京都御所内の防空壕の位置を丸印で示した図面=宮内庁書陵部所蔵
太平洋戦争開戦直後の1941(昭和16)年末から42年初めにかけて、京都御所(京都市上京区)内に11カ所の防空壕(ぼうくうごう)が造られていたことが、朝日新聞社が宮内庁に公開請求した保存文書でわかった。隣接の大宮御所や京都御苑を含めると計18カ所に及び、職員ら関係者や皇室財産を守るため、内部に防毒幕を張るなどした堅固な構造だった。本土空襲が始まる前から、御所周辺に大規模な防空壕群が完成していたことになる。
防空壕の存在は宮内庁京都事務所の職員の間で言い伝えられていたが、実際の設置場所や構造を記した文書はこれまで公表されていなかった。
開示された文書は、戦時中に宮内省(当時)が作成した「工事録 内匠(たくみ)寮(りょう)」。この中の「京都御所其他防空壕構築工事仕様書」には、41年12月23日〜42年2月10日の50日間で京都御所に11カ所、大宮御所に3カ所、京都御苑内に4カ所の防空壕を設置すると明記されている。実際に使用されたとみられ、敗戦直後の45年秋に作成された別の資料には、18カ所すべてを埋め戻すよう記されていた。
工事録には配置図や各防空壕の平面図・断面図が添付されており、20人用(5カ所)は長さ約7.3メートル、10人用(13カ所)は長さ約4.8メートルで、幅はいずれも約1.5メートル、深さは2メートル前後。すべて階段つきの木造で、内部に腰掛けが設けられたほか、床に簀(す)の子が敷かれ、毒ガスに備えた防毒幕も張られていた、との記述もある。御所には当時から管理職員らが常駐し、皇室関係の調度品などが多数、保管されていた。
戦時中の防空壕政策に詳しい青木哲夫・東京大空襲・戦災資料センター研究員は「一般市民のための防空壕はもっと小規模で、穴を掘ってフタがあればいいほうだった」と話す。同事務所は「配置図に基づいて御所内の11カ所を調べたが、すべて埋め戻されていた」としている。