目次

発刊にあたって                           


  講演「原発震災が起きたら日本はどうなる!?」  (伊藤実さん講演) 

    懐かしい京都で                                                     

    原発バブルの町                                                     

    東海地震の震源地                                                    

   原発城下町で                                                       

    阪神大震災の衝撃                                                  

   被曝の恐怖                                                          

   金で住民を黙らせる中電                                              

   5号機建設問題                                                      

   住民の健康被害                                                     

   都市住民も                                                          

    【質疑応答】                                                    



 講演「ヒバク〜放射能の恐怖」              (樋口健二さん講演)

    大阪が原点                                                          

    石炭から原子力へ                                                    

    原子力産業                                                          

    原発労働者                                                          

    マスコミの責任                                                      

    隠された被曝労働                                                   

    この国には革命が必要だ                                              

   【質疑応答】                                                        



  樋口健二さんの講演を聞いて                                          

  樋口健二写真展を見て                                                 


樋口健二写真展&講演会           スタッフからのメッセージ                                     



『原子力を撃つ!』発刊にあたって

 

 2005年、おおさかエコムーブと京都サスナクラブは、原子力問題を考える二つの講演会を共催しました。

4月3日、京都に「浜岡原発を考える会」代表の伊藤実さんをお招きして、「原発震災が起きたら日本はどうなる!?」というテーマで講演していただきました。

 伊藤さんは京都で学生時代を過ごされたこともあり、原発に関してだけでなく、学生運動に参加した懐かしいお話も伺うことができました。

 東海地震の震源域の真上に建設された中部電力・浜岡原発の地元で、様々な嫌がらせ、圧力に屈することなく粘り強く反対運動を続けてこられた伊藤さんのお話は、全国各地の原発立地地域で地道に反対運動を続ける人々への力強いメッセージです。

 大阪では7月1日から3日まで、「ヒバク〜放射能の恐怖」と題して、フォト・ジャーナリスト樋口健二さんの写真展と講演会を開催いたしました。

 「私は巨大科学としてしか、原発をとらえない人々に対して、被曝者が居ないだけでなく、居ないことにしている体制を知ってほしいという願いを込めて、今まで取材をつづけてきた」(『闇に消される原発被曝者』より)と語り、一貫して被曝労働者の姿を追いつづけてきた樋口さん。

 怒りと情熱をもって被曝労働の問題を告発する樋口さんのお話の躍動感は、この講演記録を通じても充分に伝わると思います。

 この講演録は、原子力の矛盾と闘い続けてきた伊藤実さん、樋口健二さんの生き様の記録であるがゆえに、多くの人々の魂を揺さぶる力があります。

 ぜひ多くの方に読んでいただきたく思います。

 

2005年11月6日




「原発震災が起きたら日本はどうなる!?」

(2005年4月3日 「ひと・まち交流館京都」にて)

「浜岡原発を考える会」代表・伊藤実さん

懐かしい京都で

 私は浜岡原発から1キロぐらいの所に住んでいます。炉心から1キロですね。

 ですから毎日、地震の心配をしてるんです。もういつ来てもおかしくない東海地震、それと、それに伴って起こるであろう原発事故ですね。この二つの恐怖の中で暮らしていると言っても過言ではありません。

 今日、京都のみなさんにお招きいただき本当にありがとうございます。私がこれからお話しする地元での活動は、それほど大した事は出来てませんが、浜岡原発の地元から色々な情報を日本国中に発信していきたいという思いで、この10年の間やってまいりました。

 浜岡現地における全国集会が過去3回ありましたが、何人の方か、その時見かけた顔に今日のこの会場でお会いできました。その際は本当にありがとうございました。

 浜岡原発の歴史と私の関わりを簡単にこれからお話をしていきたいと思います。

 私は今紹介されたように、1960年から64年、この京都の街で暮らしておりました。この街で学生時代をおくったんです。

 それから卒業しまして、地元の浜松市にある会社に就職しました。できれば京都とか大阪の会社へと思ってたんですが、長男でしたんで、あんまり遠くの会社は困ると親も言いまして、浜松の会社に入社したんですが、大学が関西だったので、入社早々に神戸支店へ配属になりました。

 1968年まで阪神間をうろうろしてましたね。68年の秋に会社をやめました。と言うのも、私は実家が工場を経営してまして、その長男だったんです。親父の仕事を継ぐのは嫌だと思ってたんで、サラリーマンに憧れて4年間ほどやってみましたが、それもあんまり良い商売ではないなと思ってさっさと辞めてしまいました。それで地元の浜岡町に帰ったんです。

 

原発バブルの町

 帰った当時の1968年には、すでに中部電力による浜岡原発の建設が決まっておりまして、私達の佐倉地区はもうバブルっていうか経済的にすごい賑わいでしたね。

 中部電力が原発用地を高く買い上げて、当時一反(=300坪)5万から10万円ぐらいで取引されていた土地が、180万くらいで買ってくれたらしいんですよ。元の何十倍で買われたと。

 原爆と原発は違うんだ、原爆は戦争の兵器であるけれど原発は平和利用であると説明されてね。私達の町は東海道の沿線からずっと離れて御前崎半島にあるもんですから、非常に発展が遅れておりまして。原発を誘致することによって、それを起爆剤にして地域の活性化を図るとか、色々な事が言われました。

 私自身は1941年生まれで、太平洋戦争が始まった年に生まれたんですよ。当時は浜松に住んでおりました。

 浜松で生まれたんですが、4歳の頃、1945年の終戦の年の6月ですね、母親の実家の浜岡に疎開して来たんです。食糧難だとかの戦後の苦しい時代を少年時代として過ごしました。

 小学生の時には、「原爆の子」だとか「長崎の鐘」とかの映画を先生に連れられて見に行きました。だから放射能の恐ろしさは子供の頃から知ってました。

 中学1年の時には、ビキニ環礁でのアメリカの水爆実験で、静岡県の焼津漁港に所属する第五福竜丸が死の灰を浴びて、久保山愛吉さんが亡くなられましたね。

 その後、漁船員の方が放射能の後遺症被害で皆さん苦しんでおられたということも知っておりましたから、自分の地に原発がこれから建てられるということに非常に嫌悪感を抱いておりました。

 しかしサラリーマンから親父の仕事を継ぐことになって、地元の友達とも10年間の空白がありましたが、少ないながらも色々なつきあいをする中でそういうことを口にすると、周囲から「伊藤はアカじゃないか」とか「共産党がかってるんじゃないか」とか「学生時代に学生運動やって左翼だ」とか言われて、だんだん黙ってしまった。そのころ一生懸命やればよかったなと反省してるんですが。

 1968年にUターンで帰ってきて、すぐ原発の建設は始まりました。それから1976年に、浜岡1号機が稼働しまして。1号機の建設途中にもう2号機の申請が来て、さしたる反対も無くて2号機も決まって。ほとんど同時進行的に1号・2号機は工事されました。

 76年に1号機の運転開始、78年には2号機も運転開始ということになりました。そういう風に中部電力による浜岡原発建設はすんなりといったんですね。中部電力の原発計画としては、三重県の芦浜原発が浜岡以前から計画されてましたけれど、芦浜の現地の住民、特に漁師の方の反対でこれが頓挫していて。浜岡原発より数年前に計画はあったんですけれど、反対の少ない浜岡ってので、するするするするとできちゃったんですね。

 

東海地震の震源地

 ところが1976年の1号機の運転開始の年に、当時は東京大学の助手をなさっていた石橋克彦さん(現在神戸大学教授)が中心になって、東海地震というプレート境界型の地震が起きるという学説を発表なさいました。

 ですから、「3号機をお願いしたい」と中部電力から申し出があった時には、「東海地震っていうのはここ50年ぐらいの間に必ず起こるって言われている処に、これ以上原発を増やすとは何事か」となりました。

 私は当時地元のボランティアの消防団の活動をしていたのですが、当時の私と同じぐらいの年代の人達を募って、新聞の折り込みなんかを作りましてね。運動っていうほどの事ではないんですが、連名で声明文みないな感じのを作りました。

 「地震の無いところを選んでる」とか「地盤の良い所を選んで」と、当時は中部電力や国の役人から聞かされてました。活断層を調べて活断層が無いところに建てるとか…。

 そういうことを聞いてたんで、「地震がこれから起こる所に建ててしまったらどうするんだ」とか、「なお3号機まで増設するとは何事か」と反対しました。

 反対しましたけれど、集会とか今日の講演ぐらいの人数とか集めてやってますと、我々の先輩とか当時の町会議員とかが来て、「おまえ達何をやってるんだ、共産党員のようなことはやめろ」と言うんです。

 原発に異論に唱えると、アカだ何だといわれるんですね。それで一人抜け二人抜け、私自身も自分がリーダーになってやっていたのではないんですが、とにかく頓挫して止めてしまった。

 ところが、県内の労働組合とか教組とかが大挙して押し寄せてきた。1980年頃だと思うんですが、千何百人のデモがあったんです。

 浜岡原発が地震の震源域にあることで、原発に意識を持たれた東京や大阪や、たぶん京都の方もいらしてたみたいです。

 でも私達は参加しませんでした。要するに「外人部隊」だと。そういう雰囲気も我々には無かったし、出ればまた何か言われるってことでね。

 それから、3号機の公聴会・・ヒアリングっていうんですけれど、第一次のヒアリングの時には一万人ぐらいの人が浜岡現地に来て抗議活動をしたのを覚えています。その時にも、私達と外側の人とのネットワークが無かったもんですから、連携もとれずに3号・4号と出来てしまったんです。

 1991年の四号炉の運転開始の時に、当時中部電力の総合事務所長である蓮見洸一さんってのが我々の集落に回ってきまして、「色々お世話になったけれど、4号でもう敷地的にムリだ」と、「これで浜岡での建設も終わりだ」と挨拶されて本社に帰られていきました。

 

原発城下町で

 

 私達の町は、原発の労働者も沢山入ってくるようになってましたし、私の知っている友達だとか親戚だとか多くの人が原発の下請けの作業者になっていってました。他にも中部電力のガードマンになったり、何らかの仕事の関わりも出来てましたし、浜岡町自体も原発によって近隣の町村を凌駕するような巨大な財政力を持つようになった。

 浜岡は静岡の県内でも裕福な自治体になっていて、他町からはずいぶんうらやましがられるような存在だったんですね。インフラも、不必要って言われるような道路とか建物とか、そういうのがどんどん建っちゃって、原発の恩恵って言いますか、そういうのを町民が実感するような事態になってたんです。

 私自身は、自分が工場を経営していることもあり、色々な面を思いまして、原発が我々の生活にどれだけ豊かさをもたらしてくれたのかずっと疑問でした。

 私は商工会の役員なんかもやってましたし、金融機関の理事なんかも、私が自営業だったので色んな役職をやらされました。そういう立場から見ても、町は豊かになっても我々の生活は何にも豊かにならないというのを感じてました。

 私なんかは下請け工場ですから、仕事が欲しいって言ってもあまり関係がないし、仕事を貰うためには遠くの大手の会社まで貰いにいかねばならんと。

 原発は、建設の時にはすごく景気が良くて、飲み屋の売り上げもどんどん伸びるんです。建設作業者が泊まる民宿なんかも潤うんですけれど、建設が終わるとポシャンとしちゃう。それこそ不景気になっちゃうんですね。

 それを1号から2号、3号、4号とずっと繰り返してきた。原発が立地するところに支払われる電源三法交付金。これは国の税金から出るものですが、それに加えて中部電力から地元に支払われる巨額の保証金、協力金とかいう類のお金。それを有効に将来の蓄えとかに使えればいいんですけどね。

 ご存じかもしれませんが、電源三法交付金ってのは当時はインフラにしか使えなかったんですね。で、図書館建てたり温水プール作ったり。それで維持管理費がまたかかるわけですから、不景気になれば絶対にお金は底をつく。それでまた原発が欲しくなるということを繰り返してきたんですが、これも4号機で終わりという話になる。

 本当なら90年代の初頭に、私も含めて町の人間がポスト原発を考えていかなければならなかったんですが、原発の恩恵にどっぷりとつかってしまってました。

 経済的に享受しつくしていた行政だし、町民でありましたから新しい町づくりをする努力もしない。4号機の建設も終わって不景気の風が吹いてる頃、民宿の組合だとか、飲食店だとか、建設組合だとかが名古屋の中部電力の本社に行って、「なんとか5号機をお願いできないものか」と陳情に行ったらしいんですよ。

 私達は知らなくて、後から知ったんですが。そういうことで93〜94年ころから、中部電力が四つで終わりだって言ってたにも関わらず、5号機が人々の噂に上るようになっていました。

 私は絶対にそんな事は許さないと思っていましたし、私達の集落でもそういうことは約束違反だという声があり、5号機建設は争点になっていきます。


阪神大震災の衝撃

 そんな中、95年の1月17日に阪神大震災が起こりました。

 私達の佐倉地区は、浜岡町になる前は村だったんです。私が子どものころは佐倉村って言ってたんですけれど、今は原発のある佐倉地区です。

 地区には、中部電力と地元住民の窓口になってる佐倉地区対策協議会があるんですけれど、5号機建設に関して色々な意見集約をしていました。

 地区の空気としてはもう5号機はいらないとなってるところへ、阪神大震災が起こったんです。阪神大震災が起こってちょうど二週間くらい…2月の初めくらいですね。当時の浜岡町長と議長だとかの偉い人たちが、各集落を回って5号機のお願いに来たんです。

 それに対して、今までは原発の事はヘイヘイ賛成と言ってた人たちが一斉に手を挙げて「何をいってるんだ」と、「あの神戸の地震を見て町長は何も思わないのか」と、反発が起こりました。それまで色々な会合に出ていましたが、初めてお上に盾突いた住民の行動を見て、私は「これなら何かできるんじゃないか」、「何かやりたい」と思ったんです。私も思ったし、周囲の人も思いました。

 それで96年に、「反対」と言うとなかなか人が集まらないから、反対でも推進でもいいから、とにかく「原発は良いのか悪いのか、危険であるか安全であるか考えよう」と呼びかけたんです。

 住民は、今まで行政側からは「絶対安全である」と言われてきてるんです。一年間三千万円の広報費を使って・・・ これも税金ですけど、安全広報費を使って「安全だ安全だ」と宣伝するんですね。

 私達は批判的な学者の意見を聞いたこともなかった。『東京原発』の広瀬隆さんの本は読みましたが・・・

 中部電力の安全論に対する理論武装をしてかなアカン、何かそういうルートはないかと探していると、当時の浜松の中心地に「浜松原発を止めようネットワーク」っていうグループが有るのを新聞で知りました。そこのリーダーの人に連絡したら飛んできてくれて。20人くらい私の会社に来まして、ぜひ一緒にやりましょうと。

 私達は3号機の時に地元だけでやろうとしましたけれど上手くいかなかったし、原発の問題は運動の先輩とやろうじゃないかということになった。そういう人たちは先ほど申し上げた批判的な学者さんと縁故があります。

 早速、静岡大学の小村浩夫さんという当時の工学部の教授が私の所へ来て下さって、一緒にやりましょうということになりました。『浜岡町原発問題を考える会』っていうのを旗揚げして、どうなるかわからんけれど、とにかく私達の所の公民館で講演会をやりましょうということになりました。

 慶応大学の藤田祐幸さんも、「浜松原発を止めようネットワーク」が連絡取ってくれたら、すぐ来てくれましたよ。200人ぐらい集まりましたかね。初めて浜岡現地で、原発に反対する学者とかグループとかが集まって講演会をしました。

 私は、「推進でも反対でもとにかく勉強する会を作りましょう」とやったんですが、藤田祐幸さんの講演の取材で新聞やテレビが一斉に来ました。

 私はみんなでやったつもりですけども、「一番年長だから伊藤、あんた代表やってくれ」と初めてマスコミに出るようになりました。それが96年の3月。阪神大震災から一年遅れての話です。

 と言いますのも、95年の4月から国の耐震設計の見直しというのがあって、中電と行政側の推進攻勢は一年くらい凍結していたんです。その年の10月くらいまで国が見直し作業に入ったもんですから中断しちゃったんですよ。

 

被曝の恐怖

 

 95年10月1日に、国は全国52機(当時)の耐震設計は全部妥当であるという指針を出してきたもんですから、5号機増設問題がぶり返しました。それで1年遅れで会を結成して、藤田祐幸さんの講演会が大成功となった。

 私の近所に、浜岡原発で白血病になって亡くなった嶋橋伸之さんのお母さんが住んでらしたんです。私と私の連れ合いは、息子さんの闘病生活だとかをお母さんから聞いてたんです。島橋さんは息子さんが亡くなられた後に磐田ってところで労災認定を勝ち取る訳ですけども、その経過も私達はよく聞いてました。それに関わったのが藤田祐幸さんでもあったんです。

 それから、浜岡原発で被曝をなさって、当時神奈川県で「全国被曝者の救済センター」をやってた原発の現場監督の平井憲夫さんがいらしたんです。ガンで亡くなられたんですが、その方を招いて同じ会場で講演会をやりましたが、その時もすごい人が集まったんです。

 それで原発の現場が電力会社の言うような綺麗事ではなくて、「実はこうなんだよ」という裏の話も聞きました。「今まで聞いてる事とは違う、中電はウソをついていたんだな」という認識が出来てきた。私たちの会も200人ぐらいに膨れ上がったんです。

 次々とイベントもやったんですが、チェルノブイリの現地のウクライナの新聞記者で、イリーナ・コバレフスカヤさんが、名古屋大学の河田昌東さんの招きでちょうど名古屋に来ていらして、その方を近くの公民館に呼んで、チェルノブイリの現状を聞く機会がありました。

 女性の新聞記者さんだったんですが、静岡大学のロシア語の先生が通訳をしてくれました。チェルノブイリ事故が起きた86年から十年経った96年当時の話なんですが、非常に悲惨でした。イリーナさんの娘が19歳なんだけど、結婚をためらっていると言うんです。相手はいるんだけれど、障害を持った子どもがあちこちで産まれてて、中には母親に姿を見せられないような胎児もいる。それが恐ろしいと言うんです。

 私たちは、本当のチェルノブイリ事故の被害を聞く機会を持てました。こういう内容の話には、若い主婦の方とか来られまして、初めは男ばっかりの会だったんですが、だんだん女性も増えていきました。

 それから、ヨウ素剤の必要性をアピールする活動もしました。もし浜岡で原発事故が起こったらすぐに飲んで、健康被害をなるべく食い止めようという主旨です。赤ちゃんとか4、5歳くらいのお子さんがいるお母さんが私の所にヨウ素剤について聞きにきました。そんな活動をしてきました。

 

金で住民を黙らせる中電

 96年は行政、中電が相当な攻勢をかけて、議会も混乱したみたいです。議員なんか全然ダメですからね。

 95年に町議会の選挙があって、私の先輩が原発反対だから応援してくれって言ってきたもんですから、私は選挙の幹事長になってなんとか当選させようと頑張ったら当選したんです。

