昭和の岩窟王
吉田石松・執念の五十年
岩窟王と言えば、直ぐにデュマの名作を思い出す。尤もそれは何時の間にか、『モンテ・クリスト伯』と名前が変わってしまっているが。これに匹敵するとも言える話が、日本にもあった。
1963年 2月 28 日の名古屋高等裁判所、この日から彼の名は日本の裁判史上、永遠に語り継がれるものとなった。『被告人は無罪』、この裁定で昭和の岩窟王は誕生した。
吉田石松、彼の身に突然降り懸かった冤罪の罠、凄まじい執念で無実を訴え続けた男の魂の叫び、五十年に及ぶ壮絶な戦いの日々が、この岩窟王と呼ばれた男の歴史である。
無実を、ただそれだけを叫び続けた五十年、それは誤解と中傷そして偏見の中で、たった一つの真実を求めた壮絶な心の旅である。
1935年 3月、大審院(現在の最高裁)の記者クラブに一人の老人が訪ねて来た。この日、記者クラブに詰めていたのは、『都新聞・青山与平』、『時事新報・中島亀次郎』、『国民新聞・遠山寛』の三人である。吉田石松と名乗ったその老人は、自分は無実の罪で一昨日まで、23年間の刑務所暮らしをして居た、その冤罪を晴らしてほしいと三人にすがりつき、一編の手記を差し出した。石松の余りに真剣な様子にその手記を開いた青山与平は驚愕する。間違いだらけの漢字、大きさもまちまちな拙い文字ではあったが、その読みにくい文章を追ううちに、そこに記された事の重大さに言葉を失い、その迫力に圧倒される。後に青山与平は、彼の著作『真実は生きている』の中で『この手記にある数々の訴えのどれもこれもが、真実を物語るものとして胸を打たれた私は、どうにも心の興奮を押さえることが出来なかった』と述べている。この時の石松と三人の記者との出会い、それが全ての始まりであった。
[闘争その一]
1913年 8月 15 日午前 8時、石松にとっての事件は発端を迎えた。職場のガラス工場にいた石松を突然来た刑事が逮捕する。石松は強盗殺人の容疑で新栄町警察署に連行される。事件の発生は二日前の 13 日、名古屋市千種町の路上で農業の傍ら車夫をしていた戸田亀太郎(32歳)が頭部を鈍器で殴られて殺害されたのである。1 円 20 銭の所持金が奪われていたので強盗の仕業である事は明らかであった。目撃証言から翌日には二名の男が逮捕される。ガラス工の海部庄太郎( 22 歳)と北上芳平(26 歳)である。しかし警察は目撃証言によってもう一人共犯者がいると考えていた。もう一人の男に付いて問い詰められた海部庄太郎は、自分の罪を軽くするために、首謀者として石松の名を挙げたのである。石松の突然の逮捕はこの庄太郎の証言によるものであった。被害者を殴打した凶器として彼が愛用していた尺八も押収された。
石松は取り調べに際して事件当夜のアリバイを主張する。彼はその夜、仕事を終わってから近所に住む女性の許を訪れている。しかし来客がいたので会わずに帰っているが、その女性が自分の姿を見ている筈であると主張した。しかし警察はそんな石松の話に耳を貸そ
うとはしなかった。取り調べの警部は石松を乱打し、足蹴にし、倒れれば耳を持って立たせて殴り続けた。何としても自供を得ようとする警察の拷問が彼に加えられる。しかし彼は、裁判ならば、判事ならば真実を分かってくれると信じていた。全面否認のまま迎えた名古屋地方栽判所の第一審、主犯とされた石松に下された判決は死刑、共犯とされた庄太郎と芳平は無期懲役であった。明くる日の新聞には『死刑を宣告され、裁判長に飛び掛かる……』と書かれた。当然、判決を不服とした石松は名古屋控訴院に控訴する。しかし、第二審での判決は減刑されたとは言え無期懲役であった。あくまで無罪を主張する石松は再び控訴、だが大審院は控訴を棄却、石松は無期懲役確定として、1913年 11 月 16 日、東京の小菅刑務所に収監された。
