とした唯物論的効率主義だけである。

 氏によれば、市場原理による近代化を遂行するためには、日本人の意識を近代化しなければならない。それには介護保険法が突破口となるだろうという。「身内の愛憎をベースにした介護サービスを、社会で認知したサービスに切り替えることによって、人間関係、介護技術、人生の選択などを確実に近代化させる。」「介護保険は・・・日本人の意識を近代化する制度として見事な役割を果たすだろう。」(2、十月四日)

 恐ろしい思想である。人間関係や人生の選択までも合理化・近代化させよう、それを政策の基本戦略にしようと主張している。これまでの歴史の中で、さんざん近代合理主義のマイナスや病理が問題にされてきたことなど、氏の頭の中にはこれっぽっちも意識されていない。というより、ナチスの政策の中身や戦略戦術がまさに合理主義だったという歴史的事実さえ、まったくご存じないようだ。

 ナチスの本質は、動機がコンプレックスとルサンチマンに基づく非合理的なものであり、それを遂行する手段はきわめて合理的なものだったというところにあったのである。大泉氏の思想も、まったく同じ特徴を見せている。すなわち動機はコンプレックスとルサンチマンに基づく非合理的なもの、それを実現するための表向きの主張は合理的なもの。そして人間の意識を洗脳し、制度によって変えてしまおうという独裁者的・ファシズム的な特徴を持っている。

 

 政治権力化するフェミニズム

 個人としてどのような思想を持っていても、それは個人の自由である。しかしそれを公権力の使命として主張し始めるとなると、看過しえない大問題だと言わざるをえない。

 大泉氏は、不合理との戦いを「他人にみんな押しつけるつもりはなかった」が、山口県の副知事になって、「山口県の発展に責任を負う立場になって」「県の力を上げるためには方向性をつけなければならない」「それには女性の社会進出の割合を増やすこと」だと考えた。

 そこで女性の社会進出を邪魔している「不合理な」観念や慣行という「障害を取り除くことを最大の課題にしよう」と考えたそうである。

 まさに「思いついたら百年目」、絶対の正義をふりかざしてブルドーザーのごとく突き進む。自分が間違っているかもしれない、大切なものを壊しているかもしれないという「畏れ」はみじんも感じていないようである。

 こうした大泉氏の例は、決して少数の例外でもなければ、特別の例でもない。

 思想的特徴としては、「働け」イデオロギーと、女性が働くことに邪魔なもの(性別役割分担意識、専業主婦、母性)をすべて否定することを使命と考える点。これは現今のフェミニストすべてに共通の典型的特徴である。

 そして戦略としては最近のフェミニズムの特徴そのものである、政治権力化。すなわち上から権力や法律を使ってその思想を押しつけるという戦略。

 このフェミニズムの二大特徴を大泉氏は典型的に代表している。大泉氏の言動は明らかにフェミニズムおよびファシズムや共産主義の特徴と一致していると言わなければならない。「共参法」実施の先兵として大泉氏が登場したのは決して偶然ではない。

 家庭に関する個人の観念までも規制や変革の対象とし、既存のものはすべて「不合理な文化」として否定する。これは毛沢東の「文化大革命」と同じ性質の破壊行為である。われわれはいまやフェミニズムを文化破壊の勢力として認識する必要がある。

 

 家政・育児は大切な社会参画である

 このような文化破壊に対して、日本人の大部分がその危険に気づいていないのは、日本の将来にとって由々しいことと言わなければならない。

 フェミニストたちの新しい戦略は政権乗っ取りである。すでにマスコミ、官庁の多くの部署がフェミニストによって占拠されている。ちょうどナチスが気がついてみたら権力を握っていたように、ある日気がついたらフェミニストが権力の中枢を握っていたというのは、きわめて現実味のある話なのである。これからますます増えそうな「女性知事」という目立った現象のみでなく、官僚の世界にフェミニストが着々と進出している。

 さきの東京都知事選挙でも、有力候補者はほとんど副知事を女性にすると公約していた。その公約を実現した山口県で、どういうことが起きているか、今明らかにしたとおりである。

 加えてフェミニストたちは、フェミニズムの主張が「経済界の利益にもなる」という論理を使い始めている。その最たるものは、「少子化を防ぐためには働く女性のための保育所を拡充することだ」という主張として現われている。保育所を増やしても子どもの数が増えないことは事実としてさんざん指摘されていることなのに、政治家たちがだまされて、「少子化対策基本法案」の中身はすっかり保育所拡充政策へと換骨奪胎されている。

 大泉氏も、女性の労働者化は「経済社会の要請」だという言い方をしきりに繰り返している。少子化によって労働力が足りなくなるから、女性労働力を利用するのが、県の、また国の利益になると宣伝している(1)。「少子化のインパクトというのは、もう二〇〇五年から労働力が減ってくるわけですから、・・・いま出生率を上げたって、二〇年後にならなければ労働力にならないわけでございますから、間に合いません。それよりも、女性の資源をどう使うかという方が少子化問題の対応としては先であるというふうに思うわけでございます。」(3)

 これは少子化によって労働力不足が起こりうるという、経営者・財界人たちの危機意識に訴えることによって、なし崩し的に男女共同参画社会法を浸透させようという作戦である。経営者はどうしても自分の利益を優先しがちである。しかしそれは近視眼的な利益にすぎない。女性の労働力化は、個々の経営者の一時的な得にはなっても、社会全体としては家庭の崩壊、子どもの心の荒廃に通じ、国の根幹を蝕むことになりかねない、重大な損失に通じているのである。しつけの放棄は労働力の質の低下も生んでいる。

 「共参法」の根本的思想は「働け」イデオロギーである。それに加えて大泉氏の思想には、人間を「資源」として捉える唯物論的な共産主義思想が現われている。人間の心に対する配慮はまったく見られない。子どもの心の健全な発達のためには家族の愛情が必要だという見方は一顧だにされていない。愛情の必要性を感じていないので、育児は外注の対象となる。

 それと同時に、女性の社会進出のみが「社会参画」であり、家事・育児を社会参画ではないとする思想も盛り込まれている。しかし将来の健全な社会人を育てる家政・育児こそ、最も大切な社会参画ではなかろうか。

 真の平等とは、別種の価値を同等に評価することである。くれぐれもフェミニズムの悪平等主義と「固定した半分こイズム」に引きずられることのないように、政治や行政に携わる人たちに要望しておきたい。