 そうしたら、その議員、二ヶ月経ったら「原発賛成だ」って言うんですよ。公約違反じゃないかと色々言ったんだけど・・・

 分かったのは選挙で当選すると、無所属の人には中部電力が500万から800万くらいの当選祝い金を出しているらしいんですよ。当選祝い金を貰うと何も言えなくなる。噂では聞いてけど、実際あるんですよね。それで私たちは町会議員を引退した人にその事を尋ねたら、「俺の時は500万だったけど、今は1000万くらいじゃないの」とか軽々しく言う訳です。こういう贈収賄になるんですね。

 町の有力者とかPTAの会長にまで金品が来るんです。私が中学のPTAの副会長やったときもお歳暮だとか色々くるんですよ。「私は原発反対だから中部電力から貰ういわれは無い」といったら、それから来なくなりましたけども。

 そういう風に、金で黙らせるってやり方をずっとやられたもんだから、議会も選挙の時は、「原発の安全確保には苦言を呈する」とか上手いこと言うんですが、一回当選しちゃうと中電の下僕になっちゃって、全然住民の意思と裏腹な事をやってるんですよ。これは浜岡だけの問題じゃないらしいんですけども。

 今日ここに参加していただいた皆さんも、市民社会の中で大変ご苦労をなさってるんですが、私らも原発の地元で反対する事は本当に大変です。

 当時は200人ぐらい仲間がいたと先ほど申し上げたんですけども、会のメンバーにはひどい差別と圧力ですよ。私は自営業で商工会の会員だったんですが、私の仲間は勤めより商売やってる人が多かったんです。大工さんとかもいました。そういう人達に「反対するなら仕事を回さない」とか、中電の配電工事とかやってたら「取引の口座を取り上げる」だとか圧力をかけてくる。

 私の取引先の社長にも問い合わせがあって、「こういう左翼みたいなことやってて大丈夫かい、伊藤さん」と言われました。私の弟二人は清水にある同じ会社に務めてるんですが、兄貴の事で人事課に呼ばれたとか。

 私は生まれは浜松で、10年関西で過ごしたりしましたが、中部電力の社員にも友達いるんですよね。飲み友達とか麻雀友達とか。消防団とか一緒にやったり。その人達が一斉に引いちゃうんですよね。彼らに罪はないんですが、会社で「伊藤とはどういう関係だ」と人事課に問われて面接受けたと、後から教えてくれましたけどね。

 そんな人権問題が頻繁に起こりますし、地元の警察が来るんですよね。「これから何やりますか」とか「講演で誰呼びますか」とか。そんなことは大きなお世話なんですが。

 公安調査局ってのが静岡の県庁の中にあるんですよ。それが背広姿で来るんですよ、「公安だ」と。「伊藤さんたちの言ってることを内閣に伝える役目がある」とか言って。当時オウム事件とかあって浜岡にも信者がいたらしいんですが、まさか私の所にもくるなんて。これは圧力だなと思いましたね。

 それから何かやるっていうと私の家の周りを中部電力の社員がぐるっと取り囲むんですよ。ヒアリングとか、色々な時の無線の連絡を友達が傍受して分かったんですが、伊藤が何言ったとか、何処行ったとか連絡してるみたいです。官民一体になってつぶしにかかってくる構図を随分味わいました。

 

5号機建設問題

 ちょっと脱線しましたけれど、96年はそういうことで色々忙しかったんですが、署名もやりました。5号機の白紙撤回署名が3500人くらい集まりました。

 もう一つ、新潟県の巻原発で住民投票やるって話があって、笹口町長さんって人が頑張っておられてたんですけど、その巻町の町議を呼びました。女性の相坂滋子さんと刈羽村村議の武本さんですね。

 当時巻は新設ですけど、浜岡は5号機になってやっと反対の声が上る、そんな感じでね。それまでは、浜岡原発は反対のない、当時の通産省から「原発の優等生」って言われた所なんですよ。

 東海地震が起こる場所で更なる原発増設するというので、やっと地元で反発が起こった。私も恥ずかしかったけれどマスコミにも出るようになりました。大学時代の友達なんかも「テレビに出てたの伊藤じゃないか」と電話をくれたりしましたね。

 本意じゃなかったんですが、「浜岡で反乱が起こった」とマスコミも飛びついてきたんですね。3号機の時に身内でやろうとして失敗しちゃいましたから、マスコミなんかからも逃げずに、今度は世間を大きく巻き込むような形でやろうという気持ちが私にもありました。

 とにかく浜岡から情報発信するためには色々な方に浜岡に入ってもらおう。とにかく危険なんだと、東京でも大阪でも伝えてもらいたいという気持ちがありました。危険な現実に耳をふさいでた地元の推進派に一泡吹かせなあかんという気持ちもありました。町を二分するというと大げさですけど、96年はすごく盛り上がりました。

 その年の8月4日、幸いな事に巻原発の反対派が住民投票で勝ったんですよ。全国で初めての住民投票って言われてたんですが、反対派が勝利しました。その翌日の5日に、私達が集めた署名を町に持っていったんです。5号機白紙撤回署名が3500名。それと一緒に住民投票を求めるという署名も。

 署名は二本立てでやりましてね。白紙撤回は書けないけども、住民投票を求めるのには書いてもいいよっていう人もいたもんで。もちろんダブる人もいましたね。

 そしたら、署名簿が各地区の議員に渡っちゃったんです。署名した人のところに個別に「なんでおまえ書いたんだ」ってやられましてね。署名から私の名前消してくれって問い合わせに大わらわになりました。もう出しちゃってたんですけどね。

 例えば、奥さんが署名して、旦那は農協に勤めてて、旦那は農協の理事長からえらい怒られたと。そういう事が平然と行われたんですよ。署名簿提出してからの後処理に苦労しましたね。

 反対する町民も多いけど、表だってそういうことをやるとなると躊躇してしまう人もいました。とにかく議会が推進です。佐倉地区出身の議員が3人いたんです。5号機建設は不同意という意見書を、佐倉地区の住民の総意として町長に出してあったんですが、そういう地区を代表する議員も、我々の同意出来ないという意見を無視して10月4日に町議会の全員協議会で5号機受け入れを決定しちゃうんですね。

 私たちは、5号機反対運動から浜岡原発の問題に関わってきたわけですが、私は地区では比較的新しい人間で、市民活動家でもありません。普通の住民として仲間と一緒にやって、「年長だからあんたが代表だ」とマスコミ対応とかは私がやってきただけで大した事ないんですよ。

 10月の5号機決定もあって運動に元気がなくなった事と、私たちと一緒に行動してきた人が仕事にも打撃があったとかマイナスが出るとか、そういう事で「伊藤さん悪いけど、気持ちは変わらんけど一緒にやれない」って人が増えてきましてね。

 私も人の生活まで面倒見れるわけでもないし、無理にやっていこうやと強制もできない。一人抜け二人抜けとどんどん減っていきました。

 

住民の健康被害

 今は10人ぐらいでやってるんですが、去年の4月ぐらいに浜岡町御前崎町が合併して「御前崎市」となったんです。去年の4月時点で浜岡町が2万4千人ぐらい、御前崎町が1万2千人で3万6千人の小さな市が出来ました。

 今まで原発の町だって誇らしげに言ってんですが、そういう原子力の町というイメージは今の時代イメージダウンになるんで、新しい市の名前も浜岡市でなくて御前崎市になった。御前崎市に浜岡原発がある。

 そういう事からも、この10年の間に原発のイメージは随分悪くなってるし、特に東海地震の震源域にある原発だということで、色々なジャーナリストが警鐘を鳴らしてくれましたもんですから、私たちが5号機建設に反対した10年前と現在では、様変わりしている印象があります。

 私たちの周辺で、先ほどもお話ししました嶋橋伸之さんという方がいました。25歳で発病して29歳で白血病で亡くなっちゃうんですが、この方がどういう仕事をやってたかというと、原子炉の下で中性子の測定モニターを点検の時に替えるんですね。

 その仕事を専門的にやっていた若者なんですが、ある日、体がだるいとお医者さんに診てもらったら白血病だと。中部電力はその事実を認めてないんですが、先ほど言いました通り、亡くなった後に労災の申請で認められまして。

 そんな話はいくらでもあるんです。私のすぐ近所に住んでいた、佐々木孝一さんと言う方も、亡くなってから遺族が裁判を継続中なんですが、上顎ガンという上アゴのガンだったんですね。歯が悪いのかとお医者さんに行っても血が止まらなくて、結局歯医者から紹介されて総合病院行ったらガンだと。

 この方は元々秋田県出身の方なんですが、敦賀原発だとか島根原発だとかを経て、浜岡原発で20年くらい仕事をして、ある程度作業者を扱う「豊工業」と言う下請けの会社の社長になってたんですけどね、その方も5年前に亡くなっています。

 もう一つ、チェルノブイリの新聞記者のお嬢さんが結婚で悩んでいるという話を先ほどしましたけれど、原発の作業者の子どもにも同じ事が起きてます。

 ある看護婦さんに聞いたら、異常出産が非常に多いらしいんですよ。他の地域の病院の経験もあるその看護婦さんは、産婦人科でこんなに多数の障害を持った赤ちゃんを見たことがないと言っていました。

 ガンの発症だとか、生まれつきの障害だとか、調べていくと原発の中で働いているご主人がいる家庭に多いということが分かってきました。原発の風下の駿河湾の榛原病院の看護婦さんも言ってたそうです。去年と一昨年、静岡県議選に出た人も看護婦さんで、その方も原発の従事者の赤ちゃんに非常に障害が多いということを言ってらしたんですね。ですから、被曝という問題が浜岡原発の中で起こっている。

 私たちは、原発の排気筒が100メートルある意味をどう考えたらいいでしょうか。別に煙を出してるわけでもないのに、あの100メートルの煙突は何のためにあるんだと中部電力に聞きますと、あそこは中の空気を入れかえているのだと言いますが、それならそんなに高くなくていいじゃないですか。

 あそこから放射能を出してるんですよ、毎日。強い西風の時は八割方東京方面に、雨降りの時は名古屋、京都に来ている。中電も今はこれを認めるようになりました。フィルターで濾せる放射能はいいけど、キセノンだのクリプトンのような気体の放射能はどうしようもないんですね。

 私は東海村の東海第二原発に行きましたが、東海第二原発の排気筒は140メートルなんです。東海村の原子力館職員に聞いたら、浜岡と東海村では気象条件が違うと。浜岡の方が風が強いから100メートルですむんだけど、東海村は風が少なくて140メートル必要だと聞きました。だから、毎日微量ながら放射能が出てるということです。

 県の放射線探知センターがありまして、モニタリング・ポストでずっと観測してる結果が、年4回各戸に配られる「原子力便り」の中に載ってます。セシウム137とかストロンチウムとかコバルト60だとか、自然界に無いやつですね。

 私たちは原発が作った放射能だと思ってるんですが、県の発表によると中国や旧ソ連の核実験の影響だと思われると書いてます。他にも松葉からとかヨモギからとか、色々な物をサンプルにして計測してるんですね。私たちはそんなところに疑問を持ちます。

 今、海水を原発の冷却水として回してるんですが、その海水を取り込むところに紫貝とかフジツボとかが付いて、付き過ぎると海水が吸い上げれなくなって出力が低下する。定期的にフジツボ、ムラサキイガイだとかを取ってるんですが、それを業者が敷地内に放置していくもんですから、夏なんかは臭くてたまらない。

 佐倉地区の浜岡原発協力会社に佐倉サービスセンターというのがあるんですが、その会社が貝を有機肥料に加工してるんです。それを一袋500円で売ってます。原発PR館の手前で。それをお茶やみかんにかけたりする・・・ どう思います? 気持ち悪いでしょう。

 柏崎原発でも同じ問題があって、長野県坂井村が村おこしのために肥料生成工場を造ろうとしたんです。柏崎から坂井村に持っていったんですが、住民が柏崎原発から出たものだと使うのやめちゃったんですね。でも私たちの地域では肥料を作ってますし、原発から出てくる温排水を使ってヒラメの稚魚だとか、蟹だとかを育ててる。温水で育ててるから育ちもいいもんです。それを駿河湾から遠州灘にかけて一斉に放流してます。

 廃棄物の問題は大変ですね。「もんじゅ」とかの高速増殖炉はもうダメなもんですから、今は取り出したプルトニウムは日本の原発全部で43トンぐらいあるんです。長崎の原爆はプルトニウムたったの6キロであれだけの破壊力です。43トンは6キロの何倍ですか。今プルトニウムの軍事利用でアジアの国から疑われてるから、プルサーマルってことで浜岡原発でウランとプルトニウムの混合燃料を使わないと処理に困ると言い出しています。これがこれからの大問題です。

 

都市住民も

 私は、京都の皆さんもこういう問題ではまったく一緒であって、私たち現地の人間だけの問題ではないことを最後に申し上げたいと思います。

 実は京都の久美浜、丹後半島の西にありますが、私も行って来ました。宮津に行って、天橋立に行って。あそこに原発の計画があるのはご存じでしょうか?

 あそこでは高校の先生の永井先生が反対運動されてて、私も何度かお会いしました。多分原発は出来ないでしょう。

 私が関わった運動では、他には三重県海山町。住民投票で否決されたんですが、私も応援に行きました。海山町の商工会が誘致しようとして頓挫したんです。そういう頓挫した所で推進派は何をしようと考えているのかと言うと、使用済核燃料の中間貯蔵庫とか核のゴミの最終処分場の用地として狙われていくと思うんです。

 今、核のゴミの問題を国は六ヶ所村にだけ押しつけていますが、六ヶ所といえども永久保存はダメだ、50年間しか保管しないという当時の県知事と国との協定があります。それから10年くらい経ってるから、あと40年もしないうちにどこかにもっていかなればならない。

 国は何をやってるかと言うと、お金あげるから誘致したい自治体手を挙げなさいって募集してるんですね、候補地を。全国の自治体からは下北半島のむつ市が手を挙げかけている状態です。

 核のゴミはこれから溜まる一方なんです。浜岡原発だけでも1号機から5号機ありますけど、100万KW級の原発で一年間の核廃棄物は広島、長崎の原爆の何千発分の死の灰を生みだしています。再処理してプルトニウムを取り出すと、再処理工場周辺の放射能汚染は更に拡がります。

 他の問題として今進行していることに、核廃棄物としての処理しか許されなかった物を一般廃棄物として処理することを許そうという流れがあります。基準を広げて一般産業廃棄物として処理できるようにしています。かなり危ない物が一般産業廃棄物として出回ってるんです。

 原発で使われた鉄骨を使って建てられたマンションで、健康被害を起こしたという事件が台湾の台北市で起きて大問題になったことがあるんですが、今、原発から出された放射能を含んだ物が日本中、身近な場所に使われている。そういう時代が来ているということを是非考えて頂きたいと思います。

 私たちの周辺でも、テント倉庫みたいな建物の中に原発から出た配管の部品が積まれています。そんな脆弱な建物の中に置かれてるんですよ。六ヶ所へ送られる低レベル放射能物質を詰め込んだドラム缶も、3万5千本くらいあります。年間で1800本くらいは御前崎の港から青森県まで持っていってるんですけど、溜まる一方ですよ。

 低レベルといいますが、私も保管場所の近くまで行って測定しましたら針が振りきれるくらいの高レベルです。東海地震が起こったら・・・という危険性も指摘されています。

 最初はこの話をメインにしようかと思ってたんですが、脱線してしまいましたね。時間も来ましたので、後の話は次の質疑応答でお答えしていきたいと思います。どうもありがとうございました。

 

 

 

【質疑応答】



(司会)

 では、これまでの伊藤さんのお話などを踏まえて、質問などを出していただけたらと思います。

 

【質問1】

 私は浜岡には人間の鎖(原発包囲)行動などを通して何度か訪れています。その上で気になるのが、伊藤さんもお話しされていた東海地震です。政府サイドからも色んな形で災害に対する備えの呼びかけが行われていますが、浜岡原発では予想される地震にどの程度の対策を立てているんでしょうか。

 

(伊藤さん)

 行政側としては、東海地震に対して膨大な予算をつぎ込んで予知と防災に努めています。東海地震は予知できるという前提に立ってのものです。

 ただし、浜岡現地では「原発と地震」をリンクさせての防災訓練は一度も行われていません。原発の危険性をイメージさせるということは、原発に対する不信感を招くと行政が配慮しているのでしょう。

 今まで静岡県の地震防災の中で、浜岡原発と東名高速と東海道新幹線をリンクさせる事は無かったんですが、ここ数年の間に東名高速と東海道新幹線についてはそれなりの事をやり始めました。

 浜岡原発の問題を地震と絡めてやるということは、現実的に不可能だと思うんです。外に逃げるといっても道路が壊れたり橋が壊れたりします。海岸線沿いは150号という国道が走ってるんですが、神戸で起きたような液状化現象が起こるかもしれない。

 結局、放射能の被害から逃れるには風上に向かって走るしかない。これは原始的なんだけど、学者なんかもコレしかないと言ってます。後は鉛の核シェルターに入るとか。

 現実的には、地震が起こった後ではそういう事が不可能なので、行政側としても東海地震とそれによって起きる原発事故には触れたがらないんです。

 しかし今の世論の盛り上がりは中電も無視しにくい。阪神大震災の以降にも中越地震とかスマトラ地震とか、石橋教授も原発震災を言っているし、地震予知連絡会会長の茂木清夫さんも4月9日に静岡県に来て講演されたりします。

 とにかく中電は今まで通り「原発は安全だ安全だ」と言ってるんですが、今年の2月になりまして何百億円かけての耐震補強工事を発表しました。浜岡1、2号機は450ガルの地震加速度までしか耐えることが出来ない設計です。阪神大震災は最大833ガルだった。東海地震説が発表されてから作られた3、4号機は600ガルなんですね。同じ敷地内なのに耐震設計が違うのはおかしい。

 それともう一つ、浜岡原発の下に断層が走ってます。中電は死断層だと、動かない断層だと言ってますが、学者に言わせると300メートルぐらいのボーリング調査じゃわからないと言ってます。もっと調査する必要があると言っている土地の上に、5号機なんか建てちゃってるんです。

 ようやく中電も「絶対安全」なんてことも言いづらくなったか、1000ガルにも耐えられるような耐震補強工事を行うと発表してますが、具体的にどうするかはまだ決まってません。先日原子力安全委員会の耐震委員会から説明を求められたんだけど、まだ発表できる段階じゃないと断ってます。

 東海地震が起きたら、まずただでは済まないだろうというのは、私たちの周りにいる配管工だとかの工事に携わった人達が言ってます。老朽化してますから、地震なんかなくても危険です。

 2001年に水素爆発での配管破断が起こったのはご存じですか? 配管の中で水素が溜まって起こったんですが、こんな事は世界でも初めての事例です。そこの現場を私も見ました。170キロの鉄の扉が吹っ飛んでましたよ。地震がなくてもそんな有様なのに、地震が起きたらどうなるかわからないというのが石橋教授など研究されている方の見解です。

 

【質問2】

 世論的にも危機意識が高まってきてるんですが、浜岡原発近辺の方々の意識はそれ以上だと思います。そんな中でも地元から具体的な動きはないんですか?

