55年体制そのままに、日本社会党本部が入居する社会文化会館は自民党本部に先んじて永田町の一等地にお目見えした。「大野党に恥ずかしくないものを」と力んでも、「労働者の党」に資金集めは容易ではない。さりとて財界に頭を下げるなどその自負が許さない。党名も党勢も一変したいま、建設秘話を探る御厨貴・東大教授を当時と変わらぬ故浅沼稲次郎委員長の像が迎えた。
社会文化会館(注1)--かつての社会党の館は、今年の四月で築後四十五年を迎えた。自由民主会館--今の自民党の館に先んずること二年。“三宅坂”と言えば戦前は参謀本部、戦後は社会党を表象する地名となった。
「よりどころがほしい」との思いは、保守党よりも戦後社会党に集った人々にとって切実であった。一九四五年十一月結党時は蔵前工業会館にあった党本部は、年末には焼け残りの新橋にある堤ビルに定められた。委員長室、書記長室などはなく、農民組合や青年部が気焔(きえん)をあげるビルの三、四階の空間は、まさに社会主義実現を目ざす議論と運動のためにあった。後に社会文化会館建設の中心人物となる江田三郎(注2)は、「なにしろ党本部も、キャバレーと同居しておったんだなあ。それから碁会所なんかもあった」と回想している。
一九四八年、政権党となったことを背景に、社会党本部は、三宅坂の国会議事堂の目と鼻の先にあった地図会社所有のビルに移る。何とこのビルには、“Social Democratic Party of Japan”との看板がかかっている。そもそも戦後社会党創立時から、右派は「社会民主党」、左派は「社会党」を主張して譲らず、日本名は左派、英語名は右派との妥協が成った経緯がある。一九五〇年前後までは右派優位である上、占領期ということもあって、党本部には英語名が高らかに掲げられたのであろう。
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その間、左派が勢力を増加していくのだが、一九五一年の左右分裂にあたって本部ビルはどうなったのか。江田は回顧して「本部は占領されて、左派はおるところがない。参議院会館の部屋を使ったりしてしのいだもんだね。それからしばらくして西久保巴町に小さな事務所をもうけた」と述べる。右社が三宅坂ビルに居すわり、左社は居所の確保に苦労したことが、当時左派だった江田の言から分かる。
また保守党に比べて社会党はオルグのためにも機関紙や新聞の発行と販売を重視した。江田はこの当時“社会タイムス”に係(かか)わり、数年は続いたものの、赤字を出して廃刊を余儀なくされた苦い経験をもつ。その時の江田の反省は「なにせ広告をとりにいっても“右派ならともかく左派ではね”とことわられるなどサンザンだった」というもの。
江田が一九六〇年代に入り、構造改革路線提唱と、社会文化会館建設へと邁進(まいしん)する契機は左社時代の本部と新聞の苦労という実体験にあったのではないか。もっとも一九五五年統一社会党の発足にあたっては、左社の鈴木茂三郎が委員長となり、右社の三宅坂ビルが本部となった。社会党は自民党からの政権交代を目ざして活動を活発化させた結果、ビルに木造の増築を行ったり、スペースを拡大していく。だがそれは一九五八年、一九六〇年と、二度の総選挙における党勢拡大にはつながらなかった。岸信介内閣の安保強行採決、浅沼稲次郎社会党委員長の暗殺という、社会党にとって政権交代の好機を、結局はのがしてしまう。
なぜだ? 当時の社会党の関係者は皆自問した筈(はず)だ。時はまさに高度成長とオリンピック。これにソフトに対応しようと試みた江田三郎。でも一九六一年に構造改革路線、一九六二年に「江田ビジョン」は否決され、江田は書記長を辞任。しかし六二年に社会文化会館の建築は決まっていてゆるがない。「アメリカの豊かな生活水準」を目標とした江田にとって、ビジョンと館はどちらも社会党に必要なのであった。
政権交代を現実のものとするための「権力の館」の建設は、江田を中心にまわる。江田人脈のフル回転だ。まずは江田が一九四三年から河北省石家荘で働いていた時の「石門会」である。東洋交通社長・西村勇夫、西松建設社長・西松三好。設計は西村の縁で皆川建築事務所・皆川利男、後に会館館長を弟の皆川日出男、そして施工は西松建設となる。