しかしここで彼を待っていたのは、新たなる地獄、戦いの日々であった。収監直後、石松の母が面会に行っている。しかしこの時の僅かな対面の時間が二人の今生の別れとなる。そして彼は変わった。生きながら落とされた冤罪の地獄、そこにいたのは正しく一人の鬼であった。鬼となった彼の戦いの第一歩は、赤い囚人服を拒否することであった。更に受刑者に割り当てられる労働の拒否、受刑者としての義務を果たす事は自ら罪を認めることになると言うのがその理由である。服役中の労働拒否により彼の受けた懲罰は、実に 53 回に及んでいる。この石松の執念が天に届いたのか?ある日、房から出された彼は、忘れられない顔に出会う。自分を地獄に落とした男・庄太郎であった。彼は庄太郎に飛び掛かったが、この復讐の千載一遇の機会にその手を止めている。この男を殺してしまえば、自分の無実を証明できなくなると思ったからである。
小菅刑務所で四年の歳月が流れたが、石松の態度が改まることは遂に無かった。この強情さに看守長は、法務省に対して一通の意見書を提出し、網走監獄への移送を提案する。
網走監獄、小菅が地獄の一丁目としたら、ここは地獄のどん詰まりである。
[光明]
1918年 11 月 25 日、冬には氷点下 15 度にもなると言う過酷な環境の網走刑務所に移送された。ここではただ生きることさえ生易しいことではなかった。ここから出るには二通りの方法がある。従順にひたすら異を唱えず刑期の満了を待つか?冷たくなって裏から運び出されるか?である。石松の抵抗はここ網走でも治まることはなかった。それどころか以前にも増して無罪を訴え続けるが、その石松には凄まじい懲罰が待っていた。生死の境をさ迷うまでの激しい拷問、だが彼は死ななかった、死ぬ訳には行かなかったのである。生き続けて自らの汚名を晴らす、顔が変形するほど殴られても石松は耐え続け、生き抜いて行った。
1925年 10 月 1日、網走で 7年を過ごした彼は、秋田刑務所に移される。網走でも二度に亘って再審請求を出したが、いずれも却下されている。しかしそれでも諦め切れず、秋田では自ら証拠集めのために、警察や検事局、裁判所の資料を請求している。だが彼には読み書きが出来無かった。仕方なくその都度、看守に頭を下げ頼み込んだ。彼は、自分で読み書きできたら、と痛感していた。
1927年の秋田刑務所の看守長の記録に『本受刑者ノ学力程度ハ、小学二年以下ト思ワレルガ、今回就学ヲ願イ出タノデコレヲ許可ス』とある。
石松 48 歳にして始めた新たな戦い、覚えたての字を使って自らの身に降り懸かったいわれ無き罪とその戦いを記録し始めたのである。一つ一つの記憶を辿り、思いの丈を搾り出す様に手記は書かれている。
こんな石松に心を動かされた人物がいる。秋田刑務所長・大場正雄である。ある日、所長室に呼ばれた石松は、大場所長から『長い間無実を訴えたお前の気持ちはよく分かる。しかしお前が再審の訴えをするにしても、一日でも早く刑務所から出る事が大事である』と聞かされる。それは石松にとって逮捕以来、始めて耳にする心ある言葉であった。この日から人が変わったように労務に精励した石松は、模範囚の御墨付きを貰う。
逮捕から23年、遂にその日はやって来た。石松は既に56歳に成っていた。1935年 3月の仮出所である。
出所した彼にはやらなくてはならない事があった。自分に罪を着せた庄太郎を捜し出し、自らに注がれた汚名を返上する事である。石松は先ず、大審院で無実を訴えたが相手にされず、仕方なく訪ねたのがその二階にあった記者クラブであったのである。ここで始めて石松は、自分の話に耳を傾けてくれる記者たちに出会う。そして彼の新しい戦いが始まったのである。
石松の手記に心を動かされた青山記者たちは、彼を懇意の弁護士に紹介する。当時刑事弁護の第一人者と言われた『秋山高三郎』である。秋山弁護士は、石松の話を聞き、その手記を読んですぐさま、公判記録を取り寄せ、検討を重ねた揚げ句に、冤罪であるとの結論に達した。しかし 23 年の時を越えて、冤罪を立証するのは並大抵のことではなかった。唯一の方法は、彼を冤罪に陥れた庄太郎・芳平の偽証を立証することであった。青山記者は、石松を『今様岩窟王』として記事にし、偽証者両名の捜索を開始した。石松より五年早く出所していた芳平が先ずつき止められ、石松は彼の許に駆けつける。
