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安心の番人:獣医師が足りない/1 過酷な食の最前線

 ◇家畜の診療、各地でほころび

 穏やかな不知火海を望む熊本県南部の山中。「よーしよし。ほら、じっとせんか」。体重600キロを超える肉牛の脇腹をなでながら聴診器を当てる。

 水俣市の獣医師、坂本昌幸さん(69)が故郷で開業して38年。今もマイカーを駆り、牛舎の柵を乗り越え、巨大な牛と格闘する。だが、5年前に脳梗塞(こうそく)を患った体は、時に思うように動かない。「牛を診るのは体力勝負。大きな手術をするのはしんどいよ」と嘆く。

 3年ほど前、80代半ばまで現役だった先輩が亡くなり、地元で約3000頭に上る牛を診るのは坂本さんだけになった。隣の芦北町で約280頭の牛を育てる田浦(たのうら)裕一さん(60)は「この仕事は獣医さんなしでは成り立たんのです」と訴える。

 約40年、地域の仲間と「いい牛」を作るため試行錯誤を繰り返してきた。今や九州を代表する高級和牛になった「あしきた牛」はその結晶、地域の宝だ。「牛が尿路結石を起こすと、半日で膀胱(ぼうこう)が破裂して売り物にならなくなる。すぐ手術しないといけないが、地元に獣医さんがいなくなったら、どうすればいいのか」

 現在、この地域には、坂本さんとともに、県中部や隣の鹿児島県の獣医師2人が往診に駆けつける。しかし、その距離は片道40~65キロ。「どの先生もよくしてくださる。でも夜中の急病は、遠くの先生ではどうしようもないことがある」。数年前、深夜の発症で誰も往診ができずに牛が死んだ。「手塩にかけた牛の息が止まるのを、あきらめて見てるしかない。あんなつらいことは勘弁してほしい」。田浦さんの目に涙が浮かんだ。

 農家にとって獣医師は二人三脚で地域の宝を守る、かけがえのない相棒だ。「この辺の農家は20~30代の後継ぎがようがんばってくれてるから、私も死ぬまでやりたい。でもその後は……」。坂本さんの言葉がとぎれた。

   ◆  ◆

 家畜の病気を検査する獣医師が足りない自治体も目立っている。日本一の酪農王国も例外ではなく、北海道の獣医師職員の定員不足は92人。昨年度は52人募集したが、採用は21人だった。今年度は74人を募集している。

 大地が広がる十勝平野。死亡牛のBSE(牛海綿状脳症)検査を担当する北海道十勝家畜保健衛生所東部BSE検査室に牛の死骸(しがい)がトラックで次々と運ばれてきた。1頭ずつ後頭部を裂き、2人1組でBSEの病原体が蓄積する部位を抜き取る作業が続く。牛の死臭か、真顔ではいられない独特のにおいが鼻を突く。

 検査室では1日平均20頭、北海道全体では年5万頭近い死亡牛検査が実施される。腐敗した死骸も扱う作業は「人気がないのが現実」(松木繁幸次長)で、人手不足は残業と非常勤の獣医師で補う。

 家畜の検査は、生産者が育て上げた家畜の財産価値をも左右する。西日本のある獣医師は食肉衛生検査所に勤務していた際、生産農家に短刀を突きつけられたことがある。「病気の牛を処分する」と伝えると、右腹からわずか数センチのところで刃先が止まった。その状態で2時間半。にらみ合いの末、相手がようやく短刀を下ろした。

 「生産者にとっては1頭数百万円という大切な財産。だが、病気の牛を見逃せば国民に被害が及ぶ。我々は最後のとりでなんです」

   ◆  ◆

 体力と精神力の限り、時には命がけで働く獣医師たち。仕事の過酷さゆえに、暮らしの安心と安全を守る現場では、ほころびが見え隠れする。獣医師不足で揺れる現場を歩いた。=つづく

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 連載へのご意見、ご感想をお寄せください。手紙は〒100-8051毎日新聞科学環境部あて(住所は不要です)、ファクスは03・3215・3123、電子メールはtky.science@mbx.mainichi.co.jpです。

毎日新聞 2009年7月15日 東京朝刊

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