 

(伊藤さん)

 私たちも行政にその事を訴えるんですが、彼らは私たちの言ってる事よりも原子力推進サイドの言うことの方が正しいと信じてるんですよ。多重防護システムだの、震度5でも大丈夫だと信じてるんですね。

 でも、市民はやっぱり違います。八割方の人がただじゃ済まないだろうと思ってますよ。この間もスマトラ島の津波なんかありましたね。浜岡原発には、敷地を掘った時に出た砂で造った土累が海と原発との間に6メートルの高さであるんですが、もし近くで地震が起こったとしたら、6メートルの土累では、波は簡単に乗り越えて入ってきます。中部電力も困ってるんじゃないかと思います。自然は人間の想定外の事を次々と起こしてますから。

 市民の側も不安は感じてますが、「死ぬときはみんな一緒だぁ」と諦めたことを言う人が多いですよ。私も口酸っぱく言ってるんですが、「伊藤さんも俺も死ぬんだし」(笑)とか言われるとどうしょうもないですね。

 

(会場からの発言)

一瞬で死ねたらいいですけどね・・・

 

(伊藤さん)

一瞬で死ぬわけじゃないですからね。白血病なんかになって苦しむ事になったら大変ですよ。

 

(司会)

子どもたちの事を考えないとね

 

(伊藤さん)

本当にそうですよ。

 

(司会)

ここらへんで、伊藤さんが学生時代を過ごされた京都に来ていただいたので、学生時代のお話を伺えないでしょうか?

 

(伊藤さん)

 私は1960年の4月に大学入学で京都にやってきまして、ホント田舎者でした。

 こちらに来ましたら、入学式から歓迎の言葉がアジテーションで(笑)「60年安保反対」と。そんな時代でした。一回生の一学期はストライキ、ストライキでほとんど講義も行われませんでしたね。

 去年の11月に我々の学部の同窓会があったんで母校を訪れたんです。そしたら立て看板とか全然なくて、せめて「学費値上げ反対」ぐらいあるかなと思ったんですが、どこ見回してもない。今の大学ってのは何処も平穏だなぁと、ちょっと寂しい感じでしたね(笑)。集まった同級生もみんな言ってましたよ。

 今日の集いには、特に意識の高い方が集まってると思います。思い出の京都で若い皆さんにも話をさせてもらうということで、少し私の学生時代の話をしようかと思います。司会の方と事前に打ち合わせした時にも、当時の話をして欲しいと伺ってますんで、原発とは離れますが話をさせてもらいます。

 あの頃は学生運動の中心に「全学連」の下に京都府学連ていうのがありましてね。京都大学、立命館、同志社とか中心に盛り上がってましたね。静岡の同級生なんかは、私の高校が進学校だった事もあって八割ぐらいは東京の方に行ったんですが、私は京都の街に憧れたっていうか、京都が好きでこっちに来たんですよ。

 古くさいところもありますけれども、すごいアカデミックな街でね。学生に対してもとても寛容で、デモをやるっていっても京都市民が「困る奴らだ」って感じで学生を見るようなことは無かったですね。後に起こる、赤ヘルだ黒ヘルだと顔を隠すような事は当時は全然無くて。

 中には、警察なんかに顔写真撮られたら後で就職なんか不利になるんじゃないかって心配する人はいましたけれど、努力した人は努力したなりの会社に入れました。どうってことなかったですよ。

 私は全学連の京都府学連で、京都府庁だとか市役所だとかずっとデモやったり、その前で集会やったりしてました。当時京大の三回生の北大路敏さんが京都府学連の委員長だったんですが、憧れでしたね、あの人のアジテーションは。

 当時ソ連の有人人工衛星飛行士のガガーリン少佐が来た時なんかは、「ハラショー、ハラショー、ガガーリン」なんて府庁の前で歌ったこともありますよ。小柄な、私より小柄な軍人だったですね。

 国会突入で6月15日に樺美智子さんが亡くなる事件があるんですが、私は羽田空港のアイゼンハワー大統領の報道官のハガチーが来日した時は阻止運動に行きました。友達が行くっていってたんですよ。弁当も交通費も出るっていうから行こう、行こうと。(笑)大した動機は無かったんですが。

 ストライキやると体育会系の・・相撲部とか柔道部とかがスト破りに来るんですよ。でも我々はまだ一回生だったんで、二回生三回生の先輩が一生懸命対抗してましたね。暴力的な事もない。70年安保以降の三派全学連で石を投げ合ったり、ゲバ棒もったり内ゲバやったりという時代ではなかったですから。全国でゼネストが盛り上がったりして、当時はデモも百万人だとか。ゼネストって言っても分からないかな、皆さん生まれてないだろうから。

 ちょうど太平洋戦争が終わって15年ですよ、1960年は。その間に、私が小学生の頃に朝鮮戦争があったり。私たちの憲法は平和憲法で戦争を放棄したって学んできたのに、保安隊が出来て自衛隊になって。結局軍隊ですよね、自衛隊は。

 だから大学入った時も、当時憲法学の田畑教授も「違憲だ」ってはっきり言ってましたね。大学の教授連中も60年安保の時は声明文出したりしてましたよ。岸内閣退陣っていう大きなうねりが全国的にあった時に京都に来て、私なんか田舎から出てきましたが、京都や大阪の同級生は圧倒的に理論武装してましたよ。

 それに比べると僕は子供みたいなもんで、一生懸命「共産党宣言」読んだりしてましたね。(笑)とにかく負けてはいかんと。カルチャーショックでしたよ。一回生の時は下宿や喫茶店ではそんな議論ばっかり。そういう時代でした。

 原発反対運動に関わってる世代ってのは、だいたい我々の世代か団塊の世代・・・50ぐらいのおじさん、おばさんがやってるのが原発反対運動の主流なんですが、名古屋の「エコアクションなごや」の若い人たちが私たちの所に来て、この原発問題を反戦平和とか環境の問題とかとくっつけて一緒にやっていこうと呼びかけてくれました。それから全国集会とかも出来て、ほんと私も心から嬉しく思っています。

 先ほどどなたかおっしゃってましたが、未来の問題ですよ、この原発問題は。だから若い人たちに立ち上がってもらいたいと思ってます。「地球温暖化を救うのは原発だ」なんて日本の政府は言ってますが、世界からみたらとんでもない非常識ですよ。

 こんなことを易々と電力会社とか国が言うのを許していちゃいけない。政治経済的にも環境的にも、社会の矛盾が凝縮されたのが原発だと私は思ってるんです。

 この問題に対して、学生さんだとか若い皆さんが関心持っていただきたいと思ってるんで、下手な話と十分自覚してるんですがこの場で話してるんです。

 

(司会)

ありがとうございました。

 

【質問3】

 伊藤さんの学生時代は社会運動が盛んだったということが今の話でよく分かりました。私は学生なんですが、当時のような学生運動はありません。社会問題に対しても、当事者であるべきなのに第三者のように見ている人が周りにも多いです。評論家みたいな感じですね。変に知りすぎて気取ってしまうというか・・・

 今の話で伊藤さんは「原発は未来の問題だ」とおっしゃいましたが、私たち学生に出来ること、やって欲しい事とかはありますか?

 

(伊藤さん)

 さっきの話で「原発運動に関わってるのは私達のような世代や団塊世代が多い」と言いましたが、最近若い人たちが出てきました。原発問題をタブー視する風潮も和らいできた。

 例えば、元スイス大使の村田光平さんが私たちとお付き合い下さって、今度の「東海地震が起こる前に浜岡原発運転停止を求める全国署名」には京セラの稲森会長も賛同していただいて。体制側と見られるような方も賛同してくれるような時代になったんですよ。

 若い人にはね、インターネットがありますね。これを駆使してくれてる学生さんが出てきましたね。明治大学の葛西信夫さん、明治大の社会人学生なんですけれど、私が発信すると彼はそれを大学の先生に呼びかけてくれました。それで明大の先生で4人の方が署名の賛同人になってくれました。

 ネットで色々な情報交換とかしたりと、私たちに無い武器を使ってるんですね。大学の中でも、初めは「原発の葛西さん」なんて呼ばれて気恥ずかしかったらしいんだけど、だいぶ大学のキャンパスの中でも反原発の人が増えてきて、今年の夏も浜岡に来るって言ってます。

 原発に限らず、今の若い人が自分達の未来の事を考えた時に出てくる言葉に「平和」があると思います。僕には孫がいるんだけれど、このまま行けばそのうち兵隊に捕られるんじゃないかと本気で心配していますよ。歴史の歯車が逆転しようとしていると感じませんか、皆さん。

 私が戦後15年目の学生時代に危惧した事が、現実として起こっているのが今の社会ではないかと思います。当時のようなイデオロギーの衝突ではなくなりましたが、アメリカの言うグローバリゼーションが弱肉強食の社会や国際関係の悪化を招いている。それが世界の平和に対して大きな脅威になっている。

 質問者の方がおっしゃったように、評論家になるんではなくて、自分達が行動する、アクションするということが大事なことではないでしょうか。今の時代は、10年前のバブルの時とは違って親のスネもかじれない。フリーターとかニートとか増えて、就職もままならない、大変な時代に入ってますね。しかし皆さんの時代ですから、自分達で考えてを築いていくしかないと思います。

 大学生ってのは社会に制約されない自由な4年間、6年間を過ごせます。社会の矛盾と向かい合って行動する若者に育つよう、その時間を有意義に過ごしてほしいと思います。

 

【質問4】

 僕はあまり原発の問題を知らなくて、今日の話ですごく勉強させてもらってます。少し話はズレますが、僕は大阪の人間で、沖縄辺野古の沖にヘリ基地を作らせない運動とかに関わってます。原発の話を聞くと、基地の話とすごくダブりますね。米軍基地みたいな危険なものが、なんで日本にあるのかと思いますが、それと同様に原発みたいな危険な物は無くしていかなアカンと思います。でも今の日本の電力供給のうち、原発から作られてるものは多いですよね。すごく基本的な質問かと思いますが、原発に変わる発電はあるんでしょうか?

 

(伊藤さん)

 日本の発電の中で原発が占める割合は30パーセントと電力会社は言ってますが、実際には、東京電力の不祥事で柏崎、福島の17機ある原発が全部止まった時でも夏のピークを乗り切ったんですね。

 現在、主力になってる発電方法は水力、火力、原子力。原子力発電は一度動きだすと細かな出力調整が出来ないんです。いじくって大事故起こしたのがチェルノブイリ原発ですから。四国の伊方原発なんかは出力調整やりたいって言ってたんですが、反対が多くて出来なかったですね。

 だから夜なんかは電気があまり必要ないのに、原発は昼と同じように動いてる。じゃあ揚水発電しようと。夜の余った電力で水をプールに汲み上げて、昼間流して水力でタービン回して発電してる。揚水発電はあちこちで作られてますが、原子力の為にそんな無駄な事をやっている。そういうのを含めて原子力発電なんです。

 現実に、中部電力の管内では今は30パーセントも切っていて2機しか動いていない(講演当時)。4機止まった事もあるんです。最近また1機出来ましたが・・・ 

 電気は原子力で三割賄ってるのは真っ赤なウソです。

 それと、天然ガスを使ったタービンがあります。3月29日に中部電力が145万キロの火力発電、ガスタービン発電を開始しましたが、これが今の発電の主流ですね。名古屋港の近くに作る計画を五年前倒しでやりました。結局地球温暖化対策でも、ガス発電はCO2が少ないですから、世界の電力業界の主流になってます。

 私が聞いてる範囲では、日本は自然エネルギーの利用状況がすごく少ない。デンマークやドイツなんかの風力発電とか、日本は火山国だから地熱の発電も出来るでしょうし、太陽光なんかもありますね。京セラだとかサンヨーだとかシャープとか作ってます。そういうものをミックスして、民生用の電力を賄うのはひとつの方法ではないかと思います。

 私は専門家ではないので言えることも限られてますが、燃料電池なんかは必ず実用化されて、原発なんかにとって代わるのではないかと思ってます。それは化石燃料の枯渇などの諸問題を解決してくれると。

 とにかく原発でなくても電気は大丈夫ですよ。

 

【質問5】

 先ほどの伊藤さんのお話を聞いていて、ひどいと思ったのが運動に対する嫌がらせです。人権問題、人間破壊だと思います。失礼な話ですが、原発が作られるのはやはり地域共同体が残っている田舎ですよね。原発を作る、そして共同体を破壊する。二度に渡って人間破壊が行われる。具体的に仕事等で悪影響とかありましたか。

 

(伊藤さん)

 私自身はそういう事での影響は比較的少なかったです。私の工場には少ないながらも従業員もいますし、確かに、こういう運動をするようになって新聞にも載るようになったので、取引先から心配されたりしました。

 取引先といっても中小企業ですから、社長と専務とかしか役員がいないような会社とかだったりします。こういう運動をするようになったからといっても、そんな政治的な事ではないし、ひとつの住民運動だって説明しました。そしたらその専務さんの近所にもパチンコ屋が出来るっていうんで、パチンコ店進出反対運動のまとめ役に専務さんが担ぎ出された。そういう時期で、「伊藤さん、私もそうだから」って理解を示してくれてね。

 社長さんは「伊藤さん、共産党に利用されないようにやってね」って。「党勢拡大に利用される時が来るから」って。その会社の仕事は中国にどんどん持ってかれて、つき合いは去年で無くなってしまったんですが・・・

 新しい仕事を営業に行く時には、やっぱりありましたね。「原発は今でも反対ですか?」とか色々言われました。私は下請けだから、徒党を組んで組合活動をするわけでもありませんが、それでも向こうは警戒しますね。だから仕事面で影響は無いとはやはり言えませんね。

 具体的な事は先ほど少しは言いましたが、有ること無いこと言われたりもしましたね。伊藤はこういう人間だとか、子どもまでどこの学校出てどこに就職してるだとか。それを私たちの周囲にウソホント含めて言いふらす。

 正確に言われりゃいいけど、ゲバ棒振るったとか、三派全学連の内ゲバやってきたとかのウソを言いふらされました。僕はゲバ棒なんかは無い時代だったんですから。

 「伊藤は共産党だ、共産党だから悪い」なんてことも言われて。こう言うと共産党に失礼ですけどね。そういうことは、私だけじゃなくて、私らの仲間全部ですよ。

 さっき言いましたけど、中部電力に口座持ってても取引断られた人もありましたし、ガソリンスタンドとかやってる人は、原発下請けの乗り合わせとかがお客さんだったんだけど、全部引き上げちゃって。

 飲み屋なんかでは、5号機とかの新しい所の建設途中だと、鹿島などの大手の建設会社とかその下請けとかで潤うんだけど、反対運動やってると「あの店はダメだ」ってブラックリストに載せられる。僕も見せてもらったけれど、40カ所くらいにのぼりましたね。あの店は行っちゃいけないって、兵糧責めにあうわけですよ。「伊藤さん、悪いけれど抜けさせてもらう」って何人にも言われましたよ。そういう事を平気でやる。

 三重県の芦浜原発では30年間、推進と反対でぶつかって酷いことになりました。それを見かねた当時の三重県知事の北川正恭さんが、これ以上地域破壊を永続させるわけにはいかないと芦浜原発断念を決断したんです。推進、反対抜きにして。

 芦浜の人達に話をよく聞きましたが、凄かったらしいですよ。漁師町ですからね。逮捕者も出た。長島事件と言って、中曽根康弘首相の時代の事件ですが、何十人も逮捕された。反対派であれば親戚の葬式にも行かないとかね。

 私たちの地域でも、例えば法事とかに行くと言われたっていいます。「あんた、いつ共産党になった」って。とにかく共産党というと、僕の地域ではそういう印象なんです。

 

【質問6】

 私は1953年生まれなんですよ。朝鮮動乱のあの時期ですね。最近若い人と話すと、「激動の60年代、70年代を経験されて幸せですね」って言われますが、当時の方がよっぽど牧歌的ですよ。今の方が戦前みたいで。その事とかについて意見いただけたらと思います。

 

(伊藤さん)

 そうですね、私なんかは少年時代は貧しくてね。戦後すぐで食べる物も無いし、大変な時代を過ごしたと思います。親はもっと大変だったでしょうね。

 でも希望がありましたね。これから段々良くなるという希望が少年時代にはありました。事実、暮らし向きが良くなっていったし、頑張ればなんとかなるという時代でしたね、1950年代ってのは。

 自然も豊かでしたね。私たちの地域は雪も降らないし、海の幸、山の幸はあるし。自給自足まではいかないけれど、海に行ってアジや鰯とったり出来ました。少しは畑もあったんで、色んな物を作ったり。現金はなかったけれど生活は出来てた。

 大学行く頃になると、やっぱり現金も欲しくなるんで親も頑張る。僕も子供心に、都会に出て一旗揚げたいって気持ちがありましたしね。僕らの若い頃は希望があったと思うんですよ。質問された方は1953年生まれですか? じゃあ一回り違いますね。その年代の人は尚良かったのではないかと思いますよ。

 僕の世代の目から話をすると、今の若い人は豊かすぎてダメになってる。少し貧しくなって、自分達が社会を変革するしか将来はないってところまで行ったら、皆頑張るでしょう。

 戦後くしゃくしゃに負けて、廃墟の中から立ち上がったのが我々というか、我々の先輩ですね。

 落ちるところまで落ちれば変革に立ち上がるんじゃないかとは、私も思いますね。

 

(司会)

 今日は本当に色々なお話をしていただき、ありがとうございました。







 

「ヒバク〜放射能の恐怖」

(2005年7月2日 大阪市立生涯学習センターにて)

フォト・ジャーナリスト樋口健二さん

 

(司会)

 司会を勤めさせていただきます国井です。よろしくお願いします。

 では、樋口さんのに講演に移らせていただきたいのですが、樋口さんはこのように原発の被曝労働の問題だけでなく、石油コンビナートや毒ガス工場などいろいろな問題を追ってらっしゃいます。

 さきほどお話をお伺いしたのですが、とてもパワーのある、熱いものをもっていらっしゃる方で、とても面白い話しが聞けるかと思います。では、早速ですが、樋口さん、講演お願いします。

 

大阪が原点

 皆さん、こんばんは。紹介を頂きました樋口です。よろしくお願いします。

 私は三十数年間、被曝労働だけを追ってきました。原発の問題というのは様々ありますね。「もんじゅ」をはじめ、JCOの臨界事故や、核廃棄物問題とか、地震まで含めると様々ありますけれども、私にとって労働者の被曝問題はどうにも避けて通れませんでした。