実はオリンピックのための高速道路工事と二四六号線道路拡幅工事のため、これまでの社会党ビルは奥行を奪われることになった。いずれ自民党もということで、自社二大政党制を公認するかのように、国有地(それも当時のビルのそば)の借り上げと相なった。党本部が国からいわばお墨付きをもらい、しかも自民党より先の建設ともなれば、社会党の地位向上これにしくはないと感じられて不思議ではない。
最大の問題は資金集めだ。そこで江田の学閥二つが浮かび上がる。神戸高商の「凌霜会」と東京高商の「如水会」。江田自ら「党の潜在財産をはじめて顕在化したということがいえる。一般的に“社会党がいってゼニが集まるはずがない”という先入観がある。ところが、案外、潜在財産というものはあるんだ。こんど動いてみて、しみじみそんな実感をもったよ」と含みをもたせて語っている。今は企業者側と労働者側に別れたが、青年時代は一つ釜の飯を食った仲だ、あるいは「同窓」だという意識、これが寄付金につながるということだ。
しかしそれで江田の言う潜在財産がすべて明るみに出たわけではあるまい。「社会新報」を読んでいくと、四億とも五億ともいう資金は、なかなか集まらず、完成近くの六三年になるとカンパの呼びかけが強く要請される様子が分かる。しかも企業者側と戦う党が企業献金に頼るのはダメとの左バネも強くなっていく。
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そこで社会文化会館の建築的特徴に触れたい。当時としては最先端の近代的機能が盛り込まれた。六、七階の文化ホールは自由民主会館のそれより天井も高く映画演劇も可能なモダンスペースとなっている。「社会党に誰でもこれるというムード」を作り、「この辺が新しい東京の文化センターとなることも夢ではない」とまで江田は述べた。文化の象徴として当時五百万円で購入したスタンウェイのピアノは今でも健在だ。もっとも企業に借りてもらうため、当初は宣伝や営業にも苦労したようだ。そして賃料と建物担保で金銭運用していくのが、会館の仕事になったのである。
内部構造は幅三〇〇〇ミリの廊下をはさんで、九五〇〇ミリ×五四〇〇ミリのブースが十六個並び、部屋としては各階十一ブースが使用可能だ。当初、一階に印刷工場、二階に書記局、委員長室、書記長室、中央執行委員会室、三階に会議室、四階に会館事務局、東京都本部の簡明な構成である。部屋を広げる場合は複数のブースをつなげる。このため遂(つい)に委員長室と書記長室は同じ構造と広さになった。合理的といえようか。
実は都市構造的にも興味深い点がある。社会文化会館工事と三宅坂周辺の高速道路工事は工期もほぼ同じで、西松建設が担当していた。いわば社会文化会館は首都高速道路と一体となって建設された。資金面で格安に請け負うという駆け引きもこれに関連したかもしれない。なお玄関は二四六号線道路沿いには作らなかった。
二階から四階までのバルコニーが印象的。政権獲得の際、歓喜し来れる国民に向けて挨拶(あいさつ)するためだった。しかし当の江田は一九七七年追われるように党を離れ、村山内閣もまたバルコニーの効用には浴しえなかった。(みくりや・たかし=東京大教授、日本政治史、建築と政治)=毎月第3水曜に掲載します
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(注1)社会文化会館
地上7階、地下1階。名前を変えた「三宅坂ホール」は688人を収容する。東京都千代田区永田町1の8の1に所在。
(注2)江田三郎
えだ・さぶろう(1907~77年)。構造改革を提起した社会党書記長。50年、参院議員に当選。浅沼稲次郎暗殺後、委員長代行として総選挙を指揮し、テレビ討論で柔和な話しぶりが人気を呼んだ。(1)アメリカの高い生活水準(2)ソ連の徹底した社会保障(3)英国の議会制民主主義(4)日本の平和憲法--を掲げた「江田ビジョン」が左派から批判される。63年、衆議院に転じた。77年に社会党を去り、社会市民連合を結成した直後に急死した。江田五月参院議長は長男。
毎日新聞 2009年5月20日 東京朝刊