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大川周明・大アジア主義者の夢と蹉跌(2)/田原総一朗(ジャーナリスト)

Voice7月17日(金) 16時56分配信 / 国内 - 政治

◇敵、東より来たれば東条◇

 じつはこの論文は、大東亜戦争が勃発した41年(昭和16年)12月8日の6日後、12月14日から25日まで、NHKのラジオ(当時はテレビは開発されていない)で放送したものを補訂して42年1月に出版されたのである。

 大川は論文の序を「昭和16年12月8日は、世界史において永遠に記憶せらるべき吉日である」というフレーズで始めている。

 そして「そもそも欧米列強の圧力が、にわかに我が国に加わってきたのは、およそ150年前からのことであります。ちょうどこの頃から、世界は白人の世界であるという自負心が昂まり、欧米以外の世界の事物は、要するに白人の利益のために造られているという思想を抱き、いわゆる文明の利器を提げて、欧米は東洋に殺到しはじめたのであります」と概観を述べ、米英、とくに米国の日本の発展に対する妨害、阻止、つまり侵略の過程を詳細に、わかりやすく説いている。

 江戸幕府を周章狼狽させたのは1853年のペリーの来朝であった。幕府は天皇の許可を得ずに通商条約を結び、このことが幕府崩壊の引き金になるのだが、大川はペリーを非難ではなく評価している。英国が中国にアヘン戦争を仕掛けて香港を事実上奪い取ったのに比べて、ペリーは通商条約を結ぶだけという紳士的姿勢に終始したことをである。このあたりが大川の論調が扇動ではなく説得性を有しているゆえんである。

 だが、米国は太平洋戦争勃発時の大統領、フランクリン・ルーズヴェルトの伯父にあたるセオドア・ルーズヴェルト大統領時代からアジアへの侵略姿勢が顕著になった。1898年の米西戦争を好機として、フィリピン群島とグアム島を獲得した。そして1899年には、中国の門戸開放と領土保全を提唱した。

 これは一見正論に見えるが、大川は「偽の標榜だ」と断定している。米国はヨーロッパ諸国に対して中国への進出が遅れた。だからこれらの国々の勢力範囲、利益範囲を撤去させるために門戸開放を唱えたのであり、領土保全は、これから列強が中国の分割を進めるに当たって、立ち遅れた米国は分け前が少なくなるので、中国に分割を進めさせるなと味方を装うことで、婉曲的に分け前を多くすることを狙っていたのだというのである。これが米国流のひねった狡猾さだというわけだ。

 大川は、1905年6月にセオドア・ルーズヴェルトが友人に宛てた手紙を紹介している。「アメリカの将来は、ヨーロッパと相対する大西洋上のアメリカの地位によってに非ず、支那と相対する太平洋上の地位によって定まる」、つまりヨーロッパではなくアジアを活動の主舞台にするというのである。そして、「日露戦争によって国力を弱めていた日本の勢力圏満蒙が、実にアメリカ進出の目標となった」と指摘している。

 事実、日本がポーツマスでロシアと講和交渉をしている最中に、米国の鉄道王エドワード・ハリマンが、日本政府を籠絡して南満洲鉄道の買収を図った。ポーツマスから帰国した小村寿太郎が、日本政府との覚書を破棄させたので事なきを得たのだが、覚書では、満鉄をはじめ、主要な鉱山や各種事業をハリマンが手中に収めることになっていた。じつは日露戦争の仲介をしたのはルーズヴェルトなのだが、その一方で満洲の日本の権益を奪い取る画策をしていたのである。大川は騙す米国と騙される日本の両国を怒っている。

 1909年、今度は米英が組んで、錦州からハルピンを経て黒龍江省の愛琿に至る長距離鉄道を敷設しようと図った。満鉄と並行する、明らかに満鉄に大打撃を与えるための計画であった。日露両国が強硬に反対し、イギリスが日和ったのでこの計画も失敗に終わった。大川はこのように米国の対日妨害、日本潰しの事例を事細かく記している。

 1914年に第1次世界大戦が始まった。日本は日英同盟の絡みでドイツに宣戦布告したが、米国は絶対に中立を維持すると表明していながら「連合国側の勝算がほぼ明らかになりますと、存分に漁夫の利を収めるために、以前の声明などは忘れたかのように大戦に参加した」と大川は憤っている。

