「原爆投下が米兵百万人救う」アメリカの大ウソ
【正論】評論家・鳥居民 継続すべき原爆投下の裏面史検証 【産経新聞 2005/08/05】
■宿題として残る戦後史への影響
≪「米兵百万人救う」のウソ≫
広島、長崎に原爆が投下されてから60年がたつ。
アメリカの政治家は、日本に原爆を落としたのは百万人のアメリカ兵の命を救うためだったと今日なおも語り、アメリカの学校ではそのように教えてきている。
原爆投下の本当の理由を承知しているアメリカ人は当然ながらいる。トルーマン大統領が原爆を日本の都市に是が非でも投下したかったのは、4年の歳月と20億ドルの巨費をかけた究極兵器の力を議会と国民に教え、戦後の核計画への支持を獲得し、スターリンに対しては、その絶対的な威力を誇示し、脅しをかけるためだった。
だが、その二つの目的はニューメキシコの砂漠の公開実験で十分に達することができたのであり、広島、長崎の市民とその二世までを殺す必要などあるはずもなかった。
多くのアメリカ人が「百万人」のウソを言い続けるのは、人間誰もが持つ道徳色の濃い自己愛に他ならない。
私が残念に思っているのは、日本での論議だ。
「百万人」の話をする日本人は、さすがに今はいない。だが、鈴木貫太郎内閣がポツダム宣言を「黙殺」したがために、原爆が投下されたのだと語る歴史研究者は今もなお存在する。
1945年の五月末から六月、七月に戻ってみよう。
陸軍長官スティムソンと国務次官グルーは、日本に降伏を勧告するときだと大統領トルーマンに何回も説き、日本側が受け入れることができるように、天皇の地位保全を約束すべきだと主張した。それでも日本が降伏を拒否するのであれば、そのときこそ原爆の投下を警告すべきだと説いたのである。
海軍長官フォレスタル、陸軍参謀総長マーシャル、海軍軍令部総長キングもまた、警告なしに日本の都市に原爆を投下することには反対の立場であった。
≪日本を翻弄した降伏勧告≫
ところが、トルーマンと彼のただ一人の協力者である国務長官バーンズは、日本に降伏を勧告するスティムソンの草案から天皇の地位保全を認める条項を削ってしまう。
また、スティムソンの草案では共同提案国にソ連の名前が入っていたが、トルーマンとバーンズは、日本がソ連に和平の仲介を依頼していることを日本外務省とモスクワの日本大使館との間の往復電報から知り、ソ連の名前を削り、重慶の国民党政府に差し替えたのである。日本にソ連への期待を持ち続けさせ、降伏勧告を無視させようとしてのことだった。
さらに、その降伏勧告をホワイトハウス、国務省からではなく、宣伝機関の戦時情報局から発表させた。日本側をして宣伝文書と思わせるようにしたのである。
さて、トルーマンとバーンズは、広島と長崎での“原爆実験”に成功した後、直ちにスティムソンとグルーの計画に立ち戻り、天皇の地位保全を日本側に告げることにした。バーンズが手の込んだごまかしをしたことから、日本の歴史研究者はそれが事実上のスティムソン草案の復活であることに気づくことなく、その解明をも忘れている。
そのすべてを明らかにしようとするなら、ルーズベルト大統領時代の1944年に立ち戻らなければならない。
ルーズベルトは日本との戦争が長引けば、中国の内戦が不可避になることを懸念した。天皇の地位の保証を主張するグルーを起用したのも、ヨーロッパの戦いが終わったすぐ後に、日本を降伏させようと考えてのことだった。
だが、ルーズベルトは1945年四月に急死する。後継者トルーマンはバーンズの協力を得て、先に記したとおり、原爆を日本の都市に投下してみせ、ソ連を脅すことが何よりも先だと考えた。
≪潰えたトルーマンの“夢”≫
ところで、広島と長崎を二発の原爆で壊滅させても、中国に駐留する百万の日本軍を降伏させる上で何の威嚇にもならないことをトルーマンとバーンズは初めから承知していた。だからこそ、スティムソン草案に戻り、天皇の地位の保証をしたのである。
しかしそうであるならば、ソ連の行動を原爆によって抑止することなど、とてもできないとトルーマンは考えなければいけないはずであった。果たして、その後のベルリン封鎖、中国内戦、朝鮮戦争は原爆の威嚇によっては阻止できず、彼の夢ははかなく崩れ落ちた。
最初に述べたとおり、原爆が二つの都市に投下されて60年がたつ。だがトルーマンが試みたこと、そしてその失敗は、この先なお検証を続けなければならない宿題なのである。(とりい たみ)
【主張】原爆投下60年 占領史観から脱却せよ「原爆を落としたのは日本人ではない。落とした者の手はまだ清められていない」【産経新聞 2005/08/07】
戦後60年目の広島原爆の日を迎えた。小泉純一郎首相は平和記念式典で「原子爆弾の犠牲者の御霊(みたま)に対し、謹んで哀悼の誠を捧(ささ)げます」とあいさつし、「国際社会の先頭に立ち、核兵器の廃絶に全力で取り組んでいく」と誓った。
広島の原爆による犠牲者は今年、24万人を超えた。長崎の原爆による死者を合わせると三十万人を超す。二度とこうした残虐な兵器を使わせてはならないとの思いを新たにしたい。
式典で秋葉忠利・広島市長は、平和宣言の最後を「安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませぬから」という原爆慰霊碑の碑文の言葉で締めくくった。河野洋平・衆院議長もあいさつで、この言葉に言及した。
しかし、東京裁判で判事を務めたインドのパール博士は生前、この碑文を見て、「原爆を落としたのは日本人ではない。落とした者の手はまだ清められていない」と批判した。原爆投下で謝るべき国は日本ではないという意味だ。秋葉氏や河野氏がいまなお、謝罪の呪縛(じゅばく)にとらわれているとすれば、残念である。
原爆は通常の戦争犯罪と異なり、一瞬にして多くの非戦闘員の命を奪った非人道的な行為である。だが、戦後、GHQ(連合国軍総司令部)は原爆投下に対する日本国民の批判を極力封じ込めようとした。
昭和20年十二月八日から、GHQが新聞各紙に連載させた「太平洋戦争史」では、広島の原爆投下について、こう書かせた。「TNT2万トン破壊力を有するこの一弾は、広島の兵器廠都市の六十パーセントを一掃してしまった」。NHK番組「真相はか(こ)うだ」でも、長崎の原爆について「長崎軍港の軍事施設と三菱ドックに投下されました」と言わせ、原爆投下の目標が一般市民ではなく、軍事施設であったかのように印象づけた。
このような原爆に対する屈折した見方は、日本が主権を回復した後も根強く残り、前長崎市長の「原爆容認」発言や、原爆投下をやむなしとする教科書記述となって現れている。
九日には、長崎でも戦後60年目の原爆の日を迎える。原爆投下についての歴史認識も含め、「すべて日本が悪かった」式の占領史観から脱却すべきである。