 それというのも、僕の被曝問題の原点は、この大阪なんですよ、皆さん。

 皆さんももう、ご存知かと思いますが、2001年10月10日に亡くなられた岩佐嘉寿幸さんという方が、わが国初の原発被曝裁判を起こした方です。裁判は1974年4月15日から始まりました。

 岩佐さんが実際に被曝したのは、1971年5月27日、敦賀原発でした。わずか2時間半で、右側のひざに腫瘍ができる放射線被曝を受けました。この岩佐さんの訴えに対して、国も原発関係者も、さらに東大の教授まで出てきて、被曝が原因ではないという政治判断を下していったすごい時代がありました。

 時代を振り返ると、70年代というのは高度経済成長に向けて日本がまっしぐらな時です。この時は、やっぱり原発というのは説得力があったんですよね。エネルギーはいくらあっても必要な時だったんです。

 でも今は、どこも工場をぶっ壊してるのに、どうして原発が必要なんですか? 日本に原発なんかひとつもなくていいんです。

 今物を作っているのは中国や東南アジアですよ。あるいは、トヨタなんかみんなアメリカで作ってますよ。日本では物は作れません。何故作れないかというと、労働力が高いからですよね。人件費が安いところにみんな工場をもっていってるから電力なんて要らないんですよ。

 しかもこの国は地震大国なのにビルをバカバカ建ててるでしょう。ここ大阪もそうだけど、東京なんかひどいもんじゃないですか。ニューヨークのマンハッタン以上ですよ。これを建てたのにはね、理由があるんですよ。それは電気を使うためですよ。日本人は僕も含めてみんなバカなことやってますよね。

 だから、本当はもう電気は要らないんですよ。それよりも、労働者を殺すことをやめましょうと、今日は訴えに来ました。

 大阪でもたくさんの労働者が原発を渡り歩いています。本当にすさまじいもんです。僕の集めた資料だってすごいもんですよ。今日はちょっとしか持ってこなかったんですが、資料を見るとすさまじいことが分かりますよ。

 原発は全国の労働者を必要としていますから。何百万という人間が原発には必要なんですから。この話をしないから、みんな原発はコンピュータで動いているという認識を持ってしまったんですよ。それはマスコミがそのように報じたから。

 僕に言わせると、いちばん悪かったのはジャーナリズムです。今日はジャーナリストの方はいらっしゃいませんか? なぜ、こんなことをしたんでしょう? 真実を伝えるのがジャーナリズムですよ。僕はその真実を伝えるために三十数年かかっています。

 日本のマスコミが伝えない理由は簡単なんですよ。日本のジャーナリズムは、NHKも含め全部、国や企業から金をもらっているんですよね。だから本当のことを報道できないんですよ。皆さんの視聴率の影響なんてわずかなもんですよ。みんな原発から金をもらってるんですよね。巨大原子力産業です。

 ところで、皆さん、原発をどのように思っておられましたか? 原発というのは電力会社がやっていると思っていたでしょう? 電力会社が電気をつくるのは当たり前だと思っていらっしゃるでしょう。

 ところが現実はそうじゃないんですよね。三井グループ、三菱グループ、住友グループ、この三大財閥が、原子力を根底から支えているんです。

 これじゃあ、かないませんよね。ジャーナリズムなんか簡単に抑えてこれたわけですよね。その上に東京原子力グループなど、日本には原子力グループが5つあって、日本の政治を根底から支えているんですからちょっとやそっとじゃかないませんよ。だから、30年経とうが、40年経とうが原子力が止まらなかったのはそういうことなんですよ。

 

石炭から原子力へ

 さて、本題に入りましょう。先ずですね、小学校の授業のようなことから始めます。私は、ジャーナリストですんで、どなたにも分かりやすく話さなきゃならない。これは原点ですよね。

 では、まず明治維新から始めましょう。ここから紐解けば簡単なんですよね。原発から始めちゃうから若い人はみんな、「もういい」という反応をしてしまうんですよね。そうじゃなくて、もっと面白い話をしなくちゃね。

 日本っていうのは270年も江戸時代が続いたんですよね。考えたら異常ですよね。幕府が270年も続くなんて。

 いつの時代でもそうなんですが、革命が必要なんですよね。今も革命が必要じゃないですか? すべて腐りきっちゃった。学校も腐り、企業も腐り、民衆まで腐っちゃたんだよね。本来はここで革命が起きなきゃいけないんですよ、本当は。でも革命が起きないんだよね。(笑い)

 何故だか分かりますか? 学校なんですよ。教育がワンパターンで悪いことばっかり教えてるんだから。原発の本当のことなんて学校でひとつも教えないんですから。僕ね、ある高校へ呼ばれたんですよ。でも僕がしゃべってるようなことはひとつも言っちゃいけないし、おくびにも出しちゃいけないって先生たちがそう言うもんだから、「あんたたちが間違ってるんじゃないか!」、「教育者がきちんと教えなかったらどうするんだ!」って言ってやりましたよ。そしたら小さくなってましたよ。

 「人間、生きることは闘いですよ」って言ってやりましたよ。僕も闘ってきたから生きてこれたんですよ。私、あと2年で70歳ですが、死ぬまで闘い続けてやろうと思っていますよ。のたうち回ってね。僕が今、闘いをやめたらコロッと逝っちゃうんですよ。本当ですよ。ただの爺さんになっちゃうんだから。だから闘いつづけましょう。

 さて、日本も明治維新という時には、やっぱり若い人たちが闘ったんですよね。じい様たちじゃないんですよね。そして、外国に追いつけ追い越せというのは良かったんだけど、どこかが間違っていたんですよね。人間教育をもっとしなくちゃいけなかったんだけど、金儲けばっかり勉強してしまったんですよ。ここが間違いだったんです。

 まず、近代の幕開けは、欧米に追いつけ追い越せだったんですよね。でも欧米はとんでもなく違ってたんですよね、ビルだらけだったんだから。トンネルは掘ってるし、列車は走ってるし。で、この時代の日本といえば、みんな草鞋をはいて歩いてたんだから、大変ですよね。一刻も早く道路を造れ、トンネルを掘れとなったんですよね。で、なにより欧米列強に追いつくには鉄が必要だっていうことになったんですよね。すべてはここから始まったんですよ。

 それで、石炭が日本にもあるだろうということで掘ってみるとあったんですよね。筑豊地帯、宇部炭鉱、北海道と。ここで掘りまくっていったんですよね。これが近代の幕開けですよ。ここで、財閥が形成されたんですよ。三井炭鉱、三菱炭鉱、みんなそうだったでしょう。これ以外にもコンツェルンがどんどん出てきて、明治政府が力をつけて、それで戦争やろう、戦争やろう、こんな小さい国じゃダメだ、みんな奪ってしまえ、みたいになった。みんな鉄から始まったことじゃないですか。

 まずは、石炭で財閥が形成されたわけです。燃える石。鉄を溶かすためには単なる石炭ではだめだった。これをコークスにして、鉄を溶かしたんですよ。そして、軍艦を造り、戦車を造り、鉄砲玉をどんどん造って、軽薄にも戦争をやっちゃうんですよね、この国は。

 日清、日露なんて戦争してね、勝たなきゃよかったものを勝っちゃったんだからね。ここでも間違いが起きたんですよね。他人の国に行って戦争したくせに、いま何を言ってると思いますか? 右翼文化人から始まって、「あれは正しい戦争だった」なんて言ってるんです。中国や韓国に「お前たちが悪いんじゃないか」って言ってる。どうなってるんでしょうね? 世の中恐ろしいですね。嘘も百回言えば本当になっちゃうんですよね。昔からそういうこともありますからね。日本はとんでもない方向に動いてます。原発も同じです。

 さて、石炭からいよいよ60年代に入りますと、石油ですよ。これがどんどん出てきたんですよね。ここで切り替わるんですが、みんな利権が付きまとうんですよ。それがコンビナート列島。さて、なぜ私がこんなことを始めたのか、一緒に話をさせてください。

 私は四日市公害からこの矛盾した日本の現実に飛び込まざるを得なかったんです。1966年のことです。

 石油のおかげで日本は豊かになってきました。豊かになったとはいっても、実は豊かでも何でもないじゃないですか。あれは何だったんだろうって。夢と幻だったんですよね、実は。

 そして人間性をみんなどこかに置いてきちゃった。今の子供の姿を見れば分かりますね。今、日本列島ではどうなってると思いますか? 日常的に人を殺すなんて僕らの世代じゃありえないことですよ。親が子を、子が親を、孫まで殺してしまう。想像がつかない世界に来ていますね。日本人は何かを置いてきちゃった。つまり人間性を置いてきちゃった。これはすべてに、いろんなところに波及してますよ。教育からなにまで。原発がその象徴なんですよ。

 どこかに人間性を置き去りにしたまま大もうけした。持ったことのない金が日本中にあふれ出たんじゃないですか。それでついにバブル崩壊までいってしまったんですね。

 1966年のことですよ、原子力に切り替わっていくのが。1966年7月25日のことです、東海原発第一号炉に火が入ったのが。

 このときのマスコミは恥ずかしいよね、私もマスコミの一員として。新聞はどんなことを書いてると思います? 次代を担うとかね、安全でクリーンだとか、みんな書きまくってたんだよね。その裏で被曝はすぐに始まってるんですよね。でも、そんなことはひとつも報道しようとはしない。今もしません。何にもしません。やってないから困るんですよね。国民が知らないだけのことで。僕に言わせれば、原発の最大のアキレス腱は被曝労働者ですよ。

 今、40万人の人が、被曝してるんですよ。これをほったらかしにしている国民も含めて、この国は何だろう? これで文明国家と言えるのかと、毎日つくづく自問自答してますよ、自分も含めてね。

 じゃあ、せめて自分は写真を撮り、この苦しみを伝えることしかできないけれどもやっていこうと。そのくらいの能力しかないから。そうやって、やってきたら30年も経ってしまった。

 でも何一つ変わりはしない。悲しいけれども変わらない。でも、やりつづけたことで、こうやって皆さんとお会いできた。これは大きい収穫ですね。

 

原子力産業

 最初の頃、被曝労働の話をしたら、総評の連中、今の連合ですが、何だそりゃって言ってましたよ。連合はだめですよ。原発をやれと言ってるんですから。労働者が今や労働者を守らないとは何なんでしょう。許しがたいですね。

 さて、話をもどしますと、今、原発は53基あります。1995年時点で53基です。僕は写真学校や、ジャーナリストの学校で学生たちに教えるんですが、学生に原発はいくつあるかときくと、大概は15基か、多くて25基くらいかなと返事が返ってくるんです。「バカ、53基あるんだって」言うと、「え、そんなにあるんですか」っていうから、「そんなにあるんですかってもんじゃない、日本中埋め尽くしてるんだ」って言うと、学生たちはびっくりしてますね。そう、無関心なんですよね。この無関心が一番の敵なんですね。

 さて、原子力は「平和利用」、「安全」で「クリーン」というこの安全神話を誰が作ったんだといえば、マスコミが作ったんですよ。コンピュータ・ルームだけをテレビは映してたんですよね。たしかにコンピューター・ルームには被曝労働者なんていませんよ。エリートが座って壁を見てるだけですよ。これだけを写したら現代の科学の粋を集めた結晶ですよ。ところが、この向こう側に、労働者が大量に放り込まれてるんですよね。このことについては、もう少しあとから話しますね。

 さて、原子力が今このように広がって、次にプルトニウム社会を迎えたんですね。「もんじゅ」(高速増殖炉)がナトリウム火災事故を起こしてしばらく止まってたんですが、先日の最高裁で運転再開が決まりましたね。何を考えてるんですかね? 原子力はやめなきゃならない時代が来てるのに、「もんじゅ」はいい、やれやれなんて言って。政治の世界も、司法の世界も何も考えてない。つくづくそう思います。

 1966年から日本の社会ががっちりできてしまったんですよ。大切なのは経済なんですよね。エネルギーでもなんでもない。原発はただのエネルギー産業ですよ。この原子力の時代が日本では長すぎる。外国ではもう原子力はやめましょうと、ほとんどの国がやめてるじゃないですか。ドイツなんかすごいですよ、あっさり原発をやめたんですから。そのドイツの人たちが私に賞をくれたんですよ。国内と外国で一生懸命、被曝問題をやってるからということで。なのに日本では無視してるんですから、どうにもなりませんね。

 さて、原発ですが、電力会社の言い分では原発を改良したんですって。電力会社に行って話しを聞いたら、改良しましたって言うんだから。つまり、原発は最初、アメリカから輸入されたんですよ。なんでこんなもの輸入したと思いますか? 誰がこんなものを持ってきたんでしょう?

 一番先に、原子力で市民権を得た男がいたでしょう? かっての読売新聞の社主ですよ。正力松太郎。あれはA級戦犯ですよ。戦後、追放されてたんですよ。それで、なんとか自分の市民権を得たい、と考えたんですよ。で、何をいちばん最初に考えたと思います? 野球ですよ。戦後、アメリカからシールズっていう二軍の球団を連れてきたんですよ。みんな喜びましたよね。私もよく憶えてるんですが。そうやってアメリカの野球を日本に紹介した。これで名を挙げたんだよね。

 それともうひとつ、原発を持ってきたんですよ、あの男は。これで完全に市民権を得たんですよ。これで公職追放が解けたから、偉ぶりはじめたんですよね。これに田中角栄とか中曽根とか、首相になるような連中がついてくるんですよね。

 さて、アメリカに二大原子力産業があることを皆さんご存知でしょう。ゼネラル・エレクトリック(GE)とウェスチング・ハウス。それぞれが沸騰水型軽水炉と加圧水型軽水炉を作った。ちなみに関西電力は加圧水型ですね。

 ゼネラルはモルガン財閥、ウェスチングはロックフェラー財閥の傘下なんですよ。電力会社が原発を動かしてるわけじゃない。どこの国でも財閥がやってるんですよ。

 ところで、なんでこんなもの造ったと思いますか? 原発っていうのはつまり核実験ですよ。アメリカは太平洋で核実験を130回以上やってるでしょ。南太平洋なんかで。それで、国際世論が、核実験をやめろと言ったんですよね。

 そのいちばんの問題が第5福竜丸ですよ。報道されたのはあの一隻だけだったでしょ。ところが、実際は1000隻近くの被曝船があったんですよね。皆さんご存知でしたか? その被曝マグロは日本に持ってきて全部埋めたんですよ。知らなかったでしょう。みんなアメリカの力で抑えたんですよね。でも、読売の23歳の若い記者が焼津でスクープしたんですよね。そこから大問題になって、手がつけられなくなったから、あとは全部抑えて隠したんですよ。

 そこで、この核をなんとかしなくてはいけないということで出てきたのが、原発なんですよ。原発は核兵器から生まれたんですよね。核兵器とは兄弟ですよ。

 日本では沸騰水型をGEから、三井商事が持ち込んで、三井グループのトップ企業である東芝と、東京原子力グループに日立が入ってるんですが、ここが沸騰水型のプラントをそれぞれ日本国内で造った。これに日本原電、東京電力、東北電力、中部電力、中国電力、北陸電力が系列になってますね。

 ウェスチング・ハウスの加圧水型は、三菱商事が持ち込んでいた。で、三菱重工が神戸で本体を造ってるんですよ。そしてプラントを持ち、原発をつくり、美浜原発、大飯原発、高浜原発を各地で建設した。悪の権化みたいな会社ですね。四国電力は、伊方原発、九州電力は川内原発、玄海原発、北海道電力が泊原発、その上に、動燃の「ふげん」、「常陽」、「もんじゅ」。

 すごいですね、原子力産業というのは。これでジャーナリズムを抑えているだけのことなんですよ。被曝労働者が少ないからじゃないんですよ。いちばん人間を殺してるから、これを本気で報道されたら原発は止まりますよ、本当に。

 日本のマスコミはすごいんですから。テレビを見てくださいよ。全国ネットですよ。朝日、毎日放送、産経グループ、読売、みんな全国ネットのメディアでしょ。これにラジオ、その上にみんな出版部門を持ってるでしょう。それで新聞5大紙なんて言うんですよ。

 でも内容なんて何もないですよ。小さくったって真実伝える方がいいんですけどね。さらに地方紙があって、機関紙があって、たとえば日本共産党なんか650万部って最大部数出してますよね。でも、ここが困るんですよね。民主主義と言いながら原発を認めてしまってるんですから。

 さて、まさに原発は輸入から始まって、今や原発はすべて国産原発になった。国産になったから大変なんですよね。輸入しているうちに止めればよかった。でも、そのころは、みんな大したことないと思ってたんですよね。平和利用だと思ってたから。平和利用じゃないと言ったのはわずかしかいなかった。その頃、僕なんかなんと言われてたか。「異端なカメラマン」なんて言われてたんですよ。異端だって。真実を追究してたのに。

 

原発労働者

 さて、ついでだから、労働形態も知っておいてください。この前近代的な労働形態を。現代科学の粋を集めた原発で、いかに差別がひどいかということを知ってほしいんです。

 まず、原発というのは電力会社、その下に元請けがあって、これが日本の経済を根底から支えている東芝であり、日立であり、三菱重工、住友です。これが労働組合を作ったら連合になる。連合は原発を造れと言うんです。「原発をやめろなんてとんでもない、我々の生活はどうなるんだ」と言うんです。

 日立の労働組合の委員長に会ったら驚きましたね。どこの会社の社長かと思いましたよ。「これからは原子力の時代だ」と平気で言う。「何を言ってるんだバカ野郎!」って思いましたよ。労働組合の委員長がそんなこと言ってるんですからね。組合が人を救うわけがない。

 原発労働者の日当も言っておきますね。約7万円です。今でも。7万円というのは原発が労働者一人当たりに払う額です。それをピンはねしてみんなで食い物にしてるんです。

 7万円とだけ聞くと、7万円ももらってるのかとみんな言うんですよ。ここで但し書きをつけないといけない。「そんなにもらってるならいいじゃないか」という人がいたんですから、東京で。「7万円なら仕方ないじゃないですか」って。でも、このお金は原発からでるだけのこと。原発に入るって言っても、ただ入るだけじゃないですから。いろんな道具を持って入る。それでいろんなとこを修理する。それが300カウントを越えるとみんな廃棄処分してしまう。これは大変ですよ。一日に道具を山ほど捨てなくちゃならない。その代金もみんな7万円に含まれている。

 元請けから下請けがありますね。ここから下が貧しい労働者です。元請けにだけ労働組合があるだけです。これが連合。連合は、元請けの人たちはできるだけ原発に入れませんと言ってます。危険なところには入れませんと。日立の労働組合の鈴木という委員長が言ったんだから間違いない。何のことはない。我々は入らないけれども、下の連中は入れと言ってるんです。「お前たちは被曝要員だから、死んでもらいましょう」と言ってるようなもんですよ。

 下請けがあり、孫請けがあり、ひ孫請けがあり、人出し業がある。この大阪にも人出し業の親方がたくさんいます。親方が原発に労働者を送れば、労働者一人につき3万円が下りてきます。これを親方が2万円ピンはねするんです。労働者には1万円しか渡してないんです。

 7万円出たって、下に行くにしたがってみんなピンはねしていくんです。これは何も原発に限ったことじゃない。日本の企業は全部これですよ。三菱自動車の欠陥隠しがあったでしょう。どこが泣いたと思います? 下請けですよ、下請け。おかしいですよね、日本っていうのは。文句を言いたくっても言えないんですよ。

 それはいけません、言いましょう、人間はみんな平等だって憲法にも謳ってるじゃないですかって。なのに、なんでこんな階級があるんだってことですよね。皆さんに知ってもらいたいのは、そういうことです。1億2000万人、皆、平等じゃありません。約6000万人は下請けなんですよ。これをこき使って踏みにじって生きているのが今の日本ですよ。僕はそうやって40年間写真を撮ってきましたけど、それは一向に変わっていません。

 この親方についてですが、福井だとか、福島だとか、地方へ行くと、ここの親方は周辺の農民を抱え込んでみんな原発に送り込むんですよ。3万円もらって2万円ピンはねすれば、御殿も建ちますよ。

 福井で建設中の原発御殿を見ましたよ。ここの親方に、無理矢理取材を申し込みましたよ。仮名を条件に取材をしましたけど、矛盾だらけのことを言ってましたが、よく正直に話してくれたと思いますよ。「うまい飯を食うにはどうしたらいいんだ? かっこいいことばっかり言っちゃいらんねぇや」って。人間の幸せって何だろうって考えちゃいますね。

 この親方連中の中に、暴力団がだいぶ入り込んでますね。この話をついでだからしときますね、忘れちゃいけないから。かつて、京都府綾部市で暴力団が高校生のアルバイトを原発労働に使ってたってたんです。これも知っておいてください。原発に入れるのは法律で18歳以上ですよ。このときの三人はみんな18歳未満だったんです。一人は16歳、あとの二人は17歳。なんで入れたと思いますか?

