欧州も含んでですが、アメリカもずっと人種的、文明的優越感情があったことは否定できないと思います。小さな島国で白人でもない日本人を意のままにするのは当然のように考えていなければ、ここにあるような横柄な外交にはならなかったのではないでしょうか。
今日も続けます。大川周明の1941年12月、開戦直後のラジオ放送の速記録「米英東亜侵略史」から、日本を追いつめて、日米開戦に至るアメリカの対日政策の実態を見てみましょう。
引用は「日米開戦の真実」佐藤優著からです。
英国東亜侵略史については考察NIPPON さんのページに詳しく掲載されています。
引用開始
【米国務長官の驚くべき提案】
アメリカは日支両国の間に満鉄に並行する鉄道を敷かぬという約束があることを知っていたにもかかわらず、またボーリング商会と合作して企てた法庫門鉄道計画が失敗したのにも懲りず、1909年、またもや極秘の間に支那政府と交渉を進め、渤海湾頭の錦州から斉々哈爾(チチハル)を経て、黒竜江省愛琿に至る非常に長距離の鉄道敷設権を得たのであります。
この錦愛鉄道は、この前の法庫門鉄道よりも満鉄にとっていっそう致命的なる並行線であります。この並行線の敷設権を支那から得たのは、1909年10月のことでありますが、11月に至りて国務長官ノックスは、まず英国外相グレーに向かって、二つの驚くべき提案を行ったのであります。第一は英米一体となって満洲の全鉄道を完全に中立化させること、第二は鉄道中立化が不可能の場合は、英米提携して錦愛鉄道計画を支持し、満洲の完全なる中立化のために、関係諸国を友好的に誘引しようというのであります。
英国外相はこの提案に対して体よき拒絶を与えたにかかわらず、ノックスは12月4日、このうえ二案を日・支・仏・独・露の各政府に示し、かつ英国政府の原則的賛成を得たと通告し、これらの諸国に対して「同様に好意ある考慮」を求めたのであります。この突飛なる提案に対して、日露両国はもとより強硬に反対し、ドイツ・フランス・イギリスもアメリカを支持しなかったので、この計画もまたまた失敗したのであります。
・・・略・・・
このように手を変え品を変えても成功しないので、アメリカは今度は列強の力を借りて目的を遂げようというので、その前年に成立した英米独仏の四国借款団を利用することとし、その借款団から支那に向かって英貨一千万ポンドを貸し付け、これによって支那の貨幣改革及び満洲の産業開発を行う相談を始めたのであります。これは取りも直さず、アメリカ一国では従来やり損なったから、列強と共同して日本を掣肘しようという計画であります。ところがこれまた日本にとって幸いであったことは、あたかもこの頃に武漢に革命の火の手が上がり、清朝は脆くも倒潰して支那は民国となったので、この交渉も中絶の姿となったのであります。
それにもかかわらず、新たに出来た民国政府は、この四国財団に政費の借款を申し込んだのであります。この申込みを受けた四国財団は、日露両国を無視しては支那とのいかなる交渉も無益なることを知っていたので、結局日露両国を加えた六国借款団を作ることにしたのであります。
・・・略・・・
列国政府がこの声明を承認したので、1913年6月22日正式に六国借款団の成立を見るに至りました。ところで、日露両国がこのような条件の下に参加してきたのでは、思うように満洲進出が出来なくなったので、アメリカは翌1914年に至り、六国借款団は支那の行政的独立を危うくするという口実の下に、勝手にこれを脱退したのであります。
【中立声明を無視して参戦】
さて、1914年は世界大戦の始まった年であります。日本は日英同盟の誼みを守り、ドイツに宣戦して連合国側に参戦しました。するとアメリカの最も恐れたことは、このどさくさ紛れに日本が支那及び満洲において、火事場泥棒を働きはせぬかということであったのであります。そこでアメリカはこの年8月21日、無礼極まる通牒を日本に向かって発しております。
