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スイスを追いつめる「タックスヘイブン」包囲網

金融危機以降、スイスの「銀行守秘義務」への圧力が強まっている。狙いは莫大な脱税資産。熾烈な闘いが始まった。

ジャーナリスト 石山新平

 金融王国スイスが追いつめられている。欧州アルプスの山中にある人口七百五十万人余りの小国ながら世界有数の豊かさを誇ってきたのは、言うまでもなく金融業の隆盛による。その隆盛は同国がこれまで頑なに守り続けてきた「銀行守秘義務」によるところが小さくないのだが、その銀行守秘義務が各国の標的となり、米国と欧州連合(EU)による包囲網の中で、風前の灯火になっているのだ。
 銀行守秘義務とは、銀行が顧客の情報を第三者に漏らしてはいけない、というルールで、スイスでは法律に明記されている。一見当たり前のように思えるが、その第三者に「外国政府」や「税務当局」も含まれるところが銀行守秘義務の本質だ。例えばドイツ人がスイスに口座を開き、脱税した未申告の資金を持ち込んだとしよう。ドイツの税務当局が脱税を摘発しようと、スイスの銀行に口座の照会をしても、銀行は一切答えないのだ。犯罪がらみの資金の場合、スイス政府が預金を凍結するなどの措置を取ることになっているが、スイスでは脱税、つまり申告漏れは犯罪ではないのだ。
 結果、世界の大金持ちたちは、スパイ小説さながらに“秘密口座”をスイスに開き、脱税した資金をせっせと運び込んでいる、というのがドイツを中心とするEUや米国の長年にわたる批判だった。つまりスイスは不正な資金を世界中から吸い寄せている、その温床が銀行守秘義務だ、というわけだ。
 こうした税金を逃れた資金が集まる場所をタックスヘイブン(租税回避地)と呼ぶが、EUや米国の意向を背景に経済協力開発機構(OECD) は、そうした国々を目の敵にしてきた。同機構の推計ではタックスヘイブンの銀行口座に五兆ドルから七兆ドル(五百兆円―七百兆円)の資金があり、課税を不正に免れているというのだ。その最大の存在がスイスなのだ。

きっかけは米当局の追及

 スイスは長年にわたって銀行守秘義務の放棄を迫られてきたが、頑なに拒んできた。だが、そこについに風穴が開いた。
 今年三月十三日、スイスの大統領を兼務するハンス・ルドルフ・メルツ財務相が記者会見を開き、銀行守秘義務を緩和すると発表した。OECDが定める情報交換のルールに従い、外国の当局が脱税などの個別の案件について具体的な理由を示し銀行の顧客情報の開示を要求した場合、ケースバイケースでそれに応じる用意がある、としたのだ。
 銀行守秘義務がスイスの法律に明記されて七十五年。「遂に銀行守秘義務が終焉」とスイス国内のメディアも大騒ぎとなった。連邦政府は翌日、急遽声明を発表。「銀行守秘義務を放棄するつもりはない。国内の顧客はもとより、スイスに居住する外国人も今回の緩和の影響は受けない」とわざわざ念を押したが、スイスの銀行からは外国人の資金が逃げ始めていると言われる。実際、スイス金融大手UBSの場合、一―三月期だけでアセットマネジメント(投資信託)部門から二百三十億スイスフラン(約二兆円)の資金が流出した、という報道もあった。
 なぜ、このタイミングでスイスは妥協を余儀なくされたのか。いくつかの事件が引き金になったのは間違いない。
 最もインパクトが大きかったのが、UBSによる米国での脱税幇助裁判だ。昨年来、米国の税務当局は、UBSが顧客の米国人富裕層の脱税を手助けしたとして、捜査を続けてきた。UBSは米国内での富裕層の資産管理業務、いわゆるプライベートバンキングからの撤退を公表したが、米当局の追及は一向に収まらなかった。米議会は、富裕層の脱税による米国国庫の損失額は千億ドル(約十兆円)に上るという報告書までまとめた。UBSは、このままでは会社全体の存続にも関わると判断。今年二月に訴追を避けるため米司法当局に七億八千万ドル(約七百八十億円)の制裁金を支払い、約三百人の顧客情報を当局に開示することで和解したのだ。スイスを代表する銀行が、三百人とはいえ顧客情報の開示を受け入れたことで、銀行守秘義務は大きく揺らいだのだ。
 スイスを追いつめた二つめの事件は、昨年秋以降の世界的な金融危機だ。タックスヘイブンなどに置かれたヘッジファンドがバブルを作り、危機をもたらしたという批判が各国から集中したのだ。
 米国の金融を蝕んだ証券化商品がらみの巨額損失の多くは、今もSIV(ストラクチャード・インベストメント・ビークル)に潜んでいると言われる。SIVとは、銀行やファンドが帳簿外に特別目的会社を作って出資し、さらにコマーシャルペーパー(CP)などで資金調達した一種のファンド。債務担保証券(CDO)など証券化商品を大量に抱え込んでいるとされる。そのSIVの多くが帳簿上、英ケイマン諸島のようなタックスヘイブンに置かれている。タックスヘイブンが持つ銀行守秘義務のために、SIVの実態が分からない、というのが、銀行守秘義務批判の論拠になっている。
 四月上旬の二十カ国首脳会合(G20)ではタックスヘイブン問題も取り上げられた。G20に向けてOECDが制裁を伴うブラックリストを作るとしたことも大きかった。三月に入って、香港やシンガポール、リヒテンシュタイン、アンドラなどタックスヘイブン諸国がOECD基準を受け入れる意向を示したこともあり、スイスも妥協を余儀なくされたわけだ。
 もう一つ、スイスを追いつめた事件があった。昨年二月、ドイツの郵便局民営化会社であるドイツポストのクラウス・ツムヴィンケル社長が巨額の脱税容疑でドイツの検察当局から強制捜査を受け、社長辞任に追い込まれた事件だ。
 リヒテンシュタインの財団に不正に資金を移し脱税したという容疑だったが、ドイツの富裕層に衝撃を与えたのは、千人以上の顧客の名前が当局の手に渡っているとされたことだった。ドイツ当局は長年、スイスと共にリヒテンシュタインに対しても、脱税資金を集めるタックスヘイブンであるとして強く批判してきた。リヒテンシュタインに、ドイツで課税を逃れた資金が流入しているというのは半ば常識だった。しかし銀行守秘義務が壁になって、外国当局には一切情報が漏れず、ドイツはまったく手を出せなかったのだ。
 そこに風穴が開いたきっかけは、リヒテンシュタインのLGT銀行の顧客リストが元行員によって不正に持ち出されたことだった。この資料をドイツの諜報機関が入手、税務当局に渡ったというのだ。米国のCIA(中央情報局)が一枚かんでいるという説も流れた。LGT銀行はリヒテンシュタイン公家が経営する事実上の公的金融機関だけに、国のメンツは丸潰れとなった。
 リヒテンシュタインが突破口となったこの事件も、本当のターゲットはスイスだったと考えるべきだろう。リヒテンシュタインは公国とはいえ、通貨はスイスフラン。しかもスイスとの間に検問はなく、行き来は自由だ。リヒテンシュタインの財団からスイスの銀行に資金を運んだとしても、まったく追跡不能なのだ。