 原発に入るにはちゃんと住民票をとらないといけない。暴力団もこういうことだけは頭がいいんですね。18歳の先輩の住所を書いたんですよ。それで幽霊みたいな存在になっちゃったわけですよ。この高校生が被曝しちゃったんですよ。一般労働者の5倍の被曝をして捨てられちゃった。

 彼らを暴力団が使ってたんですよ。で、なぜこの事件が発覚したかというと、彼らが休みの日に遊んでて保護されたんだすよね。「お前たち何やってるんだ」と聞いたら、「原発に行ってた」っていうんですよ。入域カードを持ってたんでしょうね。それで警察がその住所に電話したんですよ。そしたら、「うちの子は行ってませんよ」って返事が返ってくる。当たり前ですよね、先輩の住所使って入ってたんだから。

 こんなケースがあったんですね。ここだけの話かと思ったら北海道でもあったんですよ。学校の先生は何を教えてたんでしょうね。平和利用だけ教えてたんですよ。今でも同じことやってるんじゃないかって思ってますけどね。

 原発労働者は20代が圧倒的ですからね、皆さん。地方には仕事がないから。じゃあ、とにかく一日1万円もらえるからって原発に行っちゃう。

 去年の美浜原発の事故を思い出してください、みんな若い人たちでしたでしょ。一番上が46歳、次が41歳、31歳、29歳だったでしょ。彼らが最初にみんな死んで、あとからもう一人亡くなりましたが、亀窟さんでしたっけ、彼も30歳だったでしょ。みんな若年労働者ですよ、みんな。

 未来があると思いますか? 未来無し。これを許していったらどうなるでしょう? 原発をやめる頃にこの問題が噴き出しますかね? いまは噴き出さないでしょうね、お金が欲しいから。

 

マスコミの責任

 マスコミは今、大変ですから。広告料がなかったら自分たちの給料がでないんだから。そういうところに首を突っ込みたくないんですよ。みんな金ですよ。原発に、そういう連中がみんな巣くってて、とんでもないことが起きてることをみんな知らない。これは私が勝手に作った問題じゃないですよ。

 さっきの高校生、普通の労働者の5倍被曝して、それで一人が稼いだのが100万円くらい。で、みんなピンはねされてた。それで暴力団がやっていることが分かってきたんですよ。

 暴力団の親方は、人間をもっと連れて来い、もっと連れて来いってあおっている。そりゃあもっとつれて来いって言いますよね。2万円を毎日ピンはねしてたらいいんだから。自分は、「どこどこに何人ですね、わかりました」って言って人を突っ込んでいればいいんだから。今でも同じですよ。

 ついでに下請け労働者の作業内容も言って、本題に入っておしまいとします。それは、放射能の除洗作業です。ボロ雑巾で何もない床を拭くだけなんですよ。皆さん、想像してみてください。

 僕のこの写真がスクープになったんですよね。撮っちゃいけないところで撮ったんですよ。誓約書を破って撮った写真です。そうしなきゃね、マスコミなんてみんな記者クラブで、「はい、ここ撮ってください」って言われたところを一人が行って代表撮影するだけ。これじゃあね、何も写せるわけないじゃないですか。

 この写真撮ったとき、中では人海戦術でしたよ。写真には写ってないけど、むこうに3人、こっちに4人横にいるんだけどさ、これを見たとき原発ってのは何のことはない、人が動かしてるんだって思いましたね。ここに行く途中にも通路に、真っ赤な作業服着たマスクをつけた待機要員がはあはあって息苦しいんで肩で息をしてましたよ。凄まじいもんだったけど、写真を撮らせないように誓約書があったから撮らなかったけど。

 放射能の除洗、パイプの補修、パイプの掃除をやるとき、この作業服を毎日捨てたら何万円もするから、毎日、大型洗濯機で洗うんですって。この洗濯機のある部屋が、服についた放射能で、放射能の海みたいなところなんですって。こんな仕事他にある?

 それから、ヘドロ。その辺の家のヘドロ、ちょっと臭いけど、そんなもんはいいんです。死にゃあしない。この原発のヘドロは放射能ヘドロですよ。これをかい出しては核廃棄物処理運搬です。

 機械類の運搬、配電盤施設の点検、補修、サンダーがけ、溶接作業、他、すべての雑役でどのくらいの数になりますかって北九州の親方に聞いたんですよ。そしたら、300種以上にはなるだろうよって。でも俺ら手抜き作業してるから3ヶ月くらいの定期検査でいけるんだよって。手抜きをしてるんだって。そうでしょう、去年の美浜での事故見ればわかるでしょ。パイプが腐ってたのに28年もほったらかしにしてたんだから。ああいうのを手抜きって言うんですよ。

 おそらく、あれはほんとは8月14日に点検に入る予定だったわけでしょう。でも9日だったでしょ、事件が起きたの。あの日、なんであんなとこに入ってたんだろ、210人も。つまり、法律的にはこれから点検に入るにもかかわらず、もう点検をやらしてたんですよ。

 それでたまたま、あの会社の人があのパイプの点検やってたんだろうね、想像すると。だって、作業してるそのままの格好で蒸気にやられたって言ってるんだから。そのまんまで。ひどいね。

 こういう作業だけだって、これをやらなきゃ1日たりとも原発は動かないんだって。ここに労働者はみんな入ってるわけだから、定期検査は、とくに被曝がひどいんだけどさ、日常だってやってるんですよ。

 2003年までの資料しか国は出してきませんが、総労働者数が156万人を突破しました。原発に関わった労働者が四分の一、五分の一と見積もっても、40万人からの被曝者がいるんだって、この国には。で、わずか6例だけど、白血病に対して、労災が下りたんですが、あとの病気は切捨て。

 いや、白血病以外では1例だけです。大阪で裁判が起きてるのをご存知ですか? 長尾光明さんという78歳のおじいさんが四年半くらい、東京電力相手に裁判やってます。7000ミリレムも浴びてたんで労災認定が下りた。生きてるうちに労災認定うけたのはこの人だけです。

 この人が今、裁判を起こしてます。労災は認定されましたけどね、被曝の因果関係を明確にしようというので、大阪で裁判が起きてます。これを支援してやってくださいよ。署名とかね。

 力関係ですからね、裁判なんて。被曝労働者がいないんじゃなくて、いないことにしている体制だけなんだから。ほんとに、この被曝問題をやったらこの国はどうなるんだろう? こんなことほっといていいのか? 原爆だって何十万人ですが、これを超えてきますよ。長崎、広島は40万人ですよ。

 今朝のTBSラジオで女性評論家が言ってましたよ。「原発に反対する連中は電気を使うな」って。この無能な女に一回言ってやろうかって思ってるんですけどさ、一方通行ですよね。私みたいなのを呼べばいいんだけど、絶対呼びませんからね、ラジオもテレビも。真実を言う連中はみんなカット。ほどほどにうまいこと言ってる連中だけ、テレビやラジオに出るんですよ。いい加減な時代じゃないですか。すべてがいい加減。

 さあ、労働者の年間被曝線量は50ミリシーベルトです。僕は本気で被曝問題をやってる医者に尋ねたら、これは我慢線量でしかないんだって、労働者の。こんなの浴びつづけたら体がぼろぼろになりますよって言ってましたよ。なんでこんなに高い被曝を許してるんでしょう。ICRP、国際放射線防護委員会が20ミリシーベルトまで基準を下げてますよ。なんだ、これはいったい。日本は人殺し国家です。そう結論付けました私は。

 さあ、もうひとつ、2001年3月いっぱい、外国特派員協会で外国の特派員たちが僕の写真展をやってくれたんですよ。東京銀座のど真ん中にあるでしょ、有楽町の駅前にね。そこで講演したんですけど、これをいろんな新聞がよく書いてくれましたよ。とくによく書いてくれたのが、ロサンゼルスタイムスとスペインのエルムンドです。

 講演のとき、原発に入った時の写真もちゃんと持ってたんです。特集を組んでくれましたよ、両面で。これを、大阪で支援してくれる仲間たちが訳してくれました。

 講演に外国の記者は来てたのに、日本の記者は一人もきてませでしたね。わかりますね。余計なことに首をつっこんだら偉くなれない、どっかに飛ばされるのがオチだってことです。どうにもなりませんね。

隠された被曝労働

 さて、もう少し具体的に話をさせてください。

 まず、被曝の原点はなんと言っても岩佐嘉寿幸さんです。1974年のことですから、もう30年も前にさかのぼります。被曝の事実を知って私は岩佐さんのところに行きました。彼は怒ってました。私以上に怒ってました。最初はうちの中に入れてくれませんでした。

 「なんだ、オメーは! アサイと同じか!」って言うもんだから、ぜんぜん分からない。それから「オメーは東京か」っていうから、「東京です」って答えると、「何やってんだ!」って言うんです。

 「実は四日市公害の取材を7年やって本を出したんです。こういう問題を実はやらないでどっかに逃げようかと思ったんですが、岩佐さんの裁判に一度は触れておかなくてはならんと、それから考えようと思って」って言うと「そうか、じゃあ上がれ」って言ったんです。それで怒ってる意味が分かったんです。

 ここに朝日新聞があります。1974年4月18日木曜日付け、「みんなの科学」欄。これ、何て書いてあったと思います? 「初の原子力炉被曝訴訟 謎だらけの皮膚炎」なんて書いてあるんですよ! まず、これを書いた記者を紹介しなきゃね。マスコミには、いろんなのがいるので。

 朝日新聞科学部に、東大哲学科を出た大熊由紀子って、後に論説委員にまでなった人がいるんです。その後どこに行ったかと思って尋ねたら朝日新聞にいないって言うから、テレビ朝日の連中に調べてもらったら、大阪大学の教授になってるの。その女性が書いた記事です。

 この記事で岩佐さん怒っちゃたんだよね。岩佐さんに取材なんかしてないんだよね。国側だけを取材したんだよ。こんな記者ありますか? いくら俺だってちゃんとしますよ。でもこの大先生、記者なのに一方通行。

 これで私も狂っちゃたんですよね。東大の哲学科まで出た、朝日新聞の科学部の記者がこんな記事書いて、これで真実なんか報道できるわけないじゃないかって。実はここで腹が決まったんですよ。「よーし、俺がやってやろうじゃないか」って。なんの力も金も頭もないけどさ、やれるところまでやってみようと。

 それから悪戦苦闘です。だって何にも知らないんだから。岩佐さんにだってバカにされましたよ。「俺、100ミリレムしか浴びてねぇ。おい、お前分かるか?」って言うから「わかりません」って言うと、「お前、阪大の岡村日出夫って助手のところ行って勉強してこい」って言われたんですよ。「はい、わかりました」って、大阪に来て阪大に行ったんですよ。で先生に会って、「先生、放射科学について教えてください」って言ったら無料で教えてくれました。これが原点だったんです。岩佐さんに会わなかったら今、こんなことやってませんよ。

 それと、ジャーナリズムです。大の朝日ですよ。国民のほとんどは朝日新聞をとってます。信用してます。それがこんなことやってたんだから、最初から。これは面白くなると思いましたね。そしたら面白くなっちゃった。それで、このあと、この女、逃げ回ってたんです。

 岩佐さんとテレビ朝日に呼ばれたことがあったんですけど、その時、テレビ朝日に、「この記者出せよ、お前たちのとこのもんだろう」って言ったんですけど、結局逃げちゃったんですよね。樋口と岩佐に噛みつかれたら損だと思ったんでしょう、頭のいい人だから。

 さて、岩佐さんはそれから11年間闘いました。知らなかったでしょ? 1974年4月15日に大阪地裁に提訴して、それから、最初の判決は1980年3月30日、全面棄却。

 当たり前じゃないですか。これを支援した人はどれくらいだったと思います? 全国ネットで138人しかいない。僕も含めて。これじゃあ裁判は勝てませんよね。それから高裁、最高裁に行って全部棄却でした。時代が悪かったね、70年代だもの。高度経済成長の時代、「何を言ってるんだ」ってもんでしょう。それでも、これを見続けよう、伝え続けようと決心しました。もう、売れる写真家になろうなんて考えなかったね。これが俺の生き方まで決めてくれました。

 そして、岩佐さんの後を引き取ったのが、西淀川に住んでる、長尾光明さんです。78歳。この人が今、東京電力を相手に提訴しています。何かの時には、署名してください、お願いしますよ。

 そいうことで、岩佐さんと出会って次に言われたことは、「おい、樋口さん、お前知ってるか? 金の出る裁判があるんだ」って。まさか原発会社がそんな汚いもんだとは思ってもみなかった。クリーン、安全、現代科学の粋を集めたって言ってるでしょ、一方では。だから金で裁判するなんて思ってもみなかった。俺も能天気だったね、当時は。

 僕だって最初は国が言うとおり信じてたんですから。クリーンで安全で、わずかな恨みを生んでも、何十万キロワット発電できたらいいじゃないかって思うくらいのレベルだったんですから。それが原点ですよ、言ってみれば。ここで懺悔しなきゃいけないと思います。たまたま岩佐さんに会わなかったらその程度で終わってたんですからね。

 で、岩佐さんから、「おい、樋口さん知ってるか? 琵琶湖の近くで、どのくらいの金かわからんけど、俺と裁判を共闘しようとしたら、奥さんが丸めこまれたかなんかで裁判をつぶされた奴がいるんだって。知ってるか?」って言われて、「知るわけないじゃないか! 岩佐さんは知ってるのか?」って聞いたら、「いや、岡村日出夫さんが言ってるんだ」って。

 岡村日出夫さんって人は今はもう事故で亡くなったんですが、この先生のところに行って聞けって、相手の住所も分かってるはずだからって言われて。岡村さんから住所を聞いて、その人のところに行ったんです。夜の7時くらいにやっと捜し当ててたんです。

 大阪の岡村先生と岩佐さんから紹介されて来ましたって言ったら、「はぁ?」なんて言ってね。そりゃあ「はぁ?」って言いますよね。変なのが来たって思ったでしょうね。

 「実は私、こういう者で、取材をさせていただきたいと思って来たのですが」って言うと、最初は迷惑って顔してましたよ。でもね、「岩佐さんが一生懸命裁判やっているのをご存知ですね」って言うと、「じゃあ、まあ入りなさい」と入れてくれました。

 すでに生活が破壊されてて、自分のわずかな田畑と家を手放して、借家に奥さんと女の子の子供3人と住んでました。子供はまだ小さくて、「一番下の子は俺が被曝してからできた子なんだよ。この子がいちばん気がかりだ」って言うんですよ。重い十字架を背負って生まれたんですよ。

 最初はお金の話は一度も出ませんでした。ところが、2度3度と行ったら、押入れの上から書類を持って見せてくれました。これが示談書だって。この書類を廃棄しろって言われてたんだけど、残してたんだって。600万円もらってもう終わったんだから書類を廃棄しろって言われてたけど、何かの役に立つかもしれんと残しておいたんだそうです。

 そしたらそこに部落解放同盟の名前が入ってたんです。ここが仲立ちしたんです。これはおそらく、村居さんが部落民だから、彼のために会社から金をとってやろうという思いで、金をとったんだと思いますよ。それで600万円を受け取ったんだろうね。1回の振り込み額はそれぞれ違いましたが、銀行振り込みで3回にわたって振り込んでありました。「村居さん、これを使ってもいいか」って言ったら、「これは真実だから使っていい」って言いました。勇気のある男がいたもんだね。感動しましたね。

 でもここで、なんてことだろう、なんでこの人たちもお金なんて受け取ったんだろうって思いましたね。このときは俺も泣いたよ。この社会って腐りきってるんじゃないかって。でも、そのあと部落解放同盟は被曝問題には絶対に手を出さなかった。

 これを知った大阪にある部落解放同盟の本部が、僕に村居さんについての原稿を書いてくださいっていってきました。二度とこういうことがあってはいけないからって。で、被曝労働について書きました。これで全国の解放同盟の人は僕の記事を読んだんでしょう。

 九州で講演したときに、解放同盟の青年が来て、「樋口さん、樋口さんの話は本当ですか?」って聞くんです。「嘘を言ったら一発でクビが飛ぶんだよ、俺らの世界は」って言いました。そしたら「間違いありませんか。そうですか、非常に残念です」っていうまじめな青年がいるもんです。これを契機にして、部落解放同盟は手を染めなかったんだよね。でも、よかったね。偉い人たちだと思います。もし、あれを隠蔽してたらもっといろんな問題が出たと思います。

 裁判を起こそうとして、村居さんの奥さんは丸めこまれちゃったんだよね。生活は逼迫してどん底にいたんですから。それで電力会社はね、奥さんに、「今、大阪で裁判を起こしてる人がいるけど、この裁判は長くなるよ」って、「あんたら裁判起こしたらどうなんの? お金のほうがいいだろう」ってまず奥さんを説得したわけです。本人よりも。本人が外出してる間に。本人はおそらく、先ほど話した岡村さんと裁判について話してたんでしょう。