 その憤りの勢いで、大川は日露戦争以後激しくなった在米日本人の排除運動のすさまじさ、あくどさを描写していく。1918年11月には、カリフォルニアの排日協会は、

1、日本人の借地権を奪うこと、

2、写真結婚を禁ずる、

3、米国が自主的に排日法を制定する、

4、日本人に永久に帰化権を与えない、

5、日本人の出生児に市民権を与えない、

などを要求し、カリフォルニアの州議会で成立した。そして1924年についに日本から米国への移民はいっさい禁止された。

 その最中、1921〜22年のワシントン会議で主力艦の保有比率が、米5、英5、日本3と決められた。日本は3.5、つまり7割を要求したのだが、米英が組んで日本は孤立させられたのである。

 さらにワシントン9カ国会議(米、英、仏、日本、伊、蘭、ベルギー、ポルトガル、中)で、米国の主導によって次のような条約が固められた。

「『支那の全領土にわたり一切の国民の商業及び工業に対する機会均等主義を有効に樹立維持するために努力する』こと、また『友好国の臣民または人民の権利を滅殺すべき特殊権利、または特権を獲得するために支那の情勢を利用せざる』ことを定め、さらに、締約国にして『本条約の規定の適用問題に関係し、かつ右適用に関し討議をなすことを適当なりと認むる事態発生したる時は、何時にても右目的のため、関係締約国間に十分かつ隔意なき交渉をなすべきこと』を取り決めた」(大川)のである。

 大川は「アメリカはこの条約によって、少なくとも形式的には、我が国の支那とくに満蒙における特殊権益を剥奪し去ったのであります。こうしてワシントン会議は、太平洋における日本の力を劣勢ならしめることにおいて、並びに東亜における日本の行動を掣肘拘束することにおいて、アメリカをしてその対東洋外交史上未曾有の成功を収めさせたのであります」と怒りを込めて力説している。

 もう1つ、米国の主導で日英同盟が消滅した。

 また大川は満洲事変について「アメリカの後援を頼み、南京政府(蒋介石)の排日政策に呼応した満州政権(張学良)は、遂に暴力をもって日本に挑戦してきたのであります。それは取りも直さず、1931年9月18日の柳条溝事件であります。そして時の政府が断じてこれを欲しなかったにもかかわらず、日本全国に澎湃として漲りはじめた国民の燃える精神が、遂に満州事変をしてその行くべきところに行き着かしめ、大日本と異体同心なる満州国の荘厳なる建設を見るに至ったのであります」と得意さがあふれる書き方をしている。

 だが柳条湖事件は張学良側が行なったのではなく関東軍が仕掛けた謀略であり、関東軍は天皇の許可を得ずに軍事行動を拡大したのであった。大川は当然この事実を知っていたはずである。なぜこのような空々しい話し方をしたのであろうか。

 国際連盟は、満洲国を承認せず、中国に返還せよという決議を採択し、日本は国際連盟を脱退した。大川は、国際連盟は「世界の現状すなわちアングロ・サクソンの世界制覇を永久ならしめん」としてつくった機構であり、日本が脱退したのは「歴史の皮肉」だと痛快そうに述べている。

 そのうえ日中戦争では、米国は蒋介石の中国のためにあらゆる援助を与え、「日米通商条約を廃棄し、軍需資材の対日輸出を禁止し、資金凍結令を発布して、一歩一歩日本の対支作戦継続を不可能ならしめんと」したと強調している。

 そして、「いまアメリカが太平洋の彼方より日本を脅威する時、東条内閣は断固膺懲を決意し、緒戦において海戦史上振古未曾有の勝利を得ました。敵、北より来たれば北条(時宗。蒙古襲来のとき)、東より来たれば東条(英機。当時首相)、天意か偶然か、めでたきまわり合わせと存じます。……私はこの偉大なる力を畏れ敬いまするがゆえに、聖戦必勝を信じて疑わぬものであります」と締めくくっている。

 これを読むかぎり、大川は文字どおり太平洋戦争(大東亜戦争)の象徴的イデオローグである。その意味では米国が大川を白人のアジアからの追放と、日本によるアジアの征服をめざした代表的学者としてA級戦犯に加えたのは奇異ではない。

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  • 最終更新:7月17日(金) 16時56分
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