その文面はまず「合衆国は日本のドイツに対する最後通牒につき、意見を発表することを見合すべし」というもので、ほとんど日本を属国視しております。日本が最後通牒を発するのに、アメリカから文句をつけられる因縁は、毛頭ないのであります。さらに「またヨーロッパの戦争の状態如何にかかわらず、かつて声明するごとく、アメリカは絶対に中立を維持することをもって、その外交政策となす。そして合衆国政府は、日本の意向について左のごとく記録するの機会を有す」と豪語したる後、第一に日本は「支那において領土拡張を求めざる」こと、第二に「膠州湾を支那に還付する」こと、第三に「支那国内に重大なる動乱もしくは事件の発生する場合において、日本は膠州湾領域外において行動するに先立ち、アメリカと共同する」ことを要求しているのであります。誠に無礼極まる申し分でありますから、日頃アメリカに対して妥協的態度に出ることを習慣としている日本政府も、この乱暴なる申し分には取り合わなかったのであります。・・・略・・・
戦局が段々と進んで連合国側の勝算がほぼ明らかになりますと、アメリカは存分に漁夫の利を収めるために、以前の声明などは忘れたかのように大戦に参加したのであります。
いざ大戦に参加してみると、今までのように日本と相争っていたのでは、甚だ心がかりになりますので、1917年、アメリカからの提案によっていわゆる石井・ランシング協定が成立し、アメリカははじめて東亜における日本の立場を承認したのであります。「合衆国政府及び日本政府は、領土相接する国家間には特殊の関係を生ずることを承認す。従って合衆国政府は日本国が支那において特殊の利益を有することを承認す。日本の領土の接壌する地方においてことに然りとす」。この協定によってアメリカは一時日本の意を迎えたのであります。
・・・略・・・
一方、このように日本の意を迎えながら、アメリカは世界大戦の最中においても、満洲に発展する機会さえあれば、無遠慮に自国の立場を作ろうとしました。例えば1917年、ロシア革命によってツァー政府が倒潰し、列強がシベリアに出兵することになりました時、アメリカは東支鉄道及びシベリア鉄道の管理権を握るという強硬なる主張を列強に向かって発したのであります。これも実に乱暴な提案であります。日本は当然これに反対し、結局連合国特別委員会を作り、その委員会が両鉄道を管理することになりました。
叙上のような始末で、日露戦争以後におけるアメリカの東亜進出政策は、その無遠慮にして無鉄砲なること、近世外交史において断じて類例を見ないところのものであります。それは藪医者が注射もせずに切開手術を行うような乱暴ぶりであります。しかも数々の計画がその都度失敗に終わったにかかわらず、いささかも恥じることなく、いささかも怯むことなく、矢継ぎ早に横車を押し来るに至っては、言語道断と申すほかありません。我々はアメリカのこのような気性と流儀とをはっきりと呑み込んで置く必要があります。
引用終わり
日本人はどうしても性善説の立場でものを考えがちに思いますが、外交においては、アメリカ、そして世界は今現在も、日本人が考えられないほど恥知らずで腹黒いことを平気でやってくるものだということを前提に置かなければならないでしょう。特に隣の二国+一国などはまず疑ってかかって丁度というところでしょうか。
2006年08月03日
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19世紀頃までは「感情」というより「常識」であり「宗教観」だったのかなぁと思っています。
大英博物館の「人類進化図」に「サル→黒色人種・銅色人種・褐色人種・黄色人種→白色人種」と書かれていたそうですよ。「温暖で資源が豊富な地域をインド人が独占しているのは神の意志に背く」というとんでもない理屈も、当時の白人の常識からはそれほど違和感がなかったのかもしれないなぁ等と思っております。
そういう意味で、日本が国際連盟に人種差別撤廃条項を提案したり大東亜戦争で植民地支配時代が終わるきっかけを作ったことはもっと評価されても良いかなと思います。
そうですね、常識だったでしょうね。
国際連盟は植民地の現状維持機関だから、差別撤廃などはとんでもなかったのでしょう。その肝心のアメリカは共和党の反対で加盟もしていませんが。
カピタンさん
>>今またアメリカの軽薄な社会を真似て染まろうとしているのに危惧を覚えます。
堕落の真似は楽で簡単ですからどうしてもそちらに流れますが、一昔前の日本なら、それらを馬鹿にするほうが主流だったのではと思います。
戦後教育の荒廃は日本から日本人を無くして行きますねー。