 奥さんも生活に疲れきってね、本当にぼろぼろになって。そこを突かれたんですね。それでも村居さんは、いつも会えば「いや、女房が可愛そうだ」と、そうやって俺に言うわけですよ。奥さんを庇ってね。

 この裁判を潰す犯罪を担った一人が重松教授。「異常無し」とカルテに書いてしまった。この人は後にね、この問題が吹き出してきたから首つり自殺をしてます。いたたまれなくなったんだろうね。追求もされたんでしょう。「異常無し」カルテの裏は金。教授もたった百万円しかもらってないのにそんなカルテを書いちゃった。これは村井さんが職員から聞いてんだよ、駄目だな。

 もうひとつ、金で裁判潰されたケースは北九州の親方だよ。

 この人ですよ! 「俺らがいい加減な検査や提携やってるから・・・ 3か月やそこらで点検なんか終わるかよ。きちんとやったら6か月や1年はかかるぞ、樋口さん」って言ってたのは。

 だから、去年の美浜原発の事故が起きたときは、「親方言った通りじゃねえか、肝心な所やってねえんだ」と僕は言いました。すげえね、これから一杯起きる可能性があるって事だ。

 この親方は、自分が入らなきゃ良かったのに真面目な男だったから。普通は労働者連れてくりゃ、その数だけピンハネする訳で。

 俺言ったの。「労働者は皆ピンハネしたんですか?」ってね。そしたら怒ってさ、「いや樋口さん、そう言うけどウチみたいな7人ぐらいの会社じゃ、こうしないと盆と暮れのボーナスも出せない。それはきちんとさせてもらってますよ」って。自分も働けばもっと金が入る訳でしょ。「ああ、すいません」って謝りましたよ。でもピンハネには違いないんだけどね。

 この人も裁判起こそうとしたんだけど、この人の時はすごかったね。暴力団が毎日、脅迫電話をかけて生活を脅かしたんですよ。それで奥さんがノイローゼになっちゃってね。

 最後は日立プラントがわざわざ行ってるんですよ。課長が本社から。親方に直接仕事を回していた、井上工業って下関のひ孫請け会社の社長といっしょに、親方の家に行って、強引に連れ出して。九州大学連れ込んで、ここで異常無しカルテまた書いた。

 わずか106万円で裁判潰しやがった。ひでえ事やってやがんな、この奴らは。その時の資料はちゃんと持ってますよ。まさに闇の世界。原発ってとんでもない事やってるんですよ。皆さん考えてるようなもんじゃないよ。

 俺は村居さんの所に最後に行ったのは95年だったけど、「樋口さん、俺もあれから周りの話を色々と聞いてる。3000万円もらった、4000万円もらった・・・ それで皆黙らされた。自分はわずか600万円だったから悲しみを表に出せる」って言ってました。

 こういう風に、現実に人を潰していく時に、必ず裏に医師達がいたんですよ。裏は取ってあるんだよね。先ほどの高校生のアルバイト、これは氷山の一角でしょう。労災認定はわずか6例だけど、岩佐訴訟が11年間闘ったおかげで、あの暗黒労働が引き出された訳ですよ。これで国の連中も、労働省も含めて、やっと6例を認定するようになったんだよね。でなきゃ労災認定なんか出来ません、しなかったと思います。岩佐さんが、そういう意味で先駆者なんだよ。

 でもこの数にJCOと去年の美浜は入ってませんよ。「原発被曝」じゃないから。それを入れると、3人と5人だから8人プラスだけどね。今までの被曝労災認定は、唯一長尾さんを除いて、全部白血病です。他のガンは全部不認定。

 他のガンを認めたら、「俺も助けろー、俺も助けろー」って、この国つぶれるでしょう。労災認定って、一人認定するといくら払うかご存じですか。1千万? 違う、3千万払うのよ、皆さん。もしこれをバカバカ認定してごらんなさい、国がつぶれちゃうよ。えらい事になってるんだよ。だから隠せるだけ隠そうとしてるんだって。それでバレたらバレたでしょうがないや、と。皆で責任とろうやって言ってるんじゃないんです。

 すべてが明らかになるのは、僕が死んだ後だ。その時に「樋口ってのが言ってたね?」ってなるんだ。コレ本当になるよ、なるに決まってるんだから。

 もっと知りたかったら俺の本の『闇に消された原発被曝者』、これを読んでいただきたい。たくさんの被曝者の証言が一杯入ってるから。色んな形で潰れていった連中、これはまた読んでいただきたい。俺ここで全部喋ると本が売れなくなるから止めた(笑)。冗談抜きで読んで下さい。

 

この国には革命が必要だ

 という事でね、被曝の暗黒部分ってのは皆さんの想像以上。何も考えなかったら、この国は良い国だね。社会問題考えなかったら、僕は良い国だと思うよ。頭パーで生きてたら。だってニートとかいって、働かないで85万人生きてるんだよ。俺なんか一生懸命やって、やっと生きてるってのにさ。なんだよって。おかしいね。

 後、もう一つ言いたいのは、この国の有り様ね。60年代から高度経済成長に入ったのは良かったんですよ。それまでは貧しかったからね。俺なんか戦争終わった時は小学校2年か3年でしたよ。信州の山の中、食う物も無く、餓えて餓えて。

 信州なんか沢山飯が喰えたんじゃないかと思ったら大間違い。冗談じゃねえや。国が一つの田んぼに対して何俵供出しろって命令来てるからさ、隠し通せなかったんだよね。親爺達も、テメエの息子だ娘だ、家族が皆餓えてるのによ、国にみんな出した。だから餓えてた、我々は。そんで、大きくなった時に「何だあの餓えは」って言ったら、「戦争だからしょうがないじゃねえか」って。

 戦争のために餓えたんだぞ、じゃあ戦争反対するに決まってんだろ。なんか食い意地だけの戦争反対みたいだけどさ。人間、餓えの恐ろしさが一番辛いですよ。皆さんも、見た所タラフク飯を食ってますね。8時間寝てお酒飲んで。これじゃ困るのよ本当は。一度で良いから学生に経験してもらいたい。「餓えなさい、三日食うな」って。

 三日食わなかったらね、本当つらい。食う所なんていくらでもあるじゃねえか、ちょっと足を伸ばせばコンビニがある、捨てるぐらいある。だからこそ一度でいいからやってみたらいい。日本は一体どうなっていくと思いますか、皆さん。やっぱり革命が必要ですね。革命っていっても殺しあいとかじゃなくて。体制をもう一度立て直す。やらなきゃ駄目だねやっぱり。大学教育から始まってね。良い芽を起こさないとね。

 なんでこんな国になったかって、俺に言わせりゃ簡単だよ。豊かになっていったでしょ、企業が大きくなったでしょ。大企業に就職すりゃ、みんな給料沢山貰えたんだよね。ここが間違いだったのよ、俺に言わせりゃ。

 皆、良い大学行って。そこに行けば良い会社に入れるようになってたからよ。だから、ちょっと俺みたいに出来が悪いのは大変だよ。落ちこぼれていくんだからよ。俺は落ちこぼれるのはかえって良かったんだけどね。自分の道を選んだんだから。それを分からなかった子どもたちが一杯いたんだわ。それがグレたり、ワルするようになって、そこを疎かにしちゃったからいけなかったんだよ。

 だいたい皆サラリーマンにしようなんて。一億総サラリーマンにしようと思った事が、教育間違ってたんだよ。大工になるのがいても良いし、いろんな職業が世の中に一杯あるんだから、おめえはコレがいいぞって先生が言ってやらなきゃならなかったんだよ。我々の世代は皆そういう風にやってきてたんだよ。

 「お前は体が丈夫だし、よく動くからお前蕎麦屋になれ」とかね。先生がよく言ったのよ。今は、そうじゃねえだろ。皆仲良くサラリーマンになろうよってやったから。なれねぇのがいるに決まってるじゃねえか。大学だって一流大学出れる奴と出れない奴がいるんだから。

 教育がなっちゃないんですよ、哲学を教えなきゃ。産学一体で、良い会社へ人材をドドーって。それは今だって同じだ。増々酷くなってる。もっと酷くなると思いますよ、この日本は。戦争なんかやらなくてもね、そういうことで潰れていくだろうよ。そして初めて気が付くんだよね。全日本国民が。

 日本って国はだいたいそうじゃない、戦争だってとことんやらなきゃならないんだから。途中でやめないんだから。そうでしょう、玉砕だって言ったんでしょう。戦争やった連中こそ死んでほしいって思いますよ。

 関東軍が一番責任者なんだよね、満州では。それで残ったのが残留孤児だ。現代史を一つも教えてないよ、学校は。それで日中、日韓がおかしくなっちゃうんだな。

 さあ、革命を起こしましょう皆さん! 原発被曝をやめさせましょうって言って下さいよ、皆さん。

 他の事も、もちろん必要だけどさ、今やっぱり「人間を殺している」という事、これをどうしたって許しちゃならないと思います。これは小さな問題じゃありません。実は大きすぎたから潰しているんですよ、こうやって。

 他の問題はね、地震とかは「いや、それは大丈夫ですよ」って言うに決まってる。日本の土木工学は世界一だって言ってるんだから、地震に耐えられるって言ってるんだから。それでお終いじゃないですか。いくらワアワア言った所で。

 被曝を本当に問題にしたら青くなるよ。「人を殺すのだけは止めましょう」って。それでもエネルギーが欲しいんですかって。自分達だけ平和を買って、労働者を潰して、殺して、今だってそうして動いてるんですよ、実際は。

 これを言いたくて今日は大阪に来たんです。俺は全国で言って歩いてます。バカの一つ覚えだけど。でもありがたいよね。こうやって色んな人たちと出会ってね。数で云えば、恐らく全国ネットになれば、結構な数だけどさ、まだまだ・・・

 今日嬉しかったのはね、僕の話を初めて聞く人がいるっていうからさ、感動しちゃったね。大阪にも、俺は何度も来てるよ。この話をしに。今日は違う人たちですよ。ああ、よかったって。話は下手ですけど。

 話が上手かったら俺は国会議員になってウソばっかり言ってますよ。そんで選挙の時だけワーって言ってりゃいいんだから。俺、一番嫌いなのは国会議員だ。政治家と大学の先生だ。評論家って連中。何も動かないでいい。今はインターネットで大事な物はみんな取り寄せりゃいいんだから。そんなんだから、後で盗作だって事になる。見てごらんなさい。俺らみたいに足で歩かなきゃいけない。それで全国ネットを作る。

 だから俺に文句を言う人は一人もおりません。現場を見てるから。今日もいないでしょ。許せねぇって人いるかな? 言葉悪いからごめんね。

 その人は出てきてくれていいよ。俺は日本一言葉が悪いんだから。信州の山の中で言葉覚えたから大変だよ。東京出たけど、言葉なんか治りませんでした。いや治すつもりもありません。これは方言だから。文化だから。治す必要は無いってね。

 標準語? 冗談じゃない、あれが間違っている。皆を一つにしようなんて大間違い。そういうことで、余計な事もしゃべりました。ちょっぴりは解っていただけたんじゃないかな、これで。

 もうひとつ言い忘れてた。原発の体制ってのは、実は電力の需要から作られてるんじゃないんだ、経済から作られてるんだ。

 一機原発を作ると、6000億以上金が動く。これは美味しい仕事ですね。100万キロワットが一機でですよ。中国電力が新しいの作ろうとしてるでしょ、今。無情だね。

 それから、議員のレベルになると、国会議員で億の金が入るんだそうです。地方議員で何千万。その連中を見てりゃよく分かる。ありゃ原発推進してるなって。止められませんよ、そんな美味しい事は。

 田中角栄が首相になったのも分かりますね、今太閤でも何でもありませんよ。東京電力とくっついたからですよ。柏崎とかに、一ヶ所に800万キロワットを作ったから、これで首相になった。

 マスコミはバカだから今太閤とか言ってたけれど、バカもほどほどにしないとね。角栄が原発用地を土地転がししたルポルタージュを俺が初めて書いたんだけれどね、土地転がしをして一回引っくり返しゃ4億とかやってた訳ですよ、あの男は。それで自民党員に金を配ったんだよね。

 投票するに決まってるでしょ。俺が自民党員で国会議員だったら。田中先生って書くに決まってるじゃん。全て金。なんだこりゃ? これが巨大原子力産業なんだよ。ここからコマーシャル料ばっちり貰ってるから、こんな一番酷い問題が分かっていても書かないんだよ。報道しません。これからもしないでしょう。だから皆さんにやってもらうしかありません。これは国民がやるしかない問題です。マスコミは駄目ですよ。

 という訳で、ちょうどいい時間になりました。今日は本当にありがとうございました。

 

 

(司会)

 はい、ありがとうございました。それではこのまま質疑応答に移っていきたいと思います。何か質問あるかたいらっしゃいますでしょうか。何でもいいので…

 

(樋口さん)

 無いよねぇ(笑)。こんなに詳しく言っちゃったら、何質問しようかって考えても案外無いんですよ。全国ネットでいくつかよくある質問の話をしましょうか。

 まず、原発になぜ入れたのか、っていう話がよく出るよね。あの写真はどうやって撮ったんですかって。コレ一番多い質問だね。後、質疑応答でもこんなに詳しく話す人どこにいるんですかって。裁判が何百万で潰れたとか、金の話ばっかになるけど。

 それから、もう一つ話したいのが、三菱って会社の事。これは悪いところですね。悪の権化です。これだけまたちょっと話をさせてください、5秒ほど(笑)。

 四日市公害で1967年に裁判起きましたね。被告6社。その中に3社も三菱グループが入ってた。三菱化成、三菱モンサント、三菱油化ですね。その化成がモナザイト鉱石から希土類金属を生成、抽出してるなんぞ、ろくでもない話だね。

 四日市の公害裁判で断罪されたでしょ。1972年の7月24日ですね。全面勝訴でした。その一年後に日本から逃げ出してマレーシアに行った。希土類金属は、日本の原発からはじまって…あらゆるコンピューターから原子炉遮蔽材やらに必要とされるもんです。

 この希土類金属は日本が豊かになっていくために必要だった。これ日本で作れなかったんだよね、だからマレーシアに行った。マレーシアには鉱山があって、そこから採れるモナザイト鉱石を生成していく過程で、放射性物質が出ていた。トリウム232です。これを現地でほったらかしにしちゃった。

 これ、あまり知らないでしょう。まあ一度はメディアにも載ったんだけどさ。特派員が一生懸命日本に送ってたんだけど、みんな潰されたの、三菱に。三菱は今とは違いますよ。今は三菱自動車がこんなになっちゃってますけど、この時は力があった。

 三菱って言ったら、三菱重工なんかは戦車だって作ってる。今にジェット機もきっと作るぞ。

 三菱化成はマレーシアに行って、現地で放射性被害をもたらして、白血病患者をバカスカ生み出した。それでマレーシアでは大社会問題だ。すごかったんですよ。

 この時活躍したのが京都大学の助手だった市川定夫さんです。後に埼玉大学に教授で迎えられたけど。彼が現地で放射性物質を測ったら、通常の何百倍って値が出たんだよ。裁判過程での彼の証言は素晴らしかった。

 国際社会で、三菱化成、今は三菱化学って名前の会社が放射能被害を起こしました。これは公害輸出です。俺が日本各地でこの話をすると、学生なんかはこんな話誰も知りません。これも「お金」。日本が豊かになるために、他の国に行って人を殺してきた。すさまじい国ですね、この国は。それで国民が知らない。現地の人たちは皆知ってるから日本を憎む。当たり前だね。

 僕は東南アジアをいろんな原発取材で訪れるけど、皆の話には必ず第二次世界大戦の話が出る。皆に頭下げて来ましたよ、「申し訳なかった」って。一日本人ですからね、俺らがやったんじゃねぇって言えないでしょ。右翼文化人は、ああいう所に一度行くべきだね。苦しめた現地の人たちの所へ。そしたら歴史観も人生観も戦争観も少し変わる。行かないから変わらないんだよね、動かないで理屈言ってる連中だから、大学は。そうでしょう?

 今の文化人ってのは、東大から拓大へ行った藤岡もそうだろう、西尾幹二もそうだろう。皆コンピューターで生きてる連中だから、困ったもんだよね。三菱の最近の不祥事はそこに原点があるわけですよ。三菱自動車がふざけた事やったけど、なんでああなったか良く分かるよ。人間性のかけらもありませんでしたから。四日市から見てるんだから。

 僕は四日市公害の時に思いましたよ、「あ、日本駄目になるぞ」って。このままいったら環境はぶっ壊すし、人間まで駄目になってきちゃうよね。一流大学一流大学って言うばかりで。ああこりゃ駄目だ、やがてどえらい事になるぞって言ってたら本当になっちゃった。

 一つの事がきっかけだけど、いやってほど見えるもんね。僕はしょっちゅう「日本は駄目になるぞ」って言ってたけれど、聞いてた友達も「何いってんだ」って相手にしなかった。そしたら本当になっちゃったじゃないですか。今、どこも閉塞してるでしょう。これを打開するにはどうしたらいいですか? 今の価値観全部捨てましょうよ。そこから立ち直ってくるんだよ。俺はそう思ってるんだけどね。ひとりじゃどうにもならない。

 でもそんな人が順に増えてるじゃないですか。恐らく今ここに来てる人たち、皆そんな意識持ってませんか。もってる、絶対もってますよ。でなきゃ夜9時まで話を聞くわけがない(笑)。そう思いますよ。だからこういう人たちが結集して、やりましょう。根気良くやりましょう。

 俺は死んだって何も残らないけど、写真と文章は残るから。それしかないんだよね、後は何もないよ。死ぬまでのたうち回っていこう。そういう生き方を、これからも貫いていきたいとつくづく思っています。

 だから、日本をもう一度良い国にしませんか。今は悪い国です。戦争に加担することもやめるようにしましょう。どんな戦争にも大義名分なんて要りません。全部悪いの、人を殺すんだから。アメリカがどんな事言ったってね、どんな美辞麗句くっつけたって許せない。その尻馬に乗るなんてもっと駄目だよね。そりゃ憲法九条はアメリカが作ったとか言ってるけどさ、誰が作ったっていいんだからさ、あんなものは。良ければ。アメリカが作ったからから変えろだなんて、冗談言っちゃいけないよ。良いものは良いんだって、それを俺は押し通してますよ。なんで今変えるんだ、ふざけんなって、本当に。この問題も大きいね。

 原発もね、原発だけで終わるわけじゃないんだよ、核のゴミもあるから。劣化ウラン弾ってのはみんな核のゴミから出来てるんだよ、アメリカの。核のゴミだから、劣化って言葉を付けた。広島に落としたウラニウム爆弾は劣化って言わないでしょ。ウラニウムを生成したからね。今度は、日本だって兵器を持ったらいいんだって安倍晋三も言ってますよ。連中が言ってるってことは、もうほとんどの国会議員がそう思ってるってことですよ。最終的には原発被爆だけじゃ終わらせないんだ、この原発王国では。その為に、九条を変えるんだ、変えなきゃ持てない。そこまで考えてるんだよ。アメリカだけじゃ戦争するにも大変だからよ、日本のも出させりゃ良いんだ、それで日本がどうなろうと構いやしないってのがアメリカの本音だ。でなきゃこんなに基地を置く訳ないだろって。

 

(質問)

 樋口さんの原発の内部の写真が衝撃的で、この講演会のポスターとかにも使わせていただいたんですけれど、その撮影の際の事を記した文章もいくつか読ませていただきました。

 一番印象的なオレンジの作業服を着た人を真正面にとらえた際の撮影状況の記載が、本によって微妙に違いますね。一つの本には、原子力会社の案内人から撮影許可が下りたと勘違いして撮影したと書いてますし、もうひとつの本には、そうじゃない、駄目だと分かってたけど意図的に撮影したように書かれていましたが、実際のところはどうなんですか?