1935年 4月の神戸で芳平は偽証を認め、庄太郎の策略で石松を主犯に仕立てたとの詫び状を『成り行き上、私の罪を軽くするため貴殿を主犯と申立てたのであります。貴殿はこの事件に関係ありません…』と書いたのである。
[闘争その二]
芳平の詫び状を取った後、石松は庄太郎の行方を尋ね歩く。それは気の遠くなるような追跡であった。そして二年が過ぎた頃、都新聞が埼玉県で庄太郎を見つけ出したのである。1936年 12 月 14 日、物陰に潜む石松の前にその男が現れた。逃げ出す庄太郎を石松は殴り倒していた。この時の情景は都新聞のカメラマンが撮影し、土下座する庄太郎の姿が翌日の新聞に大きく載った。石松にとっては、この男に復讐するより自らの汚名をそそぐ事の方が大切であった。芳平と同様に庄太郎も詫び状を書いている。
二人の詫び状を手にいれた石松は、これで再審の道は出来たと思っていた。しかし名古屋控訴院の再審に際して、またもや庄太郎は嘘で逃れようとした。あの詫び状は、殴られ脅されて書いたもので真意ではないと主張したのである。その時、石松が暴力を振るった事も裁判官の心証を悪くし、折からの戦争への突入が石松の執念さえも押し流してしまう。1944年、石松の請求は棄却される。非常時に個人の戦いなどは問題にされなかった。
そして1945年の終戦、全ての価値観が覆され、生きていくのが精一杯の時代であった。 既に石松の名は忘れ去られたが、彼は生き続け闘いを止めていなかった。
家を焼かれた彼は栃木県小山市に移り住んでいた。ここでも彼は、自らの過去を隠そうともせず、冤罪を叫んでいた。彼の妻キンも、無実を信じ協力を惜しまなかった。この彼の姿勢は村人逹を動かし、署名運動までに発展する。
1952年、石松は村人 600名の署名を持って、法務局人権擁護局に救済を申し出る。戦後の人権が叫ばれる時代であった。これが切っ掛けで再び石松の戦いは大きな反響をよぶ。
そして『東京日々新聞』に岩窟王の名が再び登場する。そして石松は再びあの卑劣な男と対決することになる。
[対決]
1955年 6月、人権擁護部は再審調査のため、石松と庄太郎を召喚する。しかし庄太郎は逃げの姿勢に終始する。庄太郎は裁判記録にあることは、良く覚えていないと言い張った。誠のかけらもない庄太郎の態度に、『真人間になって死ね』と石松の血を吐くような言葉がぶつけられる。しかしそれでも庄太郎は逃げた。しかしこのとき録音されたテープは、録音ルポルタージュ『裁判』として放送され、大きな反響を呼ぶ。しかし高まる世論とは裏腹に再審への動きは遅々として進まなかった。
彼は、この事態に毎日のように栃木から東京に出て、訴えの幟旗を担いで街を歩いた。
1956年、彼は既に 78 歳に成っていた。彼はここでとてつもない行動に出る。彼は妻と共に紋付き袴の盛装をして宮城に直訴にいったのである。
[再会]
1957年、東京人権擁護部の四年に亘る調査の結論がでるが、石松の冤罪を強く印象づける内容となっていた。この意を受けて石松は1958年、再審請求のため老齢を押して、名古屋高裁にいく。しかし、1959年、またもや請求は棄却された。庄太郎、芳平の偽証の証明が不十分とされたのである。その棄却決定書の末尾には『法的紛争は、法的手続きによって解決されねばならない』と記載されている。確かにそれは法の真理であっても人間の真理ではなかった。石松 81 歳。
そんな石松のところに朗報が飛び込む。彼のアリバイを証明する人物が現れたのである。あの事件の夜、石松が会いにいったあの少女である。日本弁護士連合会のスタッフ・早川寿一氏がやっと見つけ出したのである。彼は嫌がる彼女の家に三日も通い、人権擁護の大切さを説いた。そして遂に彼女は1913年 8月 13 日の事を語り始めた。彼女の証言では、遊びにきていた男達を見送るため、誰かが垣根の向うに立っていたのが分かった。彼女がその顔を確かめる暇もなくその男は去っていった。後ろ姿だけの男の手には尺八が握られていたのを覚えていると言う。
