―― 二〇〇六年のノンシリーズ作品『ボトルネック』を思い出します。あれは、若者の痛い自意識といいますか、自意識の中の自分像と現実の自分が乖離した状態について、かなりつきつめて書かれた作品でした。あの作品を書かれた時点で、かなり問題が整理されたのではないでしょうか。
米澤 あの作品はもともと「他者のない自分」「他者のない自意識」を総括して、もう書かないようにしたい、という考えの元に書いたものでした。
―― 題名が『ボトルネック』ですものね。つっかえていたものを無くすために書いた小説、という印象でした。その翌年に『インシテミル』を出された。「野性時代」で米澤さんは、題名について「淫してみる」の意味があったということを書かれていました。『ボトルネック』で詰っていたものを吐き出して、『インシテミル』で書きたいことを書いたと。
米澤 新本格勃興期からミステリーの世界に入ってきているので、『インシテミル』のような世界は非常に大好きで、一度は書いてみたかったんです。今ああいった、いかにも新本格らしいミステリーは書きづらくなってきていますが、いっぺんは真顔で新本格ミステリーを書いてみたかった。『ボトルネック』で閉じた自意識しか持てなかった時代、『インシテミル』で新本格を出発点とした時代、二つをそれぞれ別個に総括しようと考えたわけです。そこでちょうど著作も十作になりましたから、十一作目以降は過去にとらわれずいろいろ書いていこうと思っていました。
―― なるほどね。
米澤 どうしても照れちゃうんですよ、新本格ミステリーを普通にやろうとすると。殺人が起きたあと、探偵が関係者を集めて「犯人はこの中にいるぞ」と言う。あれを普通にやろうとしてもなかなかできない。だから、『インシテミル』はちょっと諧謔的に書いています。
―― そういえば、『インシテミル』には探偵小説のセルフパロディめいた箇所もありますね。セルフパロディといえば、二〇〇五年の『犬はどこだ』は、私立探偵小説のヴァリエーションに入る小説で、ロバート・B・パーカーやアンドリュー・ヴァクスが一九九〇年代に量産した話のパターンをパロディ化したようにも読める。しかし執筆の出発点は、別に私立探偵小説を書きたかったというわけでもないんですよね。
米澤 違います。もう少し違う要請から出てきたものです。当時、〈古典部〉と〈小市民〉という二つのシリーズがあったわけですが、やはりミステリー好きですから「日常の謎」(注:犯罪らしい犯罪が作中では起きず、普段の生活でも起きるような出来事の中に謎を見出していくようなミステリー)以外にも、犯罪が起きるミステリーを書きたくなるんです。そうしたときのための「場所」として確保したもので、特別に私立探偵小説を意識したわけではありません。
―― 本来はお好み焼き屋になりたかった人が主人公ですしね。あの作品は「S&R」シリーズとして続篇を書かれる予定とお聞きしていますが。
米澤 ははははははは。
―― あ、力なく笑っていらっしゃる。なにかまずいボタンを押しましたか、私。
米澤 いえいえ。そのつもりではあります。ただ、まだ続きは何も書いてないんで、なんとも言えないんです(笑)。今のところ決まっているのは、主人公がペアで登場するとことと、『犬はどこだ』の作中時間の続きになることぐらいです。一応プロットは準備しているんですが、なかなか書けなくて。
編集 とりかかっていただきたいことは確かなんですけど、〈小市民〉シリーズ続篇の期待がすごいですから。「とりあえずこれを終わらせないと好きなことできないね」という感じです。ファンの方が支持してくださっているわけですから、期待に応えるのは義務かな、と。
―― それはそうですね。もうひとつの看板であるところの〈古典部〉シリーズも、『遠まわりする雛』でかなり人間関係が進展しましたから。〈小市民〉の方もなんとかせいや、と思っている読者は絶対いますよ。次に『冬期限定』が出て、こちらは終りということになるのでしょうか。『栗きんとん』でずいぶん時間も進みましたし、続けようとしても二人とも卒業しちゃうでしょうしね。
米澤 いちおう次で終わりのつもりですが……。
―― あ、また言葉を濁した(笑)。そうですね。書く前から絶対ということはないはずですから。そこは断言されないほうがいいでしょうね。一応「一区切り」ということで。
米澤 はい。
米澤穂信 よねざわ・ほのぶ
1978年岐阜県生まれ。2001年、『氷菓』で第5回角川学園小説大賞奨励賞(ヤングミステリー&ホラー部門)を受賞しデビュー。主な著作は『さよなら妖精』『クドリャフカの順番』『春期限定いちごタルト事件』『犬はどこだ』『ボトルネック』『インシテミル』『儚い羊たちの祝宴』など。