私がバイオレンス・シーンを監修することの意味合い。 090611
私が映画やテレビドラマでナイフのバイオレンス・シーンの監修をしたりその映画に協賛することの意味合い。
普通のナイフを普通の子供たちから取り上げてしまう。そうして育った世代が、今度は親になり、子供たちへの教育は、「臭いものにはフタ」の簡単な逃げ方でやり過ごす。そもそも、知らないということが大きな理由で気の毒ではあるが。
こうした「怠慢の連鎖」が、刃物の事件を根本的な解決に至らしめない諸悪の根源であることは、専門家たちも、一部の親たちも分かっているし、これまで、さまざまな表現でメディアにも採り上げられてきた。
これは「意見」であり「考え方」である。つまり、「それではどうしたら良いか」という「実践」が、何一つ伴わない論議の一部に過ぎないわけである。
当然のことながら、実際に本当の犯罪に使用されるところを見て、「これはいけないんだよ」と、親子で話し合う機会は生涯、ほとんどめぐっては来ない。
つまり「刃物を使った犯罪」について、日常、現実的なエデュケーション・チャンスは皆無である。
「刃物は悪」・・・という、かたよった認識の元、その人達はそのまさしく刃物で毎日、食物を刻み食している。こうした生活の中で「悪に刻まれた肉や野菜」を、日々、体内に蓄積しているわけである。
「何かを悪者にすると人は安心する」・・・という、物凄く次元の低い「集団心理」と「政治」が、同レベルで君臨している我が国。
私は、本質に触れない表層の改善は何も産み出さず、目を覆ったり、塞いだりしているうちは何も解決しないと思う。
映画やテレビドラマでバイオレンス・シーンの表現があれば、私はそのリアルな表現に加担する。
刃物・ナイフの販売に携わる人間なら、一番に隠したいところだし忘れたいところだが、それでも私はそのシーンづくりに加担する。
そして、これらに目をそむけないで親子で見て話し合って欲しいと言う。言い続ける。