新たな証言を得て石松は五度目となる再審請求を行う。そして1962年、遂に再審は決定、この日だけを求めて戦い続けた石松の五十年であった。12月 6日、再審裁判開始、次々と証言する人達、その中にある老婆を見つけて石松は言い難い感慨に囚われる。あの日、自分が恋した女性がこの老婆なのだった。石松は彼女の姿に流れていってしまった五十年の年月を感じ無いわけにはいかなかった。
そして翌年の 2月には決審と言う異例の早さで裁判は進んだ。当時の裁判官・成田薫が石松の健康を案じての事であった。
1963年 2月 28 日、判決は下りた。小林裁判長の『被告人は無罪』の声が響く。傍聴席は期せずして拍手と万歳の声で沸き上がった。積年の思いが叶った彼は、思わず裁判長に向かって手を合わせていた。この裁判長は、石松を吉田被告と言わずに吉田翁と呼び、先輩の犯した過ちを謝罪した。
栃木に戻った石松は、布団の中で過ごすことが多くなり、それから九か月の後、戦い続けた男は静かに眠りに就いた。 84 歳に成っていた。人生のほとんどを、人間の尊厳のために戦った男であった。そして人々は彼のことを『昭和の岩窟王』と呼んだ。
吉田石松・執念の五十年
岩窟王と言えば、直ぐにデュマの名作を思い出す。尤もそれは何時の間にか、『モンテ・クリスト伯』と名前が変わってしまっているが。これに匹敵するとも言える話が、日本にもあった。
1963年 2月 28 日の名古屋高等裁判所、この日から彼の名は日本の裁判史上、永遠に語り継がれるものとなった。『被告人は無罪』、この裁定で昭和の岩窟王は誕生した。
吉田石松、彼の身に突然降り懸かった冤罪の罠、凄まじい執念で無実を訴え続けた男の魂の叫び、五十年に及ぶ壮絶な戦いの日々が、この岩窟王と呼ばれた男の歴史である。
無実を、ただそれだけを叫び続けた五十年、それは誤解と中傷そして偏見の中で、たった一つの真実を求めた壮絶な心の旅である。
1935年 3月、大審院(現在の最高裁)の記者クラブに一人の老人が訪ねて来た。この日、記者クラブに詰めていたのは、『都新聞・青山与平』、『時事新報・中島亀次郎』、『国民新聞・遠山寛』の三人である。吉田石松と名乗ったその老人は、自分は無実の罪で一昨日まで、23年間の刑務所暮らしをして居た、その冤罪を晴らしてほしいと三人にすがりつき、一編の手記を差し出した。石松の余りに真剣な様子にその手記を開いた青山与平は驚愕する。間違いだらけの漢字、大きさもまちまちな拙い文字ではあったが、その読みにくい文章を追ううちに、そこに記された事の重大さに言葉を失い、その迫力に圧倒される。後に青山与平は、彼の著作『真実は生きている』の中で『この手記にある数々の訴えのどれもこれもが、真実を物語るものとして胸を打たれた私は、どうにも心の興奮を押さえることが出来なかった』と述べている。この時の石松と三人の記者との出会い、それが全ての始まりであった。
[闘争その一]
1913年 8月 15 日午前 8時、石松にとっての事件は発端を迎えた。職場のガラス工場にいた石松を突然来た刑事が逮捕する。石松は強盗殺人の容疑で新栄町警察署に連行される。事件の発生は二日前の 13 日、名古屋市千種町の路上で農業の傍ら車夫をしていた戸田亀太郎(32歳)が頭部を鈍器で殴られて殺害されたのである。1 円 20 銭の所持金が奪われていたので強盗の仕業である事は明らかであった。目撃証言から翌日には二名の男が逮捕される。ガラス工の海部庄太郎( 22 歳)と北上芳平(26 歳)である。しかし警察は目撃証言によってもう一人共犯者がいると考えていた。もう一人の男に付いて問い詰められた海部庄太郎は、自分の罪を軽くするために、首謀者として石松の名を挙げたのである。石松の突然の逮捕はこの庄太郎の証言によるものであった。被害者を殴打した凶器として彼が愛用していた尺八も押収された。