 

(樋口さん)

 実際にはね、まず原発に入るのが容易じゃなかったの。あそこに入るのに7日間通ったよ。そこから話をしましょうね。

 行って取材申し込みして「いいでしょう」ってなったわけじゃなくてね。本来は入れたくないでしょう、どこだって。今までクリーンだクリーンだって宣伝してきてるのに、点検作業中を撮らせろなんて言ったから。向こうは大変だったろうね。

 敦賀原発へ民宿から通い、毎日岩佐さんと村居さんの話ばっかするの。「あんたらは、これだけ裁判やってる人がいるのに、裁判潰すのに600万積んでるんじゃねえか」って。そしたら増々警戒するようになって。こりゃアカンなぁ、全然取り合わない。

 そのうちに向こうがね、「うちはとにかく安全を第一にしています」と言う。5日とか6日通うようになって、俺もやっと気が付くんだよね。やっぱ俺、頭悪いな。「安全を第一にしている」って言うんだったら、「じゃあ、その安全を撮らせて下さい」って言ったわけさ。ここで東京本社へ連絡が入ったんでしょ。

 そして許可が下りて、連絡があったんです。何月何日の何時から1時間許しますと。いやあ、その前の晩は眠れませんでした、興奮しちゃってね。

 僕がこの写真を一番先に、世の中にビシッと出したのはアサヒグラフです。皆さん、先ほど言ったこの朝日新聞からだよ。今はなくなったんだよね。ここで13ページかなんか特集組んだんだけどね。いやあ、あん時は嬉しかったね。その連中が実は同じ敦賀原発に3日間通ってたんだよね、俺の前に。やっぱり「入れろ、入れない」でもめた。これは新聞記者たちだから、結局ダメだった。

 俺が撮影したのを知って「樋口さんどうしたんですか、国会議員の力ですか?」って言うから、「はあ?」って言ったの。

 とにかく撮影できるのはわずか1時間です。僕はフィルムをカラーもモノクロも用意して、カメラも3台くらい揃えた。いざ入るとなると、「ちょっとお待ち下さい」と紙持ってきて、「誓約書書いて下さい」と言う。どこへ発表するんだっていうふうなことが書いてある。

 これで俺も縛られたんだけど、実は後で岩佐訴訟を弁護していた、今は亡くなった弁護士に聞いたら「樋口さん、そんな誓約書なんて何の役にも立ちはしませんから。あんた、行ってもっとバンバン撮れば良かったんだよ」と言うんだ。「はあ?」って言ったの。誓約書ってのはただ約束事でやっているだけで、法的には何にも意味が無いと言う。「ああ、もう少し勉強しておけばよかった」と思ったね。そんなこともありました。

 とにかく、誓約書のことで頭がいっぱいになってる。だけどね、カメラを1台って言われたときには困っちゃったんだよね。その時、俺ね、いいカメラに買い換えたの。いいカメラでなきゃ、中に入るんだから。それでこの新品をバーと置いたの。

 ところが担当者が、「樋口さんこれどうするんですか?」って言う。「どうする? これで撮るに決まってんじゃないか」と言うと、「原発の中ですから、場合によっちゃ、これ持ち出せませんよ」って言うんだよね。「エーっ」て言ったの。「あんたらクリーンだって言ってんじゃないか!」と言ってやりましたよ。

 いざとなると矛盾がバーと出てくるの。担当者は、「うちではいろんなカメラマンが撮るのが1台ありますよ。これをお使いになりませんか?」って言う。それは構わないけど、俺、このためにカメラを新品にしたばっかりで、いくら何でもひどすぎるね。今だったらいいけどさあ。当時、俺、食えなかったんだわ、皆さん。明日のパンがないような生活をしていたんだから。

 とにかく「そのカメラで絶対写りますか? もし写らなかった場合はもう一度入りますよ」と言って、確約とって。あったカメラがアサヒペンタックス、レンズが50ミリで、「ああこれじゃダメ。もう少し広いワイドレンズ付けさせてくれなか」って言ったら、「何ミリにしますか?」って。「28ミリレンズあるか?」っていったら、そこまではない。

 結局そのカメラにして、さらに「フィルムは1本、モノクロでもカラーでもどちらでもいいからあなた決めなさい」って言う。これはねえ、「カラーで撮っとかないと」とピンときた。カラーで撮っておけば、モノクロにフィルムをおこせばいいわけだから、2つに使える。

 いよいよ入っていったんだけど、主任が前、もう一人の職員が俺をこう挟む。サンドイッチマンよ。それでね、現場まで着くのにほんと凄まじかったね。わずか2メートル前後、1メートル半か2メートル半かの通路の半分には労働者が座ってる。びしーっと交代要員が座ってる。「うわーすげえな、原発の定期検査って。これが全部交代要員か?」って思いました。

 2階へ上がって、左に曲がっていけばエレベータがある。主任は俺がいちおうお客さんだから、まずお客さんにって待ってる。その手前にね、1メーター半四方くらいの透明なテントがあって、その中に防護服を全部服脱いで、上から冷たい酸素がバーと吹いてる。「はあ、はあ」って荒い息してる。

 こんな姿を見たときには、カメラを手にして撮影したいんだけど、撮れないわけよ。誓約書があるから、俺が止まると後ろからパーと来て「ここでは撮らないでください」って言う。いよいよ曲がらなければならないんだけど、その向こうに、あの赤色の防護服を着た労働者が溶接していたんですよ。

 実はこれは労働者が溶接をしていたの。そうでなければあんな薄暗い中で、こんだけ明るいのないですよ、原発の中なんて。ブワーと煙が出てて、これはまさに非現実の世界。撮りてえなあって思って、左に曲がらなければならないの無視して、構わずそっちに入っていった。そしたら後ろから職員が来て、引っ張られて、「樋口さん、向こうですよ」って。

 そしたら労働者がなんだとこっち向いたんです。この瞬間を撮らなきゃと、もう本能的にシャッターを押したんです。ファインダーなんかもう覗けないようになっているわけですよ。レンズ以外にはみんなビニールがかかっているから。距離はちょうど1メーターかちょっとで、「これはワイドレンズだから絶対入っているはずだ」と思ったね。

 実際はそうだったんだけど、岩波の本ではちょっとかっこいいこと書いてあったでしょ。学校の先生とか、高校生くらいのレベル高い連中が読むっていうんでちょっとかっこいいことになってるんですけどね。実際にはその直後に、主任が脱兎のごとく飛んで来て、目の色変えて、「あんた約束破った。フィルム抜いてお終いだ」って言うから、これは渡しちゃいけないと思って逃げ回っていた。

 みんな労働者がおもしろがっていたんじゃねえか。「今日は変なやろうが来た」ってね。職員ともみ合っていたんだから。こんな状況があったんです。だからこれはやっぱり違反して撮ったの。考えちゃだめですね、皆さん。これは新聞社だったら絶対撮らなかった。まさに「報道の自由」と、「民主・自主・公開」の三原則の問題です。

 アサヒグラフに発表する時に、これどうしようかなってずっと悩んだんですよ。弁護士に相談したら、「構いません。どんどん出しなさい」と言う。(会場、笑い)これが岩佐訴訟で大いに役に立った。

 今考えたって、これ1カットですよ、皆さん。たった1カット。これがあの「原発安全神話」を崩してったの。俺が写真展やるたんびに東京電力なんかから、ひどい職員が来て言ってったらしいよ、俺がいない間にさ。「こんな樋口の写真、全部ウソだ」とかね。福島あたりでは、「この写真展みんなウソだぞ」って言っていったらしい。

 いくら嘘だって言ったってこれは本当で、どこに掲載されたって、俺、まだ首とんでねえよ。これは報道の自由です。そんなわけで、たった1カットがさ、これだけドラマがあるの。だからよく質問があんの、「どうやって撮ったんだ?」って。

 写真はシャッター押せばそれでお終いだからね。しかしその裏側にはこれだけ馬鹿げたことがあんの。だからおもしろいじゃん。俺、カメラマン止めらんねえや、おもしろくて。

 皆さん見てくれましたか? デイズジャパンの6月号。1枚の写真っていうコーナーで、「樋口さん、これ書いて下さいよ。あなたこれどうやって撮ったのか」と依頼された。1枚の写真について、自分で解説する。ふつうは他の人の写真を語るんだけどさ。「樋口さん、これ1人でやって下さい」って言われました。

 我々はやっぱりなんつって言ったらいいかな、弱者に奉仕することが僕はジャーナリストの仕事だと思ってますから。権力だとか企業になんかねえ、ひとつも貢献したいと思ったことはありません。そういう思いがこういう写真を撮らせてくれました。

 よろしいですか、ありがとうございました。私は嬉しいですね。

 

(司会)

 まだ10分あります。そちらの方。

 

(質問)

 原発での労働者が156万人。そのうち被曝しているのが40万人くらいと言われましたが、その40万人がどれくらいの放射線を浴びているのでしょうか?

 

(樋口さん)

 原発で働く労働者156万人の4分の1くらいが被曝しているというのは、理由があるんです。労働者総数っていうのは、継続して10年原発に行っている人もいるし、5年という人もいる。1年でつぶれた人もいる。そうやって総労働者数を割り出している。

 そうするとだぶっている場合もあるから、それで4分の1だと考える。今、毎年約7万人を超える労働者が原発を渡り歩いている。岩佐さんと出会った頃は、まだ1万5千人くらいだったよね。7万人ですよ。それが被曝してるってことですよ。

 原発は、入れば被曝ですよ。たとえ、わずかでも被曝しなければお金がもらえないんですよ、この作業は。これだけは、覚えておいてもらわないとね。放射線を浴びることで、お金をもらう、生活をする。こんな作業が今までありましたか?

 放射線管理中央センターというのが神田にあります。ここに登録されたのが2001年で、35万8千人。あれから4年経ってるから今は40万人くらいいくなと。

 あと20年原発やったらどうなるでしょう? 困ったね。暗黒だ。俺は常に暗黒だ。宜しいですか、この資料で。

 

(司会)

 ありがとうございました。他に質問あれば。

 

(樋口さん)

 何でもいいですよ。「お前、許せねえ」とかね。(会場、笑い)一人居ましたよ、東京で。そしたら、東京電力の社員だった。(会場、笑い)

 

(司会)

 いいですか僕から。ふだん生活している中で受ける自然に被曝する話もあるって聞いたんですけど、それはどのくらい何ですか。普通に生活していても被曝する人がおるって、自然に。

 

(樋口さん)

 これは国民の話をしなくてはね。国民はね、大地、宇宙、食物から年間1ミリシーベルトです。今までは1ミリシーベルト=100ミリレムといってた。かつて俺が始めた頃はこの100ミリレムが単位だった。それがこれでいくと数値がものすごい数になっていくでしょ、放射線従事者の上限が5000ミリレム、あの長尾さんは7000ミリレム浴びていますからね。これだと大きく感じるでしょ。

 ところがミリシーベルトだといくつなる? それだと70ミリシーベルトになる。小さいじゃん。このへんは学者は考えたね。数字を小さく言わせるため。それでは国民は等しく年間約1ミリシーベルト、つまり100ミリレム浴びてると思って下さい。

 食べ物、大地、それから宇宙から。飛行機1万メートルをしょちゅう飛ぶ人、これはもっと浴びるんですよ。だから赤ちゃんを飛行機に乗っけるなというのはそういうこと。いけませんよ、妊婦があんなの乗り歩いちゃ。いつ落っこちるか分からないから。(会場、笑い)JALなんか特に乗っちゃいけませんよ。

 ほんとですよ、もう、飛ぶものは落ちるに決まってるし。走るものはどっかぶつかるし。運が良ければ生きてるだけのこと。この間の大阪だってそうじゃないですか、ついこないだですよ。あれなんぞ、効率でしょ、あんた。みんな効率、みんなお金。はい、よろしい?

 

(質問)

あのう、胸のエックス線なんかどれくらいでしょうか?

 

(樋口さん)

 レントゲンでしょ、胃透視検査で、0.6ミリシーベルトと言われています。年間の自然放射線の半分以上ですよね。胃のレントゲン検査は止めなさい。胃の検査やるんなら、カメラ飲むことよ。(会場から、ええっ??)

 ええっじゃねえの。(会場、笑い)あんなもの、今はこんなに細くなったよ。ハイバースコープ、昔はこんなに太くて「うわあああって」言って飲んだけど、今じゃこんなもんよ、ハイバースコープ。僕はもうこれにしてますよ。自分で見られんだから、こうやって、てめえの胃の中。

 医者が、「樋口さんの胃はきれいですねえ。十二指腸の入り口までいきますよ」なんて言って見てる。こっちはくわえているから、「はあーっ」て。だから皆さん、できることならレントゲン浴びないこと。いいですね、浴びちゃいけません。

 早くガンになりたい人はいいんだよ。確率の問題がありますからね。放射線っていうのは少なければ安全だってことではないんですよ、皆さん。1ミリシーベルト浴びてガンになる人もいるんだよ。国際放射線防護委員会(ICRP)が出していますよ。1万人がどれだけ浴びたら、最低何人がガンになる確率があるって言う話なんです。

 誰がガンになるか分からない。多く浴びたからガンになるっていうことではないみたいなんだよね。これは原爆みたいな急性障害をともなう恐ろしい被曝とは違う。だから放射線は浴びないこと、よろしいですか、浴びないで下さい。(会場、苦笑)

 今はみんな内視鏡があるからさあ、直腸であろうが大腸であろうが、肝臓だって。俺は肝臓だってやったんだよ。ちょっと穴開けりゃいい。全身麻酔いりません。だからハイバースコープで見て下さい。これの方が間違いねえ。

 今、どんでもない医者がいっぱいいるでしょ。中にはさみ忘れちゃったとか、逆さまにつないだとか、殺しちゃったとかね。だから危ないから、ほんとに今の時代は、信用をしないでやりましょう。一番いいのは自分の目で見える方法だよ。これは言っておきたかったねえ。

 

(質問)

 核分裂で放射能を浴びますよね? 核融合の場合はどうですか?

 

(樋口)

 あれ、わずかしか出ないって言うんだけどさあ。そんなバカな。誰かやったことあるんですかっていいたくなるんだよね。これも出てるんだと思うよ。ただ抑えて抑えて言ってる。

 俺さあ、核融合をね、あんまり知らないから。誰か専門家の人はいませんか?

(会場から)

 実は中性子が出ますね、核融合は。中性子が出るんですけれども、出る範囲が非常に限定されていると。具体的には磁場の中に閉じ込められるから安全だというような話なんです。ただトリチウムっていう核分裂物質が出ます。これが非常にわずかな量でも、水に溶けるものですから、もし周辺の環境に漏れると大変危険だと言うふうに反対している人がいます。僕も当然反対していたんですけれど・・・ だから、あくまで原子力施設には変わりはないということですね。

 

(司会)

 あと1人だけ、どなたかありますか?

 

(質問)

 樋口さんが先ほど語られた、原発の中で決死の思いで撮られた、あの赤色の作業服を着たあの方は、今元気にしておられると思いますか? やっぱ分かんないですか?

 

(樋口さん)

 分かんない。ただねえ、アサヒグラフの特集の時にさあ、もう一つの写真が載ったのよ。炉心部の入り口を撮影したもの。入口はふつう閉まってるんだよ。定期検査だから開いてるんだよ。これを皆見たんだって。「おい、すげー写真撮ったのがいるなあ」ってんで、話題になったんだって。「こんな写真、初めて見るなあ」って。だから労働者だって感心してくれた。このことをちょっと付け加えさせてもらいます。

 

(質問)

 旅行とか海外行くとか結構好きなんで、年間2、3回くらい飛行機とか乗ることがあるんですけれども、それはどうでしょうか?

