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2006年5月26日 (金)

宰相、東條英機について

太平洋戦争開戦時(昭和16年12月8日)の首相であり、戦争を遂行した責任者として東京裁判に於いて戦犯として絞首刑に処せられた事は誰しも知る処である。東京裁判については60年以上経った今でも様々な検証が行はれている。

東條については個人としても、公人としても多角的な考察が行われ、それに関する記録や文献も数多い。それらを総合的にまとめてみると。個人的には誠に皇室尊崇の念厚く、また、生真面目で几帳面、良き家庭人であった様である。

軍隊時代は軍紀・風紀に厳しく強姦・略奪など行った。兵士に対しては容赦なく軍法会議にかけ処分したという。司令官として軍規を保ち志気を維持する事は当然の事であろうが、その軍人としての能力の高さは評価されている。

経歴が示す如く、15才で陸軍幼年学校に入学、陸軍士官学校、陸軍大学と常に抜群の成績で進み、49才で陸軍中将に就いている。

軍事官僚としては目を見張るものがあり、もし軍人としてその生涯を全うしておれば間違いなく名将として名を残したであろうと評する人が多い。ただ精神主義的な側面を多分に持ち合わせていた様だ。

しかし、政治家としてはその評価は低い。まず言われているのが度量の小さゝ、官僚的な硬直した発想、視野の狭さ、権威主義などである。また個人的に好き嫌いが激しく、反対意見を言う者や嫌いな者に対しては異常なまで憎しみの情を隠さず地位(権力)を利用しての嫌がらせを度々行っている。

毎日新聞社編「決定版・昭和史・破局への道」、「毎日新聞百年史」、(フリー百科事典「ウイキペディア」)によると、1944年2月23日の朝刊に「竹槍では勝てない、飛行機だ」と評判的な記事をかい新名丈文記者を37才という高齢で二等兵召集し、硫黄島へ送ろうとした。新名記者が海軍省記者クラブの主任記者であった事から海軍が抗議し、新名は難を免れた。

また、戦後に東海大学総長として同大学を私学の雄に育てあげ、更に多方面に業績を残した松前重義は、当時逓信省工務局長であったが、反東條の東久邇宮や中野正剛と近いという事で42才にして、やはり二等兵召集され南方戦線で労役に就かされている。

また、陸軍内で東條嫌いで有名であった前田利為(1911年・陸大卒)は東條によって南方の激戦地に転任させられ搭乗機を撃墜され死亡したが、東條はわざわざこれを戦死ではなく戦病死扱いにして遺族の年金を減額したと言われている。

東條と犬猿の仲であった。陸軍の奇才・石原完爾も昭和16年早々に予備役に編入されている。

中野正剛については前に述べた如く、その死因は謎とされているが、この様な事例からすると、子息を最前線に送るぞ、などの脅迫があったという事は容易に想像出来る。また、中野を取り調べ、容疑不十分で釈放した中村登音担当検事には43才にして報復としての召集令状が届いている。

一方、擦り寄って来る者に対しては大いに可愛がり、重用した感がある。私情を仕事に持ち込む事が多かったと言われている。

当時から東條側近の“三奸四愚”と呼ばれた取り巻きの存在は有名である。即ち、三奸は鈴木貞一(陸大29期・貴族院議員・中将)、加藤泊治郎(陸士22期・中将)、四方諒二(陸士29期・東京憲兵隊長・中将)、そして四愚は木村兵太郎(陸士20期・中将)、佐藤賢了(陸士29期・陸大37期・中将)、真田穣一郎(陸士31期・陸大39期・少将)、赤松貞雄(陸士34期・陸大46期・東條首相秘書官)であると言われている。その他、戦史上最大の失敗と言われているインパール作戦を直訴した牟田口兼也、東條が陸軍大臣時代に仏印進駐の責任で一度は左遷したが半年後に人事局長に引き上げ、更に陸軍次官を兼務させるなど重用した富永恭次(陸士25期・中将)がいる。富永などはフイリッピンで特攻指令を出し、「俺も必ず後から行く」と訓示し乍らも「胃潰瘍」の診断書をもって護衛戦闘機付きで台湾に脱出している。(百科事典「ウイキペディア」)

これらの部下を東條は処分しなかった。そろいもそろってお粗末な連中ばかりである。

首相であり、陸軍大臣であり、参謀総長であり、まさに強大な権力を持った国の最高責任者がこの様な資質であった事は国民にとって悲劇であった。これでは国を担い戦争という大事業が遂行できる訳がない。

同じ現象は“今日政治”でも茶飯事である。三奸四愚どころか多くの奸や愚が居やしないか。「胃潰瘍」の診断書ではないが敵前逃亡とも思える行為も見受けられる。皆様の独断で名前を挙げてみるのも退屈しのぎではないでしょうか。笑々、

結果的には同胞300万の命を無惨にも失った、この大戦はそれまでの経緯のなかで東條が首相に就任した時は既に戦争は避けられない状況であったかもしれない。

しかし、政治の最高責任者として和平の道もあったのではないか、また参謀総長として無謀にして愚かな作戦を裁可し兵士を無駄に死なせた例も多くある。戦勝国による東京裁判をまつ迄もなく日本国民による歴史の審判にさらされる時、その責任の一端を免れる事は出来ないであろう。

今日、靖国神社に他の英霊と共に合祀されているが本人はいささか居心地が悪いのではなかろうか。

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