石松は取り調べに際して事件当夜のアリバイを主張する。彼はその夜、仕事を終わってから近所に住む女性の許を訪れている。しかし来客がいたので会わずに帰っているが、その女性が自分の姿を見ている筈であると主張した。しかし警察はそんな石松の話に耳を貸そ
うとはしなかった。取り調べの警部は石松を乱打し、足蹴にし、倒れれば耳を持って立たせて殴り続けた。何としても自供を得ようとする警察の拷問が彼に加えられる。しかし彼は、裁判ならば、判事ならば真実を分かってくれると信じていた。全面否認のまま迎えた名古屋地方栽判所の第一審、主犯とされた石松に下された判決は死刑、共犯とされた庄太郎と芳平は無期懲役であった。明くる日の新聞には『死刑を宣告され、裁判長に飛び掛かる……』と書かれた。当然、判決を不服とした石松は名古屋控訴院に控訴する。しかし、第二審での判決は減刑されたとは言え無期懲役であった。あくまで無罪を主張する石松は再び控訴、だが大審院は控訴を棄却、石松は無期懲役確定として、1913年 11 月 16 日、東京の小菅刑務所に収監された。
しかしここで彼を待っていたのは、新たなる地獄、戦いの日々であった。収監直後、石松の母が面会に行っている。しかしこの時の僅かな対面の時間が二人の今生の別れとなる。そして彼は変わった。生きながら落とされた冤罪の地獄、そこにいたのは正しく一人の鬼であった。鬼となった彼の戦いの第一歩は、赤い囚人服を拒否することであった。更に受刑者に割り当てられる労働の拒否、受刑者としての義務を果たす事は自ら罪を認めることになると言うのがその理由である。服役中の労働拒否により彼の受けた懲罰は、実に 53 回に及んでいる。この石松の執念が天に届いたのか?ある日、房から出された彼は、忘れられない顔に出会う。自分を地獄に落とした男・庄太郎であった。彼は庄太郎に飛び掛かったが、この復讐の千載一遇の機会にその手を止めている。この男を殺してしまえば、自分の無実を証明できなくなると思ったからである。
小菅刑務所で四年の歳月が流れたが、石松の態度が改まることは遂に無かった。この強情さに看守長は、法務省に対して一通の意見書を提出し、網走監獄への移送を提案する。
網走監獄、小菅が地獄の一丁目としたら、ここは地獄のどん詰まりである。
[光明]
1918年 11 月 25 日、冬には氷点下 15 度にもなると言う過酷な環境の網走刑務所に移送された。ここではただ生きることさえ生易しいことではなかった。ここから出るには二通りの方法がある。従順にひたすら異を唱えず刑期の満了を待つか?冷たくなって裏から運び出されるか?である。石松の抵抗はここ網走でも治まることはなかった。それどころか以前にも増して無罪を訴え続けるが、その石松には凄まじい懲罰が待っていた。生死の境をさ迷うまでの激しい拷問、だが彼は死ななかった、死ぬ訳には行かなかったのである。生き続けて自らの汚名を晴らす、顔が変形するほど殴られても石松は耐え続け、生き抜いて行った。
1925年 10 月 1日、網走で 7年を過ごした彼は、秋田刑務所に移される。網走でも二度に亘って再審請求を出したが、いずれも却下されている。しかしそれでも諦め切れず、秋田では自ら証拠集めのために、警察や検事局、裁判所の資料を請求している。だが彼には読み書きが出来無かった。仕方なくその都度、看守に頭を下げ頼み込んだ。彼は、自分で読み書きできたら、と痛感していた。
1927年の秋田刑務所の看守長の記録に『本受刑者ノ学力程度ハ、小学二年以下ト思ワレルガ、今回就学ヲ願イ出タノデコレヲ許可ス』とある。
石松 48 歳にして始めた新たな戦い、覚えたての字を使って自らの身に降り懸かったいわれ無き罪とその戦いを記録し始めたのである。一つ一つの記憶を辿り、思いの丈を搾り出す様に手記は書かれている。
こんな石松に心を動かされた人物がいる。秋田刑務所長・大場正雄である。ある日、所長室に呼ばれた石松は、大場所長から『長い間無実を訴えたお前の気持ちはよく分かる。しかしお前が再審の訴えをするにしても、一日でも早く刑務所から出る事が大事である』と聞かされる。それは石松にとって逮捕以来、始めて耳にする心ある言葉であった。この日から人が変わったように労務に精励した石松は、模範囚の御墨付きを貰う。