 

(樋口さん)

 それは勝手に乗って下さい。(会場、爆笑)

 そりゃあ、ほんとは船で行って欲しいね。それはなぜかっていったらね、やっぱり人間は物を見る力をつけなきゃ。俺はね、39歳の時からぎっくり腰と付き合ってきた。これは俺、信州でね、小さい時から山駈けずり回ってたおかげなんだと思うんだけど・・・

 今ではカメラ重いから、仕方ないから北海道と九州のぞいては車で行く。なるべく車は使いたくないね、廃棄ガス出るから。でも俺の場合、仕方ない。移動して疲れたら、その場でバンと寝る。そういう取材やっていますからね。

 そうするといろんなものに接します。船で行ったら同じことがきっとできると思います。飛行機で行ったらダメなの、何にも見えない。船で行って下さいよお。高くなる? 高くなるんだよ。5万円くらいでヨーロッパに飛行機で行けちゃうのがあるからいけないんだよ。だから、これはしょうがねえなあ、お金の問題があるんでしょうよ、あんた。(会場、笑い)じゃあ、俺、そこまで立ち入れないよ。

 べつに物をきちっと見るということだったら、飛行機で行ってもいいからさ、きちっと見て来て下さい。それしか言えないな。本当はそういう旅をしたいね。はい、そんなところです。

 

(司会)

 では、もう1人、どうぞ。

 

(質問)

 失礼します。被曝労働者がいるのにいないという、いるのもわからずにいないというマスコミの、あるいはそれを放置している国民に非があるっていうことは、お話を聞いていてよく分かりました。

 しかし逆にですね、視点を変えますと、下請け会社の労働者が食べていくには原発で働くこともやむを得ないと、報道されると食べていくことができなくなるから止めて欲しいといった意見は、労働者からはないんですかということをお聞きしたいんですけれど。

(樋口さん)

 ある。敦賀で取材をしてね。若い連中がみんな働いているんだけど、若い連中はもう何も喋りません。

 それでしょうがないから俺、待ちぶせてしてるんだ。「あんたら死じゃうぞー」って。原発で働いている人は、みんな青い顔してる。そういう人たちばっかり取材しているんだよって。そしたら、一人電機の会社をやっていた人がいたの。

 今、安い物ばっかり売る電器メーカーがそこら中で出てるから、それで俺はつぶれたんだーって言ったおじさんがいたの。「電器のお店やっててつぶれたんだ、飯食ってかなきゃなんないの」と言うわけだ。

 でも俺は言ったの。「できたら行くな、命が惜しかったら出来るだけ、他のアルバイトをしよう」ってね。「人間は知恵があるから、全部なくなっても行くところがあるはずだ。人間というものは楽な方向に行くもんだけど、原発だけはやめたほうがいい」と言った。

 「命が欲しいのか、いらないのかどっちだ! 死にたきゃあ行けばいいじゃねえか!」って喧嘩したんだ。普通の人は、「ああ、そうですかと」って言うだろうな。でも俺はちがうんだ。

 北九州の福岡で講演した時も、俺の著書の『闇に消される原発被曝者』を買って読んだ人が聞いてたらしい。その人が夜の10時頃に、電話してきて、「あんた、これに書いていることは本当か?」と聞いてきた。多分、仕事が終わってから電話してきたんでしょう。

 彼は、「俺が思ってるのと全く違うんだ。どうしたらいい?」と言うから、「仕事をやめればいい。若いんだろ。あんたは大学出たのか?」と聞いたら、「出た」と言う。聞いてみると結構大きな会社だ。「俺が会社から教わってることとまるっきり違うじゃないか」と言うから、「とりあえず仕事をやめろ。これは真実だから、ウソは一つも書いてない」と言ってやりましたよ。

 彼は真剣に悩んでいたようです。俺は、「他に仕事はあるはずだ。ただ、金が良いから行きたがるんだろ? 後で気づくんだから。死にたきゃあ、続ければいいじゃないか」ときっぱりです。それでいいんです。

 それで彼が救われるならいいんです。放射能浴びれば死ぬに決まってるんだから。病気になってしまった人の姿も沢山見て来た。みんな苦しんで、どこにも訴えることもできない、そういった人たちの話を沢山聞いてきた。

 だから俺は、はっきりと言ってあげるんです。

 

(司会)

 今日は本当に色々と貴重なお話をありがとうございました。



樋口健二さんの講演を聞いて

(講演会場アンケートより)

 

・写真集へのサインありがとうございました。

 環境問題から核武装、原発に反対してきました。労働者被曝についても問題は感じていましたが、点検や修理、運転作業などしか想像していませんでした。雑多な作業でたくさんの労働者が毎日少しずつ殺されている現実は絶対許せないと思いを新たにしました。

 問題だらけの世の中なのに日々の仕事で身も心も疲れてつぶされそうなのが我々労働者の現実でもあります。気の弱くなりそうなこの頃でしたが、今日のお話を聞いて、まだまだ闘わなくちゃ! 元気が出てきました。

(50代 女性)

 

・面白かったです。(50代 男性)

 

・なかなか現実的な話でびっくりしました。あんまり原子力のことを考えてなかったので、改めて考えさせられました。ありがとうございました。(20代)

 

・私は今日まで原発ヒバク労働者の存在を全く知りませんでした。そのことを知ることができただけでも私は幸せだと思えました。原発に対する見方が大きく変わりました。ありがとうございました。(20代 男性)

 

・40万人ともいわれる被曝労働者のあることにおどろきました。(40代 男性)

 

・原発によって被曝する労働者が40万人近くもいるという事実を初めて知りました。

 また、現在の日本がこのような姿になった要因に教育があると言われました。現在、教員の道を考えている私にとって非常に頭が痛いものでした。(20代 男性)

 

・原発は危険だとは知っていましたが、原発被曝の実態を知りおどろいています。放射能もれ事故だけが宣伝され、日常は安全だとの神話にとらわれていた自分を知りました。事故がなくても原発を続ける限り被曝労働者が生れ続けているのですから、この事実をもっと知らせる必要を感じました。(50代)

 

・被曝の実態についてほとんど知りませんでした。恥ずかしいです。本当に何ということかと、ちょっとショックでした。原発について全然知らないのではなく、決して安全だと思ってはいないのですが、いま現在、直接被害を受けていないから大丈夫だと思いこんで、それ以上考えようとしていないのだと思いました。

 底辺で働いている人たちが40万人も被曝していることを知った以上、やっぱり知らんぷりできないと思い、これから関心をもって、脱原発、なくす方に声を出していきたいと思います。

 

・今回、お話を聞かせてもらう前に、自分で原発について勉強しておけばよかったと思いました。今までは「無関心」でしたが、今日のお話を聞いてこの問題をもっと深く考えたいと思います。(10代 男性)

 

・現場を自分の足で訪ねて見ている強さ!

 1つの事を徹底的にやっているとみえてくるものがある!

 非常に心にひびくものがある話でした。これからの自分の活動に生かせればと思います。(20代 男性)



樋口健二写真展を見て

(写真展会場アンケートより)

 

・まあ我々も電気を使う以上加害者なのでしょう。そのことをまず考え直す必要がある。

(20代 男性)

 

・この写真展では原発を動かしている人達の真実の姿が一目でわかる写真が何枚もあった。病気の原因が原発にあるのに、それを証明する手立てがないばかりに認知されない被曝者やその家族の痛みや苦しみが伝わっていて、見ていて段々自分も苦しくなってきた。早くこの人達が救われる世の中になってほしいと思うし、私自身も出来るだけ何かしたいと思う。(10代 男性)

 

・原発の非条理さを目の当たりにした思いです。私達の毎日の生活から考え直していかないといけないと思います。(60代以上 女性)

 

・原発で働く人たちの生の姿を見ることができました。その姿は本当に放射能の恐ろしさを一見して感じるものでした。ショックとしかいいようがない。見えないだけに余計に恐怖を感じます。人間に制することができない以上、放射能のようにリスクの高いしろものとはおさらばするしかないでしょう。(40代 女性)

 

・通りすがりに見せていただきました。

 なかなか伝えている人達が少ない中、がんばっていただきたいと思います。まずは事実を知らせていくという地味な活動しかないです。まず自分の生活の中でも電力の事など見直していきたいと思います。(30代 女性)

 

・悲しい現実だから見ないっていうんじゃなく、悲しいからこそ目に付いてしまって無視できなくて。頑張っていきます。(20代 女性)

 

・原発内で作業を行うだけで被曝するとは知りませんでした。原発の恐ろしさの事実を初めて知ることができました。

 今後も社会の裏側部分について一般人に訴えかける作品を作って頂きたいと思います。

(30代 男性)

 

・世界を飛び回って原発問題を取材されている努力に敬意を表します。健康に気を付けて下さい。(60代以上 男性)

 

・今まで原発の事など知らなかった事実を知る事が出来て勉強になりました。また同時に、このままではいけないんだっていう気持ちにもなりました。写真展に来られた事を感謝しています。松葉井さんありがとう!!(30代 女性)

 

・良かったという表現が正しいかどうかわかりませんが、とても考えさせられるものでした。関係と思っている人たちをまきこんでもっと訴えていければと思います。(20代 女性)

 

・知らないことが多すぎると感じました。(40代 男性)

 

・劣悪な労働現場で働く作業員の実態がふだんに隠されていこうとするこの国の情欲に怒りを感じます。(40代)

 

・写真は圧倒的な迫力があります。(40代)

 

          ずっと被曝にこだわりつづけられ、原発や労働者の視点で写真をとられておられるのに敬意を表します。

(50代 女性)

・写真で見ている広島。福井原発。この生で見ると何と悲しい事かと‥

(60代以上 男性)

 

・原発と人間は絶対共存できない。国は原発事故、被害へ対応できない、できていない。原発をすべてなくすことこそ大切だと思います。怒りがわいてきます。がんばりましょう。

(50代 女性)

 

・4〜5年前に樋口先生の本を読んだ事で原発に関心を持つようになりました。(50代)

 

・個人の犠牲を見るのはせまるものがあります。(30代 男性)

 

・70年代、日高原発に反対して訪ねていたことがあり関心はもっていたのですが、ここ何年かは他のことでご無沙汰していました。

 先日、地震のことがしきりに報道されて改めて原発のことを気になり出しました。

写真 原発労働者が差別され、使い捨てられていったことを(今もつづいているでしょうが)本当にいたたまれない気持ちです。このような人たちがいることを都会のあふれたエネルギーで当たり前に生活している我々は知らなすぎます。もっと多くの人に知ってもらいたいです。(60代以上 女性)

 

・長きにわたって原発被曝の問題を撮りつづけてきたことに心から敬意を表します。

 被爆60周年。あまりにも封殺されていく現実に怒りを覚えます。やはり現況は日米同盟でしょう。東海村の事故も民営化の結果という側面があります。そういう側面の追求も必要かと思っています。若い人たちが主催されていることに希望を見出します。

(50代 女性)

 

・原発どころか日本の核武装を提唱する政治家まで出現した。イヤな時代だ。

 樋口さんのような正面からの原発批判も大事だが、今流行の北朝鮮がらみでの原発批判の声が小さいのが気にかかる。「テロ対策」だけ考えるなら日本海側に林立している原発の立地は最悪だ。冷戦下に防衛庁の人間は何を考えていたのか。浜岡原発は地震の想定など考えたくないからGOサインが出たのだろう。最近になって戦争準備ともいえる有事法制の一環で国民保護法というのが出てきた。府県レベルでも国民保護条例というのを制定しようと審議中だ。でも傍聴者が少ないのが気にかかる。国民保護条例ではBC兵器や核攻撃といったトンデモないことまで想定しているので、正直言って笑える。でも大マジメに審議のフリだけはしてるんだよな。核攻撃の想定は原発での大事故に近いから、エコムーブやサスナクラブの皆さんも大阪府京都府の国民保護条例の傍聴に行ったらいいと思いますよ。最後に余計な事だが、大阪ガスなどのガス会社は原発に対してどう思っているのだろう? 会社側だけでなくガス会社の社員の考えも聞いてみたいと思う。

(30代 男性)

 

・改めて日本や世界の政府や電力会社の暴力を知った。差別構造を利用し温存させて、原発などそれらの金もうけを被差別者、労働者をヒバクさせて、続けている。私たちは望まず汚れた電気を使わされている。全く腹が立ちます。(20代 女性)

 

・原子力施設の見学に何度か行きましたが、ほとんどのところではそこで働く人の(特に下請けなどの)姿は見えてきません。関電は社会貢献を美しい言葉で唱えていますが、一番の貢献は足元の労働者に無理を強いる(放射能は何よりも!)環境を生み出さないことだと思います。そこは労働者自身がNO!といえる社会にする必要があるかと思いますので、微力ながら力を尽くしたいと思います。(30代 男性)

 

・日本の中にある階層問題がよく分かります。(30代 女性)

 

・恐ろしいことをわかっていながら進行していくのはもっと恐ろしいです。やはり、自分の生活の中でできることから節電などをやっていくしか今のところありません。

 啓発活動ご苦労様です。また勉強になりました。(30代 女性)

 

・知らない事実を今回の写真展で知り驚きました。しかし、この現実に抵抗感はありませんでした。それは日本社会の裏側に不穏な空気が流れていることを薄々感づいているからだと思います。この感情は僕だけでなく多くの方が持たれているものだと思います。これからの樋口さんの活動が大きな運動につながるよう期待したいですね。

(20代 男性)

 

・行政が全くなっていない。無責任すぎる。7万円の日当が1〜1.5万円という実態にはメスを入れる必要がある。安全性を重視する行政に変えなければならん。関電の安全性無視に怒りを覚える。(60代以上 男性)

 

・このような写真展がこれからも全国で開かれていくとよいと思います。昨日(7/2)の講演会は後半の質疑応答の部分しかお話は聞くことができませんでしたが、元気な姿を見ることができ、感激しています。前半は息子が変わりに聞いてくれたと思います。これからも頑張って下さい。(50代 男性)

 

樋口健二写真展&講演会

スタッフからのメッセージ

 

◆今回の企画は、おおさかエコムーブ独自の企画としてはもっとも大きな企画だった。

さまざまな事情が重なり、準備期間が宣伝期間も合わせてわずか2ヶ月であったので、当初は企画の大きさに比べ、参加者はかなり少なくなるのではと懸念された。しかしメンバーの努力と、支援の手を差し伸べていただいた方々のおかげで、多くの人たちに参加していただけたことに、心から感謝したい。

樋口さんのお話には心を揺さぶられる思いがした。おそらく私だけでなく、多くの方が同じ思いを抱いたことだと思う。

 近年、クボタやニチアスなどの企業が、工場内作業で多くの労働者が石綿を吸い、ガンで死亡していたことを公表した。公表に至るまで、30年の年月がかかった。しかし、電力各社は、原発内労働者の被曝実態を未だ隠蔽し続けるばかりか、今も生み出している。いつかは、この実態が明らかにされる日が来るのかもしれないが、その日がくるまで、さらに夥しい数の人々が犠牲にされていくに違いない。

 原発は安全、クリーンといわれながら、その裏では多くの人たちが犠牲にされているこの現実を、そして私たち自身も他人事ではないという事実を一人でも多くの人々が知り、変えていくことが必要なんだ、がんばれと、樋口さんに背中を押される思いがした。

 これをバネにして、社会を変えていくため挑戦していきたい。 (高松)

 

◆「原発」というと、エネルギー問題として取り上げられることが多い。エネルギー消費の3分の1が原子力発電であると言われていることは、コマーシャルなどを通して多くの人が認識していることだと思う。

樋口さんは、原発を影で支えている労働者の存在から、原発問題をこの間ずっと追い続けてきた。今回の講演を聞いて、現在40万人もの原発労働者がいることを知った。その原発労働者の被曝抜きには原発を動かすことはできないという実態がある。

私達は原子力エネルギーを約半世紀にわたって使ってきた結果、核のゴミという重大な問題をかかえることになった。それと同時に、原発を運転し続けることで被曝する原発労働者が増加し続け、犠牲になるという人権の視点から問題にすることももっと必要だと思った。

68歳になる樋口さんから頂いた、これからも権力に負けず闘う!という熱いメッセージを忘れずに、脱原発社会を目指していきたい。 (平沢)

 

◆樋口さんは本当にパワーのある人だと思った。

話を聞いたり、写真を見る中で原発での被爆労働者の存在は社会の中で本当に消されてしまっているし、もっと明るみなならないといけない問題だと痛感した。 (国井

 

◆私は樋口さんのことをこの催しで初めて知りました。しかし、幾度も危険を侵してまで、原発内部に入り込んで取材を敢行したり、弱い立場の被災者の立場に常に立って、怒りを訴えながらも、ひしひしと情熱と人情の伝わってくる樋口さんの姿に強い感銘を受けました。

原発の被災の実情をリアルに感じとれましたし、自分自身の原発反対意識も大変高揚しました。遅れてしまったことが本当に悔やまれます。それほどまでに樋口さんには勇気と元気を頂きました。樋口さん!応援してます!本当にありがとうございました!またお話を聞かせてください! (朝比奈)

 

◆樋口さんが見てきた原発の中で働く労働者は、しゃがみこんで被爆と暑さに耐えながら、肩で息をして交代で働いていたという。そんな風に被爆した労働者は現在までに40万人となってしまい、ずっと見殺しにされている。

 その事を一番身近に知ってきた生き証人として、生涯、伝え続け闘っていくという 樋口さんのお話を聞きながら、一つの事を一途に続けてきた人の迫力と説得力に胸が打たれた。

私たちも存在では足下にも及ばないけれど、樋口さんと同じ気持ちで闘ってきたと思う。

イラクで瓦礫の下で死んでいく子供達は直接、日本政府に何かを訴えるなんて出来ない。一番聞かなければならない声が孤立させられ潰される。三里塚も沖縄でも。災難だけがいつも、力の無いもの達にふりかかる。だから孤立させてなるものかと闘ってきた。

写真展、講演会を通じて沢山の人々に「社会を正すと」いう今や死語になりつつあるその言葉のもつ、熱情とひたむきさと楽しさを、きっと感じ取ってもらえたと思うので忙しくて楽しい準備の日々も全部報われた。

そして私たちも樋口さんのようにもっともっと、そしてずっとずっと頑張らなければと改めて思えたのが一番の収穫だった。 (太刀川)

 

◆そのパワフルかつ軽快な喋り口は、まるで噺家の演壇を前にしたように感じさせてしまうほど面白く、そして樋口さんの長年の原動力である「怒り」が伝わる非常に充実した講演会でした。この講演会、そして写真展を主催できた事を嬉しく思います。

 今の世の中、怒る事すなわち悪のように言われてしまうほど平坦な感情を良しとしたり、あるいはそのリバウンドよろしく極端な自己保身の結果の爆発的な

感情表現…なんだかおかしいですね。でも樋口さんの写真は見る者の胸ぐらを掴むように問いかけます。自身の生活の為に誰かが悲惨な人生を送る事を良しとするのか? 

自分が自動的に加害者となり、誰かが被害者となる社会に対して「怒る」。これは世の中を変えるのに必要なプロセスだと、写真に対峙してますます感じます。同時にそれは始まりでしかありません。何より行動するのは私達。改めて肝に銘じます。 (久慈)

 

◆樋口健二写真展と講演は、企画立案から全てをスタッフの共同性のもとになされ、大いに自信になった。二ヶ月間に及ぶ街頭情宣を基本にしながらも、関係諸団体、個人へのネットを通じて広く呼びかけることができた。

また、毎日新聞に掲載されるなどメジャー性もあり、スタッフにとっても励みとなった。樋口さんの写真展や講演を通じて、被曝者の実態の凄まじさに憤りをおぼえた。それを告発し、たたかい続ける樋口さんの生き様にも感銘をうけた。今度は私たち自身が周辺の人達への弛まない呼びかけをしていくことが大切である。 (貴志)

 

◆今回の樋口さんの写真展&講演会に関わってあらためて原子力行政の持続不可能性というものを感じました。現場労働というものはどんなところでも3Kと言われる職場は存在するものだと思います。私の職場も自動車業界の下請けで、どんなにかっこいい、環境に配慮していると言われる車でも生産現場ではかなり過酷な労働が強いられているものはあるものだと言う事を実感しています。

 しかし原発産業の場合はその過酷な労働現場が正に死と隣り合わせである事が問題で、その事が何十年と闇に隠されてきている日本社会というのもまた問題だと思います。

 樋口さんが語るように「労働者を殺すのはやめましょう。」というのはただ原発労働者が大変だと言う事ではなくて、何十万人もの生命の危機にさらされた原発労働者がいなくては日本の経済も文化も何も成り立っていないと言う事。人の犠牲がなくては日本が成り立たないと言う現実。他国も駄目だけど自国の国民さえも犠牲にして成り立っている国がいつまでも続くわけが無い。

 そういったことが今回の写真展&講演会で私も含めてたくさんの人に知る機会をつくる事ができてよかったと思います。 (松葉井)




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