金融覇権を巡る闘争

 所得税率の高いドイツやフランス、イタリアの富裕層が、スイスに隠し資産を持つのは数百年にわたる伝統ともいえる。そうした資金がスイスの金融業を高度に発達させたのは厳然たる事実だろう。それだけに、仮に銀行守秘義務を放棄させられることになれば、スイスの金融業の死活問題になる。
 米国の追及は終わっていない。今年二月にUBSと米当局が和解した直後のこと。米当局は突然、脱税の疑いがある米国人の富裕層五万二千人の口座の情報開示をUBSに求め、米国内の裁判所に提訴したのだ。五万人を超える顧客情報開示は、銀行守秘義務の放棄に等しい。
 スイス政府は「開示強制はスイスの主権を侵し、国際法にも反する」と批判、「合意した正式ルートを通さない限り情報は開示できない」と姿勢を硬化させている。UBSも四月三十日に裁判所に対し「個人の信用情報を外国政府に明かすことはスイスの法律が禁じている」と米当局の要求を拒否する姿勢を明確にした。
 なぜそこまで米国はスイスを攻撃し続けるのか。
 背景にはスイスと米国との間に存在する金融覇権を巡る宿命の闘争が見え隠れする。巨額の赤字を計上し続けているUBSは、事実上、スイス連邦政府と一心同体になって再生に取り組んでいる。中央銀行が基金を作って証券化商品などを買い取る一方、会長には大統領も務めたカスパー・フィリガー元財務大臣を迎えている。復活に向けてスイスが邁進しているところへ、米国は「これでもか」と言わんばかりに矢を射込んでいるのだ。
 ここ二十年ほどを俯瞰すると、米国の金融業は最強を誇ったにもかかわらず、スイスだけはその軍門に下らなかった。スイスの二大銀行であるUBSとクレディ・スイスはともに米国の投資銀行を吸収、米国に地歩を築き、スイス中心の銀行から米国に大きく依存するグローバルバンクへと飛躍していった。その両者が米国がらみで大やけどを負ったのだ。
 米国にとっては宿命のライバルであるスイスの金融をトコトン叩き潰す千載一遇の好機なのだろう。米国の攻勢の前に、スイスは金融業の生命線とも言える銀行守秘義務を守れるのか。金融史に残る闘いの最終章が始まった。

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