逮捕から23年、遂にその日はやって来た。石松は既に56歳に成っていた。1935年 3月の仮出所である。
出所した彼にはやらなくてはならない事があった。自分に罪を着せた庄太郎を捜し出し、自らに注がれた汚名を返上する事である。石松は先ず、大審院で無実を訴えたが相手にされず、仕方なく訪ねたのがその二階にあった記者クラブであったのである。ここで始めて石松は、自分の話に耳を傾けてくれる記者たちに出会う。そして彼の新しい戦いが始まったのである。
石松の手記に心を動かされた青山記者たちは、彼を懇意の弁護士に紹介する。当時刑事弁護の第一人者と言われた『秋山高三郎』である。秋山弁護士は、石松の話を聞き、その手記を読んですぐさま、公判記録を取り寄せ、検討を重ねた揚げ句に、冤罪であるとの結論に達した。しかし 23 年の時を越えて、冤罪を立証するのは並大抵のことではなかった。唯一の方法は、彼を冤罪に陥れた庄太郎・芳平の偽証を立証することであった。青山記者は、石松を『今様岩窟王』として記事にし、偽証者両名の捜索を開始した。石松より五年早く出所していた芳平が先ずつき止められ、石松は彼の許に駆けつける。
1935年 4月の神戸で芳平は偽証を認め、庄太郎の策略で石松を主犯に仕立てたとの詫び状を『成り行き上、私の罪を軽くするため貴殿を主犯と申立てたのであります。貴殿はこの事件に関係ありません…』と書いたのである。
[闘争その二]
芳平の詫び状を取った後、石松は庄太郎の行方を尋ね歩く。それは気の遠くなるような追跡であった。そして二年が過ぎた頃、都新聞が埼玉県で庄太郎を見つけ出したのである。1936年 12 月 14 日、物陰に潜む石松の前にその男が現れた。逃げ出す庄太郎を石松は殴り倒していた。この時の情景は都新聞のカメラマンが撮影し、土下座する庄太郎の姿が翌日の新聞に大きく載った。石松にとっては、この男に復讐するより自らの汚名をそそぐ事の方が大切であった。芳平と同様に庄太郎も詫び状を書いている。
二人の詫び状を手にいれた石松は、これで再審の道は出来たと思っていた。しかし名古屋控訴院の再審に際して、またもや庄太郎は嘘で逃れようとした。あの詫び状は、殴られ脅されて書いたもので真意ではないと主張したのである。その時、石松が暴力を振るった事も裁判官の心証を悪くし、折からの戦争への突入が石松の執念さえも押し流してしまう。1944年、石松の請求は棄却される。非常時に個人の戦いなどは問題にされなかった。
そして1945年の終戦、全ての価値観が覆され、生きていくのが精一杯の時代であった。 既に石松の名は忘れ去られたが、彼は生き続け闘いを止めていなかった。
家を焼かれた彼は栃木県小山市に移り住んでいた。ここでも彼は、自らの過去を隠そうともせず、冤罪を叫んでいた。彼の妻キンも、無実を信じ協力を惜しまなかった。この彼の姿勢は村人逹を動かし、署名運動までに発展する。
1952年、石松は村人 600名の署名を持って、法務局人権擁護局に救済を申し出る。戦後の人権が叫ばれる時代であった。これが切っ掛けで再び石松の戦いは大きな反響をよぶ。
そして『東京日々新聞』に岩窟王の名が再び登場する。そして石松は再びあの卑劣な男と対決することになる。
[対決]
1955年 6月、人権擁護部は再審調査のため、石松と庄太郎を召喚する。しかし庄太郎は逃げの姿勢に終始する。庄太郎は裁判記録にあることは、良く覚えていないと言い張った。誠のかけらもない庄太郎の態度に、『真人間になって死ね』と石松の血を吐くような言葉がぶつけられる。しかしそれでも庄太郎は逃げた。しかしこのとき録音されたテープは、録音ルポルタージュ『裁判』として放送され、大きな反響を呼ぶ。しかし高まる世論とは裏腹に再審への動きは遅々として進まなかった。
