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100年前の朝鮮の苦難(上)

【新刊】岡本隆司著、カン・ジナ訳『未完の企画、朝鮮の独立』(笑臥堂)

 1896年2月11日、光化門の外。興奮した群集が総理大臣・金弘集(キム・ホンジプ)を取り囲んだ。金弘集は「天命」だとして素直に身を任せ、群衆は金弘集を殴り殺した。高宗はこの日未明に王宮を抜け出してロシア公使館へ逃げ込み、金弘集を逆賊と規定した。95年10月に発生した明成皇后殺害事件の処理で、金弘集が微温的だったことに疑いを持ったのだ。

 金弘集は1882年に米国・イギリス・ドイツと条約を結ぶ際、事実上朝鮮の全権代表として清から派遣された馬建忠と緊密に協力し、円満に業務を処理したという評価を受けた。その年の夏、壬午軍乱で日本と交渉したときも、馬建忠の指示を受け、済物浦条約を締結した。清朝で朝鮮政策を担っていた馬建忠は、金弘集について「朝鮮で随一の人物だ」と評した。このように「親清派」だと思われていた金弘集が、10年後には「親日派」として追われ、殴り殺されるという結末を迎えたというわけだ。

 19世紀中国の対外関係史を専攻する岡本隆司・京都府立大教授(44)は、ロシア・日本・清・米国など列強に取り囲まれた朝鮮の運命について、金弘集の殺害と関連付けて話を進めた。

 朝鮮は中国に「事大」する朝貢国だった。19世紀後半、東アジアに西洋列強が進出する中、清と日本、そして列強の利害関係が衝突し始めた。明治維新以降、近代化を通じ急速に国力を伸ばしていた日本は、1879年に清の属国だった琉球を併合した。これに衝撃を受けた清は、朝鮮と西欧列強の条約締結を急ぎ、日本が朝鮮に手を伸ばすことを防ごうとした。日本政府と交渉するため修信使として日本に向かった金弘集が、日本にある清の公使館の参事官・黄遵憲が書いた『朝鮮策略』を入手して帰国したのは、1880年10月初めのことだった。

(左上)高宗皇帝(右上)1896年の露館播遷直後、日本軍はロシア公使館前に大砲を持って集結し、高宗に王宮へ戻ることを要求した。(左下)露館播遷直前に総理大臣に就任した金弘集(右下)清の北洋大臣・李鴻章

キム・ギチョル記者

朝鮮日報/朝鮮日報日本語版

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