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小倉藩〜町と人々

延命寺

 将軍死去で、どんな慎みを命じられるかを、小森承之助日記にみる。

 安政5年(1858年)7月4日、第13代将軍・家定死去。郡代・河野四郎らの名で触れが出たのは8月27日。郡中、蔀(しとみ)を下ろせ。触れ売り禁止。浦々の漁もだめ。音を出す鍛冶(かじ)屋、おけ屋などの商売停止。寺社の太鼓、鐘は仏事以外差し止め。焼き物、瓦焼きも禁止。火の元に気をつけよ、というものだった。

 9月2日から順次解禁となる。4日に承之助ら大庄屋の月代(さかやき)そりの許しが出た。大がかりでない普請や寺社の鐘は18日から。年貢米を仕立てる時の臼すり歌は「仕事の励み」になるからと、28日に許可。門司叢書にある臼すり歌の一例「臼よまへまへ きりりとまへよ わしとお前とひくからに」

 11月には17〜18日に延命寺で法事。この間も諸商売差し止めだ。

 延命寺には、享保20年(1735年)に東照宮が勧請された。北九州市の「足立山麓文化資源基礎調査報告書」によると、山頂にあった延命寺は、慶応2年(1866年)の兵火で焼失、現在の小倉北区上富野四に再建がなったのは大正3年(1914年)8月だという。

(2005/05/21)
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