彼は、この事態に毎日のように栃木から東京に出て、訴えの幟旗を担いで街を歩いた。
1956年、彼は既に 78 歳に成っていた。彼はここでとてつもない行動に出る。彼は妻と共に紋付き袴の盛装をして宮城に直訴にいったのである。
[再会]
1957年、東京人権擁護部の四年に亘る調査の結論がでるが、石松の冤罪を強く印象づける内容となっていた。この意を受けて石松は1958年、再審請求のため老齢を押して、名古屋高裁にいく。しかし、1959年、またもや請求は棄却された。庄太郎、芳平の偽証の証明が不十分とされたのである。その棄却決定書の末尾には『法的紛争は、法的手続きによって解決されねばならない』と記載されている。確かにそれは法の真理であっても人間の真理ではなかった。石松 81 歳。
そんな石松のところに朗報が飛び込む。彼のアリバイを証明する人物が現れたのである。あの事件の夜、石松が会いにいったあの少女である。日本弁護士連合会のスタッフ・早川寿一氏がやっと見つけ出したのである。彼は嫌がる彼女の家に三日も通い、人権擁護の大切さを説いた。そして遂に彼女は1913年 8月 13 日の事を語り始めた。彼女の証言では、遊びにきていた男達を見送るため、誰かが垣根の向うに立っていたのが分かった。彼女がその顔を確かめる暇もなくその男は去っていった。後ろ姿だけの男の手には尺八が握られていたのを覚えていると言う。
新たな証言を得て石松は五度目となる再審請求を行う。そして1962年、遂に再審は決定、この日だけを求めて戦い続けた石松の五十年であった。12月 6日、再審裁判開始、次々と証言する人達、その中にある老婆を見つけて石松は言い難い感慨に囚われる。あの日、自分が恋した女性がこの老婆なのだった。石松は彼女の姿に流れていってしまった五十年の年月を感じ無いわけにはいかなかった。
そして翌年の 2月には決審と言う異例の早さで裁判は進んだ。当時の裁判官・成田薫が石松の健康を案じての事であった。
1963年 2月 28 日、判決は下りた。小林裁判長の『被告人は無罪』の声が響く。傍聴席は期せずして拍手と万歳の声で沸き上がった。積年の思いが叶った彼は、思わず裁判長に向かって手を合わせていた。この裁判長は、石松を吉田被告と言わずに吉田翁と呼び、先輩の犯した過ちを謝罪した。
栃木に戻った石松は、布団の中で過ごすことが多くなり、それから九か月の後、戦い続けた男は静かに眠りに就いた。 84 歳に成っていた。人生のほとんどを、人間の尊厳のために戦った男であった。そして人々は彼のことを『昭和の岩窟王』と呼んだ。
偶然拝読した「昭和の岩窟王」の記事に感動いたしまして、勝手ながら リンクを貼らせて頂きました。ご諒承くださいますよう、お願い申し上げます。
2008年5月19日 ズカマ
高三郎は、昭和11年に、亡くなっていますが、事件の結末を、知らず他界したのが、無念だったでしょう。
秋山高三郎先生なくしてはこの冤罪事件は晴れることは無かったでしょう。
改めて曾祖父様の偉業に敬意を表します。
このブログが関係者の方の目に留まったこと、無常の幸せです。
当方、1933年生まれの後期高齢者ですがまだまだ健在。
一方的なソース(おそらく青山与平記者が書いた本のみ)でこしらえた
素晴らしきエントリーのようだ。一読して、失笑してしまった。
青山与平記者の自慢話については、
衆議院法務委員会(昭和38年5月31日)において、
赤松勇衆議院議員が言い放った下記のセリフで
どういう性質のモノか容易に分かるというものだ。
>青山さんが新聞記者として、かつ人間として非常にりっぱな働きを
>していただいたということは感謝にたえません。
>これは私は池田辰二君からも十分聞きましたし
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/043/0488/04305310488018a.html
昭和38年に名古屋高裁で無罪判決が出た際の
名古屋高裁長官と池田辰二記者との特別な関係も、
おそらく知らないであろう…。